新潟市の実家から、古い書類がいくつか出てきた。下記は、その一つ。昭和5年ころのものなので、「既存道路」となどとあっても現況とは異なる。方位も「上が北」ではない。家屋の並び方も、軒数も現在と異なる。
この図の上に「計画道路」とある。これを見て驚いた。新潟市の都市計画道路が、実家のすぐ裏に1本あるのは知っていたのだが、それが、昭和5年の図面にまで描かれているとは。 この道路は、いまも都市計画図に書かれている。このエリアは過疎化と高齢化が著しいので、おそらく事業化することは永遠にないだろう。 もう一つ、おもしろいものがあった。市道占用申請書。実家は市道を占用していたのか。 大正13年の日付の原本だと思われる。申請が通ったのかはわからない。曰く 「申請人宅ハ去ル明治十三年ノ大火ノ際烏有に帰シタルヲ以テ其後再建築ノ折ハ充分ノ注意ヲ構ヘ萬一市道等ニ相懸ル様ノコトアリテハ後日ニ至リ一大事ト篤ト測量ノ末漸ク現今ノ建物ヲ再建セシモノナル処其後今般市●●道路修繕旁々土樋布設ニ付キ種々測量ノ結果測ラズモ毛頭相懸リ居ラサル筈ノ申請人建物カ三間半ノ四寸丈ケ市道ニ相懸リ居ルコトヲ発覚致シタルニ付テハ今直(真?)ニ右部分ヲ取崩スカ乃至ハ今四寸丈ケ後方ニ建物ヲ引クカ孰レカノ手段ヲ構ズ可キ筈ナレドモ何分家政不如意ナル為メ到底●意ニ●セサルヲ以テ即チ已ムコトヲ得ス前記建物●築ノ為メ上記市道ヲ占用セントスルモノナリ」 要するに「新潟大火後、家を建てたら4寸だけ市道にはみ出してしまった。それがわかったが、お金がないので取り壊しも引き家もできない。ついては市道をそのまま占用させてください」というもの。申請人は曾祖父(明治16年生まれ)。司法書士犬井大剛に書いてもらっているので、正式な書式のものだろう。 約45年ほど、無断で占用してしまっていたのだが、その間、誰も気づかなかったようだ。そして、この申請の結果、どうなったのかはわからないが、いま、実家周辺の土地はすべて民地のはずだ。 自分の実家でこんなことがあった、ということを記録として残しておく。 * * *
あの場所に、少なくとも明治13年から家はあり、そこで生まれ、生きて、死んだ人として確定しているのが、祖母、父。そして多分兄。兄には子供がいるが、そのまま新潟にとどまるかどうかはわからない。甥が新潟を出たら、あの家の場所は、兄の代で終わるだろう。 PR
twitterで、上のような集計が見えた。ふと「平成の大合併」前はどうだったのかを知りたくなり、1981年の統計を元に、47都道府県と県庁所在地で同じものを作った。 【都道府県人口における県庁所在地人口の割合(1981年)】
出典:標準高等社会科地図最新版(帝国書院、1982) 「県庁所在地」なので、それより人口の多い都市を抱える県はある。福島(いわき、郡山)、埼玉(当時は川口)、静岡(浜松)、三重(四日市)、山口(下関、宇部、岩国、防府)、福岡(北九州)などだ。 これを、パーセンテージでソートしてみると… このようになる。上位を見ると、石川、和歌山、高知などが入る。これらは1981年の数値なので、その後、東北・上越新幹線の開業、バブルを経ているので、そこはご留意いただきたい。
twitterで、鉄道総研のRRRの過去5年分がPDF化されて公開されたと聞いたのでざっとチェック。
サイトはこちら 橋梁・土木関係の、趣味的に興味を引かれた記事を抜き出す。 リンク先はすべてPDF。 すべて偏見というか好みでの抜き出しなので、ぜひ全号の目次をご覧いただきたい。 ・2008年3月号 橋梁の洗掘 ・2008年10月号 鉄道吊橋と緩衝桁軌道伸縮装置、既設鋼鉄道橋の合成構造化によるリニューアル工法の提案 ・2009年8月号 鋼鉄道橋の低騒音化 ・2010年3月号 アーチ型鋼材によるRCラーメン高架橋の梁補強 ・2010年8月号 三内丸山架道橋 -コンクリート鉄道橋長大化の可能性- ・2010年12月号 鉄道総研が生まれた頃の話 新型踏切の開発 ・2012年4月号 鉄道総研の技術遺産 バルツァーの論文と東京駅(小野田滋) ・2012年6月号 既設鋼鉄道橋をリニューアルする ・2012年8月号 鉄道総研の技術遺産 「東海道線増強調査会資料」とその意義(小野田滋) ・2012年9月号 鉄道技術 来し方行く末 鋼鉄道橋 ・2012年10月号 構造変更による旧式鋼橋梁のリニューアル
カテゴリをひとつしか選べないので、各カテゴリにちらばっているものを集めた。
その8がふたつあったりすのはさすがである。 また、この形式ではない英国系は割愛してある。 パテントシャフト&アクスルトゥリー/五行川橋梁(真岡鉄道) パテントシャフト&アクスルトゥリー/小貝橋(真岡鉄道) パテントシャフト&アクスルトゥリー/小貝橋(真岡鉄道)(2) 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(簡易版)伊達橋・小貝川橋梁・五行川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その2)木津川橋梁 (英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その3)港三号橋梁) 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その4)十条跨線橋 (英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その5)愛知川橋梁) 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(その6)和歌山県新興橋 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(7)近江鉄道愛知川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(8)関西本線木津川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(8)和歌山県中橋 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(たぶん9) 見沼代用水橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(10) 油皆洞橋 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(11) 油皆洞橋の幅 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(12) 長野電鉄 松川橋梁(旧) 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(13) 伊達橋(福島県) 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-1)山形鉄道最上川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外1-2)山形鉄道最上川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外2-1)左沢線最上川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考(番外2-2)左沢線最上川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラスの横桁考番外編(3)東海道本線揖斐川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラス(番外編5)牧田川橋梁 英国系100フィートポニーワーレントラス(番外編6)江ヶ崎跨線橋 支笏湖畔の200フィートダブルワーレントラス「山線鉄橋」 石岡橋(矢部)
偶然、国際日本文化研究センターのサイトにおいてある、所蔵地図データベースを見つけて驚いた。陸地測量部が明治初期に東京都新を測量して作製した5000分の1地図があったりするのだ。
例えば、早稲田周辺。この図は明治16年測量。 (例)五千分一東京図測量原図(東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍) 都の西北早稲田の杜には、開校したばかりの東京専門学校がある。その隣には大隈邸。江戸川公園にも永青文庫はなく、細川邸しかない。細川邸の東、現在の椿山荘の位置には山縣邸がある(椿山荘は山縣有朋が作ったものであるから、当たり前)。神田川は江戸川である(この区間が「神田川」となったのは1964年)。 …というような気づきが山ほど出てきて時の経つのを忘れてしまう。 個人的に重要なのは、陸地測量部の5000図と5万図。 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/rikuchi.html 人によっては吉田初三郎の鳥瞰図のほうがうれしいかもしれない。 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/yoshida.html いろいろな検索ができるので、ぜひご覧いただきたい。 この日文研にあるのは、地図データベースだけではない。さまざまなものが統合されてオンラインで提供されている。 http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/database.html これらの中で、『近世畸人伝(正・続)』にひかれた。これはいまから30年ほど前、読売新聞日曜版に、この書を元にした奇人伝が連載されていたことで記憶していた書名。もっとも、いま、いちいち読む気はない。上記の地図のほうがはるかに楽しい。 |
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