大きな地図で見る 自動車の積み出し港として知られる三河港に、埋立とともに敷設された東三河臨海道路。この道路とその東に並行する国道を結ぶために、海上にダイナミックな全Y型のジャンクションがある。残念ながら上から眺めることができる場所はないのだが、港湾事務所のあたりから眺めた。 ![]() ![]() ![]() 足場が限られる上に規模が大きいので全然ダイナミックな感じで写せていないが、このように、桁は自由にカーブを描いて海上を舞っている。桁は、ルートによって青、赤、黄、緑に塗り分けられている。 ![]() ![]() ![]() P-11 橋脚 1988年3月 事業主体 愛知県 施工 青山建設(株) ![]() 1988年3月 愛知県建造 道示(1980) 一等橋 使用鋼材:SM53 SS41 SM50Y 製作:東海鋼材工業株式会社 塗装表記は主要部分のみを。 塗装年月 1988年3月 下塗 東海鋼材工業(株) 中上塗 (株)第一塗装店 ![]() 1989年3月 愛知県建造 道示(1980) 一等橋 使用鋼材:SM50Y、SS41 製作:トピー工業株式会社 塗装年月 1989年3月 工場塗装 トピー工業株式会社 施工者 墨田塗装工業株式会社 トピー工業の豊橋製作所(のうち、現在の日鉄トピーブリッジだろう)は、この港大橋のすぐそばである。これだけの桁の本数であるからそこに一括発注はしないだろうが、こうして地元の企業から調達している橋を見ると、なんだか嬉しくなる。 この港大橋、「黄色の2車線桁」には歩道があるが、なかなか全貌を見渡すことはできないようだ。 PR
以前書いた、トレッスル橋脚を持つ巴橋のすぐ近くにある中央本線の新・第4木曽川橋梁。複線区間であり、今回は上り線(名古屋→塩尻方向)の桁について書く。
場所はここ。 もともと中央本線は単線で開通しており、現在の下り線(塩尻→名古屋方向、東側)が明治43年(1910年)11月25日の開業当初からのもので、上り線(西側)が、昭和43年(1968年)9月30日の複線化時に増設されたもの。それは、すぐ北の隧道の坑門の意匠をみればすぐわかる。 巴橋から見ると、こう。 まずは下路鈑桁。 向かって右の擁壁は、もちろん複線化時に作られたものだろう。「1967-11」という陰刻がある。 下路鈑桁の裏側。 橋りょう名 新第4木曽川橋りょう
位置 薮原~宮ノ越 266K246M 塗装年月 2005年8月 塗装回数 3回塗 塗装種別 下塗 シアナミド鉛さび止めペイント 及び塗料名 中上塗 長油性フタル酸樹脂塗料 塗料メーカー 大日本塗料株式会社 施工者 佐野塗装株式会社 この区間の複線化は1968年なので、2005年前には一度は塗り替えられたか、というところだろう。 南側橋台には銘板があった(北側は接近できないので確認をしていない)。 設計 岐阜工事局 施工 佐藤工業株式会社 設計荷重 KS-16 基礎工 くい打R.C.くい7m20本 木曽根入 天端から13m55 着手 昭和42年4月20日 しゅん功 昭和42年6月24日 「橋りょう」「くい打」「しゅん功」いずれも、カナ部分には傍点が伏してあるのが興味深い。このエッチング銘板の原稿を作った人は、交ぜ書きに抵抗があったのか。 橋脚と、上路箱桁の全景。塗装が光っていて美しい。古めの橋ばかり見ていたので、箱桁のような近代的な桁を見るととても新鮮だ。 上路箱桁の裏。 『鉄道構造物探見』(小野田滋)によれば、国鉄が箱桁を初めて採用したのは昭和33年(1958年)で、東海道新幹線の工事で大量に用いられ、昭和42年(1967年)に、「在来線用上路プレートガーダの標準設計でも、支間三六・四メートル以上の桁はボックスガーダとすることが基本となった」とある。とすれば、この箱桁は、その最初期にあたるものだ。 この区間の動画がある。 この前面展望は上り線であり、1分11秒あたりから、この橋を渡っている。鈑桁のほうにはバラストが敷かれ、箱桁のほうにはないようだ。とくに後者は音でも、冒頭の写真でもわかろう。 次回は下り線について書く。 |
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