メーカーが公式に無償修理対象にしているトラブル、EOS5Dの「ミラー落ち」。
5Dは中古で購入したので、いつか点検出さないとなあ、と思っていたら、 とうとう来てしまいました。 このカット、ファインダー内には黒い斜めの長方形のケラレが生じていて、 そのまま2回ほどシャッター切ってしまったのですが、 画像を見たら、これが写っていた後は真っ黒でした。 装着していたレンズは70-200/2.8。 後玉が傷つくことがあるというので、あわててレンズを上に向けました。 ところが、レンズを外そうとしたら、外れない。 しょうがないので、ちょっと振ったら外れました。 ※kissDNで撮影 ミラーは、思っていたよりも鋭利です。 面取りしてません。 マジックミラーのような効果が楽しく、ちょっと遊んでみました。 今日の午後は茨城県の橋を撮りに行こうと思っていたのに。。。 しょうがないのでKDNで行きました。 その成果はのちほど。 今日は、さらに、デイパック型のカメラバッグ、 ロウ・プロのミニトレッカーのファスナーも壊れました。 以前からおかしかったのですが、完全にNGです。 これは買い直さねばなりません。。。 つらいわ。。。 PR
土木学会の土木図書館内にある論文集にある、
鉄道用橋梁に関する論文のいくつかを抽出した。 まだまだたくさんの参考文献があるが、今日はこれだけ。 下記はインデックスである。 現在の土木図書館よりも一覧性がいい。 土木史研究インデックス(第1巻~第9巻=1981年~1989年) 土木史研究インデックス(第10巻~第23巻=1990年~2003年) そして、小西・西野・淵上氏による論文である。 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報)英国系トラスその2 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第3報)ドイツ系トラス桁 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)(了) わが国におけるドイツ製鉄道橋梁 -歴史と現状- メモとして残しておく。
『鉄道ピクトリアル』1971年5~7月号において、
淵上龍雄氏「トラス橋のいろいろ」という連載があった。 およそ基本的な事項とともに、当時ならではの、 つまり当時は残っていた廃橋の写真なども使って解説してある。 さらに同誌1984年8~10月号においては、 淵上氏に小西純一氏、西野保行氏の共同執筆で 「トラス橋の魅力」と題した連載があった。 これらをまとめて古書店で購入したとき、 それぞれにそれぞれの記事があることは確認した。 1971年7月号を除いて。 ところが、帰宅して順番に読み始め、1971年7月号を開いたところ、 おかしな見開きがあった。 蒸気機関車の後ろ半分が橋梁に乗っている写真なのだ。 それはそれとして、記事をさがした。 ない。 目次を見る。該当のページが・・・ない。 切り取られている・・・。 そういえば、古書の中、1冊だけ80円という価格のものがあった気がする。 それがコイツか。 よりによって、目的の記事だけが切り取られているとは。 さらにさらに、土木図書館内の、氏の論文のPDFが、404。 なんということだ・・・。 もっとも、これはさっきみつけたもの。 イギリス系とドイツ系の橋梁桁については過去に英文とドイツ語のサイトから 苦労してひっぱってきたことがあり、そもそもそれらの会社は現存しなかったりするから なかなか資料も出てこないのだが、こんな立派な論文があるのならぜひ拝見したい。 土木学会にメールしてみようと思う。
10月1日にアップした樽見鉄道揖斐川橋梁に掲載している写真には、
その奥に白いダブルワーレンが見えている。 それは1887年に開通した単線時代の東海道本線が使っていたもので、 1885~1886年パテント・シャフト製である。 1908年に複線化された際に道路橋に転用され、現在も使用されている。 このパテント・シャフトの橋については別の機会に書こうと思っているが、 1908年から使用された複線の橋梁が、アメリカン・ブリッジ製であった。 1906年製のパーカートラス(放物線状の曲弦トラス)だったというが、 とりあえず斜材と垂直材を明確に見分ける写真が発見できない。 クーパーとシュナイダーが日本向けに設計した橋梁はすべてプラットトラスであり、 かつ複線型下路200フィートトラスは5連しかない。 即ち本橋梁のことである。 ここでは、国交省の航空写真を掲げる。 http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ccb-75-27/c14/ccb-75-27_c14_25.jpg からのトリミングである。 画像下部に三つ平行して架かっている橋は、 上から初代、二代目、三代目である。 初代は前述のとおり現存。三代目は現役。 中央の二代目だけが撤去されている。 『鉄道ピクトリアル』1984年8月号「トラス橋の魅力」を眺めていたら、 その二代目の撤去中の写真が掲載されていた。 航空写真を見ていると、揖斐川中には橋脚が三つ。 うまく配置することで、二つにできるのではなかろうか。 こうして書き始めると、撮ってない写真があまりに多くて愕然とする。 被写体を深く知らなければ撮れない、ということを痛感する。 ここは再訪しなくてはならない。 石川県白山市の国道157号鶴来バイパス、 道の駅「しらやまさん」すぐ脇にある和佐谷橋。 渡っているのは手取川で、川が市境となっており、対岸は白山市。 今月いっぱいで廃止になる北陸鉄道加賀一の宮駅がある。 画面左端の水色のアーチ橋は水道橋で、左右の桁がズレているスキューアーチ橋である。 土砂降りになったり止んだりの天気だったので、めんどくさくて撮らなかったことを後悔している。 その向こう(さらに左)には、鶴来バイパスの山上郷大橋がある。 和佐田橋は、見たとおりかつては吊り橋だったもので、それを6連のポニートラス橋に置き換えている。 橋脚に注目すると、3種類ある。 手前の新しいもの、その向こう二つの少し古いもの、川の中央の大きなもの、である。 吊り橋の竣工は1932年(昭和7年)。 両端と、川の中央に塔柱があったという。 両端のものはいまでも残るが、川の中央のものは、 上の画像に見えている立派な水切りのついたものであろう。 1953年(昭和28年)、吊り橋を撤去し、新たに三つの橋脚を据えて6連のポニートラスを架けた。 東側2連は川を越えるためにスパンが長く、その分、トラスの橋高があがっている。 市街地はこの画像で言うと「向こう側」であり、手取川右岸に鶴来バイパスができるまでは 「向こう側」の道がメインストリートであった。 そして、「こちら側」に来るためにかけられたのが、この和佐谷橋であった。 「こちら側」には分教場もあった。 いまでこそ鶴来バイパスが通っているが、これの開通は1983年である。 国土交通省の航空写真(昭和50年度撮影)を見てみよう。 (ccb-75-22_c20_21.jpgをトリミング) 和佐谷橋が、立派に役目を果たしていることが見て取れる。 現役の車道である。 鶴来バイパスもなければ、和佐田橋の下流にかけられる山上郷大橋もない。 隣接するスキューアーチの水道橋もない。 また、当時、北陸鉄道は加賀一の宮駅から先(南)にも金名線という路線を延ばしていたのもよくわかる。 加賀一の宮駅側から見ると、こう。 現役時代の写真が、岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所のサイトにあった。(著作権は切れています) ここを振り向くと、北陸鉄道石川線の和佐田踏切。 チンチンチン・・・と鐘が鳴る、撞鐘式のものである。 この踏切が鳴るのもあと半月。 どのような結末を迎えるのだろうか。 現地地図を掲げておく。 <参考> 周辺の地図は、北陸先端科学技術大学院大学内の個人運営サイト 「web辰口町史」に詳細がある。 それを抜粋したという「和佐谷ものがたり」はぜひ読んでおきたい。 |
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