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愛媛県の佐田岬半島の、三崎港からさらに先、三崎先端まで直線であと2.6kmの地点に「正野(しょうの)」という集落がある。その路地に迷い込んだ先に、この木造校舎があった。

 
いくつの教室があったのだろう。海保の2003年の記事では、生徒数17とある。


 校庭にクルマが停めてあるだけでなく、玄関を塞ぐ形で原付が停まっていたので、表札(?)こそ出ているものの、閉校した校舎だとわかった。


傍らに、閉校記念の石碑があった。校歌が彫ってある。歌詞の1番には「海」という語が4回出てくる。書が駒沢大学書道部の手になるのは、本校の卒業生かなにかの縁だろうか。

 
門柱も、そのままきれいに存置されている。のべ何人が、この小学校を卒業していったのだろう。1000人いないかもしれない。閉校は2005年3月。三崎町が伊方町となったときである。


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道の「下」にグラウンドがあった。その向かいを見ると、木造小学校があった。どうやら閉鎖されているようだ。

グラウンドに降りてみる。ずいぶんと大きな木造校舎だ。すぐ近くで農作業をしていた男性が、学校の隣の家に戻ってきたので、ご挨拶をした。

もうずいぶん前に「休校」となった。そのとき町は「(たしか)5年後に校舎は取り壊す」と言っていたそうだ。時が過ぎ、東城町は庄原市と合併し、いまも休校のまま、昭和28年の改築から60年を経た木造校舎は朽ちることなく建ち続けている。

木製の壁にはキツツキが開けた穴がたくさんある。これは現役時代もあったそうだ。

「この学校は、裏山から木を切り出して作ったんだ。ここで製材してな。できたときは、それは立派な校舎だった。中学も併設していたから、何百人も生徒がいたよ。でも、いまは…」

男性は70を超えたいまも農業を営む。いまとなっては便利ではない土地だが、かつてはそれだけの人口があったことを懐かしんでいた。

この始終小学校には校門がないので銘板の代わりに表札がある。それが残っている。玄関は木製の開き戸。

校内を覗くと、平成9年4月のカレンダーがあった。その前月、歴史を閉じたのかもしれない。

目の前には「開校百年」の記念碑がある。百年の歴史を持つ学校は、形の上では休校中であり、廃校ではない。



奥ヶ野峠を西へ下ると、鈴野川という集落がある。そこに木造校舎の小学校があった。しかし、人気はなかった。

正面は妻面にある。どうやら、閉校したようだった。

教室の中を外から覗いたら、「教室」は一つで、他の(確か)三つの部屋は、それぞれ理科室や音楽室などの目的別の部屋になっていた。もしかして、全校で1クラスしかなかったのだろうか。

門には銘板がある。現地で検索したら、ちゃんと萩市のサイトに載っている。ということは、まだ廃校ではない休校の状態だ。

正面に向かい合う形で、鈴野川保育所があった。いまは物置になっているようだが、とてもきれいだった。

室内には、飾りがたくさん。ひとつしかないトイレ(外から見えた)にも、きちんと「手を洗おう」といった絵のついた張り紙があった。おそらくひとりだけの保育士の先生が、おそらく一人か二人の未就学児を相手にしながら、我が家のように作っていったものだろう。私は身近に幼児教育に関わっている人がおり、そうした姿を見ているので、この場所でそうした生活が営まれていたことを想像しながら、そこにしばらく立ち続けた。園舎内を写真に撮る気持ちにはなれなかったから、撮っていない。外観もためらったが、もし取り壊されてしまったら…と思い、外観はこの2枚だけ撮った。

防長バスの通過予定時刻は、7:21と18:46である。

改めて検索したら、閉校について書かれた地元の方のブログがあったので紹介する。
2人の卒業式 鈴野川小学校
 - 弥富情報室ブログ

閉校になれば、校歌がなくなる。都会でも起こりうる話だが、それは、どこかで引き継いでいって欲しい気がする。




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