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六ツ見橋(六見橋)

六ツ見橋(六見橋)

ボーストリングトラス

20110727_003.JPGボーストリングトラスってかっこいいよね。そして、この微妙な色合い、群青色と言えばいいのだろうか、この色が、かっこよさを引き立ててるよね。六ツ見橋。岐阜県の下呂にある、2連のボーストリングトラス。表記方法はいくつかあるが、ここでは説明看板や地元の幟にあった「六ツ見橋」を採用する。
20110727_007.JPG幟。

「歴史的鋼橋集覧」の記事はこちら



下呂駅の南、JR高山本線の車窓から見える位置にこの橋はある。渡っているのは飛騨川。飛騨川は木曽川の支流であり、はるか下流、美濃加茂市の川合というそのままの地名のところで木曽川に合流する。

飛騨川の右岸・西側を走る県道88号からこの六ツ見橋を渡ろうとすると、直角に折れ、JR高山本線を踏み切りで渡る形になる。なにしろこの位置関係だ。
20110727_000.JPG下呂駅付近では川幅が広い飛騨川が、この六ツ見橋のあたりでは狭くなっている。ここに架橋したのも、それが理由か。

20110727_001.JPG踏切付近からみると、こんな感じ。

時速30km制限、対面通行、重量制限は8トン。幅員が狭いため、歩道は別。右のみ親柱があり、そこには「飛騨川」と書かれている。

20110727_004.JPG歩道は下路鈑桁。これについては、説明看板を引用する。

20110727_002.JPG六ツ見橋の由来

帯雲橋より約3キロメートル、塚田の渡しより上流の地に六ツ見橋が架橋されて、渡橋式が行われたのは大正12年(1923)3月16日である。最初、吊橋形式のものであった。この橋は、昭和6年4月に、鉄骨板橋として改築、当時、3万3401円37銭の経費を要した。時は、高山線下呂駅開業直後のことである。下呂駅へ降りた客を、湯之島温泉街へ運ぶ唯一の橋として、おおいに利用された。昭和39年10月の下呂大橋の完成により、昔日の重要性は減少したが、昭和49年5月には工費3000万円をもって歩道橋も付設された。

名前の由来
六ツ見橋と名付けられたのは「下呂六景」を見渡すことができるところから名付けられたそうです。下呂六景というのは…
弘法山(信貴山)・湯ヶ峰の夕映え・下呂大杉・湯ヶ淵の湯煙・中根山(下呂富士)・温泉寺の桜
(下線磯部。以下略)

20110727_006.JPG銘板。

株式会社
大阪鉄工所製作
昭和六年

このとおり、このボーストリングトラスの桁が製造されたのは昭和6年。ということは、上記の下線を付した部分、「鉄骨板橋」は、解説看板の誤り。

……もしかしたら、トラス橋を「鉄骨板橋」と称したのだろうか。でも、検索すると「鉄骨/板橋」に切れてしまうので、どうにもわからない。

20110727_005.JPG橋脚の上。歩道橋から撮っているので、左が東側で固定沓、右が西側で可動沓。

対岸に渡ってしまう。
20110727_008.JPG狭いなあ…。

20110727_009.jpgこちら側にも右の親柱が残り、そこには「竣功昭和六年」という石の銘板がはめ込まれている。

20110727_010.jpg戻りがてら、塗装標記。下弦に貼ってあった。
塗装年月 2001年3月
塗装会社 株式会社大装
塗装材料 下塗 鉛系さび止めペイント JIS-K-5623=1種
中塗 長油性フタル酸樹脂塗料
JIS-K-5516-2種
上塗 長油性フタル酸樹脂塗料
JIS-K-5516-2種
塗料製造会社 大日本塗料株式会社

20110727_011.JPG戻り終え、踏切を見たら、そこには「六見橋踏切」という表記があった。

さらに引く。

20110727_012.JPG4月末、既に葉桜。もし満開なら、六ツ見橋の群青色ととてもマッチすることだろう。

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『国鉄ざっくばらん』(髙木文雄)

『国鉄ざっくばらん』(髙木文雄)

鉄道の本

20110724_000.JPG第8代国鉄総裁、髙木文雄(以下、常用漢字を使用し高木文雄とする)の考えをまとめたものである。サブタイトルの『”赤字の王様”のひとりごと』というのがぴったりあった内容。

祖父君が国鉄職員であった@souitohさんのご自宅にあったということで、お借りして読んだ。

高木文雄は大蔵次官から国鉄総裁になった人物である。前任は藤井松太郎、このブログでもたびたび採り上げるエンジニアで、マル生運動のために任期半ばに辞職してしまったことを受けての後任である。本書は高木が話すことをインタビュアーがまとめる形で著作としているが、収録時期は就任後1年半ほどのようである。初版は昭和52年12月、翌年2月には第7刷というから、相当売れたに違いない。当時は鉄道ファンというよりも、版元が東洋経済新報社ということもあり、経済的な視点で読む人に受けたのかもしれない。


書いてある内容は、現在の観点で見ると、かなりどうしようもないものである。なんともグズグズしていて、結論を出さずにいるように見える。しかし、現在の観点で見てはならぬ、とも思う。当時の空気というものがある。国鉄の赤字がさまざまな問題をはらみながら転がり続け、ついに分割・民営化に至るのだが、それまでの十数年間、高木のような人物が、少しずつ下地を作り続けていたからこそ、分割・民営化の三羽烏が活躍できたと言える面も多々あろうからだ。そう思いながら、本書を読んでの感想を少し。


●あまりにも官僚的、貴族的な高木

ほぼ大卒しかいない民間企業に勤めているとよくわからない感覚がある。「キャリア」と「現場」の差だ。本書には、国鉄の採用の仕組みとしてあからさまにこう書いてある。
本社採用の大学卒エリートが約一〇〇人(略)文字通り幹部候補生である。(略)
自分が属する階層を「エリート」と自称してはばからない。今なら大問題となりそうな発言も、当時の空気では問題視されない。役所というのは、上意下達の命令系統がなければならないので、そういうものなのだろう。

この「大卒=幹部、高卒=現場」という意識は、現JR東海会長の葛西敬之の著書『未完の国鉄改革』を読んで初めて知ったことだ。そんな世界があるのだな…とそのとき感じたことを覚えている。


●この頃からようやく国鉄の特殊性が理解され始めた?

昭和50年代前半、世間における国鉄への理解度がどのようだったのかはわからない。しかし、高木は再三、次のようなことを述べる(要旨)。
・収入(運賃)を自分で設定できない。政争の具にされる。
・支出(人件費)を自分で設定できない。政争の具にされる。
・倒産することができない。
・団体交渉は、スト権を持たない人間が、賃金の決定権を持たない人間と交渉する、なにを決めることもできない話し合いである。
つまり、「経営」の自由がなく、なにをやるにも国会の承認が必要だったりするから、時間ばかりかかって挙げ句の果てに実現できなかったりする。…というのは、現代では国鉄が身動きを取れなかった大きな理由として周知の事実だが、それを再三述べると言うことは、当時、これらのことが知られていなかったのではないか。だから、私は先に「現在の観点で見てはならぬ、とも思う」と書いた。

前任の藤井が「国鉄(わたくし)は話したい」という意見広告(これは藤岡和賀夫氏の作品とのこと)を新聞で展開したように、このころから、ようやく国民に向かって説明しはじめたのかもしれない。時間をかけて世間に理解させたうえ、いろいろな施策を実施する。高木が就任して1年半の頃は、まだ、国鉄再建への胎動期だったのかもしれない。


●数字の感覚が麻痺している

当時の就業人口は43万人である。全国民は1億1400万人だから、全国民の300人に1人は国鉄職員だったわけだ。収入は2兆円、経費は3兆円、差引1兆円の赤字。よく物価水準の比較対象となる大卒初任給で考えると、現在でいうとそれぞれその倍以上、ということになる。これだけの数字を扱っているので、高木はいろいろ麻痺している。副業収入に対する感想だ。
一番大きいのが弘済会の売店とかコインロッカーに場所を貸している構内営業料で二〇三億円、次が駅や電車の中の広告料で七八億円、この両方で雑収入全体の約七割を占めている。(略)総額でも三七四億円程度だから(略)微々たるものといえる。
現代に換算すると約700億円。1000人規模の会社の年間売上に相当する。それだけの金額を、「たったこれだけ」のように扱う。麻痺している。いや、もしかしたら、大蔵官僚だったので、現実離れしているのかもしれない。

現在、JR東日本の広告部門であるJR東日本企画だけで、年商912億円である。民営化のおかげでさまざまな展開ができるようなったことが大きかろう。


●現代に通じる考え方もある

今となってはおとぎ話の世界の住人の考え方の持ち主に見えてしまう高木だが、鋭い面もいくつか見せている。その代表的なものがこれと、女性の社会進出だ。

「ヤードの仕事だとか、運転の仕事だとか、駅の仕事だとか、ブルーカラーの仕事が多いから、そう大学出をとっても仕方がない。(略)」(略)私はこれからの高学歴社会では、大卒の切符切りや運転士がいて結構ではないか、世の中はだんだんそう変わっていくと思っているのだが……。

相変わらずブルーカラーだなんだと言っているが、1990年代から、徐々にその流れはできている。JR北海道が大卒運転士コースを設置したのは何年前からだったか。現在、ごく一般的には、学歴は知識を期待するものではなく、ものの考え方や人間としての教育の度合いを証明する程度の役割しかないように思う。その流れならば、高木が予言したとおりにものごとは進む気がする。



高木は7年以上、国鉄総裁の座に座り続けたが、結局は、本書で述べている通りの考え方で、煮え切らないというか、思い切った施策を打つことができずに、それが元で任期途中で辞任した。後任はエンジニアの仁杉巌、彼も国鉄の体質を抜本的に修正することができずに辞任、最後は杉浦喬也が中曽根康弘の意を受けて国鉄を解体し、民営化したのは、葛西の著書にある通りである。


本書から、おもしろいエピソードをひとつ。

当時、日本でもっとも土地を持っていたのは王子製紙とのこと。国鉄はそれに継ぐ二番手。6万7000ヘクタール、換算すれば670平方km。琵琶湖と同じ大きさである。うち、線路が47.5%、保安林が23.8%、駅や駅前の土地23.6%だ。保安林の面積の大きさに驚く。そして、そこに国鉄100年の歴史が込められていることも思う。

高木の考え方、当時の空気がわかる、読みやすい本であった。


国道17号 新大宮バイパスの廃道

国道17号 新大宮バイパスの廃道

廃道

20110723_001.JPG国道254号川越街道を下り、新・環八との交差点を過ぎたあたりで右に国道17号新大宮バイパスが分岐する。ここに、ルート切り替え区間がある。


北側に平行する国道17号のバイパスなのに、国道254号から分岐するのがちょっと不思議な感じもするが、そんな例はそこらじゅうにあるのでパス。

この旧ルートから現在のルートに切り替わったのがいつか、ちょっとわからない。旧ルートを走っていた記憶は明確にあるので、1990年代後半から2000年の間ではないかと思う。記事冒頭の写真の立て看板は「建設相」が塗りつぶしてあるので、2001年1月より以前からその看板があったことがわかる。

航空写真では、1989年のものに旧ルートが写っている。
20110723_ckt-89-2_c11_20.jpg国土画像情報より転載、トリミング)

現在、この旧ルートは資材置き場となっている。しかも、「国道20号新宿こ線橋関連工事」の資材だそうだ。

20110723_000.JPG金網の上から覗いてみる。マンホール、可搬式ガードレールなどが置いてある。真正面、カーブする道路のアウト側にある壁と矢印は、現役だったころの姿をはっきりと覚えている。

20110723_002.JPG東側から見下ろす。左右方向に走っているのが国道254号川越街道で、左が池袋方面、右が成増方面。現在は国道254号との間は歩道が設置されているが、当然、この旧ルートが現役だったときには歩道などなく、横断歩道である(上記1989年の航空写真参照)。

20110723_003.JPG視線を右に向ける。なんという贅沢な資材置き場。

この写真を撮った場所は住宅街であるにもかかわらず、不法投棄の冷蔵庫や机があった。大きな国道沿いというのは荒れやすいような気がする。



この新大宮バイパス、つまり北町交差点から高島平で首都高が覆い被さる地点までは、鋪装路面が4車線分ありながら、車道は2車線である。その流れも、必要に応じて随時変更されているようだ。ただし、ごく一部の区間だけ、4車線分の幅の用地は確保してあっても、道路がない場所がある。ここだ。



東側、橋脚だけ準備してあるものの、桁が架かっていない。ここだけなのだから架けておけばいいのに! と思うのだが、もしかして、この区間に橋がないことを言い訳として、前後の4車線区間を2車線に規制しているのかもしれない。

その、橋があるべき部分に北側からアプローチする。

20110723_005.JPGこのように、あとはアスファルトを敷けばいいだけになっているように見える。そして画像奥、唐突に車道がおわる。なお、画像の右上と左下に黒い三角形があるが、フードがかぶってしまったようだ。。。

20110723_006.JPG先端まで行くと、当然のように金網で塞がれている。その向こうには、鉄筋を剥き出しにした橋脚が立っている。これは北から南を見ている。

20110723_004.JPG地上に降りる。南か北を見ている。


ここが4車線になれば…とも思うが、現状、新大宮バイパスのこの区間は、それほど渋滞するわけでもない。だから、新大宮バイパスが北町を突っ切って南下し、平和台あたりまでつながるまで、しばらくはこのままだろう。


青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし その2

青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし その2

跨線橋

青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らしの続き。

●蘭島駅
20110722_099.jpg古レールでフレームが組まれたプラットトラスタイプ。もちろん脚も古レール。外壁が木製で、フレーム以外は塩谷駅(前日のポストを参照)と同じに見える。

階段部分の屋根に、枕木方向(と言っていいのかな)に4本、部材がある。そういえば、トタン屋根は、端部にこういうのがあることを思い出したが、これ、なんだろう。屋根上に上がったときの万一のためか、雪が滑らないためか。ご存知の方はご教示くださいませ。


●余市駅
20110722_008.JPGプレートガーダータイプの跨線橋。脚は古レール。ガーダーもリベット接合で、時代を感じさせる。

この跨線橋は、いつ架けられたのだろうか。1948年の航空写真には、ないように見える。1967年はどうだろうか。よくわからない。1976年にはある。


●倶知安駅
20110722_009.JPG部材は古レール。しかし、窓の部分に斜材が来ないように設計されている。古レールをプラットトラスに組んで跨線橋を製作する場合、斜材を、窓を無視する・窓を考慮するように配置する2タイプがある、ということに気づいた。

よく見ると、レールの底部を利用して壁材を貼り付けているように見える。


●ニセコ駅
20110722_010.JPG一転して、窓を斜材が塞ぐタイプ。

屋根のスベリ止め(?)も、横棒ではなく、なんと言えばいいのだろう、取っ手タイプ(?)。

脚も古レール。壁材は、古レールの底面の裏側に貼ってある。

跨線橋の入口に扉があるのが、北国らしい。断面積が半分になるので大量の客をさばくことはできないが、冬期の雪の吹き込みを防ぐことには大変効果的だ。駅によっては、夏場は扉を外しておくことがある。


●蘭越駅
20110722_011.JPG鉄骨でベースが造られているタイプ。1965年の航空写真にもその姿が見える。脚は鋼管タイプ。

20110722_012.JPG内側。鉄骨のベースがあって、その上にコンクリートで階段を造って、それをパネルで覆った感じ。

この駅で1時間半くらいあったので、周辺をいろいろ歩き回った。

●七飯駅
20110722_013.JPGちょっと離れて七飯。古レールでプラットトラスタイプ。

窓にご注目。三段窓である…というのは誤りで、単に、目の字型の桟であるというだけ。電車でいう「三段窓」は、最下段と最上段がそれぞれ上昇・下降するもの。こちらのサイトに詳しい。


跨線橋の写真。列車の窓が開かなければ、撮影できない。北海道で乗った各停は、キハ40は窓開けOKだったが、蘭越から長万部まではキハ150だったので不満だった。私たちの世代では、列車は風を浴びてこそ。

跨線橋を見るとしたら、
・跨線部分のフレームの部材、構造
・階段部分の部材、構造
・脚の部材、構造
・窓
・階段の踊り場の有無(高さはほぼどれも同じ)
・外壁
・外壁とフレームの関係
・跨線部分の屋根構造(山形か片傾斜かなど)
などだろうか。

いまさらだが、「プラットトラスタイプ」というのは、トラスが

|\|\|\|\|/|/|/|/|

または

|\|\|\|X|X|/|/|/|

となっているもので、鉄(鋼鉄)のトラスを組む場合に多用される。架線を吊り下げているビームがトラス構造である場合もほとんどがプラットトラス。


なお、基本的に、プラットトラスタイプ以外の跨線橋は撮影していない。いま考えれば、ガーダータイプも撮影しておけば、なんらかの類型化ができたかもしれない。今度から、網羅するようにしよう。あと、列車内からなので無理といえば無理なのだが、脚の形式にも注目したい。今度の課題である。


青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし

青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし

跨線橋

列車に乗ったり降りたりしながら、フレームがプラットトラスである跨線橋があると撮っていた。車内から撮ったものもあるので、その場合は半分しか写ってなかったりするが、ないよりはマシだろう。

●青森駅

ホームは南北方向に配置されている。跨線橋は南側にある。
20110722_000.JPG画像右のものと、左に消えている長いものとはつながっていない。

画像左の長い跨線橋が、旅客用のもの。駅舎本屋(東口=メイン)と西口、各ホームを結ぶもの。右のは、ちょっとうろついたけれどなんだかわからなかった。おそらく、かつて小荷物輸送や郵便輸送をしていたときに使われたものかと推測する。

右の跨線橋を、反対側から。(左の跨線橋から撮っている)
20110722_002.JPG荷物・郵便輸送があった時代、青森駅に入ってくる列車の最後尾に、荷物車や郵便車が連結されていた。その連結位置は、この、青森駅の荷扱い位置によるものだったのかもしれない。@golgodenkaさんのレポートによると、仙台駅も南側に荷物用エレベータがある。東北筋はそれで統一されていたのかもしれない。

20110722_001.JPG北から南方向で見ると、このように、跨線橋が二重に見える。

どちらもトラスは鉄骨作りであり、プラットトラスである。


●滝川駅(以下、北海道)

20110722_003.JPGこれまたなんとも長い、檻のようにも見える跨線橋である。駅の西側に、かつては側線が多数あった部分を一跨ぎにする業務用跨線橋。旅客用跨線橋と連続する形で伸びている。

20110722_004.JPGこんな感じでH形鋼を使用している。

20110722_005.JPG旅客が通る部分との間には扉があり、このように注意書きが成されている。


●岩見沢駅
20110722_006.JPG古レールを使用した跨線橋。プラットトラス。桁裏に行っておらず、写真も撮っていないことを大きく悔やんでいる。

脚も古レールで組まれている。脚だけ最新のものに交換、という例も見るだけに、これはうれしい。


●塩谷駅

20110722_007.JPG脚は古レール。跨線橋本体はプレートガーダー。跨線橋の側面は板である。

なんというか…すてき。


青森・北海道の駅における跨線橋 撮り散らし その2に続く)


地図ナイト!

地図ナイト!

地図・航空写真・分水嶺

20110720_002.JPG

7月18日(月・祝)、カルカルで開催された『地図ナイト!』に行ってきた。出演者は次のとおり。

田代博氏(パソコン通信の時代から展望をPCでシミュレーションしている地理教諭。富士見研究家)
今尾恵介氏(地図・鉄道 研究家)
平井史生氏(気象予報士)
近藤賀誉氏(東京カートグラフィック)
野々村邦夫氏(元・国土地理院長、現・日本地図センター・理事長)
小林政能氏(日本地図センター・エンターテイメント担当)

詳細なレポはいずれ公式であがるからそちらに任せるとして、このイベントで「自分にとって、地図とは?」という点に思いが至ったので、そんなことを整理してみる。


●「地図」と「マッピング」は違う

今回は『地図ナイト』であり、『マッピングナイト』ではない。その違いはどこにあるのだろうか。

地図…眺める対象(物)
マッピング…地図(に類するもの)に働きかける/を作る行為(意識、動作)


と考えるとわかりやすい。(「作る」は石川初氏の示唆による)


カルカルでは、過去に2回、『マッピングナイト』を開催している。その内容は、まさに後者のようになっている。対して、今回は『地図ナイト』である。地図を眺めるのが好きな人たちのイベントかな…と思いつつ参加して、まさにそのとおりだった。

平井氏は、マッピングに近い発表だったが、他の人は、地図に働きかけたり、地図を作ったりはしない。「すでにある地図」を読み、そこになんらかのおもしろみを見出す。昔からいる「地図好き」の遊びだ。そのためか、カルカルが初めて、という客が半分くらいだったと思う。また『マッピングナイト』に来ていた層とも異なると感じた。

こうした、「地図好きが地図を眺めているときに考えがちなこと」を可視化すると、とてもおもしろい。



●紙地図のよさ・ネット地図の限界

紙地図のよさは、その大きさである。PCのモニタで見るネット地図とは異なり、その何倍もの大きさで見ることができる。

国土地理院が作る2万5000分の1地形図が「ウオッちず」としてブラウザで見られるのは周知の通りだが、当然のごとく、最大でもモニタサイズ、多くの場合はその数割減の面積にしかならない。
20110720-102.JPG地図閲覧サービス2万5千分1地形図名:茂倉岳(高田)

ここは群馬・新潟県境の清水峠で、上越新幹線や関越トンネルが近く、山岳地としては谷川岳や巻機山などの三国山脈の一角である。しかし、まったく周囲が見えないので、清水峠をご存じない方は、ここがどこだかわからないだろう。

こうした問題は、同類のサービスでも同じだ。
20110720-103.JPG電子国土

いま、ウオッちずは電子国土に準じたものに切り替わりつつあるので、同じものである。

以前のタイプも見ることができるが、状況は同じである。。
20110720-104.JPGウオッちず


2万5000分の1地形図は、もっともっと大きな範囲を一度に見ないと、把握しづらいのがわかるだろう。

古い地図のアーカイブも状況はいっしょ。たとえば明治20年の東京都内の地図。2万分の1。
20110720-105.JPG東京近傍図 中部

この図は、ブラウザ内で自在に拡大・縮小、移動ができるのだが、この窓の大きさでは…。

縮尺の小さなものではもっと顕著だ。

20110720-106.JPG五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国北豊嶋郡高田村近傍

現在の新宿区西早稲田付近、東京専門学校というのは早稲田大学だ。いま大隈講堂があるあたりの「大隈邸」も見える。この迫力は5000分の1ならではだが、ブラウザではこんな狭い範囲しか見ることができない。もしこれが紙であれば、周辺まで広く見て把握することができる。


私がネット地図の表示範囲の狭さを不満に思うのは、ものごとを俯瞰してみる視点を取り去ってしまうからだ。上の地図でいえば、神田川は当時、どこからどうどうなって流れていたのか、ということを、マウスでドラッグすることも、ホイールで拡大縮小することもなく、視線を移すだけで把握できたら! いつもそう思う。

また、ネット地図は、サイトによってUIが異なることも大きなストレスだ。国土地理院のサイト内だけでも異なる。中の人が「電子国土、じゃなくて原始国土だ」といらだつのも当然である。


ウオッちずの危機?

今日、田代博氏のサイトに「地形図が危ない!」と題された一文が掲載された。実は、上記の清水峠の地図も、その話題に関係している。

送電線や発電所が消えている。

私は、国が制作する地図は、プレーンな情報が掲載されているものが望ましいと思う。目的別ではなく、国土がある姿そのものを描いたもの。また、一度盛り込まれた情報は、その情報が消滅したり、より重要な情報に干渉するものでない限り、落とすべきではないと思う。しかし、現在の電子国土基本図は、テロ対策名目で、そこに存在する大きな構造物をなきものにし、「不要だろうから、もうこの情報は掲載しないよ」という基準で歴史的な事項を切り捨てていく。やめてくれ。

地形図だけが送電線や発電所を消してなんになる? 過去に公開された膨大な地図、そして民間による地図や衛星画像。それらに写っているものを、地理院だけが消してどうなる?


なお、「送電線は、登山のランドマークになるから消すな」という意見もあるが、個人的には激しく同意するものの、本質ではないと思う。なぜならば、ランドマークが必要ならば、東京タワーやスカイツリーもそれなりに図示すべきという話になるからだ。地形図に掲載する条件は、ランドマークであるか否かではない。情報として掲載する価値があるか否かだ。



「地図ナイト」。地図を肴に酒を飲むことができる人が楽しむイベント。マニアだと言われようが、これはこれで楽しい。一歩引いた目を持っているからと行って偉いわけではない。写真好きがカメラ好きである場合があるように、地図好きは地図そのものも好きな場合もある。

イベントで、そんなことを考えた。



イベントでは、DAN杉本氏制作の「カシミール3D」を使用したスライドや話がいくつも出た。会場でも「カシミール3D」の本を販売していただいた。ご購入いただいた方、ありがとうございました。また、販売にご協力いただきました(財)日本地図センター様、厚くお礼申し上げます。


函館本線鳥崎川橋梁

函館本線鳥崎川橋梁

コンクリート桁


大きな地図で見る

函館本線の森駅のあたりをうろついていたとき、この鳥崎川橋梁に出会った。複線PC桁だ。持っていたカメラの都合で、2分割で写真を上げる。
20110717_002.JPG(左が函館・森方向、右が桂川・長万部方向)

20110717_003.JPG上の写真の右。(左が函館・森方向、右が桂川・長万部方向)

橋が新しいので、架け替えたのだろうと思っていた。ところが、橋台部分に、こんな銘板を見つけた。
20110717_000.JPG鳥崎川橋りょう
設計 札幌工事局
施工 札建工業株式会社
設計荷重 KS-18
基礎工 フーチング基礎
基礎根入 けた座面から4M5(?)
着手 昭和51年3月
しゅん工 昭和51年10月

とある。

ちょっと引いて見よう。
20110717_004.JPG橋台だけでなく、桁にも銘板がある。

20110717_005.JPG鳥崎川橋りょう
設計 札幌工事局
施工 札建工業株式会社
設計荷重 KS-18
着手 昭和52年3月
しゅん工 昭和52年10月
 
ちょうど橋台の1年後だ。3月着手、10月竣功という、無雪期の作業だということがわかる。「しゅん工」の「ん」に目が行ってしまうのは、本題とは関係ない。

20110717_001.JPGPC桁裏。美しい。ところどころにある点々は、テンションを与えていた鉄筋を切断したあとだろう。

20110717_006.JPGこんな形状をしている。



さて、この桁は昭和52年に架けられた。では、それ以前の桁はどうだったのか。

この区間、森~桂川間(当時は信号場。JR化時に駅に昇格)は、昭和54年(1979年)9月27日に複線化された。その際に、それまでの単線に腹付け増線するのではなく、複線桁を架設した。

1976年の航空写真を見てみよう。
20110717_map.jpg国土画像情報より転載、トリミング)

鳥崎川の西(左)にDD51が牽引する貨物列車が走っている。これが、単線の旧線。その北側に、複線化工事をしているのがわかる。この鳥崎川橋梁の部分は橋台と橋脚が見えている。

橋台の工事は昭和51年なので、まさにこの航空写真が撮影された年度だ。もし撮影が翌年だったら、複線桁が架設された状態だったに違いない。冒頭のGoogleマップと見比べると、それぞれの線形の違いがわかるだろう。
 
この単線の旧線は、森駅側の橋台が残っている。
20110717_007.JPG桁下は、現在のように道路だっただろうから、ここにあったのは下路鈑桁だろうか。

ここもちょっと引いて見る。
20110717_008.JPG右が森駅、左が桂川方面。



余談。

森駅といえばいかめし。
20110717_009.jpg500円に値上がりしていた上、ラップでくるまれていた。

いや、それでもおいしいから、買いますけれど! なお、この日は長万部のかにめしといっしょに豪華にいただきました。

求む 木製扉の形式の名称

求む 木製扉の形式の名称

木製扉の菱形・バツ形等

20110716.jpg北海道でよく見るような印象を持つ、この扉の作り方。この形式には、なにか名前があるのだろうか。建物の「下見板張り」みたいな名前が。

正方形に近い扉の枠を、
外周と、中央に十字型に取り、十字の部分を中心にした菱形(または45度回転した正方形)に板を貼っていく。

少なくとも数年以上前に、函館と足寄あたりで見た記憶がある。しかし、それらは写真に撮っていない。なにかひっかかるものがったのだ。以来、ずっと後悔していたのだが、先日、蟹田駅で見つけた。すばらしい。

この形式の名称をご存知の方、ぜひご教示ください。

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木製扉・木製戸の菱形・バツ形

『DISCOVER JAPAN 40周年記念カタログ』(藤岡和賀夫)

『DISCOVER JAPAN 40周年記念カタログ』(藤岡和賀夫)

鉄道の本

ディスカバー・ジャパン。物心ついたときには、このキャンペーンの後半である「いい日旅立ち」も終わりかけ、「エキゾチック・ジャパン」が始まる頃だった。そのため、DISCOVER JAPANは「ひと世代前の、ちょっと古いキャンペーン」という印象を持っていた。会社に入ってからは、一回り以上上の旅好き上司のDISCOVER JAPANへの思い入れを何度か聞かされ、徐々にそれがどういうものだったかを、「旅のスタイル史」という文脈の中で位置づけるようになった。

本書は、DISCOVER JAPANの綜合プロデューサーだった藤岡和賀夫氏が語る「DISCOVER JAPANとはなんだったのか」という本である。氏によれば、DISCOVER JAPANは、DISCOVER MYSELF、つまり「自分発見」、広い意味での「自分探し」である。

20110715_000.JPG
私は「自分探し」という言葉が嫌いだった。しかし、それは多趣味な人間が嵌る陥穽だったかもしれない。「自分探し」とは、趣味性(ヲタ気質と言ってもいい)を持たない人が、むりやり趣味(らしいこと)を見つけるようなニュアンスに感じていた。それを、多趣味かつその方面に徹底して突っ込んでいく私は、「そんなんじゃないよ、趣味ってものは」みたいなふうに捉えていたのだと、今になって思う。

最近、写真表現について考えることが多く、「自分探し」については捉え方が変わった。とくに何をする必要もない、自分がしていることを集め、俯瞰してみると、「ある傾向」があることに気づく。自分はこれが好きだったのか、と気づく。それは「自分発見」であり、振り返る行為なんだけれども、それに積極性と将来性を加えれば「自分探し」だ。

このブログで例えれば、鋼製トラス橋や鋼製プレートガーダー橋の記事は多いが、鋼製アーチ橋、RC製の各橋はほとんどない。レインボーブリッジのような巨大な橋についてはもっとない。そして、鋼製トラス橋でも、ピントラスが多く、H型鋼を使用した近代的なものは少ない。自分がわざわざ写真を撮るか撮らないか、そこに傾向が出てくる。



本書は藤岡氏が書いてきた文章のアンソロジーでもあるのだが、その中で、藤岡氏は何度となく明言している。「旅に出て発見するのは畢竟自分だ、言うなればDISCOVER MYSELFが旅の極意だ」。

イメージ先行の、その時代の大人のアタマでは理解できない写真で若者を旅に誘うDISCOVER JAPANのポスター。時を同じくしてananとnonnoがブレークしていた。アンノン族の誕生だ。世の中の潮流を作る圧倒的な世代と、DISCOVER MYSELFの同時代性。旅に出た彼女たちは、あるいはDISCOVER MYSELFに成功し、あるいはそんなことをまったく意識せずに適当な旅を終えただろう。彼女たちが何度も旅に出て、自分の嗜好を知っていく。DISCOVER JAPANは、目的を果たした。

キャンペーン第1号ポスターは、日光の牧場で撮影された被写体ブレの写真である。これは強いメッセージ性を持っている。お節介というか、押しつけがましいとも思う。でも、これが選ばれているのも、時代なのだろう。そういうことに気づけたのも、本書を読んだからだ。



もっと、こうしたポスターやキャンぺーンの裏方の様子を見せて欲しかった。なお、本書は前半半分が藤岡氏のアンソロジー、後半は「絶滅のおそれのある懐かしい日本の風景」の話である。前半だけあればいい。


副港橋梁 留萌本線脇の廃橋梁

副港橋梁 留萌本線脇の廃橋梁

プラットトラス

留萌本線の下り列車が留萌駅を出るとすぐに、車窓右に使われていないトラス橋がある。それが副港橋梁だ。



20110713_000.JPGこんな感じで、本線(向こうが増毛側)に隣接して架けられている。写真は手前が留萌方、向こうが増毛方。右の副港橋梁は、このまま朽ちていくのだろうか。

歴史的鋼橋集覧」によれば、1929年櫻田機械製。銘板類は見えない。

20110713_001.JPG副港橋梁の端部は藪で覆われているので、近寄れない。そのため、これくらいしか撮れない。桁下にも潜れない。いや、どちらも、前身を藪に預ける覚悟があればいけないことはないだろうが。

スタイルは昭和初期によく見るパターンで、とりたてて部材の美しさなどは感じられない。

20110713_003.JPG興味深いのは、枕木が残っていることだ。隣の留萌本線の車窓に見えてあわてて撮ったのだが、枕木がわりときれいにあるのがわかろう。


留萌駅の周辺は、貨物輸送がなくなったことで、大きく変化している。たとえば、国土変遷アーカイブより。
20110713-998.JPG画像ほぼ中央が、この副港橋梁と留萌本線。単線並列だ。その右のヤード風が留萌駅、左が石炭桟橋。留萌港の石炭桟橋は、かつてはこんなだったようだ。(函館の絵葉書より)
20110713-199.JPG鉄筋コンクリート製である。そもそも留萌駅(当時は留萠)まで鉄道が通ったのが明治43年(1910年)であるから、まさに鉄筋コンクリートの時代が始まろうというときである。これがそのまま昭和50年代まで使われていたのかどうかは知らない。

留萌駅に、昭和28年(だったと思う)の市街地図が貼ってあった。
20110713_101.jpgいろいろ描き込まれていることだけでなく、「留萠」の「留」の省略形も興味深い。


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2012.9.4追記

副港橋梁(留萌)脇にかつてあったアラントラス?
留萌本線の脇にかつてあったアラントラス?のつづき。



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