野尻森林鉄道 木曽川橋梁(長野県)
野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。 現在、上記地図の中心点には「野尻向橋」がかかっている。下記写真で手前に見えている橋だ。 . その橋に立つと、すぐ近く怪しげな痕跡が見える。 (右に見えているのが野尻向橋) いかにもここに橋がありました、という感じ。周囲は少し盛り土してあり、ここがT字路になっていた。対岸には、この橋跡と対になるような痕跡と、その左側に吊橋の主塔が見えた。 . となると、親柱が残っているのは旧橋、主塔が残っているのはさらにその旧橋ということになろうか。旧橋の橋台の左側には、川に降りる階段のようなものが見える。 主塔をアップ。コンクリート製。阿寺橋の旧旧橋の主塔は木製だった。 対岸に渡る。 対岸はこんな感じの広場が広がっている。その中に屹立する主塔。 横から近づく。どうも、主塔の周囲だけ灌木が生い茂っているように見える。 このように、樹木を口にくわえたような格好で立っている。銘板類はないようだ。 主塔の下から川際に出る。さきほどいた対岸が見える。しかし、吊橋の主塔は見えない。撤去されてしまったのだろうか。 さて、もうひとつの怪しい橋。 床版と橋脚の隙間が吹き抜けになって折らず、シェルターのようになっている。 その上に上がると、現在のクルマでは曲がれないのではないかと思えるくらいに床版がカクッと曲がっているのがわかる。なんだ、この線形は。 古い航空写真で確かめた。青い矢印は野尻森林鉄道の木曽川橋梁。 (国土変遷アーカイブより1947年撮影)赤矢印の部分が、この吊橋だろう。野尻森林鉄道の線形がくっきりと見えているほか、右下の野尻駅、左下の謎のループ上の線形(これはいまもある)も明瞭だ。 (国土変遷アーカイブより) 1977年となると、すでに吊橋ではない。いまは撤去された橋に移行している。 その吊橋の現役時代の姿が、やはり『写真で見る100年』にあった。 「野尻向橋 大正10年頃」というキャプションがある。その向こう側では、何をしているのだろうか。 旧橋を建設中? この旧旧橋の主塔がコンクリート製であるということは、その建設はせいぜい大正時代に入ってからではないかと思うのだが、大正10年には早くも旧橋に架け替えに着手するというのはちょっと考えがたい。 となると、見えているのは建設中の橋ではなく、単に桟橋に荷物が積み上がっているだけではないか? 旧橋は、その桟橋状のものを転用して架けられたのではないか。 階段が湖底に続いているようにも見えるが、なぜかこの階段は、現在残っているものよりも角度が相当にゆるい。現在残る階段が何のためのものなのかは不詳である。 PR
4月28日夜から5月2日にかけて、岐阜~富山~福井を回ってきた。道中、突然、おもしろい橋にでくわすのは楽しいものだ。今回は水管橋を。
国道41号を走行中、こんなものが目に入った。吊橋の水管橋。しかも主塔はA型トラス構造。 日暮れが近いため、先を急いでいたのだうえ土砂降りだったが、クルマを停めてざっと見学した。 場所は、岐阜県高山市久々野町阿多粕。 地図のデータでは、Yahoo!もGoogleもmapionも、きちんと道路を表示しないので、地形図を。 (DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用) この、JR高山本線渚駅南側、現在の高山市が下呂市と接する部分にこの水管橋はある。 通常、人やクルマを通す吊り橋は、主塔がπ型をしている。それは、踏板を水平に吊すために主索が左右で2本あるためだ。ところが、この水管橋は、吊す対象が円柱型の鉄管であるため、主索は1本。それに伴い、主塔もπ型ではなく三角形をしている。トラス構造を利用したものだ。 画像奥が下呂市、手前が高山市。 耐風索(水管の下にある索)は2本ある。これで水管をほぼ固定している。この場合、「主索2本+耐風索1本」でもいい気がするが、たぶんこちらのほうが簡易というか強度としても十分なのだろう。なお、耐風索がなくても構造としては成立する。 水管を下から見上げる。三角形の頂点は水管、/\と広がっているのは耐風索。 水管はそれなりによれている。 水管の根本側。さすが吊橋、ちゃんと主索がどこかにアンカーされている(と思う)。土砂降りなので見に行かなかった。 主塔の付け根。支承と言っていいのだろうか。ピン構造になっている。通常の吊橋では、主塔は橋脚と一体化しているが、ここではピン構造になっている。ということは、主索の張り具合によって、この主塔が傾ぐことになる。吊橋の構造としてはとても理解できる。 銘板等は見つけられず、橋の名称もわからなかった。地形図でも、水路が書いてあるわけではないため、この水管橋が、何を目的としているのかもわからない。両端が地中にあるのか、地上にあるのかも見ていない。 ともあれ、見た目が非常に興味深い水管橋吊橋である。場所は、濃飛バス「あたがすバス停」付近である。久々野駅、あるいは高山駅からバスでも行けますよ。
『山さ行がねが』で公開されている『小鹿野町深山の廃吊橋』を拝見し、思うところを三つ書く。
(1)鋼製の主塔を持つ吊橋 この廃吊橋レポの主眼は、一方の橋脚部分が鋼製である点に置かれている。しかし、実は鋼製の主塔を持つ吊橋も、そう多くはない。通常、主塔は鉄筋コンクリート製である。用途を終えた吊橋の主塔だけが残っている光景はいたるところで見られるが、そのほとんどはRC製で、少なくとも石積みや煉瓦積みはない。鋼製のものは少ない。 これは、土木学会中部支部のサイト内で紹介されている白川橋の解説が裏付けている。曰く、 とある。珍しいのだそうだ。 鋼吊橋は、山行が内でも探索済みの橋がある。新潟県の鹿瀬橋だ。 本ブログでも紹介している(こちら)。 主塔の横桁(というのだろうか)は、たいていRをつけた処理がなされている。 この「非常に珍しい」鋼吊橋は、全国にそこそこの数がありそうだ。 ●白川橋(岐阜県)…うさ★ネコサンドさんのサイト ●上松発電所の吊橋(長野県)…同 ●飛龍橋(静岡県)…同 ●名称不明(静岡県)…Morigenさんのサイト。 ●芋畑橋(福島県)…たつきさんのサイト。 ●名称不明(福岡県)…Flickrにshenkuさんの画像があり。 ●二見吊橋(北海道)…札幌。北海道鋼道路橋写真集。 ●土木図書館の『本邦道路橋集覧』に図面がある。 (2)鋼製の主塔 ここで、なぜ主塔が鋼製なのかが気になってくる。吊橋の主塔には、橋の長手方向には引張力が、鉛直方向には圧縮力が働くのだと思うが、鋼は、延びには強いが圧縮に弱いのだ。もしかしたら、鋼製であるがゆえの柔軟性の高さが評価されたのか、などとも思うが、まったくの当て推量なので今後の課題としたい。 (3)トレッスル橋 余部橋梁を筆頭に、鋼製トラス橋脚がある橋を「トレッスル橋」などと言い慣わすが、鉄道におけるトレッスル橋の概念は「トレッスル橋脚の真上に、トレッスル橋脚の幅分の短い桁を載せる」だったような気がする。ソースは失念。余部橋梁も、橋脚間に1つの桁、橋脚上の1つの桁があった。 (仙山線第二広瀬川橋梁) (ここまで書いて寝落ちしてしまった。日本語は大丈夫だろうか。一部修正した。) しかし、それでは道路橋での場合が説明できないので、歴史的鋼橋集覧にのっとり、上部構造と下部構造を分け、橋脚のみを「トレッスル橋脚」としたほうが誤解を生まないだろう。トレッスル橋脚の上に乗るのは鈑桁とは限らないわけだ。 これは、「トレッスル橋脚+トラス桁」の例である。どの橋かといえば、アメリカのゴールデン・ゲート・ブリッジらしい。wikimedia commondsよりパブリック・ドメイン画像を転載したが、元ページがフランス語のためまったくわからない。ゴールデン・ゲート・ブリッジではないかもしれない。 「トレッスル橋脚+トラス桁」は、ここにもある。 ●画像 日本では「トレッスル橋脚+鈑桁」しかないと思われているのでそれでもよかったのだが、今回の廃吊橋の発見により、「トレッスル橋脚+鈑桁」の代名詞として「トレッスル橋」と言うことは適切ではなくなってしまった。もう少し、海外の画像で事例を探してみたい。 石川県白山市の国道157号鶴来バイパス、 道の駅「しらやまさん」すぐ脇にある和佐谷橋。 渡っているのは手取川で、川が市境となっており、対岸は白山市。 今月いっぱいで廃止になる北陸鉄道加賀一の宮駅がある。 画面左端の水色のアーチ橋は水道橋で、左右の桁がズレているスキューアーチ橋である。 土砂降りになったり止んだりの天気だったので、めんどくさくて撮らなかったことを後悔している。 その向こう(さらに左)には、鶴来バイパスの山上郷大橋がある。 和佐田橋は、見たとおりかつては吊り橋だったもので、それを6連のポニートラス橋に置き換えている。 橋脚に注目すると、3種類ある。 手前の新しいもの、その向こう二つの少し古いもの、川の中央の大きなもの、である。 吊り橋の竣工は1932年(昭和7年)。 両端と、川の中央に塔柱があったという。 両端のものはいまでも残るが、川の中央のものは、 上の画像に見えている立派な水切りのついたものであろう。 1953年(昭和28年)、吊り橋を撤去し、新たに三つの橋脚を据えて6連のポニートラスを架けた。 東側2連は川を越えるためにスパンが長く、その分、トラスの橋高があがっている。 市街地はこの画像で言うと「向こう側」であり、手取川右岸に鶴来バイパスができるまでは 「向こう側」の道がメインストリートであった。 そして、「こちら側」に来るためにかけられたのが、この和佐谷橋であった。 「こちら側」には分教場もあった。 いまでこそ鶴来バイパスが通っているが、これの開通は1983年である。 国土交通省の航空写真(昭和50年度撮影)を見てみよう。 (ccb-75-22_c20_21.jpgをトリミング) 和佐谷橋が、立派に役目を果たしていることが見て取れる。 現役の車道である。 鶴来バイパスもなければ、和佐田橋の下流にかけられる山上郷大橋もない。 隣接するスキューアーチの水道橋もない。 また、当時、北陸鉄道は加賀一の宮駅から先(南)にも金名線という路線を延ばしていたのもよくわかる。 加賀一の宮駅側から見ると、こう。 現役時代の写真が、岐阜女子大学デジタルアーカイブ研究所のサイトにあった。(著作権は切れています) ここを振り向くと、北陸鉄道石川線の和佐田踏切。 チンチンチン・・・と鐘が鳴る、撞鐘式のものである。 この踏切が鳴るのもあと半月。 どのような結末を迎えるのだろうか。 現地地図を掲げておく。 <参考> 周辺の地図は、北陸先端科学技術大学院大学内の個人運営サイト 「web辰口町史」に詳細がある。 それを抜粋したという「和佐谷ものがたり」はぜひ読んでおきたい。 |
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