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『ふしぎな鉄道路線「戦争」と「地形」で解きほぐす』(竹内正浩著)

鉄道の本



鉄道史では、しばしば日本の軍隊、特に陸軍との関わりが記述される。読む側も「そういうものか」と受け入れ、特に検証もせず、知識としている。「常識」というか「基本的な知識」というのはそういうものだろう。かくして「~といわれている」という言説が、孫引きとして繰り返される。

本書は「鉄道と日本軍は本当に関わっていた」という一次ソースを提示しつ鉄道史を解説するものだ。著者の竹内正浩氏の目的は、その一次ソースの漢文調の文書を直接読んで雰囲気を味わいつつ細かなニュアンスを掘り起こし、流れを整理する。それはもちろんおもしろいのだが、しかし、竹内氏が本書で伝えたいことは、もう一つあると感じる。それは、「明治時代から太平洋戦争の時代までの、外敵への恐怖感」、それも「高速移動手段がなかった時代の人間の感覚」を、現代人にわかってほしいということではないか。また、「何か(輸送手段の規格など)を決めるとき、軍隊の規模を基準とするという感覚」「鉄道は兵器であるという感覚」も。いずれもみな知識としては知っているだろうし、いわれれば「そうだろうな」とは思うものだが、間違いなく現代の私たちには「実感」はない。

現代の私たちは、日本の国土は自衛隊と米軍により強固に守られていると思っている、と私は思っている。何かあっても自衛隊と米軍が守ってくれそうだ。自分が避難しなければならないときは、クルマもバイクもある。新幹線が動いていれば、2時間あれば300km向こうに移動できる。しかし、鉄道もクルマも一切ない、徒歩と海路(しかも蒸気船)だけが頼りの時代だったら? 私たちが過去の何かを想像するときの基準を、本書は与えてくれる。

* * *

目次を公式サイトから転載する。

第一章 西南戦争と両京幹線
    なぜ中山道ではなく東海道だったか
第二章 海岸線問題と奥羽の鉄道
    なぜ奥羽本線は福島から分かれているか
第三章 軍港と短距離路線
    なぜ横須賀線はトンネルが多いか
第四章 陸軍用地と都心延伸
    なぜ中央線は御料地を通ることができたか
第五章 日清戦争と山陽鉄道
    なぜ山陽本線に急勾配の難所があるか
第六章 日露戦争と仮線路
    なぜ九州の巨大駅は幻と消えたか
第七章 鉄道聯隊と演習線
    なぜ新京成線は曲がりくねっているか
第八章 総力戦と鉄道構想
    なぜ弾丸列車は新幹線として蘇ったか

個人的な関心の度合いから、私が読んだのは、5→2→6→4→8→1→3→7章の順だ。しかし、前述した「明治時代から太平洋戦争の時代までの、外敵への恐怖感」を順序立てて理解していくには、やはり第一章から読んでいくのが妥当である。

「はじめに」で、陸軍の関与が最も強かったのは明治25年(1892年)頃の日清戦争開戦直前のころだと書いている。第一章では明治21年(1888年)に陸軍参謀本部が『鉄道論』という書物を刊行している。以降、日露戦争や太平洋戦争時の日本軍が鉄道のことをどう捉えていたかが描写される。私のようにランダムに読むとその時系列が崩れてしまい、結局、通しで読み直すことになる。

* * *

そういう点では本書の本質ではないのだけれど、真っ先に第五章「日清戦争と山陽鉄道」を読んだのは、山陽本線(山陽鉄道)の山口県のルートどりの地図があったからだ。かねてより、山口市があのような位置にあるためか山陽本線は素通りしていることと、なぜ防府から山口に抜けなかったのかということに疑問を感じていた。それが、複数のルート案とともに解説してあるから真っ先に読んだのだ。

その地図と本文を読むと、「六日市」「日原」とたどるルート案があったことがわかる。ここからは憶測だが、「岩日線(いまの錦川清流鉄道)」は、このルートの一部をたどる。このルートが鉄道敷設法別表に載ったのは、このときの計画というか空気が残っていたからではないか。それが延々残り、「岩日線」として建設されたのではないか。結局は、錦町以北は工事が凍結されたので、六日市~日原間は2回も鉄道に振られてしまったのではないか。最後は憶測だが、その「物語性」はなかなかのものだと思う。

* * *

本書は主として「ルート決定」の観点でまとめられたものである。続編として「運営」の面ではどうだったのかを望みたい。国鉄(組織は行政上、随時変わっている)や車輌製造会社、製鉄会社がどう考えてどう動き、軍隊と戦争にどう影響を及ぼしてきたのか。大量の蒸気機関車や貨車が外地に送られ、ほとんどすべてが戻ってこなかったのは鉄道ファンが広く知るところだが、その意思決定のプロセスはどうだったのか。車輌製造会社において市場としての外地はどうだったのか。「地図ファン」が読者層と思われる本書とは読者の数の桁が違う(少ない)かな。


こういうおもしろさがある。国鉄総裁だった藤井松太郎という人物がいる。東海道新幹線の計画に反対して技師長を追われ、後に考えを改めて島秀雄の後に再び技師長に就任し、のちに国鉄総裁となり、労働問題で職を追われた土木技術者だ。その藤井松太郎の評伝『剛毅木訥』(田村喜子)に、藤井が「陸軍省第一鉄道部附」として「鉄道省派遣橋梁修理班作業隊長」として中国に派遣され、作業する様子が描かれている。小説仕立ではあるが、本人に細かな取材をしているものなので、その様子がよくわかるとともに、鉄道連隊との関係も書かれている。藤井は、大河も大河である淮河に架けられていた9連の200フィートトラス橋のうち7連が人為的に破壊され、水中に没していたのを引き上げ、修復する。現地には、偶然、藤井の鉄道省1年後輩の篠原武司(のちの鉄道技術研究所所長、鉄道建設公団総裁)が鉄道連隊の少尉として、中隊長として現地にいた。そうした、官と軍の関係を整理して理解してみたい。

* * *

最後に、本書の記述はすべて元号が基本となっている。これは感覚的な把握にとてもいい。私が高校生のときには、日清・日露・第一次大戦は、1894・1904・1914年と10年おきだ、と教えられた。でもこれではその背景の時代を感じられない。1894年は「まだ」明治27年で国内も安定していない、1904年は「まだ」明治37年、1914年に至ってようやく大正3年、重工業の国産化が進んでいた時期だ。鉄道史も、西暦ではなく元号で考えると、まったく違う見え方をしてくると思う。「明治維新からたった○○年で!」というように。もちろん、本書の元号も、そういう把握を意図しているだろう。そういう配慮が行き届いた本だ。



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あふれこぼれる水路橋と樋曽山隧道

閘門・水門・水路

新潟平野の信濃川より西の水田は、ものすごく大雑把に言えば信濃川の支流・西川から水を取っているところが多いのだけれど、その制御には相当の苦労を重ねてきた。新潟平野の西部を角田山~弥彦山の山塊が蓋をしているような形になっているため、信濃川から分かれた河川から取り入れた水を海に排水することができず、結局信濃川に戻すしかない。そこに困難があった。

この西川西部地区では、もともと、西川水を水田に取り入れ、矢川経由で西川に戻していたが、西川の水位が高いため、田に逆流したり、あるいは浸水被害が生じていた。解決策の一つとして、この樋曽山隧道が計画された。樋曽山に隧道を穿ち、平野の水を日本海に流してしまうのだ。場所はここだ。


上から、樋曽山隧道(水路隧道は描かれていない)・新々樋曽山隧道・新樋曽山隧道だ。樋曽山隧道・新樋曽山隧道は矢川の水を、新々樋曽山隧道は大通川放水路の水を海に落としている。

さて、その樋曽山隧道の飲み口はこんなだ。写真下(手前)が上流、上(奥)が下流。
見えている車道は廃道。撮影している私が建っているのが新道。橋梁名は銘板がなかったために不明。水門は今後、撤去されるという表示があった。


おそらくこの奥に坑門があるはずだが、見えない。

 
坑門が見えないか、旧道(写真右の橋)に行ってみたが、見えない。それよりも、一つ上の写真奥に見える赤いガーダーが気になった。水がザーザーと漏れている。

 
ザーザー…

 
左岸側。水路を流れてきた水がいったん枡の中に沈み込み、枡の横の穴から水路橋に出ているようだ。枡の右端に時々渦が生じる。

 
左岸の水路、もっと手前。あふれそうなくらいの水量。

 
水路橋に戻る。写真を整理していて気づいた。水路橋には橋脚があったのか! 右下に吹き出している水は、別の水路からの排水。

 
 
右岸側。ここで地中にもぐり、北上していくようだ。水路は地形図にはあったりなかったり、そして実際とは異なったりするので、どこまで続いているのかはわからない。

●関連項目
新樋曽山隧道
新々樋曽山隧道





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新潟市の実家付近に90年前からある都市計画道路

アーカイブ/資料/自分用メモ

新潟市の実家から、古い書類がいくつか出てきた。下記は、その一つ。昭和5年ころのものなので、「既存道路」となどとあっても現況とは異なる。方位も「上が北」ではない。家屋の並び方も、軒数も現在と異なる。


この図の上に「計画道路」とある。これを見て驚いた。新潟市の都市計画道路が、実家のすぐ裏に1本あるのは知っていたのだが、それが、昭和5年の図面にまで描かれているとは。

この道路は、いまも都市計画図に書かれている。このエリアは過疎化と高齢化が著しいので、おそらく事業化することは永遠にないだろう。


もう一つ、おもしろいものがあった。市道占用申請書。実家は市道を占用していたのか。

大正13年の日付の原本だと思われる。申請が通ったのかはわからない。曰く
「申請人宅ハ去ル明治十三年ノ大火ノ際烏有に帰シタルヲ以テ其後再建築ノ折ハ充分ノ注意ヲ構ヘ萬一市道等ニ相懸ル様ノコトアリテハ後日ニ至リ一大事ト篤ト測量ノ末漸ク現今ノ建物ヲ再建セシモノナル処其後今般市●●道路修繕旁々土樋布設ニ付キ種々測量ノ結果測ラズモ毛頭相懸リ居ラサル筈ノ申請人建物カ三間半ノ四寸丈ケ市道ニ相懸リ居ルコトヲ発覚致シタルニ付テハ今直(真?)ニ右部分ヲ取崩スカ乃至ハ今四寸丈ケ後方ニ建物ヲ引クカ孰レカノ手段ヲ構ズ可キ筈ナレドモ何分家政不如意ナル為メ到底●意ニ●セサルヲ以テ即チ已ムコトヲ得ス前記建物●築ノ為メ上記市道ヲ占用セントスルモノナリ」

要するに「新潟大火後、家を建てたら4寸だけ市道にはみ出してしまった。それがわかったが、お金がないので取り壊しも引き家もできない。ついては市道をそのまま占用させてください」というもの。申請人は曾祖父(明治16年生まれ)。司法書士犬井大剛に書いてもらっているので、正式な書式のものだろう。

約45年ほど、無断で占用してしまっていたのだが、その間、誰も気づかなかったようだ。そして、この申請の結果、どうなったのかはわからないが、いま、実家周辺の土地はすべて民地のはずだ。

自分の実家でこんなことがあった、ということを記録として残しておく。

* * *

あの場所に、少なくとも明治13年から家はあり、そこで生まれ、生きて、死んだ人として確定しているのが、祖母、父。そして多分兄。兄には子供がいるが、そのまま新潟にとどまるかどうかはわからない。甥が新潟を出たら、あの家の場所は、兄の代で終わるだろう。



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十六橋

Iビーム桁

 
猪苗代湖唯一の水の出口、日橋川(にっぱしがわ)。猪苗代湖は阿賀野川水系であり、日本海に注ぐ。かつて水力発電のための堰の役割を担っており、現在は猪苗代湖の水位調節の役割のみとなったすぐ下流にある十六橋水門の上が橋の機能を果たしていたが、1914年に分離され、さらに1928年に改築されていまの姿となった。

 
I桁を組み合わせた単純な鉄橋で(材質について言及がない)、橋脚も鉄管。「煉瓦積み橋脚」としている資料もあるが、十六橋水門が橋を兼ねていた時代の姿のことで、誤り。


左岸。重量制限2.5t。

 
 
親柱、右は「十六けう」、左は無地。親柱の下部が埋もれているのは、床版をRCとした(嵩上げした)ためと思われる。車止めには無数の衝突痕がある。

 
親柱個別の写真を撮り忘れた。右は「十六橋」、左は「大正貳年十一月竣成」。







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下北ハイヤー

建築?


かつての大畑線・下北交通鉄道線の大畑駅付近。線路に沿った街の突き当たりに、下北ハイヤーと書かれた大きな建物がある。ここを左に曲がると大畑駅、現下北交通。

 
もう使われていない建物のようだ。GoogleMapsを見ると「閉鎖」とある。

 
旧大畑駅、現下北交通の前に停まっているのは「大畑タクシー」。





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安積疏水がわずかに低くなったところを水路橋で横断する

水路隧道・水管等


えぬさんの手引きで、安積疏水の一連を見に行った。その下流部、三穂田地区に分流している水路が、一部、水路橋となっている。上の場所は、そのもっとも低い部分で、道路と交差するところ。サイフォン式に道路の下をくぐっている。右が上流、左が下流。

 
右が上流、左が下流。アマガエルがたくさんいた。


上流側。延々と続いているように見えるが、実際は500~600mほど。前後、持ち上がる部分を含めて、石碑よれば800mの改良とのこと。持ち上げている高さは160~170cmくらいか。私の身長(178cm)ではのぞき込めないが、カメラを頭上に持ち上げると溝の上にはいくくらい。こちらは、奥にいくほど高くなる…というようには遠すぎて見えない。

 
コンクリート製のU字溝を、コンクリート製の橋脚が支える。橋脚は前後左右ともに台形に広がっていて、どっしりとした印象。

 
水は流れていなかった。おそらくわずかなタイミングで、流れていたりいなかったりするのだろう。

 
 
下流側。向こうに行くに従って、田が上がっていっているのがわかる。

 
カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図で、標高270~274mを0.5m刻みで、275m、276m、278m、280mで色分けするとこうなる。左上、安積疏水の本流から分流した水は標高275mくらいでいったん地形図から消え、この水路橋の「上流」274.3m付近に出てくる。そこから東へ、低い部分を水路橋で高さを維持しながら273m付近で再び地上に降りる。

水は、いったん標高を落とすと、動力を使わない限りは標高を上げることができない。三穂田の地の、少し高くなっている部分をうまく利用して水路が構成されているというわけだ。
 


 
地形図に、碑の地図記号がある。表面は「豊穣之基」。抜粋する。

「(前略)昭和三十三年秋頃より(中略)発起人となり(中略)三穂田村土地改良区の設立は昭和三十四年十二月九日(中略)字山口作田地内より人形山地内に至る延々八百米のサイフォン式水路による用水導入の設計にて開田面積三十八町八反 農道延長一万四千六百四十米 幹線水路二千三百米(中略)同三十五年三月五日工事着手同年七月二十五日全工程竣功す(後略)
 昭和三十七年十二月 福島県知事 佐藤善一郎篆額揮毫
           土地改良区書記 安藤 新 撰文並書」
(分かちがちは磯部による)

碑は素晴らしい。だれでも、その場でフリーアクセスできる。「テキストまたは画像データとして自治体にあればいいではないか」と思う人も多いかもしれないが、それ「も」あればなおいい。

spl.thnx to えぬさん三土さんみわさんうさたまさん












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福島県の市道の標識3種

道路全般

 
郡山市の一級市道の標識。この逆台形の標識はそこそこ見かけた。「笹川野田線」「(国道4号)安積」という文字が消えかけている。

と、その向こうに四角形の標識も見える。

 
新しい形だ。基本的な記載事項は変わらないが、市道「笹川野田線」が「笹川⇔野田線」になっている。

 
いつ更新されたのかというと、新しい方に貼ってあるシートには「平成16年3月(9月かも)」とある。以来15年、旧標識は撤去されずに併存している。

 
これは須賀川市道松塚袋田線。長方形で、郡山市道の新型よりはコストが安かろう。


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岩手の小集落に残る日石カルテックス

ENEOS/日本石油

 
岩手県の県道をたどり、ある小さな集落の交差点にさしかかった。三角形の敷地の1辺をなす防火壁。伸びてしまった雑木の陰に見える、日石カルテックスのシンボルマーク。

 
閉鎖されて久しいようだが、敷地はきれいに整頓されている。

 
現在はタクシーの待機所として使われているようだ。JRの駅まで直線距離で7kmほどだ。








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新潟 地名のマッピングで見えてくる砂丘列

地図・航空写真・分水嶺

地名のマッピングがおもしろい。東京周辺の地名の末尾1文字を地図にプロットすると、地形や土地利用が浮かびあがるのではないかという試みだ。

新潟では、砂丘列に「山」という地名をつける。新潟の人にはわりと知られているのだが、それをマッピングするとどうなるかを、同じ方法で試した。

【作り方】
位置参照情報ダウンロードサービスで任意の地域の地名をCSVでDL
→CSVを「地名・緯度・経度」のみにする
 →地名は「○丁目」「○ノ町」「○番長」「町」などを削除する
 →さらにright関数で地名を末尾1文字だけにする
→Googleのマイマップで開く
→KMLで書き出し
→KMLをカシミール3Dで読み込み

ざっとこのようになる。(一部、修正漏れがある)
 
(カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図/ぜひ拡大してご覧ください)

・地形で浮かび上がる砂丘列に「山」が並ぶ
 ・「ツ」は「山二ツ」
 ・「山木戸」などは「戸」になってしまう
・新潟島に並ぶ「番」「通」は同じ意味で、すべて1~14まで整然と並んだ碁盤の目状の地名
・「岸」「端」は川端
・「島」はかつての中洲(埋め立てなどで陸続きに)
・「浜」も多い

砂丘の位置を明示する。
 
(カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図+シームレス地質図/ぜひ拡大してご覧ください)

砂丘は「7」と数字がある範囲。半透明の赤で強調した。「山」と重なっているのがわかる。なお「6」は自然堤防の堆積物。そこにも「山」が当てられた地名がある。


【2019.6.30追記】
 
「砂」「浜」の地名のみを抽出。略さずにプロットしてみた。


「砂山」「砂岡」「砂崩」地名が集中する、亀田の袋津の東の砂丘列。










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携帯電話の記録

記憶



松村大輔さんの『電話マーク展』と、それに伴う藤本健太郎さんとのトーク第一部『電話マーク拾番勝負』、hacoさん×猿田妃奈子さん×松村さん×藤本さんのトーク第二部『テレフォン☆メモリー』を堪能してきた。



第二部で、みんなの携帯電話履歴とその思い出話が展開されたので、もう何の機種を使っていたかも覚えていないのだけれど、覚えている部分のみ、書いてみるす。すべてNTTドコモ。画像は公式サイトよりリンク。●=本流=いまに続く電話番号、○=並行所有。

●デジタル・mova N103 HYPER
 

1996年初夏、友人たちとキャンプツーリングに行ったとき、道中でエンジントラブルに見舞われた有人がいた。20台ほどだったけれど、携帯電話を持っていたのは二人。それで便利さを痛感し、購入。当時はストレートが一般的で、折りたたみは(たしか)NECのみ。ちょっと前まで10万円でしたが、かったときは8万円強。しかし、秋口に、バイクのタンクの上に載せて(←バカか…)環七を走っていたとき、ちょっとしたサスの上下動で路上に落ち、真っ二つに。数ヶ月の命だった。

● デジタル・mova N202 HYPER

1996年夏、仕方なく、再度購入。もう5万強まで下がっていた。

○デジタル・mova P202 HYPER(?)

1996年秋、そのN202が壊れた。なぜか電源が入らない、とかだったと思う、当時有楽町にあったドコモのサービスセンターに行き、メーカー預かりになった気がする。結果的に新品と交換となったのだけれど、預けている既刊にも携帯は必要だったので(代替機の貸与などなし)、当時、つきあいのあった携帯電話加入窓口業者に頼み、融通してもらったのがこれ。もちろん新しい電話番号。

まだ携帯を持っていなかった友人と『白山』で新潟に行くことになっていた。ぼくが切符を持っていた。上野駅の特急ホームの改札で待ち合わせとして、何かあったら新しい電話番号にかけてくれと伝えていたのに、相手が現れなかった。ぼくはといえば、まだ携帯を持っていなかった友人の留守電に何度も吹き込んだ。当時は、留守電を出先から聞く、というのが当たり前だった。

ところが現れないので、やむなく一人で『白山』に乗車して、長野経由で新潟に向かった。ぼくは改札が二つあることを知らず、相手は新しい電話番号のことを忘れていた。相手はいったん帰宅後、新幹線で新潟に来た。

この端末は、N202の修理があがってきたら即解約した。本来なら違約金が発生するはずだが、出入り業者がかぶったのか、ぼくのところには請求はこなかった。

●デジタル・mova N206 HYPER(?)デジタル・mova N207 HYPER(?)

1998年。次はN206かN207。N202が壊れたのかどうか覚えていないが、買い換える必要があったのだろう。この頃には1万円台になっていたと思う。N206かN207かわからない。


●デジタル・mova N503i HYPER(?) 

2001年頃から使っていた気がする。N501やN504という型番も記憶にあるが、時期的にあわないので、家族の誰かがそれを使っていたのかもしれない。

●mova N211iS(?)


211という数字は覚えているので、おそらくこれを使っていたと思う。2005年1月、只見線沿線で除雪車の撮影をしている時に、アウターのポケットから落としたらしく、撮影場所からクルマで移動後、気がついて戻ったら、道路をロータリー車が除雪した後だった。つまり、端末は木っ端微塵となって雪とともに遠くに投げられてしまった。

●mova D253i(青)



2005年1月頃、代替として購入。もうNにこだわらなくなったのは、安さのほうをとったのだ。ところが、軽量で、スライドの感触もよく、すごく好きになった。この頃から「D=フリップ式」ではなく「D=スライド式」となる。

 
『やれたかも委員会』で登場した。2017年のマンガである。びっくりした。文末の写真のとおり、この端末はいまも家にある。

●FOMA D903iTV

2007年頃。おそらく通信速度の都合かなにかで、movaからFOMAに切り替えた。たぶん安かった。この頃はワンセグが流行っていて、この機種はテレビがウリだった。ぼくは全然テレビは見ないのだが、2011年の東日本大震災の時もこれを使っていて、町田市内で仕事をしていて地震にあったぼくはこれでテレビを見て情報を把握するようにした。

 
1280×960のカメラの画質はこんな。晴れの屋外で、である。

ガラケーはこれが最後。2012年に次項のSH-03Aを会社に返却したため、ようやくスマホに切り替えた。

○docomo PRIME series SH-03A(たぶん)

2008年、仕事用として勤務先で購入。ぼくが管理していた。2012年まで、iモードサイトの動作チェック等に使用していたが、パケホーダイだったので、私的にも便利に使わせてもらった。twitterは「Yubitter」を愛用していた。

●Xperia acro HD SO-03D

2012年、仕事の都合で「パケホーダイ」だったSHがなくなったので、ようやくスマホに。9万円くらいしたはず。2013年末、出張先の小倉で「バチッ」という音とともに起動しなくなった。

●Xperia Z1 SO-01F

2013年末、代替品として購入。8~9万円したはず。カメラのレンズが徐々に傷ついたのでバックパネルを交換。また、電池を異様に消耗するようになったので電池も交換(いずれも自分で)。2017年秋まで。以降、HUAWEI端末に。

* * *


いま手元にあるガラケー2台。これ以外は、機種変更等の時に下取り的に渡している。右のD253iの内容はすべて飛んでいた。もともと取り出す方法もなかったので、写真が失われた。左のD903iTVは写真などが残っていた。



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