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せっかくの上路プラットトラスが、、、美しい上路プラットが、、、
上路トラスを美しいと思うには、多少の桁下高さも演出として必要なんだと思った。


この長谷川橋梁は、鉄道院の設計によるもの。
他のアメリカ製長支間トラスと同時期ではあるが、
日本人の設計で、日本人が作ったもの。新橋工場製だ。
だが、「ただし」がつく。

トラスの部材は、それ以前に作られたものだ。
東海道本線(現御殿場線区間)の第4相沢川橋梁の転用で、
開通は1889年開通、105ftの上路プラットトラス(ピン結合)であった。
こいつを換骨奪胎して新橋工場が作ったのが長谷川橋梁である。
果たして部材の製造はどこだったのか。

第4相沢川橋梁と開通時期も撤去時期も同じ第1~第3相沢川橋梁は200ftの単線ダブルワーレン、
これの製造はパテント・シャフト&アクスルトゥリーである。
これらは1901年の複線化の際に、A&Pロバーツ製の200ft曲弦プラットに架け替えられた。
参宮鉄道(現参宮線)には同じ105ftの単線上路プラットトラスが架けられたが、
製造所不明、1897年製である。


橋脚は切石積み。
といっても旧長野隧道ほどの感動はないので、言われるまで気づかないほどだった。
「すごくいいもの」、すなわち旧長野隧道のことだが、それを最初に見てしまうと
それより「普通」のものに感動できなくなる、ということに改めて気づいた。

(20091114一部修正)

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続いて、釜ノ脇橋梁である。
場所はここだ。



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これまた見事なペンシルバニア・トラス。
写真では、阿賀野川の河床は見えるべくもないが、
実際には中央支間の下が深く、その両脇支間の下は浅い。

ピントラスのもっとも美しい部分だと私が思う、下弦のアイバーは
中央パネル2格間部分にしかない。
これは、左右から張り出して架設するという方法を取ったためだという。

かつては緑色に塗装されていた。

南側の県道は、この区間、スノーシェッドに覆われており、
東側坑口にクルマを止めて歩いた。
線路面の高さには出ることができない。
・・・いま思いついたが、スノーシェッド内からシェッドの天井に出る
通路があるかもしれない。それを行けばよかったか?

北側からアプローチすれば、あるいは線路面に出られるかもしれない。
事実、銘板を撮影してあるサイトもある。
面倒がらずに迂回して、銘板を撮っておくべきだった。
大峠の翌日、一ノ戸川へ向かった。
晴れ間が見えたり、サーッと通り雨が降ったりという
おかしな天気だった。

ここは過去にも来たことがあるが、こんな色になっているとは。
20090801ichinoto.jpg




実はこれを撮りに来た。
アメリカン・ブリッジの銘板である。
20090801ichinoto2.jpg









これは、この橋梁を有名にしているボルチモア・トラスに
ついているのではなく、十何連かのプレート・ガーダーの
側面についている。
このときは70-200mmしか持っていなかったので、ちょっと遠かった。
せめてテレコン、できればもう売っちゃったけれど500mmがあるとよかった。

でも、こんなことでゴーヨンゴを引っ張り出されても
持ち腐れ感プンプンだな。だからいいや。
600mmのミラーレンズならおあつらえ向きです。


この橋梁名は、土木学会のサイトでは「一ノ戸川橋梁」となっているが、
ここに記載してあるのは「一の戸橋りょう」である。
通称されているのは前者だろう。

このあと、磐越西線沿いに残るアメリカン・ブリッジ製の橋をめぐった。
ほぼ雨はやんだ。
熱塩駅を出た時点で1630頃。
日が長い時期だからと高をくくっていたが、
そろそろ日がかげり始めている。

急げないなりに「道の駅 喜多の里」に立ち寄り、
ここに風呂があることを確認する。
ここまでくればあとちょっと、たぶん4kmくらいだろう。
そう思って、痛みをこらえてペダルを踏む。
しかし、ここからが長い。
ほぼ下りきったので、R121にもどればクルマのデポ地点までは上り勾配である。

岩月町宮津の町中をショートカットし、R121に出る。
ここから上りだ。
行きに見た謎の碑や「大峠通行止め」の看板を見ながら、
朝、クルマでそれを見てからデポ地点まで何分走ったか、
そんなことばかり考えていた。

上り坂でこげなくなった。
やむなく降りて押した。
それでも足がもつれるほど膝が痛い。


朝、出発直後に見た土砂採掘場が見えてきた。
ざっと1kmはありそうだ。
少し絶望感を感じながら、押したり、乗ったりして進む。
平常時に普通に歩いた方がずっと速いはずだ。

右。
左。
くねる道の両側の家並みが消えない。
クルマをデポしたのは、人家が途切れてからだから、まだまだなのだ。

いくつかのワインディングの上りを追えると、少し開放感が出た。
家並みが切れた。
そして、ハイエースが見えた。
終わった。

道の駅から7km、それに1時間以上かかった。
それだけに、達成感はあった。

その夜は道の駅で食事をし、風呂に入り、駐車場で車中泊をした。


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合流地点では、新道は橋である。
その下でしばし雨宿り。
頭を雨から守ってくれたヘルメットをパチリ。

ここから新道である。
大峠トンネルは上り勾配で、以後はほぼ下り勾配のはず。
大峠トンネルに向けてこぎ出す。

歩道上にDVDがたくさん落ちている。
どれもこれも雑誌の付録のやつだ。
拾う価値なし!

大峠トンネル手前で道路工事をしており、片側交互通行となっていた。
こちらは自転車なので何事もなく通過。
大峠トンネルは歩道のようなものがある。
最初は道路を走っていたが、やはりこわい。
狭くても歩道のようなものの上を走る。

すぐに両膝が痛くなってきた。
ランニングでサポーターをしないとすぐに痛くなる、持病みたいなものだ。
いや、これはかなり痛い。
長さ4kmで100m以上の高度を稼ぐ大峠トンネルを抜けたあと、
チェーン脱着所にへたりこんだ。
膝が痛い。

ここからだましだまし行くことになる。
ほぼすべて下りだったのが幸い。
ほとんど膝をうごかさずとも進める。
・・・うう、腹も減ってきた。

ガンガン下り、日中ダムにて物販所があった。
食堂の幟もあった。
しかし、すでに営業していなかった。まだ3時すぎなのに。。。

ここで一端道の素性はR121から県道となり、オメガカーブを下る。
オメガの口を巾着状に縛るように、新道が建設中であった。

そして熱塩へ。
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日中線記念館は開いていた。
展示してあるキ100やオハフ61の車内にも入れた。
オハフ61。
懐かしい。
子供のころ、最初はこの板張りがイヤで避けていたが、
そのうち好んで乗るようになった。
背もたれなど、クッションつきだろうか板だろうが、あまり関係ないというのが実感だった。


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