年末の掃除で書棚を整理していたら、1985年(昭和60年)1月2日に買った、蒲原鉄道のセットが出てきた。ダイヤ、形式図、レール文鎮、シートモケットのセットで、たしか3000円くらいだったと思う。
中学1年のその日、思い立って友人のH君とN君と、県庁前→新潟交通→燕→東三条→加茂→蒲原鉄道→五泉→新潟、というルートで回った。それまで、新潟交通はしょっちゅう見ていたにも関わらず、載ったことがあったのは東青山→県庁前の1回のっみ。蒲原鉄道も折に触れ目にしていたものの、乗ったことはなかった。 当時、少しずつ鉄道趣味から遠ざかりつつあったものの、出かけていった。コンパクトカメラを持って行ったのは、いまにして思えば貴重だった。 同行したH君とは何度も一緒に18きっぷの旅などをしていた。2年ほど前に20年近くぶりに再開できた。N君と旅したのはこのとき一度きり。彼は数年前に脳腫瘍で亡くなった。 さて、ダイヤの話に戻ろう。ここにアップする。
(クリックすると拡大画像となります)
このダイヤはJRの貨物大改革に対応するもの…だと思う。同時に蒲原鉄道の貨物列車は廃止されたはずだ(うろ覚え)。 注目したいのは右側、閉塞の欄。季節ごとに閉塞方式が切り替えられ、また、閉塞区間も変更される。そして、タブレットの形。国鉄~JRでは4種類(△、□、○、楕円)だったが、ここには八角形が描かれている。どんなタブレットだったのだろうか。 ダイヤと一緒にこんなものも同封されていた。実際に仕様された通券だ。前掲のダイヤで、2列車と4列車をご覧いただきたい。2列車、4列車が村松→七谷へと続行したあと、七谷→村松に進む9列車がある。通票を4列車に携帯し、それを9列車で持ち帰ってくるのだ。 また、レール文鎮だが、何kgレールかは不明。高さは約60mmなのだが、底面が約56mmしかない。レールにはまったく疎いので、どなたかご教示いただければ幸いです。 PR
10月2日(日)、カルカルで開催された『オレ鉄ナイト』に参加してきた。
このイベントが開催されると聞いて、すぐ企画者の武田保志さんに「出たい!」と伝えた。話したいことは山ほどあるが、とくに話したいのは、鉄道と地図との関係。鉄道は地形とは密接な関係を持つのに、それを「地図」で見てしまうと、あまりおもしろみを理解してもらえない。だが、鳥瞰図で見ると、鉄道路線が峠を越えるときは、川を遡り、登り切れなくなったところでトンネルに入って峠の下を抜け、向こう側の谷筋に入る…というのがとてもよくわかる。そこから、さまざまな想像が始まる。これを伝えたい。 かつて、そんな本を作った。『カシミール3Dで見る・自分で描く 空から眺める鉄道ルート』だ。2006年の刊行で、書店には在庫しているはずなので、ぜひご覧いただきたい。著者は松本典久さん、写真はRGG(ほとんどが荒川好夫さん撮影)。そこに、この鳥瞰図を自分で作れるソフト「カシミール3D」と地図データ、その解説(すべて杉本智彦さんによる)が入っている。 当日は15時に会場入りし、リハ。 おお、伊藤壮さんの「彫り鉄」が図らずも見えている。(撮影時点では、壮さんが何を出すのか秘密にされていた) 17時30分、第一部スタート。私はステージに向かって右端で、写真家の米屋浩二さんと一緒に観覧していた。 ・栗原景さんの『ほろ酔い鉄』 ・ヤスコーンさんの『寝台特急鉄』 ・武田さんの『社長公募鉄』 そして第二部。私が一人目。けっこう緊張する。一人目だし。 自分がステージに上がっている写真は、米屋さんが撮ってくださった(ありがとうございます)。足閉じろよ>自分。 十数ページのPDFと十数枚の画像を用意していったのだが、思った以上にコメンテーターたち(第一部の方たち)との会話になったので、実際はステージ上でカシミール3Dを操作することに終始した。お見せしたのは、タクさんが話した越美南線・越美北線を結ぶショートカット(油坂峠)ルートの鳥瞰図。これでカシミール3Dに興味を持たれた方は多いと思うので、ぜひこういう楽しみ方を試してみて欲しいなと思う。 ほとんど未発表となった画像はこちら。 (Frickrにアップしてあるので、ジャンプ先からご覧ください) 第二部は、こう。 ・レオンさんの模型動画鉄 ・しろうまりもえきちょうさんの中の人鉄 ・伊藤壮さんの彫り鉄 ・松ヒトシさんのオブジェ鉄 ・やまもとさんの旅人鉄+写真 ・佐藤弘樹さんのスポーツ撮り鉄 松さんの「オブジェ」がすごかった。 8630。こういうものは、バルブギアの仕組みや位置関係等を立体的に把握していないと、作ることはできない。なおかつ、大胆なデフォルメもお見事。 クリスタルのC11は、砂撒缶がボイラケーシングとサイドタンクの間を通る様子などまでわかる。いろいろと製作のお話もお伺いしたのだが、ほんとにすごい。 壮さんの彫り鉄。 (ほかの皆さん、写真撮ってないのですみません)。 出演者で集合写真。 . このイベント、会場のお客さんも、UST見ている人たちも(かなり多かったようだ)、口を挟みたくてうずうずしているのがよくわかった。横山店長はまたやる!と言っているので、次回ももちろん申し込む。 好きなことについて話すのが、こんなに楽しいとは思わなかった。次は倍率上がるかな? 当日のTL(togetter)
昭和50年代の駅名標(越後線)その1
昭和50年代の駅名標(越後線)その2の続き。 ●石地駅 いまのいままでオリジナルの書き文字だと思っていたが、RやAを見ると、大河津系だ。所在地表記もないのも同じだ。 しかし、燐駅表示の矢印がなく、T字型の交点に「・」がある。なぜだろう? ●礼拝駅 「桐原系」。このRにしびれるね。 ●西山駅 これは新しい系統。燐駅表示のT字の交点が▼になっている。書体は、角丸ゴシックとでも言おうか。そして「わ」の縦棒が左に撥ねるという特徴的な書体。 そして、鳥居の組み方だ。古レールなのだが、縦の柱が、側面ではなく、レール頭頂部がこちらを向いている。これはいま気がついた。写真を撮って30年近く経つのに。こういうのに気づくことが、「数を見ることの大切さ」を再認識させられる。 西山と田中角栄。越後線と平行する国道116号は、新潟から来ると、それまで2車線だったものが、西山駅付近から4車線になる。かつてはまた2車線に戻ったような気がするが、いま改めて衛星写真を見ると、国道8号との合流地点まで4車線となっている。私の記憶違いか。その4車線部分を、この西山駅に停車中の電車内から見ることができる。 周辺は刈羽郡。昭和50年代後半、郡名を冠した刈羽郡刈羽村が「村」であるのに対し、刈羽郡西山町が「町」であることに引っかかった。郡名を冠しているのはあまり意味はないのだが、当時はそう思った。そして、駅の「格」は、その当時から、西山駅は交換可能な2面2線、刈羽は1面1線である。いやもちろん、交換設備というのは駅間距離によるもので、「駅の格」などというのは言葉の綾である。 『国鉄全線各駅停車 中央・上信越440駅』(昭和58年刊)によれば、電化・CTC化前の当時の越後西線の交換可能駅は、吉田側から(括弧書きは棒線駅) 吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-小島谷-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-石地-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎 である。現在は、新たに棒線化された駅を<>とすると、 吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-<小島谷>-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-<石地>-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎 となっている。 ●刈羽駅 西山系。なぜか「あらはま」の「あ」が消されている。 ●荒浜駅 これもかなり好きな駅名標。桐原系。RとAの特徴も健在。この「ら」は、ちょっと縦棒を左に振り過ぎたか、というような感じ。他の駅名標(撮ってない)では、ここまでひどく(?)ない。 背景のどんよりとした灰色の空、これが冬の裏日本。 ●西中通駅 桐原系。昭和50年代前半に、一度だけ下車したことがある。そのときは相対式ホームだったような記憶があるのだが、不詳。 ●東柏崎駅 新しい系統。 最寄り駅が柏崎駅である母方の実家の祖母は、なぜかこの東柏崎駅を愛用した。タクシーでわざわざここまで来て、越後線に乗って来るのだ。やはり新潟駅ではなく、手前の白山で降りてタクシーに乗って我が家に来た。なんでも、「大きな駅は落ち着かない」とのことだった。かつて、「比角駅」と言った。だから、祖母はこの駅を「比角の駅」と言っていた。もう亡くなって23年経つ。 ●柏崎駅 確か、手書きではなく、プラスチックを貼り付けたものだと思う。柏崎駅の鳥居型はこのひとつだけだった。そして、鳥居型ではなく、このように逆U字型のパイプに吊す「門型」も新潟界隈では珍しい存在だった。 了。
昭和50年代の駅名標(越後線)その1のつづき。
●南吉田駅 燐駅表示にご注意。「あおうづ AOUZU」である。 ●粟生津駅 「あおうづ」が 「AÔZU」 と、「おう」が長音になる! これを初めて見たとき驚いた。駅名標が好きだったので、ローマ字は読めたのだが、こう来るとは。 「う」の形が違うので、南吉田とは異なる筆跡である。 ●地蔵堂駅(現:分水駅) これまた長音記号の連発に萌える。JIZÔDÔ! そして AÔZU! ÔKÔZU! 古レールでできた駅名標に5つも長音記号がある。 「鳥居型」ではないが、こんなのもあった。どうですか、おの極太丸ゴシックといおうか、看板文字。フォントにして配布したいくらい。 ●分水駅(改称) 昭和58年4月1日、地蔵堂は分水に改称された。このとき、前日と当日の2回、新潟駅から往復した。当日は朝4時50分発という始発に乗って入場券を買いに行ったが、すでに100番を超えていた。 この時代はまだ手書きであるのがよくわかる。前日には駅名標は書き換えられており、上に「じぞうどう」と書いた張り紙がしてあった。 駅舎。「分水駅」の文字、「駅」の「馬」の中の点々を一直線に書くのもお約束である。 ●大河津駅(現:寺泊駅) 少し投げやりな感じの書体。擦れているので、薄幸な感じもする。いや、擦れていると共に、イタズラでなぞって削ってあるのだが。燐駅表示の「き」が好きだ。 鳥居自害は古レール型。 ●桐原駅 この「桐原」で駅名標に目覚めた。この平仮名とローマ字のぶっとい書体、そしてサビ具合。 この鳥居いは照明がない。 ●小島谷駅 美しい駅名、「おじまや」。「き」「R」「A」の書き方からして、大河津と同系統。「大河津系」とする。 漢字表記の「谷」だけ、ちょっと書き直したようにも見える。 偶然か、鳥居の形状も同系統。風格のサビ。 ●妙法寺駅 エキゾチックな名前だと思う。妙法寺。同レベルのものは「妙寺」しか知らない。 「桐原」と同系統。もっとも好きな系統。 あるときからプレハブ駅舎になった。そして、こんな駅名標が掲げられた。こんなものでも、手書きである。 ●出雲崎駅 桐原系かと思いきや、所在地表記の「潟」が略されている。真相は不明。 ●小木ノ城駅 分かち書きとでもいおうか、ローマ字が一音一音に対応している。 昭和50年代の駅名標(越後線)その3に続く。 |
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