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阪急 新淀川橋梁に続く長柄運河の橋梁(大阪府)

阪急 新淀川橋梁に続く長柄運河の橋梁(大阪府)

プラットトラス



先に書いた『本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)』にも写っている、すぐ隣り(東側=上流側)にかかる三複線の橋梁である。とても撮りづらい。歴史的鋼橋として記載されているのは、ここに紹介する桁と堤防を挟んでつながる『新淀川橋梁』の下流側の2複線。ここに掲載するのは、かつて長柄運河だったところに架かる桁のみであり、おそらく『新淀川橋梁』ではない。正式名称は不明なので、『長柄運河の橋梁』とする。

元々、この下流側の2複線しかなかったのだが、上流側にさらに複線が開通したのが1959年(昭和34年)2月18日。これをもって、梅田~十三間が3複線となった。なお、地形図はその差異をなぞっていない。以下、便宜上、下流側から「下流桁」(トラス+鈑桁)、「中央桁」(トラス+鈑桁)、「上流桁」(鈑桁)と書く。

20110318-01.JPG中央桁。5格間の100フィートプラットトラスだ。おもしろいのは中央格間にハシゴがつき、上弦に登れるようになっていることだ。通常、この手の階段は端柱に刻んである。

20110318-02.JPG支承部分。

20110318-03.JPG中央桁の裏面。

20110318-04.JPG下流桁の裏面。

20110318-05.JPG右=中央桁、左=下流桁。

20110318-07.jpg20110318-06.JPG上流桁。これのみ、1958年(昭和33年)製造である。他のトラスは、1926年(昭和元年)7月3日開通となっている。

この3複線区間の歴史はいささか複雑である。私自身が阪急に詳しいわけでも基礎的知識があるわけでもないので、ボロがでないように書く。

・1910年(明治43年)3月10日 箕面有馬電気軌道がこの区間を開通。
・1926年(大正15年)7月5日 高架化(下流桁と中間桁使用開始)
・1959年(昭和34年)2月18日 3複線化(上流桁使用開始)

20110318-07.jpg上流桁のみ銘板がある。上り線の桁の東側、梅田方のもの。

京阪神急行電鉄株式会社
活荷重 71.12t 電車荷重
支間 35.600M
重量 37.080T
汽車製造株式会社
昭和33年製作

「京阪神急行電鉄」と名乗っていたのは、1943年(昭和18年)10月1日 から1973(昭和48年)3月31日限り。
「汽車製造会社」が存在していたのは、1972年(昭和47年)まで。

もう一丁。下り線の西側、梅田方についているもの。
20110318-08.jpgこちらは左上のネジが飛ぶのが仕様らしい(笑)

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本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)

本邦最古の鉄道用桁 浜中津橋(大阪府)

ポニーワーレントラス



有名な浜中津橋。詳細はwikipediaがあるので、そちらに任す。さらなる詳細は、土木史研究発表会論文集の1987年6月分にあったはずなのだが、ちょっとリンクが見あたらないのでわかったらリンクすることにする。歴史的鋼橋集覧もぜひ。大阪市のサイトにすらある。

20110317-07.JPG阪急各線が梅田を出て、中津を過ぎて新淀川を渡る直前、車窓左にこの桁が見えるはずだ。写真奥は1926年開通の阪急の新淀川橋梁だ。

水平がおかしいように見えるかも知れないが、画像右に向かって下っているから、これでいい。勾配は1/32。右が梅田方(大阪駅方)、左が新淀川方である。

浜中津橋の下は遊歩道である。もちろん最初からこうだったわけではなく、以前はここは長柄運河という独立した川だった。そのため、ここに架橋が必要だったのだ。


この桁は数奇な運命を辿った桁で、1874年に鉄道が開通した際、単線桁として使用開始された。しかし、複線化を織り込み済みであり、本来の姿は3主構(トラスが3つ、トラスの間に線路が敷かれる)であった。それの、「中央主構+側主構」のみでとりあえずは製造された。煉瓦積み隧道でいえば下駄歯仕上げにしてあるようなものである。

それが、後日複線化され、やがて道路橋に転用された。その際には最初からあった側主構が撤去され、中央主構と追加された側主構だけが転用されたのだ。土木学会をして「撤去の時期が来たら復元保存すべき貴重桁である」と言わしめる存在である。

あとは写真を並べるのみ。
20110317-09.JPG追加された端部の部材。また、裏側をよく見て欲しい。

20110317-10.JPG両サイドの水色のトラスが本来のもので、4本の縦桁は後生に加えられたもの。

20110317-11.JPG床版は、このようトラスの下弦からは浮いている。

20110317-03.JPG親柱1。梅田方・下流側。

20110317-04.JPG親柱2。梅田方・上流側。

20110317-05.JPG親柱3。新淀川方上流。

20110317-06.JPG親柱4。新淀川方下流。

20110317-02.JPG梅田方から。

20110317-08.JPG塗装標記。

20110317-01.JPG斜材の様子。

<参考文献>
冒頭にリンクを貼った各文献。


木津川橋梁 (京都府)

木津川橋梁 (京都府)

プラットトラス



京阪電鉄 宇治川橋梁(京都府)の続き。

20110316-02.JPG下流側から。左が京都方、右が大阪方。

この橋梁は宇治川橋梁の兄弟で、基本的には同一仕様。両端が少し短い5パネルのプラットトラス、これはおそらく長さ25mほど。中間7連が6パネルのプラットトラス、これが宇治川橋梁と同じなら36mほどとなっている。文末資料によれば、径間は28.2mと37.8m。

20110316-04.JPG上流側から。撮像素子のゴミが鬱陶しい…。

京都方(右)の2連は、塗装工事中である。

20110316-01.JPG
6連のトラスを側面から。

宇治川橋梁と同じく、このトラスは「コリジョンストラット」が特徴的である。コリジョンストラットとは画像に赤矢印を引いた部材で、端柱(トラス両端の斜めの部材)の中間から下弦材の第1格点とを結ぶ部材。

このコリジョンストラットがあるのは、たしか英国系トラスだったと記憶する。1880年代の200フィートダブルワーレントラス(錬鉄)において、日本で建築師長であったポーナルの元で設計された桁にはこのコリジョンストラットがあった。しかし、それを英国在住の顧問技師、シャービントンがチェックしたところ、コリジョンストラットをやめ、垂直材を追加するなどした例がある。

また、1896年に開通した、やはりイギリスのハンディサイドで製作された日本鉄道の隅田川橋梁にも、コリジョンストラットがある。リベット結合の200フィート複線プラットトラスで、これはのちに川崎の江ヶ崎跨線橋に転用されている。現在は撤去されたが、写真は残っている。
在りし日のの江ヶ崎跨線橋。川崎市のサイトにリンク)

コリジョンストラットは、意味からすると「対抗する支柱」のようなものになるのだろう。引張力がかかるらしいが、なくてもいいということは、ほとんど意味をなさないということか。計算する術もなく、ただスケルトンをなぞるがまま。


20110316-03.JPG話を戻して、橋門構。向かって左が塗り替え中。ひとつ奥の桁は、左側のトラスの一部だけが塗ってあって、いかにも作業の途中らしくて好もしい。


この木津川橋梁については、とくに短い桁だけでも塗装標記を探して撮るべきだった。失敗した。

(追記)
この複線トラスになる以前、ここには別の9連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があり、車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。

鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。

(*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。

大船渡線 第二砂鉄川橋梁(猊鼻渓にかかる橋)

大船渡線 第二砂鉄川橋梁(猊鼻渓にかかる橋)

鈑桁(プレートガーダー)


20110315.jpg
大船渡線の猊鼻渓にかかる橋梁である。名称は第二砂鉄川橋梁。砂鉄川は北上川の支流だ。猊鼻渓に至るまではかなりの急流である。

橋脚は石積みの円筒形。大正末期から昭和初期に見られる気がする。上越線の土樽付近などにもある。

銘板等を一切撮らなかったのが悔やまれる。ここ、クルマを停めてじっくり見物できるような場所ではなかったので…。


この橋梁に列車が走ることは当分ないだろう。地域が復興し、再び列車が走る日を心待ちにしている。


No Image

東北地方太平洋沖地震 当日ログ

記憶

東北地方太平洋沖地震当日、何をしていたかを忘れないうちに記録しておきたい。自分の記憶のためのものなので、お読みいただくほどのものではありません。あしからず…。なお、鶴川駅周辺やゴールポイントは、プライベートな情報であるため、一部曖昧にしてあります。


より大きな地図で 磯部祥行@tenereisobe を表示


その日は、丸田祥三さんとデニーズで10時から打ち合わせしていた。長丁場の打ち合わせも後半に入った頃、14:46に店内が大きく揺れた。窓の外の木も揺れている。「どうせすぐおさまるだろう」と思いながら「大きいね」などと話していたら、一段と揺れが大きくなり、停電した。そこで、テーブルの下に隠れなかったのは、気恥ずかしさがあったからだ。

貴重品だけ持って、とりあえずは店外へ。その場で私は家族にメール。とりあえず送信はできた。ついで、こういうときにこそツイッター。震源や震度などの情報を得る。震度6、という数字に驚く。

デニーズ店内は停電していたが、会計を済ます。ふと見ると、ぼくらの隣の卓にいたおじさんが、店外に出ずにずっと食べ続けていた。そして、いったん外に出たと思しき女性グループが、「なにか食べられない? 飲み物でもいいわ」などと、なにごともなかったかのように店員に尋ねていた。店員は「停電なのでなにもできません」と断っていたが、食い下がっている…。

地震の瞬間も、クルマは普通に走っていた。何度目かの揺れの時、左に寄せて停止したクルマがあった。道路は信号が消えていた。



しばらく、安全に見える屋外駐車場で待機したあと、15時30分頃、丸田さんのクルマで丸田さん宅へ。ご両親とともに待機する。しかし、余震がおさまらないため、戸外のクルマで待機することにする。私はクルマの中でワンセグ中継を見ていた。

少ししてから買い出しに。丸田さん宅から数十メートル離れたところでは、停電していないことがわかった。ちょっと悔しい(?)。ついでに公衆電話から災害用伝言ダイヤル(←「ダイヤル」…)にかけたが、自宅のある03地域は対応していないとのことに落胆し、セブンイレブンへ。セブンイレブンは停電しており、レジも使えないので手計算で販売していた。食材、パンは売り切れ。カロリーメイトが10箱くらいと、パンコーナーにあるお菓子類があったので、それらを2000円分くらい買っておく。

再度、丸田さん宅で待機。その間、たびたび余震に襲われる。かなり暗くなってきたのと、家族から連絡が入らないこともあり、意を決して徒歩あるいは途中で自転車を買うなどなんらかの手段で帰宅することにした。丸田さんから「クルマ貸そうか?」との、これ以上はない言葉をいただいたが、道路の大渋滞が懸念される、というか買い出しの時点で、普段は交通量の少ない通りが渋滞していたほどだったので躊躇していると、ふと鶴川に住む友人を思い出した。彼のところに行けば、バイクか自転車を貸してもらえるに違いない!

丸田さんに話し、友人宅に送ってもらう。当然、電話が通じないので突然押しかけることになる。送っていただく道中、停電しているエリアもあればそうでないエリアもあった。停電エリアでも信号が機能しているところもあれば、信号ごと停電しているところもあった。鶴川の駅に向かっての渋滞がひどく、3kmほどを30分以上かかった。鶴川駅を見下ろすあたりでは、町全体が停電しているのに、駅と列車は停電していないことがちょっと不気味といえば不気味だった。



友人宅。近づくと、中でライトが動いていた! やった! 停電しているのでチャイムも鳴らないので、玄関ドアをノックしながら「いそべです! 突然スミマセン!」 すると、友人は驚きながらも出迎えてくれた。ここで、ここまで一緒に過ごし、送ってくださった丸田さんに感謝しつつ、お別れした。

友人宅は停電こそしていたものの、ガスと水道はOK。コーヒーをいただいた。なんとも厚かましい、バイクか自転車の貸し出しを申し出ると、快諾してくれた。本当に感謝。



そこから帰宅まで約1時間半。世田谷通りを上る。かなり渋滞している。バイクでよかった。都内に入ると突然空き始め、そのまま環七へ。環七外回りはそこそこの混み方。そして、大原付近からはガラガラになった。



20:45頃、帰宅。しばらくネットを見たあと、家族が広尾の帰宅支援センターにいるというのでクルマで迎えに行く。幹線道路が大渋滞していることは知っていたので、裏道、抜け道的なところを行く。R246が恐ろしいことになっているので迂回していたら、偶然青山墓地を通りR246の下をくぐるルートとなり、1時間半ほどで広尾についた。ふだんの夜中の倍くらいか。

そこで家族と再会し、帰宅しようとするも、R246の壁に阻まれて約1時間後にまた広尾に戻ってきた。改めて恵比寿から中目黒に出て、中野通りを主に使いながら練馬まで帰った。中目黒から練馬まで1時間20分かかった。



翌日、翌々日とも、自宅待機。何をする気にもならなかった。体調も悪くなった。



私の周囲にも、長時間歩いて帰宅した人がたくさんいた。そんななか、バイクという飛び道具を得たぼくはとてもラッキーだった。でもね、考えようですよ。

都心部でも、自転車は入手できる。ぼくの勤め先、銀座でいえば、ビックカメラで自転車は売っている。1~2万円でそれに乗って帰るか、家族と連絡がつかない状況で5~6時間歩くか。

あるいは、友人から自転車やバイクを借りる。図々しいことだけれど、ひとつの手段として知っておいて損はない。もし、またこういうことがあった場合、ぼくは自転車やバイクを貸しますよ。場合によっては、バイクで迎えに行ってもいいです。どんどん利用してください。



今回思ったこと。

ツイッター
・ツイッターの使い方が、如実に表れる
・RTの使い方がうまい人と下手な人がいる
RTの「うまい」「下手」から、つまり、ぼくの好みがわかった。
・不安を煽るツイートやデマを拡散する傾向の人がいる
ぼくの好むツイート、というものがわかった。

帰宅支援センターの状況
・19時頃には利用者もまばら
・19時30分ころにはかなり増え、毛布も足りない状態に
・人が少ない頃に来たオバチャンたちが毛布を7枚確保して隠していた
・体育館はとても冷える。どこかで段ボールを調達してから乗り込むといい
・暖房は、巨大なヒーターひとつ
・足の臭いがすごい。たぶんブーツのせい

情報
・「政府は隠している」という陰謀論を語る人がいる
・インフラの復旧が遅いことについて、怠慢だという人がいる→関係者がいちばん必死だよ
・原子力について、質問する記者も、答える総理も理解していない→どんな記事になるのだろう…
・「未定」という記者発表に対して「どのくらい未定なのか」というバカな質問をする記者がいる。
「検討する段階に至っていないということだ」という回答に食い下がってどうすんだよ。
・「1000マイクロシーベルト」ばかり広がり、それがどういう単位なのかの説明がない。
後刻、徐々にそれがどのようなものかの解説が出るようになってよかった。

ちょっと後悔
・カメラを持っていなかったこと。消えた信号機、真っ暗な住宅街、交通整理をする警官など、撮っておきたかった。

以上。追記するかもしれない。


No Image

心よりお見舞い申し上げます

独言・日記

東北地方太平洋沖地震およびそれ以来頻発する地震で被害に遭われた方に、心よりお見舞い申し上げます。

当方、幸いにも破損等の被害は皆無でした。
取り急ぎご報告まで。

交通協力会のアーカイブに『日本国有鉄道百年史』が!?

交通協力会のアーカイブに『日本国有鉄道百年史』が!?

アーカイブ/資料/自分用メモ

財団法人交通協力会という組織がある。ものすごく簡単に言うと、いまの『交通新聞』の前身、『陸輸新報』を発刊していた財団法人陸運協力会の後継組織である。陸運協力会というのは、『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に描かれた片岡謌郎が設立時の理事長、相談役を『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』でお馴染みの久保田敬一が勤めた組織で、主たる業務は鉄道の広報・連絡メディアたる新聞、『陸輸新報』の刊行にあった(前述『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』高坂盛彦著による)。

いま、この組織がなにをやっているのかはわからないが、電子図書館という名称でアーカイブを展開しようとしていることに気づいた。利用には、無料での登録が必要である。

現在、閲覧できるのは『交通年鑑』(1947~2009年版)だけであるが、「準備中」として以下のものがある。

『国有鉄道』
『国鉄線』
『交通技術』
『日本国有鉄道百年史』
『交通』

『日本国有鉄道百年史』だと…!? 


現在、交通年鑑だけが閲覧できるはずであるが、なぜか「全ページ閲覧」は元データを別階層に老いてあるらしく、エラーが出てしまう。検索して、当該ページだけを表示させることはできるので、その要領で1ページ単位で閲覧することは可能である。

検索は、本文をOCRで読み取ったらしく、かなりアレなようであるが、ないよりはずっと便利である。
7e215a2f.JPGここでは、「音更川」が「音夏川」「音更]J[」などとなっている。

早くすべての文書が閲覧できるようにならんことを! 有料でもかまわない!


以下まったくの余談だが、「電子図書館利用マニュアル」を見ると、なんとsafariの画面をキャプチャしてある。こういった組織ではWindows+IEが標準だと思っていたのだが、さにあらず。担当者の個人的な好みだろうか。



久保田敬一という名前を書いたので、さきの『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に書き忘れたことを書く。

橋梁好きにとって、久保田敬一といえば橋梁技術者として知っているだろう。私は上記の本を読むまで、鉄道次官まで上り詰めた人だとは、恥ずかしながら知らなかった。上記の本には、片岡と、豪放磊落な久保田のコンビのエピソードがいくつも出てくるが、久保田の橋梁技術者たる描写は一切ないというおかしさ(私にとって)。官という組織が非常に興味深く、いずれまとめたらwikipediaにでも久しぶりに書こうかとでも思っている。

宇治川橋梁 京阪電鉄(京都府)

宇治川橋梁 京阪電鉄(京都府)

プラットトラス



20110308-01.JPG(上流側左岸=南から)

京都府下を南へ西へと向かう3本の川、北から桂川、宇治川、木津川は、JR大山崎駅の南でほぼ同時に合流し、淀川となって大阪湾まで下る。川の定義としては、琵琶湖に発する宇治川が淀川の本流であり、桂川と木津川がそれに合流するという言い方となる。

桂川と宇治川に挟まれたところに京都駅があり、そこから京阪本線が大阪に向かうのだが、途中で宇治川と木津川を跨いで、合流後の淀川の左岸(南側)を走るようになる。その、宇治川を渡る部分に架かるのか、この宇治川橋梁である。

20110308-09.JPG(下流側、左岸=南側)

このように、複線の直弦下路プラットラスが7連。うっかりしたことに、上画像で言うと踏切の右側はプレートガーダーなのだが、その写真を撮ってないどころかまともに見てもいない。

20110308-02.JPGトラスのディテール。歴史的鋼橋集覧には寸法は書いていない。たしか『鉄道ジャーナル』の連載で採り上げられていた気もするが、その切り抜きもあったはずなのだが、なぜかいま手元にないので諸元は不明。ただ、橋長257mで7連ということは1連約36mの計算になるが、後述の標記から支間は33.94mとなっている。

このトラスの特徴的な点は、斜材の角度が急に見えることだろう。試しに中央の2パネルの\/という位置の斜材を抜いてみれば、通常の垂直材付きのワーレントラスで見慣れた斜材の角度を描く。ほぼ正三角形だ。

20110308-99.jpg中央の2格間を拡大する。面白いのは、圧縮力を受け持つ斜材(\/、太い、引張力を担当する)とその補強として入る/\の部材(細い)が交わる点を結合しているプレートの形状だ。普通に(?)長方形ではなく、ひしゃげた形をしている。

20110308-98.jpg正面。うまい場所に踏切があったものだ。

20110308-07.JPGその奥。

20110308-08.JPG塗装標記は端柱に。

橋梁名:宇治川橋梁(第1径間)
支間:33.94M
塗装年月日:平成20年5月27日
塗装回数:2回塗
塗装種別・塗料名:下塗 Vグラン(グレー)
増塗(下塗) Vグラン(グレー)
上塗 VトップHB(京阪さび色)
塗料製造会社:大日本塗料株式会社
施工会社:(株)京阪エンジニアリングサービス
(株式会社ハーテック)

ここで支間がわかる。また、塗装の色が「京阪さび色」という名称であることもわかる。

ではその支承へ。
20110308-03.JPGピン支承。可動するようには見えない。橋台の一部が煉瓦積みであることが驚きだ。この橋の開通は1929年(昭和4年)。煉瓦の時代でもあるまいに…。

また、塗装がきちんと塗り分けられているのが興味深い。そして、トラスがリベット結合であるのに対し、支承はボルトが多用されているので、後年の補修とわかる。

20110308-06.JPG橋脚側。
やはりボルトが使われている。向かって右に所在なげに立っているボルトは、かつての支承を支えたボルトだろうか。

20110308-10.JPG反対側に回ったら、支承の銘板があった。
京阪電気鉄道株式会社
1996年6月
宇治川橋梁支承取替工事
松尾橋梁株式会社

とある。

20110308-12.JPG桁裏その1。

20110308-11.JPG桁裏その2。

20110308-13.JPG橋脚の銘板もあった。

京阪電気鉄道株式会社
宇治川橋梁橋脚補強工事
P1 P2 P3
昭和48年度工事
(株)森本組




なにかの参考になるかもしれないので、部材の画像を上げておしまい。
20110308-04.JPG20110308-05.JPG

(追記)
この複線トラスになる以前、ここには別の7連(*)の複線トラスが架かっていた。径間28.2mと37.8mの2種類があったが、ここでは径間37.8mのもののみであったろう。車両大型化による耐荷力が不足するために架け替えられた。『鉄道ピクトリアル』1984年1月号に写真が掲載されている。

鉄道院設計桁を元にしているが、走行するのは電車のみのため、耐荷重を軽くし、「軽快」(後述資料)な姿をしていた。

(*)『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第6報)--国内設計桁--』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、「木津川に7連、宇治川に9連」という旨の記載がある。しかし、現在は木津川に9連、宇治川に7連なので、これは誤記であろう。

R20旧道 国界橋(山梨県)

R20旧道 国界橋(山梨県)

鈑桁(プレートガーダー)


きっかけは@golgodenkaさんがアップした写真だった気がする。@adusa2gouさんだったかもしれない(すみません)。国道20号が山梨県から長野県に入るときに渡るのが「新国界橋」である。その旧橋の写真がアップされているのをみて、その存在に驚いた。

(golgodenkaさんの記事はこちら国道 20 号旧道【旧国界橋】 - 発見当初は廃線跡かと思った』参照)

そのすぐ近くには「道の駅蔦木」があり、その裏手はゲリラキャンプをするのにちょうどいい場所になっている。何度もキャンプをしているし、あるいは何度も車中泊もしている。山梨県側にはセブンイレブンがあり、そこまで何度も国道を歩いている。それなのに、この橋の存在に気づいていなかった。

ここに、丸田祥三さんと向かった。廃道写真集の撮影で、とある山中を3~4時間ほど歩いた後、ちょっと離れてはいるけれど丸田さんのご厚意でそこに連れて行っていただいた。

20110306-02.JPG信号を南に入るといきなり砂利道。幅員はまあまあ。前方に、ネットと橋が見える…。

砂利道の幅と、橋の幅を見比べていただきたい。

20110306-01.JPGどん。
獣害除けのネット。電流が通じているので、その向こうに国界橋が見えながらも行けない。ぐぬぬ。

現地の左右は畑、もちろん中に踏み込むことは不可能。

よく見ると、向かって右側にはさらに旧橋と思しき橋台がある。
20110306-03.JPG(赤枠の部分)

振り返って交差点のほうを見るとこう。
20110306-04.JPGこの細い道が、かつて国道20号だったとは、にわかには信じがたい。

20110306-05.JPG畑に降りる道があったので、そこから。上記の砂利道部分は、きちんと盛り土してあり、側面は石垣で固められている。

こちら側からの侵入はあきらめて、反対側に向かう。反対側からは行けるというのは、golgodenkaさんからお聞きしていた。

20110306-06.JPGもうすっかり日が落ちてしまったが、それゆえに荒涼感を醸し出す。

欄干というか、ンプレートガーダーの主桁の高さがない。

20110306-08.JPGこうして桁の側面と路面の高さを見ると、中路であることがわかる。

20110306-10.JPG欄干に見えるけれど、主桁。

20110306-09.JPGその一角に、銘板。昭和四年。1929年。82年前。

昭和4年ならば、まだ金属の節約をとかくやかましくは言わない頃だ。もし15年後だったら、きっとコンクリート製になっていただろう。そして、廃な風景のあり方も変わっていただろう。

『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)

『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)

鉄道の歴史・人物史

P3053571_R.JPG片岡謌郎(かたおかうたろう)という人物を軸にした国鉄史であり、大変な労作である。史書にはいくつかの手法があり、代表的な者は企業側の立場に立って編年で記述するもので、例えば運輸行政ならば、事務次官は○年○月○日からは誰々、何をした、次いで○年○月○日からは誰々、何をした、というものだ。もう一つのメジャーな手法は、人物を主軸にして、○年○月○日からは何をした、○年○月○日からは何をした、と記述していくものだ。本書は後者にあたる。『日本の鉄道をつくった人たち』(悠書館)も、そうした手法を取ったものだ。

『カラー版鉄道の旅手帖』を作った頃から、鉄道官吏に関心を寄せていた。谷口梨花が約100年前に作った観光案内を元に制作したらどうかというライターの案にのっかったもので、谷口自身も官吏ならば、元本には床次竹二郎や木下淑夫らの推薦文が掲載されているあたりに「官」という独特の組織に興味を抱いたのだ。折しも道路に関する内容で、国交省の組織などにも少し足を踏み入れたときでもあった。

時代が時代であり、大学を出ればそのまま行政組織の幹部候補として超エリートの道を歩んでいくその道程。いまでも警察をはじめ、国家公務員というものはそうなのかもしれない。基本的に大卒しかいないという民間企業に勤めている者としては、想像を絶する世界である。

しかし、あまりに複雑怪奇な組織の変遷と、関係してくる膨大な人物の数と姿に恐れおののき、手をつけられずにいる。井上勝や仙石貢とはかどうでもいい。その下、実行部隊としての組織の長として、なにをやったか、どういう人物だったか。それはとても興味深いものだし、今の時代だからこそ受ける要素も十分にあると思う。


片岡謌郎はなにをした人か。誰もが知る事業に通じることだけを書けば
・鉄道弘済会を設立
・交通新聞(の前身)の発刊
・日本通運を設立
あたりか。といっても、「いまの人」には、鉄道弘済会が元々は業務上障害を負ったり殉職した職人の、職員または家族の救済事業が目的だったり、日本通運が国鉄貨物(大運送~だいうんそう)と自動車(小運送~こうんそう)とのフィーダーであったことなど知らないかもしれない。


本書を「労作」と言った所以はふたつある。

ひとつはは、膨大な資料から、片岡に関することを抜き出し、それを片岡の生涯や事象に絡めてまとめたこと。対象となった資料は、一般公開されていない議事録なども数多く含まれる。もう一つは、片岡の家族から、著者が直接聞き取った内容がふんだんにちりばめられていること。後者が、本書の最大のセールスポイントであると思う。よくある、他誌の要素をコピペして作ったものとはワケが違う。著者がこの作業をしなかったら世に出てこなかった片岡のエピソードがあるのだ。

前者、資料からの抜き書きについて。
本書の巻末に、刊行文献が羅列されているが、その数に圧倒される。箇条書きで、なんと17ページ。中には重複もあるのだが、この参考文献を見ても、著者がどれだけ勉強家なのかがうかがえる。片岡はドイツに留学しており、その際の記述に必要だったのだろう、『ワイマール共和国物語』『ワイマール期ベルリンの日本人』、片岡がドイツ国鉄の研究を発表した際の記述に対しては『ドイツ公企業史』『第一次大戦後におけるインフレーションとドイツ鉄道』ほか多数の文献が挙げられている。記述に登場する人物や事象について、単に事典で調べるだけではなく、その背景を理解するために何冊も本を読む。その姿勢にとても共感する。

参照した資料には、こんなものまであるのか、と思うようなものも散見される。片山が時代を同じくした同僚たちの自著、回想録、逝去時の記念本。たかが(!)鉄道官吏について、その息子が父について本を出したりするなど、不思議な感じがする(片岡のことではない)。

ただし、若干、他誌からの抜き書きが多すぎると感じた。とくに歴史的事項への評価などは、著者の言葉でも一般的な言われ方でもなく、歴史書からの引用という形でなされている。例えば、日華事変勃発後に中国に送られた兵力について、参考文献を文中に記している。


後者、片岡の家族からの情報について。
長男・輝雄(東京大学名誉教授)、次男・久(元新潮社)から、多数の書簡やメモの提供を受けたそうだ。著者曰く「肉親でなければ知りえない片岡謌郎の風貌、信条、行動についてお手紙、面談により貴重なご教示を頂戴した」。これがあってこそ、著者は「片岡像」を確実なものとし、それに沿った一冊としてまとめあげることができたのだろう。ここが、本書のものっとも素晴らしい点だ。私のように机上で満足している者にはとうていなしえない作業だ。


本書だけでは、片岡の事績をすべて理解することは困難である。それは、片岡の事績も人的交流も多岐にわたりすぎ、その把握すら覚束ないからだ。登場する人物は多く、登場するたびに肩書きが違う。その肩書きを知るために、国鉄という組織とその変遷を把握する必要がある。

登場する人物に関しては、片山の後輩、友人のように文中に登場する佐藤栄作、下山定則、加賀山之雄、長崎惣之助、十河信二あたりならどういう人物だったかもわかるのだが、佐藤栄作の政治的功績は知っていても、鉄道官吏時代についてまで把握している人などほとんどいないのではないか。また、もっと(今となっては)名の知れぬ、当時のエリート幹部たちの人物像を把握しないと、きっと片山のすごさは実感できないだろう。

こういった点で、本書はあくまで概論であり、新たな興味を拓くきっかけになりうる、素晴らしい本だと思う。読者にいままでなかった視点を与え、かつ視野を広くしてくれる(参考文献を提示してくれている)点で、産業史が好きな人におすすめしたい。

とりあえず、『人物国鉄百年』(青木槐三)は入手した。他に私が「読んでおかなければ」と思う本は、いくつかネットで見つけたものの、高価だったり、珍しくオークションに出たと思ったら高額になってしまったりで、「狙っている人はいるんだなあ」と感じている。


最後に。こんな(失礼!)本を刊行する、中央公論新社に、著者に次ぐ賛辞を贈りたい。


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