新潮社から、なんの脈絡もなく『余部鉄橋物語』が出た。1500円+税。著者は、土木技術者のドキュメントを多数執筆している田村喜子氏だ。私は、藤井松太郎を描いた『剛毅木訥』、田辺朔郎を描いた『北海道浪漫鉄道』など、いくつか拝見している。
有楽町の三省堂書店で、鉄道書コーナーなどを探したがなく、なんと普通の文芸書コーナーにあった。違うだろ。と思ったが、まあいい。前半が「第1部」として初代橋梁のことを、後半が「第2部」として現橋梁のことを書いている。 いろいろと思うところはあった。それは後述するが、この本は「買い」だ。田村氏自身が聞き取った、貴重な証言が多数掲載されている。この本には、この本にしか書いてないことが山ほど盛り込まれている。それがなにか、詳細はぜひお手にとって読んでいただきたいが、次のようなことが事細かに書かれている。 ●初代余部橋梁をPCスパンドレルブレースドアーチ橋で提案した、岡村信三郎に、直接話を聞いた下田英郎にインタビューしている ●初代余部橋梁は、7種の橋が検討された。 ・200フィートトラス。側径間は80フィート鈑桁+築堤 ・4連の200フィートトラス。側径間は80フィートトラス ・450フィートブレースドアーチ。側径間は170フィートアーチ。 ・475フィートカンチレバートラス。張り出し桁は200フィート。側径間は40フィート。 ・2連の25フィートのアーチ。側径間は築堤。 ・40フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚。 ・60フィート+30フィートの鈑桁+トレッスル橋脚(初代余部橋梁) (・これに上記岡村案が加わる) ●2名の初代橋守(塗装担当)のうちの一人、望月保吉の義理の甥(望月の妻が、山西の叔母)にあたる山西岸夫が狂言回し的な役割をになっている。 ●架け替えにあたり、相当な研究がなされたこと。それをあとから卓袱台返ししようとする輩がいたこと。 ●ラーメン橋ではなく、エクストラドーズド橋になった経緯。 私は鉄道雑誌や交通ニュース関連から、そうしたところに掲載された余部橋梁に関することは、たいてい耳に入ってくる。しかし、本書に書いてあるような裏話やエピソードは知らなかった。 「思うところ」 残念なことに、本書は帯にあるキャッチの通り「ノンフィクションノベル」、すなわち小説、作り話(あれ? ノンフィクション?)である。本書の冒頭は、1986年の「みやび」転落事故の場面から始まるが、ここが小説仕立てなのが実に残念だ。亡くなった被害者たちが会話しているのだが、だれがそれを聞いたのだ? こんな小説仕立て部分はフィクションに決まっているのだから、これが入ることで、全体の信憑性が落ちてしまうではないか。 ドキュメント小説というのは、えてして会話が説明調になる。萩原良彦『上越新幹線』(これも新潮社だ)ほどひどくはないにしても(萩原氏の著作は、エッセイ的なものは素晴らしいのだが!)、説明調の会話は、こんな感じだ。 こんなに冗長になってしまう。地の文章で、普通に書けばいいのに。以前に少しだけ触れた、『近代日本の橋梁デザイン思想』ならば、この下線部のようなことにすら出典がつく。逆に、出典がないものは、まったく記述されない。 会話でなくても、余部橋梁を崇拝するような記述がそこかしこに見られ、それこそ「要出典」タグを貼り付けてしまいたくなる。 新橋梁の検討にあたり 橋梁架け替えは、風対策である。初代の鋼橋が老朽化したわけではない。風による遅延を減らすには防風板を設置しなければならないが、そうすると、橋梁の強度が持たない可能性があるためである。その検討の経緯をまとめる。 ・1991 余部鉄橋対策協議会(谷洋一代議士の提案) ・1994 余部鉄橋技術研究会(京大防災研究所 亀田弘行教授が座長)…定時制確保の検討 ・1998 余部鉄橋調査検討会(兵庫県ほか)…技術検討の深化 ・2001 架け替え決定 ・2002 第1回新橋梁検討会 ・2003 第3回新橋梁検討会でPCラーメン橋に決まる ・2004 新橋梁デザインコンペ ・2006 架け替え事業の基本協定書締結(県市町村・JR西日本) ・2010 切り替え完了 この中で、地元もJRも、初代橋梁が、非常に優れた景観として定着していることを理解したうえで、それでもなお交通の途絶を解決するためには架け替えもやむを得ず、という方向で検討をしているときに、感情で物事をひっくり返そうとした人がいる。新橋検討会のメンバーでもあった佐々木葉だ。2004年にもなってから、こんなことを言い出した。 あまりに主観。なぜコンクリート桁橋では魅力がないのだ? その理由が書かれていない。もし煉瓦+ガス灯だったら一も二もなく賛成してしまう人なのではないか。コンクリートは嫌われ者の代名詞的に使われる。明治期の橋梁設計者は「ヨーロッパは石のアーチ橋がたくさんあるから、日本の街の橋はアーチ橋たるべき」みたいに考えた人が多かったのだが、それを彷彿させる。 ものごとには妥協点がある。遅延・運休ゼロにはできないことは自明なのだから、最小限に抑えられるこの案で妥協しなければ、どこで妥協するつもりなのだろう。そして、そうしたことを費用で換算することのばからしさ。「費用対効果」という単語には必ず客観的な判断基準を添えなければならない。「費用」を測るのは数字の多寡だが、「効果」を測るのは結局主観だからな。仕事でも費用対効果費用対効果というバカがいるが、無視している。そういう奴は必ずセンスがない。センスは、もっとも「費用対効果」として測れないものだ。 それまで13年間にわたって検討されてきたことを、まったく聞いていないという愚かさよ。 土木史の教授が、この程度の意見を述べるとは。『鉄道ジャーナル』の投書欄「タブレット」か、『鉄道ファン』の「リーダーズキャブ」か。 土木学会も、同じような申し入れをしているが、「申し入れを踏まえた上で、新橋案を進めようということなら仕方ない」というスタンスである。公共交通機関としての役割を放棄したものに価値を見出そうとしても、その所在地の人々にそっぽを向かれては、文化財の価値も相当に下がろうというものだ。私は、もしこの初代橋梁を文化財と見るなら、地域の意識とセットでなければならないと思う。 (2010年9月25日追記) 『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)追記ほか雑感もご覧ください。 本書の主題 本書で重要なのは、単なる橋の架け替えに、これほどまでに地元が真剣に考えた例があるか、ということだ。地元、とは余部集落、香住町のちの香美町だけでなく、兵庫県や鳥取県も巻き込んで、である。もし、荒川にかかる橋梁が架け替えられるとして、地元の人がなにか言い出すだろうか。保存しろとか。皆無だろう。 ところが、ここでは、橋梁デザインにまで地元が口出しをしている。そして、それを許容する優しさが、事業者側にある。「新橋が開通する前に、歩かせてくれ」という要望にも応える。ここに掲載している写真を撮影したのは5月だが、工事詰め所には、現場の方が書いた壁新聞的なものが貼ってあった。私はこんな人物です、よろしくお願いします、のようなことが書いてあった。こういうものを掲示してまで、地元と交流を深めようという姿勢は希有なものなのではないか、と思っている。 (写真はすべて2010年5月17日撮影) PR |
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