忍者ブログ

プロモーション

カレンダー

01 2026/02 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

カテゴリー

twitter

twitter2

プロフィール

HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。

バーコード

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

since 2010.7.30

アクセス解析

フリーエリア

プロモーション

プロモーション


No Image

三遠南信道 龍江IC『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせて

道路全般

『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせて
三遠南信道 渋川寺野IC 『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせての続き。

三遠南信道が国道494号として開通している龍江IC(たつえ)~飯田上久堅・喬木富田IC(いいだかみひさかた・たかぎとみた)の龍江ICは、なかなかアプローチが困難である。ナビがないと無理、というレベル。

駅でいえば天竜峡駅の対岸にあたる龍江付近は住宅地で、そこから山の上に向かうのだが、県道237号には一切「龍江IC」への案内はない。ナビを頼りに、といってもナビは2006年の地図だしここ開通したのは2018年3月だしで、あくまでも自分の位置を確認しながらという意味だが、龍江郵便局の前の坂を登っていく。こんな道だ。
 
「抜け道」と考えればありうるが、ICに向かう道としては、ちょっと異例な感じがする、という感想に異を唱える方は少ないだろう。

 
道なりに行くと、緑の標識だ!…と思ったら「天竜峡IC」への案内だ。違う、行きたいのは龍江ICだ。同じ方向だ。

 
んー…。

 
と、道が開けて整備されたものになり、青看が現れた。「直進:国道256号 右折:三遠南信道矢筈トンネル方面」。なぜ「上飯田・喬木富田方面」ではないのか。地名として矢筈トンネルより「下」なのか…。

 
これが龍江IC入口。「龍江IC」の表示はどこにもなさそうだ。果たして「龍江IC」で正しいのだろうか。ここに青看があるが、ここは入口であり、出口ではない(出口は道路を挟んだ向こう側)。仮にここから出てくると、青看板には「右:国道256号」、つまりはいま来た道に戻る方向しかなく、左に行くと龍江や天竜峡に行ける案内がない。

 
ICを通り過ぎて振り替えると、電光掲示板とともに「龍江IC」と書いてある青看がある。でも、国道256号方面から龍江ICに来て、上飯田・喬木富田方面に行く人はいないのではないか…。

 
さらに登ると、三遠南信道の跨道橋がある。そこから見下ろすと、舗装がまぶしい。向かって右がいま来た道。この先、写真奥は西にあたり、工事中だ。

PR

No Image

三遠南信道 渋川寺野IC 『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせて

道路全般

『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせての続き。

 
山形みらいさんの『東名・名神高速道路の不思議と謎』と、藤田哲史さんの『中央自動車道の不思議と謎』を作りながら、GoogleMapsのストリートビューで三遠南信道を眺めていて、渋川寺野ICにものすごく行きたくなった。



新東名の浜松いなさJCTから、飯田線三河川合駅近く、鳳来峡あたりまでを一直線に結ぶ三遠南信道の開通区間。その途中にあるのが渋川寺野ICで、走行中には、とくになんの感慨もないに違いない。しかし、上の地図を見てわかるとおり、相当に集落から離れている。ストリートビューを見ると、1車線の、舗装林道みたいな道をくねくねと行くと、突如高速道路が現れる。そんな感じだ。「秘境駅」ならぬ「秘境IC」だ。

まずは、県道428号の渋川の街中から。
 
渋川の中心部は、県道沿いに商店も並ぶ。北に抜け、都田川が支流の寺野川と合流する地点に三遠南信道の案内標識がある。このあたりはまだ少し平地がある。そこを左に折れる。


こんな感じで、案内に従って「地形なりの道」を進んでいく。標識通り左に行くと寺野川の右岸から、直進すると左岸からになる(ストリートビューはそちら)。ここでは標識通り、左へ。

 
しばらく進むと、高速道路が目に入る。

 
標識通りの道が、優先道路になっているのことが、唯一の安心感。

 
 
ようやく入口に到着。向かって右手が引佐、左手が鳳来峡。ここは引佐方面とのハーフICなので、三遠南信道をアルバートでくぐり、引佐方面へ。

 
 
カルバートをくぐると、開通記念碑があった。

感謝の心
交通安全
寺野自治会建之
二〇一二年三月四日 四〇戸

石碑になのに「IC」とか西暦があると、少し不思議な感じがした。この地区の方々の利用がどれだけあるのかはわからないが、石碑を自治会が建てるほどの存在というのは確かだ。「寺野」という地名も、これで全国区になった。






No Image

『東名・名神高速道路の不思議と謎』『中央自動車道の不思議と謎』によせて

道路史・道路の本

高速道路をテーマにした新書が2点、発売になる。
 
山形みらいさんの『東名・名神高速道路の不思議と謎』と、藤田哲史さんの『中央自動車道の不思議と謎』だ。先輩が企画したテーマだったが、無理を言って譲ってもらい、山形さんと藤田さんとで、非常に楽しく作らせていただいた。

その発売を記念して、ここでは本書の内容とかとは関係なく、個人的な思い出を書く。

ぼくが初めて自分で乗った高速道路は中央道だ。TT250Rという、当時出たばかりのヤマハの4ストトレールに乗っていた1994年の3月、大学のバンドサークルの春合宿で、山中湖に行ったのだ。ぼく以外は全員、クルマに分乗だ。早稲田に集合で、となると外苑か初台から乗ったのか。ただそれにくっついていっただけなので、高井戸は通過し、また、ハイウェイカードも知らず、現金で支払ったはずだ。

次はその数ヶ月後だと思うが、未舗装だった盆堀林道を走りにいこうとしたときのこと。ツーリングマップ(「ル」ではない)の存在も知らなかった。持っていた地図は、ポケットサイズの東京都の区分地図だけ。それを見ると、中央道には高井戸にICがある。下井草と富士見台の中間あたりに住んでいたので、まだ井荻トンネルのなかった環八通りを南に、高井戸を目指した。ところが、高井戸にはどこを探しても入口がない。まったく知識がないので、首都高の永福から乗ればいいということも知らない。仕方がないので、調布から乗った。高井戸から下り線に乗れないのは、その後、サークルの友人から教えてもらった。

本書では三遠南信道についても採り上げている。それを知ったのは、会社に入ってすぐ、ガイドブックの部署に配属され、『ブルーガイド・パック 木曽路・伊那路』という本の改訂作業を担当したときだ。松田不秋さんという三遠信の造詣に深い方の寄稿に、遠山の霜月まつりなどと絡め、青崩峠や地蔵峠のことが書かれていた。そこに、三遠南信道がこれらをつなぐ夢である、というようなことが書かれていたと思う。翌1996年から1998年にかけて、国道152号沿いはよく出かけた。あるときは隔週で4~5回走った。兵越や蛇洞は何度も通った。それから二十数年が経ち、いま、少しずつ進んでいるのを見ると、ただただ、長い年月をかけて、決めたものは進んでいくのだなあと感じる。

* * *

東名に初めて乗ったのは、ちょっと後になる。高速道路は高いと思っていたので、ツーリングは基本的に下道だった。東海道方面に行くときは、たしか当時50円だった三京から横浜新道、西湘バイパスだった。

初めて乗ったのは1996年秋、富士の裾野に行ったときかもしれない。「御殿場ってこんなに近いのか」と驚いた覚えがある。そして「これからは東海道方面もツーリングしよう」とも思った。


ついでに他の高速道路も言うと、関越はたぶん1995年11月24日深夜、1996年の年賀状用に干支の「鼠ヶ関」の標識を撮りに徹夜で乗ったとき。関越トンネルへの登り、70km/hくらいしか出ず、難渋した覚えがあるが、それはアクセルの開け方を知らなかったためだろう。

 
東北道は1995年9月23日だと思う。夏の北海道ツーリングで知り合った人から誘われ、五十里湖でキャンプをした。そこから非常に大きなバイクの仲間の輪ができ、いまに至っている。上の写真はその翌週30日で、1泊2日で福島から山形の林道ツーリングに行ったとき、どこか1区間だけ乗って、PAで野宿したときのものだ。当時、荷物が大きくなるのを嫌って、シュラフ一つででかけていた。リヤキャリアにICIの28リットルザックがくくりつけてあるが、荷物はこれ一つだ。

開通したばかりの上信越道は1996年5月、常磐道は1997年8月だ。

2冊をお読みになったみなさんが、マニア知識ではなく、こういう思い出を語り出してくれるとぼくはとても嬉しい。

なお、同時に、先輩が制作した『全国 高速バスの不思議と謎』も発売される。「不思議と謎」ばかりだが、もとは私鉄沿線シリーズのタイトルとして使われていたのを、カテゴリを広げたらこうなった…という感じだ。イカロス出版の『秘境路線バスをゆく』シリーズの制作者によるもの。こちらもぜひ。

 





No Image

初代ライトエースワゴン

廃車体(クルマ)

 
山間の道を走っていると、切り開かれた斜面の上に、ワンボックスの廃車体が見えた。角張ってるけれどもやたら立体的なスタイル、ライトエースだ。

 
リヤのアクスルが失われ、ホイールごと土台になっている。しかし、法面が崩れたのか、素人目に危うい位置にある。なにかあったら車体が道路に落ちてくるのではないか。また、残念ながら、あの特徴的なフロントは拝めない。民家は長らく無人のようにも見えるが、ここは控える。

 
リヤウインドウには「やさしく走ろうTOKYO」。東京で配布されていたのだろうか。現地は長野県だが、東京周辺で登録されていたことがある個体なのだろうか。なお、このステッカーは、いま、ヤフオク等で新品が入手できる。

初代ライトエースは70年代のクルマなので、最短でも40年以上前の車体だが、エンブレム、ランプ類はきれいに保たれている。




No Image

豊根村の村道標識

道路全般


 
新豊根ダムに向かう途中、村道の標識が目に入った。こういうロケーション。県道428号沿いにある。

 
よく見ると、後ろのダム放流注意の看板は「頭首工から…」云々と書いてあり、一般的に通じるのかな…。これは大入頭首工(おおにゅう)のことで、天竜川水系大入川のここで取水して大千瀬川(やはり天竜川水系)に流し、さらに振草頭首工で鳳来湖(宇連川水系)にダイレクトに注ぐ。遠く豊川用水にも流れてゆく。

ああ、そんなことを知っていたら、これらもきちんと見るべきだった。いまGoogleMapsで衛星写真を見ると、豊根中学校に渡るための吊り橋もあるし、県道沿いには豊根中学の寮もある。全校生徒28名、その大半が寮住まい。豊根村が、新豊根ダムを観光地として大歓迎していることはうすうす知ってはいたが、これをふまえると、それは大歓迎するだろうなあ、また行かなくては、という気持ちに。

 
なお、新豊根ダムへは行けなかった。だから、「また行かなくては」。








No Image

三河の駅前の風景

建築?


ローカル線の駅前に延びる道をまっすぐいくと、突き当たりにこの「元店舗である倉庫」がある。傍らの電柱前には、昭和35年の様式による「徐行」。

 
後ろの電柱が建植し直されても、この標識は維持されたのだろうが、現在は電柱に寄りかかっており、錆が電柱を汚している。

 
後ろの建物の正面は全面引き戸、その上に「旅館・食堂 野田屋」とある。中央に縦書きで「名勝刊行案内 鳳来湖 乳岩」。右には「お酒を召すなら 酔翁」。この「酔翁」は、現在は高山の酒としての販売があるようだが、ここには「豊橋 仲六商店 醸」とある。かつて豊橋駅の南側に仲六という酒造家があったが、いまはどうなのかこれもわからない。

この、あまり奥行きもない建物が旅館だったとも考えづらく、向かって左の空き地に伸びていたのかもしれない。

この看板の「旅館」「食堂」の文字が、とても好もしい。








No Image

コンクリートローゼの旧道・小渋橋

コンクリートアーチ橋

 
国道152号については後日、項を改めるが、20年ぶりくらいに大鹿村を走った。かつては隔週で走りに行っていた地域だが、そのころは特に土木構造物の知識もなく、このコンクリートローゼ・小渋橋を通ってもなにも「見ていなかった」。

2006年に、少し下流に新小渋橋が架けられ、国道の線形改良も含めて移設された。いまこの橋は、国登録有形文化財として、実用ではあるが、余生となった。

 
小ぶりで、実にスマートなランガー。支間34.4m、高さ7.05m。

 
幅員5.5(幅6.5m)。

 
 
右岸の親柱、左は「小渋橋」、右は「昭和三十一年三月しゅん工」。ただし、説明板によれば、大鹿村の橋梁台帳には昭和32年4月1日竣工とあり、5月13・14日に渡り初めをしたというので、架設されてから供用まで1年強かかったことになる。

 
コンクリートローゼは、左右のアーチを結ぶ天井のブレースのハンチが、すごくコンクリートの構造物ぽくて好き。

 
コンクリートローゼは、内側にくぼみを造り(というよりも「リブを出っ張らせ」かもしれない)、アクセント(かつ構造上の強度確保)しているものが多い。

 
左岸側。

 

親柱左には「小渋橋」、右には「こしぶばし」。

 
左岸・下流側より。












No Image

下向きの並行矢羽根

木製扉の菱形・バツ形等

 
三河との境にほど近い遠江の山間の町に、下向きの矢羽根があった。両サイドに蝶番が見え、向かって右の2枚は手前に膨らんでいるので、観音開きだろう。このような木製扉は一般的に吊り引き戸が多いが(筆者調べ)、観音開きは初めて見るケースかもしれない。

この倉庫は、屋根が建屋のセンターからずれているのもおもしろい。そして、その軒下に入り込むように増築されており、しかもそちらは引き違い戸のようだ。いや、向かって左が戸袋で、全開にできるのかもしれないが。
 
立地もすごい。斜面を掘り込んである。隣接する坂の具合よ。そして、この坂を利用する人にとって、カーブミラーがなんと邪魔なことか。



No Image

二瀬ダムの堤体上の道路と桟橋の新道

道路全般

 
二瀬ダムの堤体上は、埼玉県道278号である。最近、三峯神社が毎月1日に頒布する『白い氣守』目当ての大渋滞が起きている、まさにそのルートである。


堤体上は、見ての通り、信号による片側交互通行の1車線だ。といっても、ここがボトルネックなわけではなく、この先、三峯神社までの道も狭い。そもそも大渋滞の原因は、駐車場待ちや放置駐車だ。

トップの写真下に移っている道は、新道である。ここには2013年まで、名物の「隧道内分岐」があった。ストリートビューにもあるし、詳細は『山さ行がねが』をご覧いただきたい。




『山さ行がねが』 隧道レポート 国道140号 駒ヶ滝隧道  前編


いまはその隧道内分岐は廃止されたが、GoogleMapsには旧道も描かれている。

旧道についてはこれで十分なので、ここではその「新道」の迫力をお伝えしたい。

 
ストリートビューでは、トンネル(現在は廃止)の左に見えている直進方向、それがいま、この形である。高い桟橋構造による2車線道路。

 
バスの車長が12mとすると、高い脚で25mくらいだろうか。隧道内分岐を作った当時は、こういう構造を実現するよりも、隧道内分岐を選択する方が合理的だったのだろう。

 
床版の下にある通路は、建設のためのものだろうか。点検用にしては大がかりすぎる。


こうした桟橋上の橋としては、山形県の肘折希望大橋が有名だ。
 
 
こうした、鋼管を橋脚として利用した橋というのは、これから増えていくような気がする。


最後にもう一度、堤体上の道を。
 

こうした堤体上の道については、『ダム大百科』で、『山さ行がねが』の平沼義之さんが書いておられるので、ぜひご一読いただきた。

 











No Image

安谷橋(旧国道140号) 2重に補強がなされたプラットトラス

プラットトラス

 
秩父鉄道の撮影地として有名な安谷川橋梁(あんや)のすぐ横に、国道140号の旧道の「安谷橋」がある。ご覧のとおり、いささか複雑な見た目を擁するプラットトラスだ。開通は1923年(大正12年)。

見た目が複雑なのは、当初のシンプルなプラットトラスから、2回にわたって補強がなされているためだ。そもそも、トラスが2組ある。そして、下弦の下に台形の補強がある。

 
「歴史的鋼橋集覧」によれば、当初、床版は杉板だった。後年、床版は鉄筋コンクリート製になるが、交通量の増大への対処だろう、1958年には、さらなる補強のためにトラスの内側にトラスを追加した。上の写真で見ると、当初からのトラスはC型のチャンネル材をレーシングで柱状にしているが、追加されたトラスは溶接で柱状にしている。


1958年のトラスは基本はリベットで組み立てられているが、一部にはボルト留めのところもある。これは、1974年にフィンク補強(下部に設置する、引っ張りに対する補強)を施す際にガセットごと交換されたものだろう。

 
そのフィンク補強。木立に隠れて全貌は見えないのだが、トラス下弦の両端に◥___◤という形で三角形の脚を出し、その頂点を鋼棒(だと思う)で結んでいる。トラス下弦は引っ張りの力がかかる(両端を支点に、中央部を押し下げるイメージ)のだが、それに抗するものがよくぞこんな細い棒で…と思う。鉄が引っ張りに強いということが視覚化されている。

4面のトラスがそれぞれ補強されている…はずなのだが、内側の向こう側、つまり手前から数えて3面目の補強の鋼棒がない。よく見ると、写真右に、下部に垂れ下がっている鋼棒が見える。破損したままになっているのだ。

* * *

戦前の鉄道車両では、台枠下部にこういうトラス補強がなされていて、トラス棒(と鉄道用語では呼ぶ)にはターンバックルがついていて、台枠が垂下してくるとそれを締めて戻した。この車両(クエ9112)の製造は1923年、安谷橋と同じである。
 
(写真はパブリックドメインだが、出典はこちら

















[PR]