(続き:前編はこちら)
後編では、「旧」北上大橋について書く。「旧」北上大橋はスパン100m。「新」北上大橋の半分だ。以下、「新」「旧」にカギ括弧はつけないが、どちらも「北上大橋」であり「新」「旧」は橋の名称ではない。 前編で、道の駅かわさきに旧橋のモニュメントがあったと書いたが、そのモニュメントには、旧橋の写真がはめ込まれている。 そして、モニュメントはこれだ。 左右の「ブレーストリブ」部分をつなぐ部材、横構だろうか。旧北上大橋は幅員5mというけれど、これはそれ以下なので、それを切り詰めたものかもしれないが確信はない。 銘板がついている。 昭和4年
株式会社浅野造船所 材料 ICL 八幡製鉄所 鈑 浅野造船所 鋲 浅野小倉製鋼所 部材を間近で見られるのは貴重な経験である。 モニュメントに添えられた碑。下に書かれた文言をすべて書き写す。
地元の人々がいかに北上大橋に思い入れがあるかわかろうというものだ。 別のモニュメントが橋のすぐそばにもある。 もちろん、この幅も5mもないので、移設したものだ。 こちらにも、旧橋の写真がある。石に彫られているのだが、これはどう呼ぶのだろう。 写真では見えづらいが、右側の親柱の向こうには、田中賞受賞記念碑がある。 旧橋は、親柱が保存されているこの位置ではなく、橋を挟んだ向こう側にあった。もっとも川幅が狭まった位置であるが、それでも支間100mである。昭和52年撮影の国土画像情報に、現在のルートを黄色で加筆するとこうなる(トリミング済み)。 当時の集落や道路をまったく無視する形で、田んぼの中にバイパスができている。旧橋の左岸(画面でいえば川の「上」)たもとを、前編で掲載した現在の地図と見比べると、そこに橋があったことがよくわかるだろう。 このバイパスを「薄衣パイパス」といい、前述の石碑にも「薄衣村」とある。薄衣村は左岸にあった村で、昭和31年9月末日に門崎村(陸中門崎駅の由来だ)と合併して川崎村となった。一方、弥栄村とは昭和29年末まで存在した右岸の村で、昭和30年元日から一関市となった。両者を含めた7市町村が合併し、一関市(新設)となったのは平成17年9月20日である。石碑に書かれた村名は、50年以上前に消滅した自治体名である。それが書かれているところに、私は感動する。 交通至便となったのは当たり前のことで、現在でも、上流側は川沿いに約10km遡った柵ノ瀬橋、下流側は同じく7.2km下った北上橋まで、橋はない。 最後に資料を置いておく。 ・設計者・新日本技研による図面その他 PR |
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