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1906年製の利根川橋梁。
この区間の開通は1907年8月27日。
複線化は、ずっと下って1992年9月21日である。
上記衛星写真に写っているのは、左が旧来の橋梁、右が増設部分である。

ここに、1974年度撮影の航空写真を持ってきてみる。
20091119ckt-74-18_c66_22.jpg(国土画像情報ckt-74-18_c66_22.jpgをトリミング)

なんと、複線化の18年も前に既に橋梁の工事は進められていた!

・・・などということはもちろんなく、右側の桁が
表題のアメリカン・ブリッジ製のプラットトラスの生き残りである。

開通時、ここには8連のプラットトラスが架けられた。
その後、1961年2月11日に200ft10連の現在線(画面左)が開通し、休橋はお役ご免となった。

いちいち見せないが、昭和55年度撮影のものにも、
昭和61年度撮影のものにもまだ写っている。
平成2年度撮影のものにて、ようやく姿を消している(橋の前後で複線化工事中)。



一番上の衛星写真でわかるとおり、現在線は連続トラスである。
本流部分でスパンを長くしており、常磐線利根川橋梁の緩行線複線ワーレンように、
スパンの変化する部分で橋高が拡大している。

撤去された橋の銘板等は、どうするのだろうか。
ただの鉄屑となり、再利用されるのだろうか。

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20091117-1.jpg20091117-2.jpgこぢんまりとした印象の、100ftプラットトラス。
東武野田線の庄内古川橋梁である。
100ftでわたれてしまう庄内古川とは、東京湾に注ぐ中川そのものである。

中川を北に遡るとしよう。
武蔵野線と交差するあたりでは水のある幅が80mほどある中川は、
すぐに西に元荒川を分け、新方川を分け、大落古利根川を分ける。
すると、中川はこれくらいに細くなる。


1929年横河橋梁製の、当年80歳の橋梁である。

20091117-4.jpg文字を読みやすくするためにアンダーにしてある。

昭和五年
株式会社横河橋梁製作所
製作


歴史的鋼橋一覧によれば昭和4年製となっているのは、側径間が昭和4年製であるためだろう。

さて、その側径間である。
20091117-3.jpg真横からではないが、明らかに桁が斜めになっている。
対して、レールは水平。
そのため、枕木にゲタを履かせている。
こちらの銘板はこう。
20091117-5.jpg
ちゃんと昭和4年製である。



20091114cku-74-22_c2_67.jpg(国土画像情報よりcku-74-22_c2_67.jpgを転載・トリミング。1974年度撮影)

画面を上下に横切るのが鹿児島本線。
対角線を横切るのは筑後川(「ちっごがわ」と発音せよと佐賀人は言った)。
最下部が久留米駅の北端である。
ついでに、そっから画面右に向かって斜めに横切ってる線路はブリヂストンへの引き込み線。

主題はその橋。
4線並ぶうち、左から旧線上り・旧線下り・新線上り・新線下り。
新線は工事中である。画面左の道路橋(長門石橋)も工事中。

この旧線下り線の長さをよく見て欲しい。
画面上(北)から、短短短短長長長長短となっている。
短=100ftで汽車会社製、長=150ft桁で、この長いほうがアメリカン・ブリッジ製である。
また、下り線(右)はすべてトラス、上り線(左)は短がポニートラス、長がトラスである。


(1)1890年 九州鉄道として供用開始。
ウニオン製100ftポニープラット5+150ftプラット4。1914年撤去。
100ftポニープラットは4連が山鹿温泉鉄道に転用され、
そのうちの1連が水辺プラザかもとに保存されている。
(2)1913年 新橋梁(のちの下り線)供用開始。
汽車会社製100ftプラット5+150ftプラット4。1977年廃止。
(3)1942年 複線化、上り線を増設。

以下推測である。
(1)と(2)の間にタイムラグがあるので、(1)に並行して新線を架設。
新線開業後、旧線の桁を撤去。
(3)1942年の複線化の際には、旧線の位置に上り線を架設。
旧線と同じく100ftポニートラス5+150ftトラス4とした。
・・・という推測をしたが、どうだろうか。
1941年以前の航空写真など、ないだろうなあ。
『国鉄トラス橋総覧』を入手すれば解決する話かもしれん。

(3)の新線(上り線)は35年くらいしか
使われなかったということになる。
どこかに転用されたか?
今後の調査を待ちたい。つか調査しますがいつになるやら。

本邦に5例しかないらしい、300フィートのペンシルバニアトラス。
そのひとつが、大船渡線の鍋鉉に左下、真滝-陸中門崎間の北上川に架かっていた。

20091112cto-76-16_c9_41.jpg(国土画像情報
cto-76-16_c9_41を転載、トリミング)

見よ、水面に映ったこの美しい影を。
うまい具合に上流川に影を落としているため、波が邪魔することもない。

この桁は1922年汽車会社製。1925年開通、1979年頃まで使用されていた。
長さ約93m、高さ約15m。
こちらのサイトの写真を見ると、蒸気機関車の3倍もの高さがよくわかる。


さて、本橋梁の建設中の写真が土木図書館に多く残る。
鉄道橋梁工事」内に「記載事項なし」とする写真の多くが、本橋梁である。
なんと美しい姿。
co0519.jpgco0474.jpg(土木図書館蔵)

興味を引くのは「墜落橋脚引上工事」と題する写真である。
co0432.jpg(土木図書館蔵)

一体何があったのだろう。


なお、土木建築工事画報の記念すべき第一号にも簡単な説明がある。



20091112_ccb-75-33_c3b_3-R.jpg
(国土画像観覧システムよりccb-75-33_c3b_3をトリミング、転載)
東海道本線の大井川橋梁上り線は1912年に開通した。
約46年間供用され、1958年に新桁にその役割を譲った。
200フィートのクーパー型トラス(クーパーによる標準設計の曲弦プラットトラス)を
実に16連つらねていた本橋梁のうち、いくつかの桁は転用された。

・長良川鉄道第5長良川橋梁
・越美北線第1九頭竜川橋梁
・京葉臨海鉄道村田川橋梁
・京葉臨海鉄道八幡運河橋梁
・米坂線第4荒川橋梁(旧桁は水害により流出、その架け替え用)

また、『歴史的鋼橋集覧』では
・神岡鉱山専用線高原川橋梁(1965年頃開通)
もその転用とされ、
『明治時代に製作されたトラス橋の歴史と現状-----米国製トラス桁その2-----』
では「?」がついた推測としているが、
下記の写真を見れば1980年の時点で16連中11連が残存しており、
ここから5連しか転用されていないことがわかる。
真実はどこにあるのだろうか。


残りの桁は1983年ころ撤去されたようである。


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