19歳まで新潟に住んでいた。そして母方の実家が柏崎だったため、日頃は急行「しらゆき」または「赤倉」をよく利用していた。「とがくし」は、利用時間が都合が悪かったのか、1回しか乗った記憶がなく、気動車急行が非冷房で窓全開だったのに対し、冷房が寒すぎた記憶がある。もちろん、自由席にしか乗ったことがない。
昭和55年、なぜかは知らないが、越後線で行った。急行なら柏崎まで1時間半のところ、越後線の各停は3時間かかる。吉田を過ぎると子供心にエキゾチックな駅名が続き、興味をそそられた。その時の写真が、上のキハ55である。これは母がカメラを持っていて(
ミノルチナSという)、母が撮った。
それから少し経って、ミノルチナが壊れた。シャッターが下りなくなった気がする。もともと写真など撮る家ではなかったので、私がへたくそな小学生らしい写真を撮るために、お年玉でミノルタハイマチックSというカメラを買った。それで駅名標を撮った。間違いなく、種村直樹『鈍行列車の旅』巻末の、森嶋孝司さんの824列車全駅名標撮影、が大きく影響している。そのため「鳥居型」に絞って撮った。
総じて、越後線の鳥居型駅名標には木製ので鳥居型に組んだものはなく、すべて鉄製であったと思う。L字型のアングルか、古レールを組み合わせていた。興味深いのは書体である。すべて手書きであるため、個人のクセが出ている。文字にも、矢印にも、罫線にもクセが出る。そのおかげで、同じ人が書いたと推測できる複数の駅名標がある。そうした観点で見て行く。
なお、定型は、
ひらがな
漢字
ローマ字
(所在地)
←---→
燐駅|燐駅
である。
ここにアップするのは、。そのとき、あるいは後日撮った写真である。雪景色のものは、ほとんどが昭和56年冬の撮影である。モノクロは昭和57~58年頃と思う。
●新潟駅
「鳥居型」がないので割愛。
●白山駅

とにかく平仮名の太さが目立つ。「は」「さ
」に、後日書く越後西線の駅名標と同じテイストを感じるが、他の平仮名を見ると別。所在地表記もない、オリジナル型。
後ろのキハ45 32は、寒冷地仕様の500番台とともに新潟の顔だった。
白山駅は島式ホームで、駅舎には地下道が通じていた。その、地下道の階段がとても味わい深かったのだが、いま現在はホームともども改築中で、跨線橋が架設されている。白山駅は、高校時代、「汽車通」してた友人をときどき見送りに行った。私は自転車通学だった。
●関屋駅

この時代の駅名標は、ローマ字に特徴がある。PCで言うところの「全角英数字」になっているのだ。こんなに丸っこいアルファベットはアルファベット文化圏の人は読み取りづらいのではないか。アルファベットには、アルファベットを表記するのに適した書体があるのだ。気にしてない書物が世の中には多すぎるけれど。
窓の外を見れば、まだ貨物輸送をしていた時代。
新潟から内野あたりは当時でも乗客が多く、車内から駅名標を撮るとどうしても人が入ってしまい、思うように撮れなかった。子どもとはいえ、(被写体でもない)人にカメラを向けることには抵抗があった。
●青山駅
当時は存在しない。
●小針駅

駅名標は、古レールである。ローマ字を「TE RA O」と書くようなスタイル。これは新潟口で見られた。
●寺尾駅

これも「アルファベット全角系」だ。露出オーバーのため、よく見えない。
●内野駅

「てらお TE RA O」の書き方からして、小針駅と同系統だろう。
●内野西が丘駅
当時は存在しない。
●越後赤塚駅

ここだけ書体が違う。丸ゴシック系ではなく、角ゴシック系で力強い。「か」を見ると、国鉄フォントに似ているが、他の文字はそうではない。
ローマ字表記、「越後」と「赤塚」の間にハイフンが入る。
ここまで(旧)新潟市。
●越後曽根駅

白山駅と同系統かもしれない。所在地表記もないし。また、ここも「越後」「曽根」の間にハイフンが入る。
その向こうの「銀バス」が気になる人もいるかもしれない。
●巻駅

なぜかローマ字だけが角ゴシックになっている。それ以外は、後述する荒浜駅などと同じ系統に見える。
こちらも古レール。古レールを門型に組み、その上に鉄板をかぶせてある。
●岩室駅

こんな写真ばかりで本当に申し訳ない。所在地表記あり。
●北吉田駅
当時は存在しない。
●吉田駅

岩室駅と同系だろう。「み」「よ」がかわいいし、「わ」も筆順ではなくレタリング的に処理されていて、かわいい。
燐駅表示、「いわむろ 」とスペースがあるのが気になる。
昭和50年代の駅名標(越後線)その2に続く。
昭和50年代の駅名標(越後線)その3もあるよ。
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