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三次の街中に残るCALTEX

三次の街中に残るCALTEX

ENEOS/日本石油

あるブログに「三次市内にCALTEXがある」と書いてあった。場所はわからない。それほど大きな市街ではない、行ってみればわかるだろう。地図から検索するとENEOSが3店ある。それに隣接するか、その近くだろう。

わりと簡単に見つかった。この防火壁下部の緑色からしても現地はかつて給油所だったようだが、いまは犬走りのない土台の上に住宅が建ち、防火壁前は駐車場になっていた。そこにはENEOSのローリーが停まっていたので、住宅敷地内の壁にしては異様なこれも「残してある」のだろう。

近くにあるENEOSはセールスルームの屋根に三本線の入ったものだった。ということは、ずいぶん前に、この敷地から移転していたのか。それとも、ここは「離れ」のような位置づけだったのか。すてきな建物だったが、あいにく給油するほどガスは減っておらず、また給油所前の道も国道ながら非常に狭いのでこっそり撮ることもできず、写真はない。ストリートビューがあるので探して欲しい。
* * *

その国道を北にいくとすぐに閉鎖された給油所があった。そして、この、コウモリマークの日石プロパンの行灯が建っていた。

注油口のコウモリ。

なんとも味のある看板。写真内、看板の右のオレンジのポスターには「日石三菱」とある。まだ閉鎖されて間もなさそうだが、当時のポスターをずっと貼っていたのだな。


三次は素敵な町だった。この夜は、北に行った温泉併設の道の駅で寝た。

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写研の「ゴナ」が席巻していた時代

写研の「ゴナ」が席巻していた時代

ゲシュタルト崩壊と言葉・文字

雑誌『東京人』2013年8月号に『写植の時代が教えてくれること』(正木香子)という記事がある。現在、出版物、放送におけるスーパーインポーズ(というのだろうか)含めてほぼすべて「フォント」、つまるコンピュータによる文字の出力となり、「写植」は壊滅したと言っていい。

写植の基本は、文字が打たれた印画紙である。その現物は手元にないのでお見せできないが、光沢がある写真プリントの紙に文字だけが刷られているとお考えいただきたい。

10年前にはまだまだ全盛期だった。「台紙」というものを写植機で作っていた。今で言えば、Illustratorの「アウトラインモード」と思ってもらって大差ない。

(イラレのアウトラインモード)

その台紙を作るために、デザイナーは「ここにこう線を引いて、ここにこの写植をこの大きさで入れる」と指定したレイアウト用紙を作っていた。電算写植機のオペレータはレイアウト用紙の上に「厚トレ」こと厚手のトレーシングペーパーを乗せ、罫線、文字をそれぞれ切り貼りして台紙を作っていた(ほかにも方法はある)。文字の訂正は、印画紙の一部を切り貼りする。文章は、張り直したときに歪みを出さないために、行ごと、段落ごと貼り替えることがある。それが、写植による誌面作りだった。

* * *

さて、書体の話である。

写植のデフォルトだった写研の書体は、いまのPCのフォントになっていない。そのために、生じたことがいくつかある。特に1990年代半ばから2000年代前半に多発した。

・Macのデフォルトで搭載されていたフォントのみでDTPしていた場合、ひどい誌面が多かった。デザインの基本…文字の大きさ、1行あたりの文字数、行間スペース、字間スペースを知らない人がレイアウトしたために起きた現象。また、フォントも数種類しかなかったため、非常に単調な誌面になった。
・太文字の王として君臨していた「ゴナ」(写研)ファミリーに飽き飽きされていたこともあり、極太のゴシックが多用されるようになった。極太の明朝は使い慣れない人が多かった。
・ゴナに変わり、「なんでも新ゴ」になった。個人的にはゴナのほうがずっと洗練された書体だと思っている。

2000年代に入り、加速度的にMac+QuarkXPRESSによるDTP化が進行し、写研書体を見ることはほとんどなくなった。写植時代、文字の装飾は、斜体、単色のシャドウ程度だった(シャドウを表現した書体があったほどだ)が、DTPではフチドリが多用される。さらにDTP化によって画像としての表現力が飛躍的に高まり、グラデーションを持った装飾が当たり前になった。それに見慣れてしまうと…「写研書体=古いデザイン」という観念が誕生する。

ご覧いただきたい。

家にあった、1993年初版の本。この「ゴナ+斜体」というだけで、なんと古くさく見えることか!

これは1989年刊。

タイトル文字にゴナ、というだけで、非常に強いノスタルジーを感じてしまう。バブルが終わってもまだまだ元気だった1990年代前半の空気を感じ、その時代の思い出にふけってしまう。この、ゴナに反応する気持ちは、きっと一生続くのだろう。

本当はもっと別のことを書こうと思ったのだが、長くなったのでここで。



関連項目
『「時刻表」はこうしてつくられる』(時刻表編集部OB編著/交通新聞社新書)










共同石油の痕跡

共同石油の痕跡

JOMO/共同石油

複雑に入り組んだ谷筋の一角が、少しだけ開けた集落になっている。そこに、白くなってしまった給油所があった。閉店してまだ間もないのか、敷地内はとてもきれい。自動洗車機も使えそうだった。

壁を見ると、JOMOの、なんともいえない□○○□が見えていた。ENEOSにならずに閉店したのか。JOMO、ということは。

共同石油のマークを見つけた。


澄川発電所千原堰堤吊橋

澄川発電所千原堰堤吊橋

吊り橋

匹見川の澄川発電所千早堰堤そばに架かる業務用吊り橋。

主塔は円柱状の鋼製であり、両脚の上部と中部で横材が溶接されている。主塔の足下は支承になっていて、軸方向に可倒式である。

アンカー。

床版は木製。補剛桁はワーレントラス、そして手すりには河川占用工作物の掲示がある。

河川占用工作
設備名 澄川(発)千原えんてい吊橋
占用目的 橋梁(吊橋)のため
専用期間 平成●年4月1日から
     平成21年3月31日まで
占用規模 79.58m^2
許可者 島根県益田土木建築事務所長
申請者 益田市幸町1-5
    中国電力(株)益田電力所長


たもとには発電所の水利利用標識がある。


こういう、小規模な吊橋は、華奢で、でもシュッとしていておもしろい。









孤島の鉄路と破断したレール

孤島の鉄路と破断したレール

古レール・駅ホーム上屋・柱


ある無人島。ふと、レールがあった。どうやら鉄骨の代わりにコンクリートに埋め込まれているらしい。その島にはトロッコがあったはずだが、私はそれを目的に行ったわけではない。

同行者が「ここにもある」と言った。全然気づかなかったが、そこにもレールがあった。

こんなレールも見た。レールが頭部と底部で破断しているなんて、初めて見た。

鉱業所の脇にはきちんとレールが残っていた。分岐側はずいぶんな角度だと思う。道床などないと思うが、よくもまあこんなにコンクリートに埋められたものだ。

レールをはがした跡が残っていた。締結具の場所には部品のカケラがある。

周囲2kmもない、ある「外海」にある島で見た光景だ。



『「時刻表」はこうしてつくられる』(時刻表編集部OB編著/交通新聞社新書)

『「時刻表」はこうしてつくられる』(時刻表編集部OB編著/交通新聞社新書)

鉄道の本


興味深い点と、よろしくない点と、非常に評価の難しい本。

本作り、つまり「原稿を書く/入稿/校正/校了/印刷」という行程を知らないと、「つくりかた」の説明をするのは難しい。たいてい、こうした裏方作業の話は印刷工程における苦労話や極端なエピソードなので、うっかりすると「時刻表ならではの作り方」ではなく、「通常の本作りのプロセス」になってしまいがちだ。そのあたりのバランスにはかなり苦労しただろう…と思いきや、どうも全然苦労してない雰囲気も漂う。つまり、「通常の本作りのプロセス」に終始している。

「時刻表ならでは」の部分が、少なすぎると感じる。「時刻表ならでは」の部分は、全体の数分の1程度しかないのではないか。執筆は分担制なのか、専門用語が解説なしで出てきてあとから注釈が入ったり、注釈なしの専門用語が散見されるのも残念だ。

例えばP70、APRという樹脂版(いわゆる樹脂凸版)での作業について「清刷を所定の場所に配置してカメラ撮りをしてネガを作る」と書いてある。「カメラ撮り」とは、確かに印刷所の人は、そう言う。でも、普通は「カメラで撮る」という行為は「撮影」と言う。そして、これはまだ「スキャン」が一般的ではなかった時代の技術だ(現在でも大判の図版は「カメラ撮り」をする。『空から見える東京の道と街づくり』の地図の一部はカメラ撮りをした)。ここは注釈が絶対に必要だ。

樹脂版にしても、私は週刊漫画雑誌で実物を扱っていたのでよくわかるのだが、若い編集者にすら伝わらないだろうこの部分、読者にはもっと伝わらないに違いない。この部分を解決するためには、その樹脂版の写真があればいいのだが、本書の最大の欠点は「写真や図版がない」ということである。

参考:樹脂凸版(東レのトレリーフ)ー要するに、このぺらぺらが「ハンコ」の役割を果たす



同じく「活字」と「DTP」の違いについても、もっとわかりやすく書かねばなるまい。

参考:鉛活字を並べるということ(印刷博物館)

活字の時代、駅名や罫線が撚れた。それを説明するためには、実際に昭和40年代の、活字を使っていた時代の紙面と、現在のDTPによる紙面とを見比べさせないといけない。例えばこういう風に。

1980年4月のコンパス時刻表。紙面の文字に凹凸があり、見るからに活版印刷だ。みどりの窓口マーク、駅弁マーク、「急行」マーク等は、特殊な活字である。本書には写植に切り替えたのは1987年とあるので、それまでは鉛活字とその罫線を組んでいたはずである。上写真で薄く赤になった部分をご覧いただきたい。この時点では活字を一度樹脂版に置き換える方法だったとは思うが、活字の罫線は途切れるところがある。また、矢印は、矢羽根/シャフト(?)/鏃がそれぞれ別パーツなので、それぞれの間に隙間がある。

そして、右上カドの縦罫のように、ときに曲がる。これは樹脂版が歪んだのか。

縦長ピンクの線の場所、横書き文字なのにおかしな隙間がある。これも罫線、というか空白スペースのなせるワザ。上段、枕崎発山川港行きだが、時刻の「1136 1207 1313 1400」とそれぞの間にわずかなスペースがある。これが、上下の、横書き日本語にも干渉してくる。これは、活字を並べるとき、時刻を基準に、そこにスペーサーを挟み込んでいる、と思ってもらって差し支えない。


いや、これらはまだ古い時刻表を持っている人には直感的にわかるかもしれない。本書でもっともダメな点は、時刻表製作に欠かせないという「フンドシ」の写真がないことだ。まったくイメージがわかない。

本書は「ヨンサントオ」の通り一遍の説明などを掲載するのではなく、裏方作業を知ってもらう本に徹して、こうした部分にもきちんと解説が欲しかった。非常に残念だ。



遊郭の「調髪館」

遊郭の「調髪館」

建築?

長崎市の南の町外れに小菅修船場跡がある。そのすぐ南に、かつて遊郭街だったという一角を、オープロジェクトの黒沢さんに案内していただいた。

遊郭には床屋がつきもの。その中でもこの一件だけ、古い建物のまま残っている。すでに営業はしていないものの、以前は「くるくる」だけは動いていたそう。正面には「九一調髪館」。理容室ではない、「調髪館」である。腰板はタイル張り、窓は縦長の木桟に青灰の塗り。2階は以前はもう少しくすんでいたようだが…。

向かいの家から、おばあさんがずっとこの建物を見ていた。声をかけて、この建物についていろいろとうかがった。「どうぞどうぞ、撮っていってください。撮っていく人、多いんですよ。以前はここも、その向こうも、うちの地所でした…」。戦時中、そしてその後のお話もうかがった。お話の内容からして、少なくとも80代後半、おそらく90を超えた方だ。「壁も、前にきれいに塗り替えたんですよ」。

その並びに遊郭跡の家、駐車場を挟んでもう1件、遊郭跡の家がある。まるで、非常に横長だった建物から駐車場部分だけをすっぱりカットしたかに見えるが、元々別の建物だったそう。こういうことは、見た目からの推測だけではわからない。

「戦争までは、その造船所のところまでしか道がなくて。三菱のバスが国道のトンネルのところまで来ていて、そこが終点だった」。トンネルとは、国道499号の戸町トンネルである。このトンネル、戦時中には半分仕切って軍需工場となっていた旨が「アトリエ隼」さんのブログにあった。

戦時中、軍需工場として使われた戸町トンネルと日見トンネル

戦時のこととて、さまざまな理不尽も経験されたようだ。おそらく、私などとは住む世界が違う「お嬢様」だったおばあさん。もっといろいろ話を聞きたかったが、立ち話が長くなるのも申し訳なく、お暇した。







小広瀬橋(匹見川) 中路ワーレントラス橋

小広瀬橋(匹見川) 中路ワーレントラス橋

ワーレントラス

クルマで走っていて目にとまった橋だ。一瞬、ボーストリングトラスかと思い、次に人道橋かと思ったが、車道だった。いまは益田市になった、旧匹見町小広瀬にある橋。親柱も見える。

国道488号側。床版が反っている。親柱、左は「匹見川」、右は「小広瀬橋」。この橋を渡った向こう(南)には、小広瀬という集落があるようだ。広域地名は広瀬である。

重量制限の標識はなかったと思うが、1.5車線もない。制限は2tくらいだろうか。

トラスは上の写真でわかるとおり、H形鋼を曲げている。格点は溶接、一部がボルト留め。鉄工所でだいたいをくみ上げ、現地で接合する部分がボルト留めなのだろう。

対岸。左の親柱は「昭和四十八年三月竣工」、右は「こひろせはし」。こちら側のほうがいささか苔むしているのは、国道側の親柱の位置が乾いた場所であるのに対し、こちらは湿っている(気がする)場所だからか。

見ての通り、中路桁だ。横桁が格点よりも幾分上にある。

桁裏を見るとよくわかる。見慣れたトラス橋と違って、床版がずいぶんと上にある。橋脚が細い(ように見える)のもよくわかる。

あまり類似の形状を見ない気がする。小規模の橋はおもしろい。






長崎のこと

長崎のこと

独言・日記

長崎に取材に行ってきた。

長崎県に足を踏み入れたことは2回あるが、今回、初めて長崎市街を見た。そして、すごくいい街だと思った。ゆっくり歩きたいと思った。

一度目はバイクのツーリングで確か1996年のGW、二度目は2003年にオフロードバイクのレース『長崎サファリ240』の取材でだ。後者は長崎空港から鹿町のあたりを往復しただけだが、前者はざっくり長崎を走った。ただし、印象はよくなかった。

ツーリングの記録として走った道をマーカーで塗っていたので、2001年のツーリングマップルにもそれが転載されている。まだ「平成の大合併」前で、長崎市の南には高島町、伊王島町、香焼町、野母崎町がある。もはや記憶もないが「そのとき、野母崎の先っぽまで行ったのかなあ」などと思って地図を見たら、ちゃんと行っていた。ただし、軍艦島の存在など知らなかったかもしれない、まったく見た覚えがない。

で、なぜ印象が悪いかというと、バイクツーリングに適したキャンプ場が見つけられなかったからだ。しょうがないので長崎駅前で「駅ネ」しようと思ったら、とても居心地がわるかった(でも寝た)。そして駅前で、行きかう人や警官にちゃんぽんのおいしい店を聞いても誰も教えてくれなかった。もちろん道路も混んでいた。そんなことが重なっての印象だ。

それから17年くらい経った。いまの目で見ると、長崎はすごい。街に活気がある。地形の関係で新興住宅地が「郊外」に延びないからだろうか、市街の中心部に人が多い。ここは東京かと思うくらい。新潟の中心部など恐ろしいことになってしまった。土地が狭いというのは、こういう場合にはいい方向に働くのか。いや、いろいろ地元としては問題も多いのだろうけれど。

そして上の写真のような道。歩いてみたい道がたくさんある。実際には路面電車のせいで「あるべき場所」に横断歩道がなくて「コの字形」に歩かねばならなかったりして非常に歩きづらいところもあるが、そんなことを気にしなくていいくらいの時間配分で歩けばいいのだ。この街は、くまなく歩いてみたいと思った。


先の地図を見ると、福岡の北側から唐津、伊万里、田平と出て平戸を一周し、九州本土に戻って佐世保、西彼、長崎で1泊、そこから東へ、千々石、口之津へと走って天草に渡っていた。なにも覚えていない。たぶん写真もない。

そういうことを地図をみて思い出すと、いまは写真を撮ってアップするから、以前よりきちんと「見る」「覚える」のだろうな、と感じる。そこに足を記すことが第一の目的だった当事から、幾分かは人間らしくなってきたようだ。

須川橋(匹見川)ボーストリングか曲弦ワーレンか

須川橋(匹見川)ボーストリングか曲弦ワーレンか

ボーストリングトラス


津和野町日原から北西、県道312号を国道488号に向けて走っていたら、突然、ボーストリングトラスが現れた。驚いた。これは津和野側(西)から益田側(東)を見ている。




これは逆、益田側(東)から津和野(西)。

いや、ボーストリングトラスではなく曲弦ワーレンかもしれない。曲弦ワーレンとされる松室大橋(日本橋梁製/1920)と見比べると、そっくりだ。

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↑これは松室大橋。
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益田側は県道312号と、旧国道488号の合流点。左下、\方向の道路が旧国道。いまは新道ができている。




…と思ってカシミール3Dで地図を見たら…。
2万5000分の1。黄色矢印がこの須川橋の場所。すぐ近くの地名は「須川(すごう)谷」なのでこの橋も須川(すごう)橋かと思いきや、「須川(すがわ)橋」だ(後述)。

地図が古い。行政地名はまだ「日原町」だ。こちらはまだ新道が記載されていない。赤い線はGPSログ、地図ほぼ中央、山の尾根で途切れているのが現在の新道のルートだ。調べると、この部分の数値地図は平成14年刊行のものが最新だ。(こちら

5万分の1に至っては、国道がない! 数値地図の仕様を見ると平成14年に要部修正となっているのだが、国道488号は1993年の指定なのだ。紙地図におけるその前の修正は平成3年(1991年)、それがそのまま数値地図化されているのだろうか。

閑話休題、須川橋。
益田側(西)。親柱はなく、向かって左に「匹見川」、右に「昭和45年3月竣工」。

右の端柱には銘板。
昭和31年(1956)
島根県改造
施行
高田機工株式会社

…「改造」? どこから持ってきたのだろうか。「改造」であるならば、1920年製の松室大橋と同じ桁をどこかから持ってきたという可能性も十分ある。

津和野側(西)から益田側(東)。

津和野側。向かって左は「すがわばし」、右は「須川橋」。「すごう」じゃないのか。



ボーストリングでも曲弦ワーレンでもどちらでもいい。知らなかった橋に突然出会えたことが嬉しい。



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