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長野隧道(3)昭和隧道西側坑口 (国道163号/三重県)

長野隧道(3)昭和隧道西側坑口 (国道163号/三重県)

隧道・廃隧道

長野隧道(1) (国道163号/三重県)
長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県)
の続き。

20111124_016.jpg「通行止め」の看板が出ている。この先に、昭和隧道がある。

20111124_013.JPG坑門右上に直方体の石が載っているのが西側。

こちらでは、シャッターに近づいて見る。

20111124_015.JPGもともとあった配管パイプが取り外され、新たに別のものが配管されている。

20111124_014.JPG路面を見ると、横に三分割されたシャッターの支柱を埋め込んでいるのがわかる。

最後に、2008年の現役当時の姿を。

20111125-998.jpg

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長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県)

長野隧道(2)昭和隧道東側坑口 (国道163号/三重県)

隧道・廃隧道

長野隧道(1) (国道163号/三重県)の続き。

上記の明治隧道は東側であり、西側は強制的に埋没させられている。それはまた後日書くとして、東側の坑口のすぐ「左下」に、昭和の隧道があった。2008年に訪れたときには。そして、2010年に訪れたときも、当然、まだあると思っていた。

しかし。

20111124_008.JPG驚いた。

塞がれていた。

ちょっと手前から。
20111124_012.JPG
この「右上」に、明治隧道の坑門がある。そして右側に、なにかの事務所がある。

画面右端に見えている石碑は隧道改修記念碑である。その向こうには、明治隧道から取り外された扁額がある。

20111124_005.JPG隧道改修記念碑。「昭和十四年三月/膵臓が奇襲記念碑/衆議院議員 馬岡次郎書」と刻まれている。「改修」とはいうものの、昭和隧道すなわちここに掲載した閉鎖された隧道の工事を記念したものだろう。昭和隧道は、nagajis氏の記事によれば昭和16年の完成である。

20111124_002.JPG「其功以裕/従三位勲四等岩村定高」と刻まれた扁額。西側のものか東側のものかはわからない。

20111124_009.JPG「補造化/内海忠勝書」とある扁額。このふたつの扁額の解題は、やはりnagajis氏の考察に委ねたい。



2008年に訪ねた際、明治隧道へは、向かって右の斜面をむりやり進んでいった。明治隧道の坑門前に行ったらチェーンソーの音がすぐ近くで響いており、しばらくすると山仕事、というか周辺整備の仕事をしている方が歩いて行った。

しかし、2010年の再訪時には、左に通路ができていた。
20111124_000.JPG整備されるのは嬉しいような、そうでもないような。。。

ここで振り返ると、こう。
20111124_010.JPG路面の状態はこんなだった。これは、台風の後だったからということもあるが、もし昭和隧道が閉鎖されていなければ泥はすぐに撤去されたことだろう。



再度、「寄る」。
20111124_007.JPGこの昭和長野隧道の扁額は、なおもnagajis氏の記事に頼れば、当時の三重県知事・佐藤正俊の書である。この写真では、「道」の左に何かしら文字が刻まれているのがわかるが、かろうじて「事」は判別できるものの、ほかは苔が埋めており、判読不能だ。



20111125-999.jpg2008年の東口。左に落石注意の標識がある。拡大
してみる。

20111125-999-2.jpg▲の左側に落石がある。現実とは逆側に…。

そして、2010年のもの。
20111125-999-1.jpg標識が更新されている。支柱が新しくなり、▲の右側に石が落ちている。2008年7月の撮影後、12月に閉鎖されてしまうのに、なぜ標識を新しくしているのだろう? 

もしかしたら、隧道を塞ぐ際に更新したのかもしれない。その手前までは道路として管理しなければならないためだ。設置年月を確認していないのが悔やまれる。

長野隧道(1) (国道163号/三重県)

長野隧道(1) (国道163号/三重県)

隧道・廃隧道



20111121-1.jpgnagajisさんの『旧道倶楽部』で見て衝撃を受けた隧道。2008年までの詳細はすべてそちらで。

上の写真は2008年8月に撮影したものだ。現在の、長さ1966mの「新長野トンネル」が開業してすぐのもので、旧道も現役だった。この隧道は旧旧道にあたり、旧道の東側の坑門に向かって「右上」にある。

注目していただきたいのは、ピラスター(坑門両脇の柱)の下部、ちょっと装飾してある部分の「高さ」だ。

20111121-2.jpgこちらは2年強を経た、2010年10月の撮影。装飾の「高さ」を見比べればわかるとおり、右の装飾はほぼ埋まっている。全体的に土砂が多く流入している。

2008年の段階では、坑口に立っても要石に手が届かなかったが、2010年の段階では届いた。2008年に「でかい」と感じた坑口は、2010年には「小さい」と感じるようになった。

こうなった原因は、2008年秋頃にあった地震ではないかと推測している(たしかnagajisさん)記事があったが、真相は不明だ。


そして現在、2008年に訪ねたときは通行できた「旧道」は完全に閉鎖されている。後日、アップする。

No Image

11/20(日)『廃道 棄てられし道』トークイベント出演します

廃道

再度の、最後の告知です。

明日11月20日(日)13時から、新宿のNakedLOFTにて、丸田祥三さん・平沼義之さんの共著『廃道 棄てられし道』刊行記念トークイベントを開催します。

http://www.loft-prj.co.jp/naked/schedule/naked.cgi

出演は、丸田祥三さん、小学館の月刊IKKI編集長・江上英樹さん、私。

本書をきっかけに、「廃道」そのものから、さまざまな事象を考えるお話になると思います。もちろん、作品についてもたくさんお話いただく予定です。

写真や廃道に興味があろうがなかろうが、すべての方が、ものの考え方、というところに大きな観点を得られるものになるだろうと思っております。

ぜひ起こしくださいませ。

入場料1000円+飲食代です。
よろしくお願い申し上げます。

サイホン橋(長野県)

サイホン橋(長野県)

プラットトラス



20111113_002.JPG「道の駅木曽福島」から見える、ド太い水管橋。写真は木曽川の上流を向いている。写真右が左岸、写真左が右岸。右岸方向に木曽ダムがある。

長さ65mのトラスはプラットトラスに組まれている。写真左のプレートガーダーは20mの2連。歴史的鋼橋集覧によれば、面白いことに下流側から第1・2・3連と呼称されている。

水の流れに従ってサイホン橋の水管をたどると(写真左に向かうという意味)そこには昭和43年(1968年)竣功の木曽ダムがあるので、「昭和40年代にプラットトラスの水管橋かよ!」と思うかもしれないが、もちろんそんなことはない。このプラットトラスはその30年前、昭和13年(1938年)横河橋梁(大阪)製である。

なぜその橋が30年後に別の用途に転用されたかについては、こちらのサイトに詳しいので、ぜひご覧いただきたい。

木曽川に架かる橋(2) ~ 寝覚発電所サイホン橋 ~
深まりゆく木曽路の秋 ~寝覚発電所木曽川取水ダム~



この水管橋の役割は、上流の寝覚発電所取水口で取水した水を左岸の水路隧道でこの位置まで導き、このサイホン橋で右岸に渡し、木曽ダムからの水とあわせて右岸の水路隧道で寝覚発電所に送ることにある。位置関係はこうだ。

20111113_000.jpg(カシミール3Dを使用)

木曽福島駅の南にある取水口は、標高約740m(より低いはず)。サイホン橋のあたりでは、10mメッシュ標高データから読む限り、約730m程度か。木曽ダムの水面も約730mである。そして、サイホン橋からの水と木曽ダムからの水とが合わさる位置に池がある。この周辺は約740~750m。ここから下記の位置の寝覚発電所(標高約680m程度)の直上に水を送り、一気に落下させて発電している。その水は、また水路隧道に入って下流の上松発電所で使われている。



20111113_003.JPG左岸側。「太い」という感想しか出ない。水管の継手は橋台側にある。

20111113_004.JPG右岸。継手はトラス内にある。

水管の継手は、ちょっと首をつっこんっでみたい分野だが、どこかにいい資料はないだろうか。




実はこのとき、事前調査をしていかなかったので、このサイホン橋の上まで行けることを知らず、遠くから眺めることしかできないと思ってた。ところが、どうやらクルマでも走れるらしい。来年あたりにまた行かねばならぬ。無念。しかし、楽しみ。「鉄管橋」バス停もあるというので、それも見ておきたい。



























 

兵庫駅の駅ホーム上屋と柱

兵庫駅の駅ホーム上屋と柱

古レール・駅ホーム上屋・柱

20111109_001.JPG兵庫県の兵庫駅のホーム。このクラシックな感じはとても意外だった。いや、東京の都心でも時代を感じるホーム上屋なんていくらでもあるんだけれど。

面白いと思ったのは、上屋を支える鉄骨がアーチ状になっているということ。そして、古レールを使っていないということ。

すべての柱に排水管が添えられているので見えないのだが(現地ではそこに気がついていないので観察していない)、この柱はY字型に形成されたものを「YY」と並べて接合部をリベット留めし、アーチを形成している。柱と柱の間には横構が入り、縦桁等との間にできた四角形の対角線を結び、ターンバックルを配置している。

形状も美しいが、見た目もきれい。ここ、好き。

草津駅の跨線橋 古レール×プラットトラス

草津駅の跨線橋 古レール×プラットトラス

跨線橋

20111109-003.jpg乗り換えのために時間がなく、こんなものしかないけれど。

草津駅の跨線橋は古レールをプラットトラスに組んだもの。しかし、壁や屋根、サッシなど古レールによるフレーム以外はすべて今風のものとなっており、階段部分の「平行四辺形の窓」は鎧戸つきのサッシになっている。これは特注だろうか。

また、古レールによるフレームも、ガセット部分にボルトがない。レール底面とガセットを溶接しているのだろうか。

柘植駅の跨線橋 古レール×プラットトラス

柘植駅の跨線橋 古レール×プラットトラス

跨線橋

20111108-02.JPGJR関西本線の柘植駅。電化路線の草津線との接続駅だが、基本的にはとてものんびりしている駅だ。

関西本線が西から東へと延びてきて、1890年(明治23年)にここに駅ができた。そのなごりか、右側のホーム(1番線)はレンガ積み+笠石の低いホームを嵩上げしている。おもしろいのは、その手前(画面右)の、現在も低いホームはレンガ積みではなくコンクリートのブロックのようなものが積まれている。

跨線橋はレールをプラットトラスに組んだもの。脚も古レールだ。あまりよく観察しなかったが、塗膜が厚く、パッと見た限り、陽刻が読めなかった。

20111108-06.JPG反対側から。

1960年代末から、ほとんど変わっていないようだ。(それ以前の写真は、ざっと見た限りは確認できていない)

20111108-01.JPG木製である点。それ以上に、側面の平行四辺形の窓がすてき。

20111108-03.JPG桟まで木製。私が子供の頃住んでいた家の窓は、桟が木製だった。1981年に立て替えたときは築50年は超えていた家。目釘で桟を留めてガラスを固定する。

20111108-05.JPG階段部分を上から。これは1番線側で、写真左(レール側)はベニヤ板で覆われている。ポスター掲示用のようだった。

天井には配線用の配管。この配管を追っていくと、2番線のホームにたどりつき、蛍光灯につながっているのだが、配線は二重系統になっている。すなわち、一つの配管から蛍光灯ひとつ置きに結線され、もう一つの配管から別のひとつ置きの蛍光灯に結線されている。減光用か、非常用か。

20111108-04.JPG通路。屋根はキングポストトラス。配管は下弦の上に載っている。

窓はアルミサッシ。古くはここkは吹きさらしだったのではないかと思って古い画像を探したが、見つけられなかった。

通路側面の板を化粧板で覆ってポスター掲示板にしていないのは、とても好もしい。




20111108-07.JPGホーム上屋。亀山方向。屋根を支える斜材が、手前のものは二本ずつ、奥のふたつは一本である。

観察すると、二本のもののうち、内側の/\型は後付けのようだ。

20111108-08.JPG端部。板張り。下端が曲線を描いているが、こういうのは貼り付けた後で切るのだろうか、それともこの形にしてから貼るのだろうか。


関西本線の駅や施設はとても歴史を感じることができて楽しい。

『「動く大地」の鉄道トンネル』(峯﨑淳/交通新聞社新書)

『「動く大地」の鉄道トンネル』(峯﨑淳/交通新聞社新書)

鉄道の本

PB066781.JPG数多く語られている、丹那トンネルと鍋立山(なべたちやま)トンネルの工事を通じて日本のトンネル技術に関するエピソードを集めた本。携わった人たちに直接話を聞いたりして、それが興味深いのは当然なのだが、それは「当たり前」の内容でもある。

著者は業界誌『建設業界』において「日本の土木を歩く」という連載を長年続けてきた人である(ブラウザで閲覧できたはずだが、いまはリンク切れになっている。後身の『ACE建設業界』のリンクを張っておく。「バックナンバー」はリンク切れ)。

私がこの本で「いいな」と思ったのは、この言葉だ。

(前略)土木屋にはスターがいない、ということです。これは今も発行されているかどうか知りませんが、『室内』という建築の雑誌があり、その主幹で山本夏彦という辛口の批評家が言っていたことです。建築にはスターが輩出しているのに土木にはまず見あたりません。山本氏は、日本の繁栄は土木の上にあるのに、その全貌が紹介されず、土木のことが新聞に出るのはスキャンダルばかりだ、と嘆いていました。(後略)

この見方は、道路ファンの、道路に対する見方に重なる。そして、その理由をこう述べる。

(本四連絡橋を3本架けることに対して、マスメディアは無駄だと書いているが)私はマスコミの批判のほうに胡散臭さを感じました。役人のやっていることもおかしいけれど、マスコミにも真実が見えていない、と感じました。そこで現地を訪ね、たくさんの関係者に会いました。ある技術者に会ったときです。「あの3本の橋はメンテナンスさえしっかりやっていれば、300年以上、たぶん500年は持つはずです」と聞いて、ハッと真実が見えたと思いました。

300年、500年という数字がどうかはわからないが、すべての建設費を受益者負担にするのはおかしいというような見方は、インフラについて考えたことのある人にはなじみのあるものだろう。3ルートある是非については各論あろうが、インフラの作り方については正しいと感じる。そして、そういう方法で、一般の人がまったく関心を持たない分野(例えば河川管理など、都会の誰が感心を持っていよう?)においても、さまざまにインフラ整備は進められているということも認識しておきたい。



なお、本書のメインコンテンツである丹那トンネルと鍋立山トンネルの物語は、簡潔でわかりやすいものである。ただし、多少の、隧道工事に対する知識が必要かもしれない。

『廃道 棄てられし道』をめぐる物語

『廃道 棄てられし道』をめぐる物語

廃道

PB026770_R.JPG
いよいよ『廃道 棄てられし道』が刊行される。いままで取材のレポートをここで書いたり、校正紙のチェックの様子をツイッターに書いたりしていたが、改めて本書の企画から刊行までを、時系列に沿って綴ってみたいと思う。


また、11月20日(日)には、丸田さん、栗原景さん、私で、新宿のNaked LOFTにおいて、本書に関するトークイベントを開催する。詳細はこちら。入場料1000円+飲食代ですので、ぜひご覧ください。


●夜明け前…『廃道本』
 
haido-bon.jpg2008年11月、『廃道本』刊行。『山さ行がねが』の平沼義之氏に持ちかけ、WEB同人誌『日本の廃道』の編集長である永冨謙氏をご紹介いただき、おふたりにご執筆いただいた本。おかげさまで大好評のうちに、在庫僅少となっている。
 
この『廃道本』では、巻頭に、永冨謙氏撮影の美しい廃道グラビアを設けた。そこを膨らました本を作ることができないか、ずっと考えていたが、それだけの写真集では、商業的に成功するか疑わしい。廃墟趣味と異なり、廃道趣味・道路趣味は「趣味的に写真を撮る」というほど写真とはなじんでいないからだ。そのまま、1年半が経過した。









 
●丸田祥三氏との出会い
 
2010年4月22日。丸田祥三氏の『風景剽窃裁判』の判決があった。友人の栗原景氏やO(オー)プロジェクト『軍艦島全景』やiPhoneアプリ『軍艦島黙示録』の制作者)の西田信行氏が傍聴したことを知った。この裁判のことは知っていたし、丸田氏のことは、氏の初の写真集『棄景』(1992年)から知っていたので、twitterにそのようなことを書いたところ、丸田氏ご本人からリプライをいただいた。それが、この『廃道 棄てられし道』の始まりだった。
 
後日、ざっくばらんにお話をしませんか、ということになり、お目にかかった。そのときは、すぐ仕事に結びつくわけではないけれど…とお互いに思いつつ、私は、まだ誰も見たことがない丸田さんの作品でなにかできないか…と思い始めていた。まだ誰も見たことがないものが、きっとあるはずだ。それは、秘蔵のものかもしれないし、新しいモチーフかもしれない…。

その頃、平沼さんとも、なにか企画ができないか…と話を重ねていた。そこで、閃いた。廃墟、廃線跡など「棄てられた風景」を撮り続けてきた丸田さんに、「廃道」を撮っていただいたら、ものすごいものができるんじゃないか…? あの色彩、あのパースで隧道が迫ってきたら。一見、どこの何を撮っても同じにしか見えない藪も、丸田さんの手にかかったら、ものすごい表情を与えられるんじゃないか。そう思って、丸田さん、平沼さんにそれぞれもちかけると、おふたりからは前向きなお返事をいただいた。
 
●企画にゴーサイン、そして取材へ
 
すぐに企画書を書き、2010年7月から8月にかけて社内で検討を重ね、9月始めに、正式にゴーサインが出た。この時点では、3月ころの刊行を念頭においていた。
 
そしてすぐ、9月16日に、平沼さんと丸田さんの顔合わせを兼ね、実際にどこに撮影に行けばいいのかの打ち合わせを持った。私も『山さ行がねが』を参考にいくつかの廃道を訪問しているが、実際に「その廃道」のすごさを熟知しているのは平沼さんである。平沼さんのアドバイスを聞きながら、ここは日帰りで続けて回れるね、ここは道路のすぐ脇だよ、ここに行くなら1泊だね、などという話を積み重ねた。そして、まず最初に、丸田さん、平沼さん、私の3人で、伊豆の廃道に取材に行こうという話になった。
 
打ち合わせの途中で、丸田さんが「そういえば、このへんにも廃道がある」と言いだし、そこに連れて行ってもらった。通称、緑山サーキット。かつてはバイクの走り屋がコースとしていたところで、慰霊の花などもある。
 
打ち合わせ後、平沼さんと私宛に、丸田さんからメールで写真が届いた。「撮りに行ってきました」。その、丸田さんが改めて平沼さん流の「廃道」を意識して撮影した初めての一枚が、本書のラストを飾る標識の作品である(丸田さんは、過去にも廃道をいくつも撮影している)。平沼さんも私も、その作品を見て、成功を確信した。
 
取材の予定を9月24日(金)としたが、あいにくの雨天だったので27日(月)に延期した。しかし、27日も、朝から大雨で、伊豆に向かうにつれ、徐々に晴れてきた。当日の様子はこちら。
 
丸田祥三氏×平沼義之氏
 

●その後…取材の日々
 
12月頭にかけて、取材が続いた。丸田さんからは、取材の都度、作品を送っていただいていた。もちろん、撮影したすべてをお送りいただくわけではなく、丸田さんのセレクトで候補に昇らなかった、陽の目を見なかったカットもたくさんあるはずだ。
 
取材は、丸田さんが、平沼さんのサイトなどを参考にしてお一人で行ったものもあれば、土曜・休日を利用して、私もお誘いを受けて道案内を兼ねて同行した道もある。三連休を利用して関西にも行った。本来の(?)私の仕事はディレクションなので、普通ならすべての取材に同行するようなことはないのだが、取材に行くのはとても楽しいので、「遊び」として嬉々としてついていった。そのうちのいくつかを、レポートしている。
 
廃道取材(2) 南東北
廃道取材(3)都内周辺
廃道取材(4)中部・近畿
廃道取材(5)東北
廃道取材(6)山形県道250号を例に
廃道取材(6)奥多摩(←番号が間違っています)
廃道取材(7)稲又川橋(仮)<廃橋>
 
丸田さんの撮影とは別に、平沼さんとは、どういう文章を掲載すればいいかという話し合いを続けた。そして、丸田さんの考え方のひとつである「作品は本来、無記銘である」ということが道路にも言えることに気づき、その方向で原稿を書いていただくことにした。


●作品をまとめるということ
 
丸田さんからお送りいただいた作品は、のべ163点。この中には、同じ構図で表現の方法を変えた作品もあるし、残念ながら掲載を見合わせたものがあるが、それらをどうまとめるかが、次の大きな課題となった。写真集は、単に作品を並べればいいというものではない。その並び順が命。これは、雑誌の巻頭グラビアも同じ。セオリーはあるが、正解はない。(『Fの時代』と『Cの時代』参照)
 
20111104-999.jpg12月下旬から、膨大な作品を前に、丸田さんと私とで構成の検討をはじめる。はじめは叩き台すらなかなかできなかったが、作品1点1点をハガキ大にプリントしたものと並べながら、なんとかひとつの案ができた。2月に入ってからのことだった。

 
●祖父江慎氏と
 
同時に、ブックデザイナーの祖父江慎さんにコンタクトを取る。祖父江さんは、出版に関わる者なら誰もが知っている方。写真集も多く手がけられ、製版・印刷への知見は、並の印刷所の方々よりもはるかに深い。「祖父江さんがご担当」というだけで、大手印刷所が襟を正して緊張した仕事をする、というほどの方だ。祖父江さんとのお仕事は、丸田さんの念願でもあった。
 
私も装丁家ときちんと仕事をするのは初めてなので、緊張しながらお電話をしたのが1月下旬。しかし、時期的に祖父江さんが相当お忙しく、お目にかかれたのは2月下旬。祖父江さんは丸田さんの作品にとても興味をもっておられ、幸いにもお仕事を受けていただけることになった。
 
●以後
 
以後、プリンティング・ディレクター(PD)さんの選定、PDさんを交えての打ち合わせを重ねた。展開案も、祖父江さんから「こうしたらどうでしょう?」とまったく新たにご提案いただいたり、それに意見を重ねたりして、徐々に固めていった。7月、ようやくテスト入稿にこぎつける。印刷するのに難しい色彩の作品を中心に、実際に製版してもらうのだ。その数、11点。その結果を見て、製版の方向性を改めて打ち合わせることにした。結果的に、祖父江さんも驚くほどのすばらしい製版が実現した。
 

ここで、トークイベントでもたびたび触れることになると思うのだが、印刷について簡単に書く。
デジタルカメラで撮影されたデータはRGB(減法混色、バックライトあり)。印刷はCMYK(加法混色、紙の色の上に色を重ねる)。これをご存知の方は多いと思うが、総じてRGBの方が CMYKより多くの色を表現でき、鮮やか。細かく説明することはしないが、丸田さんの作品はCMYKで印刷しづらい鮮やかさのものがとても多い。それを、 CMYKでどう表現するか。きれいな青、きれいな緑。『廃道 棄てられし道』のカバーは、実は、かなり表現しづらい色であるが、それが美しく出ているのは、プリンティング・ディレクター・Yさんの力量にほかならな い。
 

以後の詳細は、とくにトークイベントで話すことになると思うので、おおまかに。
 
5月11日(水) 平沼さん脱稿。
(祖父江さん、丸田さんと、展開についてや、校正についての打ち合わせ続く)
7月20日(水) テスト入稿。色味の再現が難しそうな11点を先に入稿し、製版してもらう。
8月3日(水) 先行入稿分が出校。チェック。素晴らしい製版に、一同、笑み。
8月25日(木) 入稿。祖父江さんから作品一点一点について「ここをこう」と指示をいただきながら、PDさんにお渡しする。
9月20日(火) 初校チェック。平沼さんのページは、平沼さん・私の上司・私で校正。

20111101_0920_1stR2.JPG(左から、祖父江さん、ご一緒にデザインされた福島さん。右手前がPDのYさん、奥が大日本印刷の担当・Aさん。右下、丸田さん切れてごめんなさい!)

10月4日 再校チェック。一部、念校を出す指示。平沼さんのページは、平沼さんに校正をお願いしていたものを受け取り、再入稿の形となる。

20111101_1005_2nd3.JPG(再校の仕上がりに大満足!というのがわかる、校了紙へのサイン)

10月17日(月) 念校を出す前のチェック。解決せず、作業続行。
10月18日(火) 念校を出す前のチェック続き。ようやくOK。
10月20日(木) 祖父江さんの事務所で念校確認。カバーも含めて校了。

20111101_1018_cover_1st1.JPG10月28日(金) 表紙、カラーページについて印刷立ち会い。印刷機の前で、丸田さんとPDさん、私で、「刷り具合」を細かく指示しながら印刷。幸い、12時間で済む。
 
そして、
11月9日(水) 見本(予定)。
11月16日(水) 配本(取次=問屋に搬入)。翌日以降、書店店頭で発売。















入稿から校正が出るまで、時間がかかっているように見えるかもしれないが、これは、さまざまな場所にスケジュール的なクッションを挟んでいたためだ。写真 集のようなものを、ギリギリのスケジュールで進めても絶対にいいことはない。製版、校正刷、そういうことに、じっくりと時間をかけていただきたくて、このように段取りをした。平沼さんには、脱稿から本の完成まで、半年もお待たせしてしまった。これについては、大変申し訳なかったと思っているが、丸田さんのページの仕上がりが最高のものになったということで、ご容赦願いたい。



丸田さんは、これから、産業編集センターから重松清さんとの共著を、また、とある出版社から単独で写真集を刊行する予定がある。平沼さんは、また別の出版社から書籍を刊行するだけでなく、さらに別形態の廃道のコンテンツをリリースする予定だ。本書が、おふたりの「これから」のお仕事の一発目として、大きく開くことは、疑いない。本書が、これからのおふたりのお仕事に新たなインスピレーションを与えるものだと、ぼくはそう信じている。



『廃道 棄てられし道』は、11月17日(木)頃から書店店頭に並びます。ジュンク堂新宿店では、廃道Tシャツ等と並んで置いていただけると思います。ぜひ、私たちの思いの結晶を、お手にとってご覧ください。

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