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1990年、浪人して新潟の予備校に通っていた。
夏休みに、高校時代の山岳部の仲間のAが
横浜から新潟まで自転車で帰ってきた。
自転車はミヤタのアルフレックス。
途中、法師温泉だかに泊まり、1泊2日だという。

彼が特別体力に秀でていた印象はない。
彼ができるなら自分にもできるんじゃないか、
いやむしろもっとラクにできてしまうんじゃないか、という
自惚れ、その実、嫉妬のような意識を持った。
小学生のころからママチャリで1日100kmくらい走っていたし、
当時、アラヤのMUDDYFOXに乗っていたということもあった。
その年は浪人中だったため、実行はできかった。


翌1991年から東京在住となり、自転車も東京に持っていった。
けれども、その年は登山やら音楽サークルの練習やら
初の北海道上陸やらで忙しく、自転車どころではなかった。
意識としては、高校の山岳部のOBとしてついていった
飯豊山縦走や、山岳部の友人といった北アルプス・表銀座と比べると
自転車で新潟に帰ることなど屁でもないと思っていた。
Aは、この年も前年同様、自転車で帰省していた。


さらに翌年、ようやく実現した。
荷物はハンドルバッグとショルダーパッドに詰めた着替えのみ。
水筒すらない。
地図もない。
「国道17号を行けばいいのだろう」
まだバイクにも乗らぬ当時、道はほぼ最短距離で
都市を結んでいるものだと単純に思っていた。

中野区の自宅を出たのはおそらく朝。
千川通り、笹目通り、新大宮バイパスを走行中、
ハンドルバッグのメッシュ部に入れておいたバンダナがなくなっているのに気づく。
これで汗すら拭き取れなくなった。

約100km、高崎付近で雨に遭う。
カッパなど持ってきていない。
尻も痛くなり、気分も萎えた。
Aの走行距離には程遠いが、まだ日のあるうちに宿に入った。
宿といっても、高崎駅前のシティホテルに濡れ鼠のまま飛び込みである。
風呂に入ってすぐ寝た。
中野区よりよほど遠い横浜から法師温泉まで1日で走るAをすごいと思った。
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オープンリールのデッキが家にあったのは覚えている。
当時~おそらく1980年になるころ~でさえ
「古ッ!」というかレトロ感たっぷりというか、
そんなデザインのDCアダプタやマイクもあった。
HITACHIのロゴが妙に細長く、かつ字間も空いており、

H I T A C H I

いや、さらに各文字を天地方向に1.5倍に引き延ばしたような印象。

1982~1983年ころまでは、マクセルのテープとともに、たしかにあった。


ウォークマン。
初めて聴かされたときの衝撃といったらない。
たしか中1か中2のころだ。
それまで、ダブルデッキのラジカセを使っていたが、
ヘッドホンというもの(やたらゴツイのが家にあった)を使うようになった。
そうしてWM-20を買ってもらった。

小学生のころ、ササガワ君がよくウォークマンの絵や
ロゴをノートに落書きしていたのをよく覚えているが、
WM-20はその次の世代である。

高校生になる頃、おそらく壊れた。
そして、コンポのデッキもドルビーC対応になっており、
ウォークマンもC対応のものが出てきた。
そこで買ってもらったのが、WM-701Cである。
10周年モデルだ。
これは高校の登下校時の友となった。

ディスクマンを買ったのはいつだったろう?
大学に入る前か、入った後か。

このころまではSONYというブランドが好きだった。
他社の同等品が何割が安かろうと、SONYを買っていた。
しかし、いまではSONYの独自企画路線に嫌悪感を持つため、一切買わない。
この転向はいつごろだったのか、それだけが思い出せない。

伊豆に民宿泊ツーリング。
何回目だろう、という程度の経験しかない宿泊まりツーリング。
まあ、それはそれとして、またも(?)トラブルの汚名返上かなわず。

以前にも増して始動性が悪化した。
出がけ、30分前集合のつもりで準備したのにブースターつないでも始動せず、
クルマからジャンプして延々セル回してようやく始動。
結局10分遅刻。
念のため、スタータを持参する。

2日目朝、やはり(?)エンジンかからず。
スタータかましてもダメ。
バッテリーにあまり充電されていない。
どうやら定評あるノーブランド(?)aero改めyellがダメになったようだ。

同行の友人のジェベルからジャンプしても全然だめ。
おそろしく時間が経過したあと、チョークを引かずに
少しあおってセル回してようやく始動。
とりあえずよかった!
一度かかれば、エンジンが暖かいうちは大丈夫。


根本的にキャブが不調なのか。
さすがに2気筒なので自分で試すのも気が遠くなるので、
どこかに依頼しなくては。
バッテリーも、YUASAにしよう。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ccb-75-11/c29/ccb-75-11_c29_4.jpg

上記画像は、鯨波~柏崎間である。
画面左手が鯨波方面、右手が柏崎方面である。

場所はここである。

大きな地図で見る
中心の右側にトンネルがある。
これが大久保隧道である。
その右側にアンダーパスがある。
親戚の子供たちで集まったとき、ここをクルマでくぐるたびに
「アー」と叫んでいた。そのため「アートンネル」と呼んでいた。
記憶では、北側の坑口(?)が方形、南側のが円形であった。

柏崎側坑口のそばに、線路の監視小屋があった。
電話ボックスほどの大きさの掘っ立て小屋で、
中におばちゃんが座っていて、汽車の通る時刻を教えてくれた。
しかし、あるときからいなくなった。
掘っ立て小屋は無残な姿となり、やがてなくなった。
あんなところで線路を監視して、なんだったのだろうか。
当時、非常に大きな勢力をもっていた国鉄の労働組合の活動の一環だろうか。



2005年7月の地震の直前に、ここを二十数年ぶりにたずねた。
トンネルはいまだにその形のままだった。
懐かしかった。

周囲を歩いてみたら、なんと茅葺の家があった。
田があった。
沼があった。
驚きであった。

こうして航空写真や地図を見ると、当時、つまり小学生程度の
自分の行動範囲がいかに狭いものであるか、
周囲への関心がいかに低いものであるか、嘆きたくなる。


この近くに母方の実家があった。
ここには、建て直す前の実家が写っている。
のちに「米山台」となる宅地は、まだ造成されていない。

港もまだ奥行きがない。
やがて、埋め立てが進み、デンカのプラントができ、
テトラポッド製造が始まる。
丸胴の4本足のやつである。
「人」の形をした型を4つ組み合わせるとテトラポッドになる、
という知識を得たのは、それを見た小学生のときだ。
いまプールがある場所には、できたてのテトラポッドが並んでいた。
型の隙間に流れ込んでできたバリを折りとったりした。

また訪ねてみようと思う。
忘れてしまわないうちに書いておく。
自分自身の、おそらく最古の記憶である。
それは、親も覚えているできごとである。

おそらく2歳かそこらであろう。
足でこぐクルマに乗って家を出てしまい、帰ってこれなくなった記憶である。
その足こぎクルマとは、おそらく内側にクランクのあるタイプ。
これで、自宅からわずか100mあたりまでひとりで出てしまった。
記憶にあるのは、見知らぬ(?)町をひとりでガラガラとこぐ景色である。

泣きわめいていたのであろう。
近所の人が連れてかえってくれたらしい。
このあたりの記憶はない。


いまでも、実家周辺は数百メートル先の家々まで知り合いであり、
もしいま、実家に住む私の姪や甥が同じことをしても、
同じ人が連れて帰ってくれるかもしれない。
そういう土地で育った。

この歳になって実家に帰省すると、そうした近所の機微を強く感じる。
そして、それがいま住む東京周辺の常識とかけ離れていることを感じる。

おかずをたくさん作ってしまったら、いちいち持っていく。
そんなコミュニティは、姪、甥の世代まで続くのだろうか?


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