カルカルに行ってきた。昼の部にて、オープロジェクトさんの『オープロジェクト<廃墟×廃線>蔵出し映像でホゲっと語る』というイベントである。出演者の西田さんとは、8月の阿佐ヶ谷ロフト『酷道×廃道』のときにご一緒になり、三才ブックスの『廃線跡の記憶』(3月18日刊)というものも予定されていること、ヨッキれん氏も寄稿しているということで、今回のはソレとは無関係ではあるが、行ってみた。栗原景氏も行かれるというので現地でというか店内で合流。
開演前、先月発売されたDVD『廃墟×廃線』がフルで流れた。廃線を映像で表現するってどういうことだろう、と思い、映像に不慣れな目で見ると、やはりずるい(悪い意味ではない)。パンやズームで「余計なもの」や「スチルでは不可能な画角」が可能になる。もっとも映像側から見れば、スチルはずるいという面もあろうが、膝くらいの高さだろうか、カメラを構えて線路の上を歩いたり、真横向いて車窓をイメージさせたりといったもの、雨音や風音が入るものなど、写真集的な見方ができるものだった。フィルターワーク多用なのは、これはこれで「廃」の定番イメージ作りなのだろう。個人的にはフィルターなしの自然が織りなす色だけで見たいとは思う。スチルでいえば、モノクロのずるさってあるからな。カラーで広角パンフォーカス、が一番難しい。 イベントは、蔵出し映像を流しながらの解説。映像は大きなスクリーンで見てこそ。仮に同じ映像を、動画サイトの大きさで見ても、なんの感動もなかろう。映像にはまったく疎いので、映像の作り方や狙いといった話も出て、それはそれで興味深かった。 しかし、制作者側の話として嬉しかったのは、軍艦島にしろ幌内にしろ、現地でその存在に気づき、守ろうとしている方々ときちんと接し、コミュニケーションを重ねることで、こうした映像を作るという姿勢を持っていることだ。勝手に撮って何事もなかったかのように立ち去る、というような、それを守っている人をなきものにするかのような「制作側の論理」ではない。取材対象に、真剣に向き合っている。 書籍『軍艦島オデッセイ』は素晴らしいもので、売上も素晴らしいものだが、制作者サイドはそれでも取材にかかった費用はとりかえせないかもしれないほどの入れ込みようだ(このへん推測。現地に行った回数は以前聞いた)。トーク中に「サービスしすぎなくらい、内容を詰め込む」という言葉があったが、まさにそのとおり、そうして「好きだからこそ」作品を作っていくという姿勢は、見る側としてはとても嬉しい。 偶然にも、たまたま私が廃墟や廃線について「構えるほどのものじゃない、現地にいて感じればいいんですよ」と人に話したのだが、それとまったく同じ言葉を西田さんが口にされた。これも嬉しかったことのひとつ。 トーク中、「羽幌炭鉱を追求している」という方が壇上に上がった。その中で、財閥系じゃない会社が親会社だったところに羽幌の特徴がある、と聞いて、ああ、この方は俯瞰して見れる人なんだ、と思った。 廃道にしても廃線にしても、ひとつのものだけに詳しくなったり、逆に浅い部分だけやたら単語を知ったりということに陥りがちだ。煉瓦の意味、日本での使われ方の変遷などを知らずに「赤煉瓦だからいい」みたいな文言に陥りがちだ。そうならないためには、膨大な量の知識を必要とする。炭鉱ひとつとっても、その炭鉱の歴史は絶対の基本として、会社、会社が創業した背景、会社に関わる人物、会社とその人物にかかわる政治情勢、その当時の政局、創業当時の経済情勢、場合に寄ってはアメリカの経済情勢、機械によってはドイツやアメリカ(なのか、ここらは門外漢)の産業機械の歴史とメーカーの歴史、それらメーカーのそれらの国における歴史や政治的経済的役割、などというところまで把握してやっと1行書ける、みたいな。 正確な知識があるのと、何も知らずに見たままを書いたものとでは、 赤煉瓦の土台の上の建物に○○製の巻き上げ機が錆び付いていた というような文章ひとつの重さが違ってくる。 そんなことを考えてしまうので、炭鉱や石炭関係は手が出せない。あまりに敵が大きすぎるものを、いくつもいくつも抱えてはダメなのだ。自分を弁えておく。 帰途、上記DVDにも収録されている晴海橋梁がゆりかもめから見えた。 ホンモノ(?)はこちら。 PR |
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