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福島県の、管理人がいないキャンプ場。有料。その料金箱が、ポストだった。郵便差出箱9号というやつだ。緑色に塗られていた。

 
こういうものって払い下げられるんだな。まあ、丸ポストも多く民間に渡っているので、なんらかのルートがあるのだろう。でも、ラッチ、もしかしたら現用のものと共通なのでは…? ということは(censored


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東京からバイクで四国に行く際は、徳島と高知があったので、わざわざ神戸経由で室戸汽船に乗ることはない。でも、甲浦といい足摺・土佐清水港といい、とても気にはなっていた航路。写真は交通新聞社『JR時刻表』1991年8月号。その、足摺港(正式には「あしずり港」)を訪ねた。


広い埠頭。ここに「フェリーむろと」が横付けされていたはずだ。いまは、小さなポンツーンが一つ。

 
埠頭の端面。

 
逆から。架道橋も、操作室?も、いまも残っている。

 
別の角度から。

 
もう二度と動くことはないと思われる架道橋の油圧装置。「あしずり港 架道橋」の銘板。

 
メッキ部分も錆が進行している。

 
操作室?は室内にまで緑が侵入している。

 
「フェリーむろと」の痕跡があった。これしかないようだ。




1月末刊行に向けて『東京「暗渠」散歩』(本田創編著)の改訂版の作業を続けているため、上水系の予備知識として読んでおこう…と思って手に取ったら、予想外に東京の「国土」と「生活」を守るために東京市・東京府・東京都(以下東京都)が苦闘した歴史で、むしろダム界隈に関係するような話だった。

「現代の」河川の利用については、ダムの方面からの知識がそれなりにある。しかし、それは「現代の」知識だ。それらがないころ、東京はどうだったのか。考えたことがなかった。東京は井戸水と玉川上水でやりくりしていた、いまの玉川上水には利根川からの…くらいの知識であり、「飲料水の心配をする」という考えに及ばなかったし、(かつての)玉川上水から供給しやすい範囲、というのもあまり考えたことがなかった。それは、別のいい方をすれば、いまは水源など考える必要がないほどにインフラとして整備されている、ということでもある。

* * *

「湯水のごとくに使用する」という慣用句がある。本書を読むと、この表現はとても使えなくなる。この表現の初出がいつかはわからないが、1980年代以降のものではないかと思ってしまうくらい、東京都は、水の供給を考えてきた。対して、利用者である我々の意識はそんなものだった。

「言われてみれば」ということが多く書いてある。要するに、人口が増えれば水の供給に難が出る。ビルが高層化し林立すれば、ニュータウンが開発されれば、高台に住宅地ができれば。家の蛇口が一つでなく四つ五つになれば。各家庭に風呂が設置されれば…。また、火災に対抗するための水、という観点はぼくにはなかった。東京は江戸期や明治前半によく大火に襲われるが、日が出ても消す水がなければどうしようもない。水道の普及は火災の食い止めにも多大な効果をもたらした。

いまでこそ蛇口を捻ればいくらでも水が出る。しかし、明治前期から昭和にかけて、こうした水道の普及すら反対された。まずは明治10~30年代初頭の、市区改正からの淀橋浄水場と玉川上水新水路。次いで大正期からの村山貯水池と昭和初期の山口貯水池。そして小河内ダム計画では、立ち退きが済んでいるのに反対派により工事にとりかかれず、立ち退いた人の生活が宙に浮く。その間、関東大震災と戦災による二度の大ダメージ。逼迫し、渇水が常態化しても「地下水があるだろう」という反対派である。しかし、現実には、こうした数十年単位でかかるインフラ整備をはるかに上回る都市人口の増加が進む。

現代の「完成された」水利用だけを見ると、「うまいこと考えたね」という単純な感想になる。しかし、その裏には、「目先だけしか見ていない反対派」をかわしながら、東京都下への水供給に不安がないようにするための、東京都の100年以上にわたる努力があった。広域エリア特有の、時代時代の事情…玉川上水から供給しづらい地域への人口増、下町低地と地盤沈下、旧15区以外での上水、23区以外の都下各市町村での上水、近県からの水の融通等々の問題をクリアしながら、直結する都民の生活に資してきた。世田谷通りが多摩川を渡る「多摩川水道橋」も、そうした経緯をもって、やっとのことで川崎市から水の供給を受けることができるようになった証だ。

* * *

ぼくが東京に来たのは平成3年(1991)年だが、1994年の渇水のことはよく覚えている。ぼくがバイクを洗っていたら、アパートの大家さん(70歳くらい)に強く言われたのだ。ぼくは「まだ大丈夫だし…」くらいの気持ちと、洗わなければならない事情があったのだが、大家さんには昭和30年代~40年代の、毎年のような渇水の記憶がよみがえってきたのかもしれない。

幸いなことに、東京でそうした報道がなされたのは、それ以降は一度もない。それは、東京の水道供給インフラが、ようやく「誰も気にせずにすむ」ほどに整備されたことを意味しよう。

本書で、昭和39年(1964)渇水時には「東京サバク」と言われた…ということを知った。本書では触れていないが、内山田洋とクールファイブの『東京砂漠』(昭和51年・1976)はこのときの語感を流用しているのだろう。両者の間に地方で生まれたぼくには知るよしもなかったけれどいまでは「東京砂漠」という語は渇水のことではなく、「疲れ果てた都会生活」のような意味になっているのもまた、水道インフラという意味ではよかった、といっていいだろう。





 
毎年年末恒例、1年のGPSログの振り返り。今年は北海道、四国、九州に足を踏み入れることができた。コロナ禍のためにGWは出かけなかったが、6月にTENERE700が納車。夏休みには四国~九州ツーリングのほか、ちょこちょこと中距離のツーリングに出かけた。


今年ならではのGPSログは、宮古~室蘭航路だ。震災復興の一環として、2018年6月にシルバーフェリーが就航した宮古~室蘭航路。開業時には宮古までの高速道路ができるという予定だったような気がする。ところが間に合わない。利用者は少なく、2020年3月で撤退というアナウンスがなされたため、2月初めに友人二人と乗りに行った。室蘭滞在2時間というトンボ返り。

ぼくらが乗った2週間後、この航路は突如休止となり、シルバークイーンは「ダイヤモンド・プリンセス」内でのコロナ対策の応援のために横浜に向かい、そのまま宮古に戻ることはなかった。そして4月1日からは八戸~室蘭航路となった。

川崎近海汽船 室蘭~八戸~宮古航路 室蘭港・八戸港・宮古港の記録
川崎近海汽船 宮古~室蘭航路 宮古港の記録


 
夏休みは、鹿児島県の山川~大根占航路まで足を延ばした。

そんなこんなで、2020年に足を踏み入れなかった県は、
・青森
・秋田
・富山
・石川
・福井
・奈良
・和歌山
・香川
・沖縄
となる。

北海道のように2時間しか滞在しないところもあれば、香川県のように「あと1.3km地点」まで行きながらも足を踏み入れなかったところもあるのが、都道府県で機械的に区切ったときのおもしろいところ。富山金沢福井は、本来ならば秋にバイクで行くはずでした。でも雨だったのでね…。

2021年も、2020年と同じような「でかけにくさ」はあるのだろう。離島はなおさらだ。来年のGPSログはどうなるのかな。

【過去の記事】
2019年のGPSログ
2018年のGPSログ
2017年のGPSログ
2016年のGPSログ
2015年『轍のあった道』アワード
2014年のGPSログ
2013年のGPSログ








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