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マクロ と 270

マクロ と 270

ゲシュタルト崩壊と言葉・文字

@gonzke さんが書いていた「マクロ」が「270」に見えちゃう件




書いてみた。

120228_231648-2.jpgたしかに!!


いろんな人にこの文字を書かせてみたい。


















































 
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『問いかける風景』(丸田祥三著/産業編集センター)

『問いかける風景』(丸田祥三著/産業編集センター)

鉄道の本

20120227_005.JPG廃墟を、あるいは廃墟を写真に撮ることを好きな人は多い。でも、「なぜ好きなの?」という答えに、答えられる人は少ないのではな かろう か。例えば「美しさを感じる」では答えにならない。その場合、「なぜ美しいと思うのか」に対する答えが必要だからである。

本書には、その答えに至る、重大な示唆が散りばめられている。丸田さんが何に対してレンズを向けてきたのか、その理由が、作家・重松清さんとの対話で浮かび上がってくる。その流れは、そのまま読者自身が体験できる、壮大な時代感覚の共有でもある。それも、「名もない者たちの時代の感覚」、つまり他社をあざける強者の立場ではない者たちの感覚。「名もない者たち」というのは、『廃道 棄てられし道』や『棄景』シリーズでも一貫しているテーマである。


章立ては、

第一章 六〇年代から七〇年代前半 世界はとうに終わっていた
第二章 七〇年代中盤 新品時代の終焉
第三章 七〇年代後半から80年代 ゴミの上の夢の国の時代
第四章 八〇年代から九〇年代 個人攻撃の時代
第五章 九〇年代から〇〇年代 記憶を上書きする時代
未来章 二〇一一年三月一一日以降 懐かしい未来、見知らぬ過去

となっている。

***

章立てを見ると、1970年代の話題が多い。これは、1964年9月生まれの丸田さんと、1963年3月の重松さん(面識はないけれど、さんづけとさせていただく)が、もっとも多感な時を過ごしたのが1970年代だということなのだろう。私は丸田さんと7学年違いの1972年1月生まれなので、この時代のことは「記憶」として知っている(この観念は、本書を通底している)。そして、私にとっては、1980年代こそが多感な時代だった。

しかし、小学3年~高校3年という私の1980年代は、あらゆる刺激を受けはしたが、あくまでも生徒の身分であり、時代を言葉にできていない。それが、1980年代に十代後半~二十代後半という時代を過ごした丸田さんと重松さんは、確実に当時から言葉にしている。その言葉が、散りばめられており、ひとつひとつに「そうそう!」と頷きっぱなしとなる。

おそらく、読む人の青春時代が1980年代であろうと1990年代であろうと、あるいは2000年代であろうと、かならず、自分の記憶を的確な言葉で言い表しているところがあることに、そして、風景として描いた写真作品があることに気づくだろう。それが、この『問いかける風景』のすごさだ。

***

私の時代、1980年代で考えてみると、第三章がそれにあたる。「仮面時代の序章」「仮面の系譜」「『根暗』の時代」の三つの小見出しが立っている。ここで述べられているのは「笑いをとれるヤツがリーダーになる時代が来たのだ」という記憶である。

私が小学生の頃は、確実にスポーツができるヤツが集団の中心にいた。田舎の、ガラの悪い地域だったからか、頭がいいヤツは中心になれなかった。一方で、笑いをとれるヤツが台頭してきていた。それに気づいたのは小学校3年のとき。1980年だった。スポーツ音痴だった私には、それは福音であった。かなりの割合で調子に乗りすぎて失敗しながらなんとか十代を過ごして、たまにこじらせたりしながらも、「別に球技ができなくても、体力と筋力があればいいや」と登山で達観できるようになったのは、1990年頃である。

丸田さんと重松さんのおふたりの対話は、こうした、私が経験してきた精神の動きの過程が実は時代によるものでもあったということに、気づかせてくれる。おふたりが時代を見る目はとても鋭いものだが、その時代を生きてきた人たちを見る目は、とても優しい。

***

本の造り。大きさは菊判、ハードカバー。スピン(しおり紐)もついている。全体の構成については前述の通りだが、写真のページと対話のページは、紙を変えている。構成は、丸田祥三さんの作品が7点くらい、次いで重松清さんの書き下ろしコラムが1ページ、そして重松さんと丸田さんとの対話が掲載されている。これが実に効果的というか、これ以外ない、という構成だと感じる。

写真作品の印刷は、最高の品質であると信じて疑わない『廃道 棄てられし道』を…凌駕しているかもしれない。とくに後半の章で展開される、最近の作品群は、雑誌『東京人』に掲載されたものもあるが、どれもが手を触れると切れそうなほどにシャープでハード。インクが指につきそうなくらいにこってりとした色が出ており、丸田さんの作品を存分に実現している。

作品が掲載されている大きさは『廃道 棄てられし道』と同じくらいか(縦位置)、かなり大きい(見開き)のに、ハードカバーになると、なぜかコンパクトに感じる。これは、おもしろい発見だった。2冊を並べてみよう。

20120227_000.JPG.

ブックデザインおよび全体の指揮は祖父江慎さんと福島よし恵さん。『廃道 棄てられし道』と同じだ。そのため、並べて売られてもソレとわかるように、帯は同じイメージで作られている。

当初から、4月刊行予定の『眠る鉄道 SLEEPING BEAUTY』(小学館)とともに三冊をお願いすることは決まっていたから、もしかすると、最初は判型も似せて…などと祖父江さんはお考えだったかもしれない。しかし、結果として、三冊とも、判型や紙はまったく異なるものとなった。

…そう書いて、今、気がついた。 『眠る鉄道 SLEEPING BEAUTY』のカバーが、「あの作品」(ご想像にお任せします)になったら? それを、上の二冊の右に並べてみたら……? あとはご想像にお任せする。

***
 
冒頭に置いた問い。その答えを自分で持っているという自信がある人も、まだ持っていない人も、絶対に「買い」の一冊だ。あわせて『日本風景論』(丸田祥三・切通理作共著)もおすすめする。







 






東武野田線岩槻駅の支柱(古レール支柱と木製支柱)

東武野田線岩槻駅の支柱(古レール支柱と木製支柱)

古レール・駅ホーム上屋・柱

20120226_000.JPG東武野田線の岩槻駅の3・4番線ホーム。跨線橋から1組置いた位置のホーム上屋支柱が、古レールだった。

興味深いことに、この1組だけなのである。それも、他の木製支柱と異なり、ホーム中央の1本脚。他の木製支柱はご覧の通り、ホームに2本の脚を下ろしている。脚部分は、よくあるように、レール底面を接合している。レールはカーネギースチール、1900年(と読めたがちょっと不安)。

20120226_001.JPG屋根の真下はこんな感じ。左右のレールを板で挟み込み、その中央から棟木(線路方向の、屋根の背骨にあたる部材)を支える真束が上に延びている。その付け根には、棟木からの補強材。

20120226_002.JPG木製支柱のほうはというと、このようにズラリと。

脚には、線路方向からと枕木方向から、それぞれ補強材が入っている。補強材が脚に接合される部分では、枕木方向同士、線路方向同士が1本のボルトでつながっている。そのため、両者の位置が少しだけ上下にずれている。

20120226_003.JPG古レールの脚と異なり、垂木(枕木方向の屋根材の裏の部材)を支える形になっている。そして、枕木方向の補強材が、棟木を支えている。



木製支柱のホーム上屋の組み方を集めてみたい。また課題が増えた(笑)。




 

年代別 鉄道路線延伸の過程(5)昭和初期(1928年~1942年)

年代別 鉄道路線延伸の過程(5)昭和初期(1928年~1942年)

鉄道の歴史・人物史

オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。

年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年)
年代別 鉄道路線延伸の過程(4)大正期(1913年~1927年)
の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。


【1928(昭和3)~1932(昭和7)】

各地で一気に延びている。北では釧網本線と室蘭本線が全通、本州では花輪線、上越線、因美線、伯備線、九州では豊肥本線、日豊本線が全通している。動画ではこの年号に「山陰本線全通」と書いてあるが、誤り。須佐~宇田郷間の開通をもって全通するのは翌1933年である。


【1933(昭和8)~1937(昭和12)】
20120210_14.gifさらに延伸が続く。「高知が鉄道網につながる」と書いたが、
最大のポイントは丹那トンネル開通かもしれない。

高知については、鉄道創業以来50年以上を経て、ようやく全国の県庁所在地同士が結ばれるようになったということだ。

1927年と比べると、相当、現在の路線網に近づいているといってよかろう。しかし、まだ、青い線(私鉄)が多くある。

【1938(昭和13)~1942(昭和17)】
20120210_15.gif戦時中である。津軽海峡を挟んで松前線と大畑線が開通している。戸井線(未成)も大間線(未成)も建設中である。

岩泉線、二俣線なども戦時下だからこそ開通した路線だ。

個人的には、深名線がこの時期に全通していることと、このすぐ後に昭和新山の活動で被災する、のちの胆振線が開通しているのが興味深い。





区画整理の名残

区画整理の名残

地図・航空写真・分水嶺

20120224.jpg練馬区内の、環七外回りにある空き地。「空き地」としか形容のしようのない空間。

ここは、環七が整備されて以来、ずっと空き地なのだろうか。

環七に限らず、かつてあった畑や宅地の区割をほとんど無視して直線的に道路が作られる際には、こうした場所が多く現れる。画面右に見切れているビルは、上空から見ると三角形だったりする。土地が三角形に切り取られても、そこそこの面積があれば、活用できる。

ここに環七が通る前はどうだったのか、などと考えて古い航空写真を見ても、そもそもこんな小さく区割されておらず、広大な畑だったりする。また、1974年の航空写真を見ても、この大きさでは当時どうだったのかまでわからない。ここに家があったことがあるのかないのか。それだけが気になる。





京成本線 都市計画第6号線架道橋 名称の怪

京成本線 都市計画第6号線架道橋 名称の怪

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚

20120222_006.JPG京成本線の関屋駅のすぐ西(上野方)にかかる下路プレートガーダーである。橋台はコンクリート、橋脚は鉄。上の写真は南側から。道路は墨堤通り。

場所はここ。


かなりの角度で道路を渡っているのがわかる。45度くらいか。その道路も、京成線をくぐった先で左(西)にククッと曲がっている。もうちょっとうまくできなかったのかしら。

20120222_003.JPG北側から見るとこう。歩道橋は道路をほぼ直角に横切っているので、上空から見ると、歩道橋の桁部分と写真左の階段部分が等しい長さで形成線が底辺となる二等辺三角形に見える。どちら側も、桁保護のためのガードが邪魔で、プレートガーダそのものは見にくい。

さて。
20120222_001.JPGいきなりだが、下に潜る(駅側)。カバープレートに相当する部分は、木材だ。

通常、カバープレートがある場合は騒音防止を意図してバラストが敷かれているのだが、ここはそれがない。なぜ木材で覆ってあるのか、その理由がわからない。


桁は3主桁の複線桁。縦桁はレール直下付近に2本。先に言うと、銘板は見つからないので活荷重は不明だが、有名な荒川放水路橋梁等、歴史的鋼橋集覧に掲載された三つの京成本線の橋梁がすべてKS12であることからして、ここもKS12だろう。若干華奢な桁、というのもうなづける。


鉄製橋脚については後述するが、2本の脚を結ぶ水平材の下、ガードレール的な位置にあるコンクリートの柵の形がおもしろい。









20120222_002.JPG橋脚を正面から。橋脚と接する部分は、桁の短辺に平行する形で三つの主桁それぞれを橋脚が支持している。

向こう側へ。
20120222_004.JPG桁の支持部分。都心、たとえば新永間高架橋に見る(鋳鉄製)橋脚のような装飾がないため、とても無骨に見える。

20120222_005.JPG橋台部分。延びてるアームは落橋防止の部材か。

20120222_008.JPGこれくらいの角度である。プレートガーダや鉄製橋脚がそれなりに古さを感じるのにくらべ、コンクリート製の橋台は、妙に現代っぽい。

20120222_007.JPG通り抜けて振り返る。




さて、この橋梁の名称は、「都市計画第6号線架道橋」という。しかし、wikipediaで見ると、「都市計画第6号線」は九段から練馬に向かう靖国通り・青梅街道のことだと書いてある。そして、現在くぐっている墨堤通りは「東京都道461号吾妻橋伊興町線」である。では「6号線」は何?

wikipediaにあった。

戦前の都市計画では、足立区千住宮元町交差点から墨田区鐘ヶ淵陸橋交差点までは幹線環状道路第六号其の二(其の一は現在の東京都市計画道路幹線街路環状6号線(山手通り))の一部であった。

いまでも山手通りを「環六」と呼ぶことがあるが、その「6号線」であった。先に見たのは放射6号線であった。









 

京成関屋 中千住貨物線の廃線跡とスユ37

京成関屋 中千住貨物線の廃線跡とスユ37

廃線跡

『東京人』2012年3月号に掲載されている、京成関屋駅付近の廃線跡。なんと、アスファルトに塗り込められたレールが残っている。それも、触れる場所に。『東京人』の丸田祥三さんの作品でそれを知り、行ってみた。

場所はここだ。


20120221_002.JPGこんな感じで、京成本線が線路をオーバークロスしている。この線路は、北千住駅から南への延びていた貨物線の痕跡で、行く先は隅田川に面した東武鉄道の千住貨物駅だった。いま、貨物駅の跡地は産廃業者の敷地となっており、ご覧のように鉄製の門扉で閉ざされている。隙間から見ると、敷地内にも線路が見えた。

当時の地図を今昔マップ(1965-1968年)から転載する。
20120221_map.jpg黄色く印をしたところが、このガード。その下に引き込み線が描かれている。かつてはどうやら堀割もあったようだが、この地図には描かれていない。

20120221_000.JPG
20120221_001.JPGいろいろ撮ってみたけれど、まったく納得のいく写真にはならず。

20120221_003.JPG成田空港に向かうスカイライナーで〆として、今度は電車の中から産廃処理場の中の線路を見ようと思い、電車に乗った。10分に1本しかない…。

20120221_004.JPG(下り線より)

レールが光ってる! …というよりも、手前に廃車体みたいなのがあるぞ…。

分割されている様子。明かり取り窓があるから、郵便車または郵便・荷物合造車だろう。シングルルーフ、ガーランドベンチレーターから、それほど古いもの(例えば木製とか)ではないはずだ。

帰宅後、検索したら、こちらのサイトに詳しく書いてあった。また、検索を重ねると、ワールド工芸が「スユ37」と断じているので、それで間違いなかろう。

1974年の航空写真。
20120221_map2.jpg国土画像情報より
まだ墨堤通りを横切る線路(黄色くした部分)とともに、既にこのスユ37も写っている。

なお、例によって、このエントリ最上部の地図を拡大していくと、この廃車体も「建築物」であるかのように、フォルムが地図に落とし込まれている。



京成沿線はまったく不案内なので、こんな場所に廃線跡や廃車体がきちんと残っていることに驚きだった。訪れたときは日の向きがイマイチだったので、日を改めて行ってみたい。また、丸田さんを意識しすぎて17mmでしか撮っていないので、ここにアップするのもためらわれるような写真しか撮れていない。今度は時間も改め、さらに自分の好きな28mm単焦点で行ってみようかと思う。

(追記)現像しなおし、うるさかった「色」を捨象する方向で画像を作り直した。レンズの歪曲も修正した。少し画面が整理されたとは思う。なるほど、青系統の色調にしたり(色温度を下げる)アンバー系(色温度を上げる)で現像すると、「コントラストが高い道路やコンクリート」が落ち着いて見られるようになる。ちょっといろいろ作り直してみよう。

***

2012年6月10日追記。
『鉄道ファン』1981年11月号に「東京の下町にある郵便車の倉庫」という記事があった。写真も掲載されている。そうだ、この記事は子ども心に深く印象に残っている。しかし、その存在を忘れていた。当時でも「スユ3720」までしか判別できていない。「ある商事会社の一隅に」とあるので、当時のここには商事会社があったのだろう。








 

JR北海道の頼もしさ

JR北海道の頼もしさ

旅の思い出

2007年9月の話だ。週半ばの火曜から木曜まで珍しく仕事で道東に出張があり、帰路は釧路空港から羽田の予定だった。ところが、木曜になって台風が来た。私が搭乗するはずだった釧路~羽田便以降、すべて欠航。翌日も満席。釧路市内のホテルは搭乗予定だった人たちがあふれるのと、翌日の飛行機も乗れないことが予想された。

私は釧路駅で「スーパーおおぞら12号」が「通常通り」運転されるのを確認すると、空港返却の予定だったレンタカーを釧路駅で乗り捨て、飛び乗った。札幌に行けばなんとかなるだろう--。

しばらくはおとなしくすわっていた。闇の中を突き進むキハ283系。遮音された床下から感じるエンジンの響き。車窓は横殴りの雨。前面展望を見に行った。

吹き付ける嵐の中、キハ283系は突っ走る。新得を過ぎればあとはほぼ無人の山中、闇の中を9灯のヘッドライトが切り裂いていく、という表現がぴったりだった。

感じたのは、運転士の孤独感。台風による強風と大雨の中、視線を前方に集中し、ひたすら決められた速度で走っているに違いない。真っ暗な運転台で一人、速度の恐怖と戦う孤独感はいかばかりか。それに対して、乗客は完全に安心し、心地よい移動を楽しむことができている。

20120224X.jpg闇が続くと、人工の光がとても愛おしくなる。それがたとえ、鉄道信号の光であったとしてもだ。

進路は開かれている。進める。その安心感(違うんだけれど)。とにかく、進んでくれる頼もしさがあった。

時折、線路脇に鹿が見える。鹿は、こんな台風の夜でも、エサを求めて歩き回っているものなのか。


















20120220_002.JPG東オサワで、とかち11号と交換。とかちが待避線に入って、こちらを待っている。きっと、あちらの乗客は、帯広に帰る人たちを乗せている。台風の中、自宅に向かう列車の居心地は暖かいだろう。

20120220_003.JPGオサワでは、先行する2092レを追い抜く。かつてはDD51牽引の列車として、音別などで何度も撮影した列車だ。

20120220_004.JPGこのときはすでにDF200牽引になっていた(同じ日に新富士駅でDF200-6を撮っているので、おそらくそれ)。2092レは、ここオサワで約30分間停車し、先に交換したとかち11号と、このスーパーおおぞら12号を先行させる。

20120220_005.JPG信号所は暗いが、駅は明るい。おそらく滝上を通過。

20120220_006.JPG東追分で、DD51が引く2093レと交換。この2093レは、新富士まで行く2本のうちの1本で、早朝の音別などでやはりよく撮影していた列車だ。

20120220_007.JPG再び、闇の中へ。南千歳が近づけば、もう町だ。道東では大雨と強風だったが、このあたりではすっかり止んでいる。ここでようやく座席に戻った。



JR北海道の確実な運行のおかげで、札幌に着いた。しかし、新千歳空港発の飛行機も相当数が欠航になったらしく、市内のホテルはまったく予約がとれない。イエローページを片っ端から電話し、ほぼ1ページかけ終わる最後の最後で「トリプルの部屋なら開いていますよ。いまキャンセルが出ました」。そこにシングル扱いで止めてもらえることになった。ラッキーだ。

札幌駅内を移動していると、やはり宿にあぶれた女性が、ホテルの状況を私に聞きに来た。私は事情を説明したら、あきらめ顔で公衆電話に向かった。こちらの部屋はトリプル、でもまさか一緒に泊まりませんかとは言えない。

翌金曜日、混乱の中、スーパー北斗とスーパー白鳥、はやてを乗り継いで東京に帰った。スーパー白鳥が1本運休になった気がする。そのため、会社に行ける時刻には東京にはつかなかった。

そうなるならば、翌日は土曜日であるし、いっそ、北海道に私費でとどまっていた方が、個人的に土日を北海道で過ごせてよかったかもしれない。などと考えても後の祭り。どうしようもない。なんだかとてももったいないことをした気分になった。


(20120225 写真のファイル名のつけ間違いで写真がおかしくなっていたものを修正。一部削除)

スリバチカフェ@南洋堂/『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』

スリバチカフェ@南洋堂/『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』

土木・地図の本

20120219_000.JPG神保町の南洋堂書店で開催されていた「スリバチカフェ」にお邪魔してきた。

洋泉社から刊行された『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(皆川典久著)の刊行記念で、東京の「スリバチ」を見ながら皆川さん(上写真の後ろ姿の男性)とお話をしましょう…というイベントだ。私は皆川さんにお目にかかるのは初めてなので、ご挨拶申し上げた。

会場には『東京の微地形展』で展示されていた、5mメッシュ標高データを元にした東京の地形図(高さ8倍強に強調)、やはり5mメッシュを使用した関東の地形図を大きなボードにしたものなどが展示され、話の糸口がつかみやすいようになっていた。常に10人以上の人で満杯、なかなかお話ができなかったのは嬉しい誤算だろう。用意してあった100冊の本はすべて売れてしまったとのことだ。

地形図は、石川初さんが制作したもの。20120219_001.JPG
ここでしか見られない特大の目次。5mメッシュに地形図を貼り込んである。

個人的にはここがツボ。
20120219_002.JPG川越街道が環八に向けて左に曲がる、あそこである。あえて書き足さないが、下記の写真の左端の中央付近の五叉路が和光陸橋である。

池袋方から走ってきた川越街道は、成増を過ぎると堀割になる。そして、左に急カーブして急勾配を登り、環八にぶつかる。その堀割は、「成増台」から白子川まで降りるものであり、急勾配は「朝霞台」に登るものである。現代なら、こんな堀割と急カーブ、急勾配を避けるために、白子川の谷は高架で突っ切るに違いない。R246がそうであるように。

この場所は私にはわりと身近なところだ。こうした本は、「自分に身近なところ」が出ているかどうかで、本へのシンパシーが大きく変わってくる。いや、それで価値が増減するものではないのだけれど、心情的にはそういうものだ。本書には、こうした「スリバチ」が15エリア、豊富な地図やイラストとともに解説されている。

20120219_r002.JPG装丁もすてきだ。カバーは、こうしたことに関心を持つ人なら一目でわかる「都心の谷」。そこに、タイトルがシアンで刷られ、浮き上がっている。これはUV厚盛りニスという加工。私なら、少しでも価格を下げるために泣いてしまう(やめてしまう)かもしれない。定価に反映すると○○円くらいに相当するのだ。また、見返しも本体表紙への糊付けがされていない挟みっぱなしのタイプ。

20120219_r003.JPG通常、私はサインをもらわないのだけれど、せっかくこういう機会なのだから、サインを入れていただいた。いいですねえ、「谷へ出よう」。山じゃない。谷。

会場では、バドンさんによる「スリバッジ」が配布され、また「スリバチてぬぐい」が販売されていた。茶色をひとつ所望。


さて、本題というか。

上に貼った、地形のみの地図。標高別に色分けすることを「段彩」というが、段彩次第で地図は表情を変える。私が今回思ったのが、「低地を基準に段彩を施すと、地図が違って見える」ということだ。別に目の錯覚でもなんでもなく、「何を見せようとしているか」で見え方が変わってくるだけの話だが、私はこれを面白いと思う。上記の地図や本書に使われているものに近い、石川さんが設定した「5mメッシュスペシャル」と、私が設定した「緑グラデーション」で比較してみよう。(すべてカシミール3Dと、解説本付属の20万地図+50mメッシュ標高データを使用)

20120219_b50.jpg.jpgこの描き方だと、川が山を浸食しながら流れていく様がよくわかる。また、高崎付近まで「海が入り込んでいる」というように見える。

20120219_g50.jpg一方、この描き方だと、山岳地帯(急斜面が多い)と平野部との差がよくわかる。

20万地図を貼り込んだものだとこうなる。

20120219_b20.jpg20120219_g20.jpgカシミール3Dを使えば、段彩も自由に、簡単に設定できる。こうした遊びをしながら、地形を楽しんでいると、あっという間に時間が経ってしまうから恐ろしい。


残念ながら、このスリバチカフェは2日間限りのイベントだったが、どうやら「無地」の微地形模型に、いろいろな要素を投影する企画が進んでいるようだ。またお邪魔する機会があると思う。楽しみだ。

思い出の紙片

思い出の紙片

大協石油・丸善石油・キグナス・ガソリンスタンド全般

旅に出ることが少なかった頃は、ある程度の「もの」はとっておいた。しかし、毎週末出かけるようになると、「もの」への執着はなくなり、基本的にはなにも残さなくなった。たまに鉄道旅行をすると、その切符だけは保管しておくことにしているけれど。

『ガソリンスタンド・ノート』の松村さんが、思い出の紙片について書いておられたので、私も引っ張り出してみた。1995年2月の九州のものである。

20120218_000.JPG大学卒業を間近に控え、すでにテストもすべて終わり、なにもしなくていい日々を送っていた。アルバイトと、大学のサークルの溜まり場をひやかすこと、そのくり返しだった。

ふと、TT250Rを買って1年3ヶ月なのにまだロングツーリングには行っていないな、と思った。本当は夏に北海道に行くつもりだったけれど、就職試験の関係で行けなかったのだ(当時の出版社は、大手がは5~6月頃、中堅が7~8月頃だった)。林道を走りたくもあり、山にも登りたくもあった。そこで、九州に行くことにした。九州の山は、比較的上のほうまでバイクないしクルマで上がれ、往復4時間もあれば十分な山ばかりだったのだ。登った山は、祖母、傾、大崩、韓国岳だ。

祖母山に登るために、日之影に入った。当時、テントは山の中でやむを得ず使用するものであり、ちゃんと町に降りられるならちゃんと泊まろうと決めていたので、宿を紹介してもらおうと役場に向かった。すると、「ぜひ町長室へ」と言われる。こんな時期の旅人が珍しかったのだろうか。

町長は、梅戸勝恵(ばいど しょうえ)さんといった。聞けば、BMW R100GS-PDに乗っておられるとのこと。執務室には阿蘇をツーリングする梅戸さんの写真が飾ってあった。そんなことで、バイクで訪れた私を招き入れてくれたようだ。なお、そのBMWはこんなバイクである

梅戸さんは2006年に81歳でお亡くなりになっているが、とすると、1995年には72歳。その年で、PDに乗っているとは! ということは、かなりお若い時分からバイクがお好きだったのだろう。今にして思えば、もっともっとお話を聞いておくべきだった。

その晩は、梅戸さんの紹介で、リフレッシュハウス出羽という多目的施設に泊めていただいた。たしか2000円ちょっとだった気がする。冬の平日ゆえ宿泊は私ひとり。夕食は、近所のおばちゃんが「田舎汁です」といって「だご汁」を持ってきてくれた。大広間に布団を1組だけ敷いて寝た。あまりに広いので、少し心細くなり、電気をつけたまま寝た。とても贅沢な時間と空間だった。

前置きが長くなった。そのときのレシートが上の写真である。まだ定型のレシートにドットインパクトプリンタで印字したもの。三菱石油が多く残っていたのは、個人的に三菱に寄るようにしていたのか、それとも偶然なのかはわからない。IDEXは「新出光」、九州オンリーのブランドだ。左下の、普通のレジのレシートのようなものもスタンドのレシートだ。

どれもリッター120円台。今より少し安いくらいだが、当時はとても値上がりしていたころだった。その前までは、ハイオクでも90円台だったのだ。レシート数枚で、いろいろなことを思い出す。これからは、紙片くらいはとっておこうかと思う。




 


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