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年代別 鉄道路線延伸の過程(4)大正期(1913年~1927年)

年代別 鉄道路線延伸の過程(4)大正期(1913年~1927年)

鉄道の歴史・人物史

オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)
の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。

大正期は、技術の大発展期である。鋼鉄がようやく日本の技術となり、煉瓦がコンクリートに取って代わられつつあった。土木工事の一部には機械力が使われ始めた。


【1913(明治45)~1917(大正6)】
20120210_10.gif全国的に、少しずつ広がっている。

大径間の橋梁技術が日本のものになるのがこの時期である。この時期に建設された各路線で架けられた200フィート(約63m)トラス橋は、この時点ではアメリカン・ブリッジ製のものがほとんどだ。しかし、1910年代を最後に、国産の桁となっていく。ただし、アメリカン・ブリッジのようなピン結合のプラットトラスではなく、剛結のプラットトラスである。この時期、徐々にピン結合からガセット結合に移行しつつあった。どちらもプラットトラスである。しかし、プラットトラスとピントラスは相性がいいものの、ガセット結合だとそうでもない。むしろ、さらに部材が少ないワーレントラスへの移行が始まる。

少し時代が下った時の話になるが、アメリカ製ピン結合トラスを見てきた樺島正義が、このガセット結合時代になってもプラットトラスを作り続けたのは興味深い。たしか、すでにその弟子・太田圓三、そして来るべき次代を担う田中豊はその樺島の考えとは一線を画していた。

●北海道

根室本線が釧路に達し、かつ滝川から富良野に向けてのルートも一部が開通している。石北本線は、北見から留辺蘂経由で常紋を越えて遠軽、そしてその先湧別に出るルートが開通。

●東北

東北本線・奥羽本線を縦軸とすると、横軸たるルートがいくつか開通している。陸羽東線が羽前向町(現・最上)まで開通している。これは1922年版を見るときに話がつながるのでご記憶いただきたい。

南端の磐越西線・磐越東線も開通。これで、関東~新潟のルートが信越線にプラスしてもう1系統できた。新潟とを結ぶルートが、他の北陸の都市より優先されているように見えるのはその通りで、地理的に日本海に抜けるには新潟が一番ということと、港湾整備と同時に物流ルートも確保するということである。道路も、東京と新潟を結ぶ「清水国道」は、明治初期(1878年=明治11年)の伊藤博文による七大プロジェクトに端を発するものである。

●中国

芸備線(当時は芸備鉄道)が東進している。当時の三次の位置づけがわかろう。山陰側はいまだに完全ではない。

●九州

大分・宮崎エリアへ、北と南から延び進んでいる。


【1918(大正7)~1922(大正11)】
20120210_11.gif
全国各地で、ニョキニョキと枝が伸びるように延伸している。幹線筋は、北海道では稚内、根室に達し、九州では日豊本線があと少しというところまで来ている。

●北海道

前述のように稚内と根室に達したが、稚内へのルートは、のちの天北線である。また、名寄本線が湧別から北上する形で全通している。

●東北

北上線、田沢湖線が、奥羽山脈を挟んだところまで工事が進んでいる。

●中国

山口線、美祢線が南から延びている。山口には、防府からの防石鉄道が1920年に開通し、山口の南側、堀に達している。

●四国

遅々として…

【1918(大正7)~1922(大正11)】
20120210_12.gif
羽越線の開通で、その後長らく「裏縦貫」「日本海縦貫線」と通称される、青森から日本海回りで関西とをつなぐルートが完成する。また、日豊本線、鹿児島本線も全通現在の路線図と見比べると、山岳地帯のルートがまだまだ少ない。

●北海道

宗谷本線と地と戦線が開通。士幌線も北上している。

●東北・関東

上越線の建設が本格化する。この時期にはすでに清水トンネルに着工している。それまでの最長トンネルだった中央本線笹子トンネル(4670m、1903年開通)を、一気にダブルスコアで抜き去る延長(9702m)となるのだが、その間、約25年。

●中国

山口線の全通で、京都から山陰回りで山口県に至るルートが形成された。中国地方内陸部と沿岸部を結ぶルートも徐々に延びてきている。



(続く)
 
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『東京人』特集:東京鉄道遺産100

『東京人』特集:東京鉄道遺産100

鉄道の本

20120215_003.JPG初めに断っておくと、私は「鉄道遺産」という言葉は好きではない。定義されたものではないバズワードだからで、人によっては旧型客車や個別の蒸気機関車までその範疇に入ってしまう。「産業遺産」が、イメージやその是非はともかく定義をする団体があるのとは大きく異なるのがこの点だ。

こうした内容は、書籍の単行本では難しく、写真だけでも文章だけでもだめなので、「雑誌の特集」、それも鉄道誌ではなくて一般誌の特集が、いちばんふさわしいステージだと思っていた。『東京人』がそのステージとなったのは、大変嬉しいことだ。

渾身の大特集であり、100点近くの写真~~そのほとんどは丸田祥三さん撮り下ろしである~~がこれでもか、というくらいの勢いで展開され、その合間に、川本三郎さん・原武史さん・丸田祥三さん・内田宗治さんの座談会が挿入されている。私が考えるに、このテーマではもっとも適切なステージにおいて適切な展開になったと思う。うちうちに、当初はグラビア/座談会/解説とをそれぞれ分けることを想定していたと聞いたが、そうなっていれば、きっとさらに完成度は高くなったかもしれない。



冒頭に書いたように、「鉄道遺産」という定義はない。そのため、座談会を構成する4人が選び、さらに、4人がそれぞれベスト10を挙げるという体裁をとっている。これが、この特集のミソだ(ミソ、っていう言い方は古すぎる?)。そうすることで「なぜ○○がないの?」というような、ありがちなツッコミを回避し、なおかつ選者の個性と存在感を強めることに成功している。


座談会を読むと、4者の個性が出ていて大変に面白い。

●川本三郎さん「都内で駅の立ち食いそばが登場したのは、いつぐらいからですかね?」

こんなこと、考えたこともなかった。立ち食いそばというのは、私が子どもの頃から全国の主要駅にあったし、ずっと昔からあるものだと思っていた。ところが、川本さんは続けて「わりと新しいですよね。私の学生時代(筆者注:川本さんは1944年生まれ)にはなかった。」と言う。それを受けて原さんは「品川の常磐軒がわりと早くて、昭和三十九(一九六四)年だったと思います」と答える。そうだったのか!


●原武史さん「天皇研究者として、賢所乗御車はどうしても見たい」

宮中行事に関するご神体を運ぶ車両のことである。この賢所車の設計につ いてのエピソードを『鉄道ファン』かどこかで読んだ記憶があるが、そもそもご神体を奉安してある御座所は、天皇ですらその前では立って歩くことが許されな いようなものらしい。それほどの存在を常日頃から意識すればこそ出る観点。ほかにも「聖蹟桜ヶ丘」に見る駅名の考察など、原さんの専門である皇室関係の話がポンポンと飛び出している。

原さんの著書は何冊か読んでいるが、「鉄道マニアのマニア嫌い」のような記述がそこかしこにあるのでちょっと好きではない部分があったのだが、こういう鉄道への絡み方なら大歓迎だ。


●丸田祥三さん

高尾駅構内の31番支柱に残る機銃掃射の弾痕、それと同時に襲撃された「湯の花トンネル列車銃撃事件」の牽引機関車・ED16 7を見つめる目。実際に7号機を幾度となく目にしていた丸田さんは、きっと子どもの頃から、7号機を見るたびにこの銃撃を思い出していたのだろう。また、地下鉄東西線の門前仲町駅工事の際に、埋まっていた防空壕から抱き合った母子の遺体が見つかり、最終的には6~7体の遺体が見つかったというエピソード。これなど「ネットで調べてもほとんど誰も言及していなくて、これは誰かが語らなければ歴史の闇に消えてしまうな、と感じています」。それがここで紹介されることで、多くの人の目に触れることになった。まことに意義深い特集であると言わねばなるまい。(筆者中:こちらのサイトに大人4人、子ども2人との記述あり)


●内田宗治さん

国分寺崖線、玉川上水、廃川跡、新永間市街線高架橋等、とっても内田さんらしいことが自然に展開されていて、そうか、内田さんのこうした観点を結びつけるものは「鉄道遺産」だったんだ、と思った次第。なお、内田さんは、私のかつての上司。大ヒットしたガイドブックシリーズをいくつもてがけている、尊敬すべき編集者だ(現・ライター)。



ガチでコアな鉄道ファンも、この特集は肩に力を入れずに読めるはず。そして、この4者が、スタイルは違えど鉄道を好きであることも十分によく伝わってくると思う。最後に、この「鉄道遺産」の位置づけが曖昧なのに、この特集を成功させた肝を、座談会・後編のタイトルから引用する。

記憶によって個人差がある鉄道遺産。

「記憶によって個人差がある鉄道遺産」を語り合うことで、東京の鉄道の歴史と多様性が浮き上がってくる。もそういうことを意図しての企画だったのかどうかはわからないが、私はそのように読んだ。なお、前編のタイトルは「散歩の途中で、東京の近代化や歴史を発見する喜び。」。これは『東京人』のコンセプトに添った建前的なものかもしれない。

素晴らしい特集を組んでくれた『東京人』と、座談会の皆様に心から拍手を。
 

年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)

年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)

鉄道の歴史・人物史

オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)
の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。


【1898(明治31)~1902(明治35)】
20120210_07.gif徐々に日本の幹線の骨格ができはじめている。山陽鉄道と常磐線(日本鉄道=青の線であるべきが、赤の線に誤記している)が全通し、北陸本線も富山に達している。信越本線も新潟に到達し、奥羽本線は南北から建設が進められている。

函館本線は旭川に、そこから宗谷本線と現・富良野線と根室本線(当時は十勝線という名称で建設開始)に伸び始めている。二十代前半のうちに琵琶湖疎水を設計した田辺朔郎が狩勝越えルートを探索していたのはこのころか。

県庁所在地以外では、津山線、和歌山線あたりに注目したい。ただし、和歌山には1898年に和歌山北口という駅まで南海が通じている。

【1903(明治36)~1907(明治40)】
20120210_08.gif1906年(明治39年)3月31日に鉄道国有法が公布された。国有化は、井上勝が熱心に主張していたが、対して渋沢栄一などは民営化を主張し、官設鉄道の払い下げすら目論んでいた。それが一気に国有化に傾いたのは、日露戦争前後の社会情勢のためである。

軍事輸送を私鉄に負担させることはできないわけではないが、その情報が漏れることが問題だった。いくら私鉄は国の保護を受けているとはいえ、株式会社である。株主はあらゆることを知る可能性がある。その恐れをなくすために、国有化が急がれた。進めたのは西園寺公望内閣である。このあたり、政治家・政党/財界と鉄道の関係の整理は、今後の私のテーマのひとつ。

1907年までに17鉄道を買収し、上記の路線図も青線部分が一気に赤線になった。被買収鉄道は以下のとおり。

・北海道鉄道…函館本線(函館~小樽)
・北海道炭礦鉄道…函館本線(手宮~空知太)、幌内線、夕張線、室蘭本線(室蘭以北)、歌志内線
・総武鉄道…総武本線
・房総鉄道…外房線
・甲武鉄道…中央本線
・日本鉄道…東北本線、常磐線、高崎線、上毛線、水戸線、日光線、八戸線の一部
・岩越鉄道…磐越西線の一部
・北越鉄道…信越本線(直江津以北)
・七尾鉄道…七尾線
・関西鉄道…関西本線、草津線
・参宮鉄道…参宮線
・京都鉄道…山陰本線(京都~園部)
・阪鶴鉄道…福知山線
・西成鉄道…大阪~天保山
・山陽鉄道…山陽本線、播但線、予讃線・土讃線(高松~琴平)、呉れ線の一部、美祢線の一部他
・徳島鉄道…徳島本線
・九州鉄道…九州全般


この動きとは別に、鉄道網の延伸は泊まらない。北海道も函館本線(北海道鉄道。開通後すぐに国有化)、根室本線が延伸。奥羽本線や中央東線が全通。山陰の鉄道も少しずつ延びている。


【1908(明治41)~1912(明治45)】
20120210_09.gifカンブリア爆発のごとく、鉄道網が充実していく。地北線経由で網走(当時は網走本線)、北陸本線と中央本線が全通、山陰も京都口とつながり、九州も鹿児島までつながった。

羽越、岐阜県、紀伊半島、山陰西部、四国、大分~宮崎県あたりは寂しい状況。


(続く)




年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)

年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)

鉄道の歴史・人物史

オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。


【1883(明治16)~1887(明治20)】
20120210_04.gifこの5年間のトピックは赤い文字で書いた通り。

東海道本線、中山道幹線、東北本線の建設が開始されている。

●東海道本線

中山道幹線の建設資材陸揚げのために武豊線が建設され、1886年(明治19年)に開通。そこから名古屋、長浜へと延伸されている。関ヶ原~長浜のルートは現在のルートより北を取っていた。同年のうちに、東海道本線の建設も決定された。


●中山道幹線(直江津側)

こちらも建設資材陸揚げのために、直江津から長野に向けて建設が始められている。後の信越本線である。


●中山道幹線(高崎側)

(この時点では)上野~高崎~前橋を、日本鉄道が建設している。これは、日本鉄道の成り立ちとも関係するが、政府がすべきことを民営の日本鉄道が代行した形である。この当時の前橋の重要度がわかる。群馬県の県庁所在地を前橋と高崎で争ったという話があったようななかったような。前橋は、やがて上越線のルートからはずれたことにより、鉄道的には軽んじられるようになる。

●東北本線

日本鉄道についてはwikipedia等で。驚くべきはその建設スピードで、1883年に上野~大宮(~熊谷)が開通してから、1887年には塩竃(のちの塩釜埠頭、廃止後は、東日本大震災での映像で知られるイオンタウン塩釜となった)まで延伸されている。


●釧路鉄道

釧網本線沿いにある硫黄岳から採れる硫黄を運搬するために敷設された鉄道。現在の五十石駅付近までが鉄道、それより下流(釧路側)へは釧路川の水運を利用した。硫黄採掘はこの時期の北海道で見られた奴隷的な使役である囚人労働であり、そこに監視の目が届くようになると採掘ができなくなり、鉄道もろとも中止された。現在の釧網本線を敷設する際、路盤等が転用されている。

なお、天然硫黄採掘は日本各地で行われていたが、戦後に(戦後、という括りもたいがいだが、私が用いる場合は昭和20~30年代くらいで使いたい)石油精製の際の脱硫から製造できるようになったため、廃れた。



【1888(明治21)~1892(明治25)】
20120210_05.gif
青森から広島県の三原まで、レールがつながった。そして、四国と九州にもレールが敷かれ始めた。

●日本鉄道と官設鉄道、算用鉄道

まだ上野~東京間はつながっていないが、日本鉄道と官設鉄道を連絡するために、赤羽~池袋~品川間ルートが日本鉄道により開通している。これにより、青森~三原間のレールがつながっている。


●北海道炭礦鉄道

夕張から追分、苫小牧を経て(現)東室蘭へのルートができている。つまり、まだ室蘭の石炭桟橋はない。


●九州鉄道

(現)門司港から熊本まで開通している。最初の開通時、北海道官設鉄道などと同様に大河が渡れず、筑後川の手前までを開通させている。


●関西鉄道

関せセツ鉄道との名古屋~大阪間の競争で知られるが、いきなりいまの関西本線を敷設したわけではないのが興味深い。まずは草津線と、柘植から亀山(現在は超ローカル線)である。


【1893年(明治26年)~1897(明治30)】
20120210_06.gif碓氷峠が開通したのが1893年(明治26年)。この時期は、いわば胎動期である。全国各地で建設が進められているなかで、たまたま1897年末という断面で捉えた物に過ぎない。

この時期までに開通している主な路線は次の通り。

・奥羽本線の青森側
・常磐線の一部
・新潟周辺(北越鉄道)
・中央本線東京口の一部(甲武鉄道)
・房総半島(総武鉄道・房総鉄道)…外房線は官設
・飯田線の一部(豊川鉄道)
・北陸本線の一部、城端線(中越鉄道)
・播但線の一部(播但鉄道)
・山陽本線が徳山まで(山陽鉄道)
・九州内延伸

(つづく)







年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)

鉄道の歴史・人物史

オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」。

そして、ハイライト、全国の鉄道網延伸図。
anigif35.gif
(クリックで拡大/1秒刻みの画像にジャンプ)

これを、きちんと掲載しておきたい。140年で29枚もあるので、適度に割っていく。

ご留意いただきたいことがいくつかある。

・元号で把握する…時代の雰囲気や時間の長さが西暦より具体的にわかる
・歴史的事項の起きた年と重ねて見る…政治的な出来事や戦争の影響がわかる
・官設鉄道の路線名は、1895年に制定されたので、それ以前を「○○線」と呼ぶのは便宜的なものである
・下記の地図は5年の間に開通したものをまとめて掲載したものであり、それぞれの年に開通した路線ではない
・赤が国営に準ずるもの、青は民営、黒は廃止。


【1872年(明治5年)】

20120210_01.gif●鉄道開通

今はなき国鉄汐留駅から、現在の桜木町駅の間に官設鉄道が開通した。単線。この区間は徐々に複線化されていき、全区間の複線化が完了したのは1881年(明治14年)である。9年を費やしている。

この間、六郷川に橋が架かっていたが、最初は木製だった。すぐに鉄橋に架け替えられ、そのうち一連が明治村に保存されている

桜木町駅が当時の「横浜駅」で、のち、1887年(明治20年)に国府津まで延伸された際には、横浜駅でスイッチバックする形になった。それが解消するのは1898年(明治31年)、つまり東海道本線が全通してから9年後である。


【1877年(明治10年)】

20120210_02.gif●神戸~京都間開通


官設鉄道の京都と神戸の間が開通している。

特筆すべきは大阪駅の位置で、北の果てに駅を位置したとはいえ、神崎川と淀川をそれぞれ2回、渡っているという点だ。そのため、日本初の鉄道用鉄橋がここに架けられている。そして、その桁が道路橋に転用され、今も残っているのは特筆できることであろう。

・東海道本線上神崎川橋梁(上り内外線)
・東海道本線上神崎川橋梁(下り内外線)
・東海道本線上神崎川橋梁(梅田貨物線)
・東海道本線上神崎川橋梁(北方貨物線)



【1882年(明治15年)】

20120210_03.gif●敦賀へ

鉄道開業から10年で、一気に広がる。本州では、琵琶湖を経由して神戸から敦賀までがつながった。現在のルートとは大きく異なり、(1)京都~大津間は南に大きく迂回していたし、(2)琵琶湖北側は柳ヶ瀬越えルートである。

(1)について。逢坂山隧道が掘られ、それは今、鉄道記念物となっている。ということよりも、明治維新直後はないかとお雇い外国人の指導がないとなにもできなかった土木工事のうち、この隧道は日本人が設計し、日本人だけで完成させているという点が意義深いであろう。200フィートクラスの橋梁は1910年代までアメリカ製に頼っているとか、レールの製造はもっとあとまで外国製のものを輸入していたとかを考えると、隧道はかなり早い時期に国産化できたのである。

(2)の柳ヶ瀬ルート

現在の北陸本線は、木ノ本から余呉湖の北を迂回し、西隣の大川水系を遡る形で大分水嶺を深坂越えルートで越えてているが、当初は木ノ本から余呉川を遡り、柳ヶ瀬越えで越えていた。深坂越えの新線が開通したのは1957年(昭和32年)、実に柳ヶ瀬ルートの開通(1884年)から73年後である。柳ヶ瀬ルートはのちに分離され、廃止された。現在は車道として利用されている。

●北海道

幌内炭鉱の石炭を手宮から積み出すための官営幌内鉄道が開通している。こちらは豊平川(苗穂の東)を渡る部分の建設に困難を極める。その経緯は『北海道の鉄道』(田中和夫/北海道新聞社)に詳しい。ぜひご一読を。

●釜石

釜石鉱山(1874年から官営)の鉄鉱石を釜石製鉄所(官営)に運ぶための、工部省による鉄道。開通は1880年で、新橋~横浜、京都~神戸に次いで三番目。製鉄所が休止した後に旅客輸送を開始し、じきに鉄道は廃止される。2フィート9インチ(838mm)軌間。













(つづく)




 

オレ鉄ナイト2

オレ鉄ナイト2

鉄道

カルカルで開催された『オレ鉄ナイト2』に参加してきた。

前回の様子はこちら→オレ鉄ナイト


・USTREAMアーカイブ
http://www.ustream.tv/recorded/20237004 20120208_008.JPG企画は武田保志さん(乗り鉄・車止標識好き、社長公募鉄) @yasutkt。壇上にはオオゼキタクさん(ミュージシャン・乗り鉄・ショートカット鉄) @taku1と小倉沙耶さん(鉄道アーティスト/: Ust鉄道情報局 鉄道情報局/ブログ) @kokurasaya。今回は、小倉さんのプレゼンからスタートした。お題は、満を持しての古レール!

20120208_009.JPGわかるなあ。私としては、このそれぞれの項目を、すべて俯瞰してみたくなる。
BV&Coなどは、私がうっかり買ってしまった英国石炭産業の盛衰みたいな論文集に、なぜレールばっかり作っててダメになってしまったのかみたいな章があったりする。

CARNEGIEは、もちろん19世紀の鉄鋼王、アンドリュー・カーネギーにちなむカーネギー・スチールのこと。20世紀初頭にジョン・ピアポント・モルガンによって買収され、USスチールの子会社になった製鉄会社だ。その経営者、アンドリュー・カーネギーは、モルガンが製鉄会社を買収した際に「世界一の大金持ちになりましたね、おめでとう」と言ったのは有名なエピソードだ。

もちろん小倉さんのプレゼンはすばらしかった。中でも、会津鉄道の会津田島駅に満鉄の陽刻がある古レールがあるという報告は、USTを見ている人を含めて全員を驚愕させた。会津田島駅には2011年には3回寄っていて2回、駅前で寝ているが、もちろんまったく知らなかった!

個人的には、古レールは、ダムと並んで開けてはいけないパンドラの箱として封印してあるジャンル。だから、レールについての小倉さんのお話は、一晩でも聞いていたい。いや、イチからレクチャーを受けたい。そういう気持ちにさせてくれるのが、「オレ鉄」である。詳しいとかそういうことではない、「好き」がいちばん聞いてて楽しいのだ。


第二部。江守さんの「自分撮りオレ鉄」に続き、私のプレゼン。題して「タイムライン鉄」。
20120208_011.JPGあらゆることを、「鉄道史」という時間軸に当てはめて考える机上の遊びだ。本当は、土木史でいきたかったのだけれど、一般的に興味を引きやすい題材でいくつかお話しした。

まず、小倉さんのプレゼン、前述の画像に「1906」とあることから、明治終盤になってもレールを国内で製造することができなかった、そういうことを考えることです、みたいな前置きをしてから、「国鉄」「鉄道省」のイメージのお話。
20120208_000.jpg私の思い込みかもしれないが、一般的に、「国鉄」の前が鉄道省で、その前が鉄道院である、くらいの知識はみなさんお持ちだと思う。でも、それは本当なのか、あるいは国鉄と鉄道省と鉄道院の違いは? みたいなことは、きっと、あまり考えられていない。

上記の表で一目瞭然である。要するに、国鉄ができるまでは国営である。日本の鉄道140年の歴史のうち、前半を超えて73年間もその状態であった。さらに、内閣直属の鉄道院ができるまでは、行政機関たる省の一部局、あるいは庁でしかなかった。

次に、鉄道車両で見る。電車編。
20120208_001.jpgよく419系で言われていたのだが、本来の製造目的である581系の時代よりも、改造後のほうが長くなってしまったということがある。そういうことを見るものである。

101系が、140年の歴史に占める割合はすごい。対して157系の寿命の短さ。181系新製車の寿命の短さ。そして、これら新性能電車は、鉄道140年の歴史の後半部分に出てくる。

機関車その他編。
20120208_002.jpg新性能電気機関車、ディーゼル機関車、液体式気動車、すべて「後半70年」での登場である。つまり、それ以前はすべて蒸気機関車といっていい。

次は、横軽のタイムライン。20120208_003.jpg

EF63が使われるようになる前はアプト式でED42が云々というのは、誰もが知っていることと思う。それが昭和38年までであったことも、まあ知られていると思う。でも、アプト式がどれくらいの期間使われていたのかと問われると、おそらく答えられる人は皆無かと思う。答えはこうだ。
20120208_004.jpgアプトは70年間。それに対して、粘着式時代は半分の34年間である。しかも初期19年間は蒸気機関車による運転である。

横軽の近代化と複線化は十分に役割を果たした。それでも、34年間しか使われていない。それが長かったのか短いのか。そういうことを考えるきっかけとなるのが、こうした年表遊びなのだ。

そして、ハイライト、全国の鉄道網延伸図。
anigif35.gif
(クリックで拡大/1秒刻みの画像にジャンプ)

実はこれ、とっても面白いのだけれど、プレゼンで使うにはちょっと使いづらかった。それがわかっていたので、高知が既存の鉄道網とつながった瞬間というものをお話するくらいにとどめた。本当は、大隅線が全通後18年で廃止になっていることなどを話すつもりだったのだが、忘れてた…。

と、こんなで私のプレゼンは終了。


20120208_012.JPG道路や橋梁でもおなじみ、@lervel_7gさんの未成線プレゼン。「ロリ鉄」などという浮ついた自称とは反対に、ストイックなスライドが付き次と投影される。

20120208_014.JPG松ヒトシさんのCADで描いた蒸気機関車パーツのプレゼン。松さんはこのためにわzわざPCを持参した。ソフトが入ってる必要があることと、会場のノートPCのようなものではあまりに非力なのだそうだ。

ここでは返りクランクをいろいろ描いたが、火室などもあった。2次会では、2軸従台車を回転させたりリンダリングしたりした。
20120208_016.JPG.

全員の内容を紹介したいのだけれど、写真がないものが多い。見るのに集中してたからな。また、後日、カルカルのレポもあがると思う。ここでは、お名前を列挙することで割愛させていただく。ここに列記した皆さんに、敬意を表します。

江守敦史 @emoyan911
磯部祥行 @tenereisobe
ねぎとろ @zwelf_12
LEVEL7G @level_7g
粒来さや香
草町義和 @kusa_yoshi
松ヒトシ @matsu706
平野玲音 @reon_tetsudo
田ノ岡三郎 @saburotter


最後に。よく「自分なんて広く浅くだから…」みたいに言う人がいる。でも、そんなの関係ない。「とにかく好き」という気持ちと、ちょっとの「見せる工夫」があれば、みんな壇上に上がるべき。ただし、自慢や、知識披露になると、たぶん観客に響かない。特定のジャンルに詳しくても、そのジャンルの説明は「オレ鉄」ではない。「なぜそのジャンルが好きか」ということがオレ鉄なのだと私は思う。次回は6月に開催。震えて待つ!



spl.thnx : Photoscape

上越線 第四利根川橋梁(群馬県)

上越線 第四利根川橋梁(群馬県)

ワーレントラス

上越線 第一利根川橋梁(群馬県)
上越線 第二利根川橋梁(群馬県)
上越線 第三利根川橋梁(群馬県)の続き。

場所はここ。



ここは面白くて、下り線(1924年=大正13年開通)が上路、上り線(1963年=昭和38年開通)が下路となっている。その理由の考察は後述する。

下り列車に乗っていると、津久田方からトンネルに入り、出たらすぐに利根川を渡るというロケーション。利根川の両岸が切り立った場所に架かっていて、写真に撮りづらい。

20120123-01.JPG下流側から見ている。右が津久田・高崎方、左が岩本町・水上方。津久田方から、205フィートワーレントラス(62m)、9.8mの上路プレートガーダー。このワーレントラスは、紀勢本線の宮川橋梁、すなわち有名撮影地、「三瀬谷の橋梁」と同一。ただし、製作会社が異なり、上越線は石川島、紀勢線は横河橋梁。宮川橋梁の架設の写真が、土木学会のアーカイブスにある。



近寄る。

20120123-02.JPGここまで近寄れるのに、なんという状況。

20120123-06.JPG

この部分、力がかかる部分とそうでない部分の部材の使い分けを見て欲しい。上路のワーレントラスも、真横から見て台形であるのが基本であることがよくわかろう。端柱(写真でいうと、端部の\方向の部材)はリブまである。ここは圧縮力がかかる。その真上、レールに並行している上弦材は、トラス桁を構成する部分と異なり、アングル材をレーシングでつないであるだけ。むしろレールが載っている縦桁のほうがずっと力が加わると言うことだ。

20120123-03.JPG





















断面。レールの真下はカルバートになっており、そこに開いた明かり取りの窓からこのように眺められる。

点検用通路、歩いてみたいなあ。


20120123-04.JPGその場で下を見る。左側(下流側)の端柱に凹みがある。なんでこんな位置に…?

20120123-05.JPGそのまま見上げる。縦桁がとても力強い。

20120123-07.JPGカルバートの山側はこう。この前後に道路隧道(高岩隧道)がくっついている。




次は上り線。

20120123-08.JPG一度、その下をくぐって上流側に行ってから振り返ると、こう。津久田側から、プレートガーダー+上路トラスであり、下り線(津久田側からトラス+プレートガーダー)とは逆の構成である。

20120123-09.JPGこちらはこれくらいには引いて撮れる。

津久田方に銘板がある。
20120123-11.jpg●上
日本国有鉄道
1962年()
KS-18TT3…
(ちょっと読めない)

●下

材料
(読めない)

読めないじゃないかヽ(`Д´)ノ

20120123-10.JPGプレートガーダーの全景。なんというか、それよりも隧道坑門が段違いで直角に交わっているあたりに、とても違和感がある。



さて、もったいぶってきた「下り線は上路、上り線が下路の理由」だが、これは橋台が理由だと思う。

下り線が下路であるということは、上下線の線路面高さがほぼ同じである限り、上り線も上路にしたほうが、橋脚の工事費が安くてすむ。以下はそれを前提にした想像というか妄想だ。

おそらく、右岸のほうが左岸よりも崖の切り立ち具合が激しく、右岸に上路トラスの橋台を設けることが困難だったのではないか。


下り線は、左岸に橋台を設けやすかったのでそうした。右岸にはプレートガーダーで渡した。そうすることで、レール面下の桁の高さが抑えられる。

一方、上り線は、右岸側の崖に、上路トラスに適するような橋台を設置することが困難だったか、利根川が急カーブを描く内側に橋脚を置くことを避けたために、あえて下路を採用した…のではなかろうか。

あくまで状況から考えたことである。もしかしたら、どこかで余ってしまったトラス桁が転用されたとか、当時は下り線も下路化しようとしたとか、そんなことがあったかもしれない。「複線化工事誌」みたいなのがあると、解答がわかるのだけれども。

蒲原鉄道  形式図(車両竣功図表)

蒲原鉄道  形式図(車両竣功図表)

鉄道

蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)
蒲原鉄道 ED1 形式図(車両竣功図表)
蒲原鉄道 クハ10 形式図(車両竣功図表)
蒲原鉄道 ハ1 形式図(車両竣功図表)の続き。

テキスト起こしやめてすべてアップする。


4d1d9ffa.jpg蒲原鉄道 ハ2 形式図

84738b33.jpg蒲原鉄道 モハ11 モハ12 形式図

4b1cc4ec.jpg蒲原鉄道 モハ41 形式図

454e7ac5.jpg蒲原鉄道 モハ51 形式図

8df04fa5.JPGc83eea91.JPG(安田民俗資料館=閉館中に保存してあるモハ51)



124a02e9.jpg蒲原鉄道 モハ61 形式図

7925bc13.jpg蒲原鉄道 モハ71 形式図

f5331553.jpg蒲原鉄道 モハ81 形式図

e222734a.jpg蒲原鉄道 モハ91 形式図

どなたかのなにかのお役に立てれば幸いです。
 

蒲原鉄道 ハ1 形式図(車両竣功図表)

蒲原鉄道 ハ1 形式図(車両竣功図表)

鉄道

蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)
蒲原鉄道 ED1 形式図(車両竣功図表)
蒲原鉄道 クハ10 形式図(車両竣功図表)の続き。

6c17ff05.jpg記載事項を転記する。粍をmmに、米をmに、屯をtに置き換えた。

















形式ハ1 車両竣功図表
車種 半鋼製制御客車
記号番号 ハ1 廃車

型式 2軸固定緩急客車
定員…67人(内座席29人)
客室面積 8.30×2.18=18.10平方m
定員1人ニ対スル面積 0.27平方m
最大寸法 長×巾×高 9550×2680×3570
自重…8.30t
連結器中心高 880mm
連結器種類 下作用自動連結器
制動機種類 手用制動
車軸ジャーナル(圣×長) 108×204
 ホヰールフット(圣×長) 153×165
灯 放 客室 グローブ 3個 常用灯6ケ(注:「放」は違うかもしれない)
     尾灯        2ヶ ヨビ灯3ヶ


製造所名 京浜車輌工業
製造年月 昭2.9
改造所名 電機車輌
改造年月 昭23.6
代償
前所有者
旧番号 ハ=3
記事 荷物合造車ヲ改造ス

蒲原鉄道 クハ10 形式図(車両竣功図表)

蒲原鉄道 クハ10 形式図(車両竣功図表)

鉄道

蒲原鉄道 ダイヤ(昭和59年2月改正)
蒲原鉄道 ED1 形式図(車両竣功図表)の続き。

9f117de7.jpg現在、五泉市内で個人により保存されているはずだ(未見)。



記載事項を転記する。粍をmmに、米をmに、屯をtに置き換えた。



形式クハ10 車両竣功図表
車種 半鋼製制御客車
記号番号 クハ10

定員…109人
 内座席…62人
面積 客室 34.55平方m
最大寸法 長サ…16350mm
 : 巾…2725mm
 : 高サ…3655mm
自重…19.00t
連結器ノ高サ 空車…890mm
 : 満載車…770mm
連結器ノ種類…自動連結器
台車ノ種類…軸バネ式
車軸 軸頚…85mm×182mm
 : 車輪座…128mm×178mm

制動装置ノ種類…SME三管式空気制動機 
 : …手用制動機
 : …(記載抹消)
制御器ノ種類…電磁空気単位接触器式
戸閉装置ノ種類…電磁空気式半自動戸閉機
灯ノ種類及ビ個数 室内灯…600V40W(蛍光灯)直列8個
 : 全消灯…100V200W(電球) 1個
 : 標識灯…100V40W(電球) 2個
 : 運転室灯…100V40W(電球) 1個
 : 予備灯…100V10W(電球) 4個
 : ステップ灯…100V15W(電球) 4個


製造所名 川崎車両株式会社
製造年月 昭和10年
代価 719260
前所有者名 国有鉄道
旧番号 キハ41120
認可年月日 昭和25年5月11日鉄監第775号譲受使用認可(注:第=略字)
記事

製造所名 蒲原鉄道株式会社(改造)
製造年月 昭和25.7
代価 
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和25年7月19日新陸鉄業第646号設計変更認可
記事 制御客車に改造

製造所名 上仝 (注:蒲原鉄道株式会社(改造))
製造年月 昭和33.5
代価 
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和33年4月18日新陸鉄監第2066号設計変更認可
記事 暖房装置新設

製造所名 西武鉄道株式会社(改造)
製造年月 昭和38.1
代価 1650600
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和35年12月26日新陸鉄監第2504号設計変更認可
記事 不燃化対策工事及一部改造

製造所名 上仝(注:西武鉄道株式会社(改造))
製造年月 昭和42.6
代価 1475000
前所有者名
旧番号
認可年月日 昭和42年5月4日新陸鉄監第9025号設計変更認可
記事 制御装置改造及其の他設計変更


キハ41120の国鉄最終配置は大館であった。

1930年に製造された車両が、蒲原鉄道最末期まで使用されていたのは奇跡というべきか。キハ41000(キハ04)最後の生き残りだった(注)。1956年の写真が『キハ41000とその一族(下)』に掲載されており、それによれば気動車時代の名残が、孔として床下にあるということだ。ただし、見てもおそらくそれがそれであるとわからないだろう。

(注)片上鉄道にて動態保存されている車両がある。

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