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中央本線 新第二桂川橋梁

中央本線 新第二桂川橋梁

ワーレントラス

国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)のつづき。中央本線の新第二桂川橋梁である。なぜ「第二」なのかといえば、東京方に新桂川橋梁というものがあるのである。そのあたりは
中央本線 新桂川橋梁(1)
中央本線 新桂川橋梁(2)
に詳説した。

場所は、大月橋と同じくここ。



桂川の上流側(富士吉田側)からはこのように見える。
20110410-08.JPG手前の上路カンチレバートラスが国道20号大月橋で、その向こうに見えるごついイメージの上路ワーレントラス二つが、中央本線新第二桂川橋梁である。その下に見える橋脚は、さらに向こうの新大月橋(国道20号旧道)のものだ。

ここでは橋梁全体は見えていないので別の場所から…
20110410-07.JPG20110410-05.JPGなぜか全景を撮っていない。撮りづらかったのかもしれない。

いずれにしろ、5パネルの上路ワーレントラス。通常、上路トラス橋は、両端の形状が斜めではなく垂直材で終わっているが、実際にはその部材は単純な圧縮力を受け止めるだけでそれほど重要ではないので、この場所のように橋台がその役割を果たす場合は省略できる。

20110410-02.JPG真下に入って対岸の橋台を見る。左が下り線、右が上り線。左の橋台はコンクリート製、右の橋台は石積であることから、右が古く、左が複線化時に設置された新線だということがわかる。

振り返って。
20110410-03.JPG同様に、右(下り線)がコンクリート製、左(上り線)が石積。もっとも、そのさらに下部は、コンクリートで作り直されたのか補修されたのか、ともかく年代を新しくしている。

橋台には銘板があった。
20110410-06.JPG新第二桂川橋りょう
設計 東京第二工事局
施行 勝村建設株式会社
設計荷重 KS18
基礎工 鉄筋コンクリート
基礎根入 天端から18M.00
着手 昭和39年8月24日
しゅん工 昭和40年8月23日

この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。


20110410-04.JPG桁を増したから見上げる。電車が通過するゴウゴウという音はすさまじい。



かつてここにはA&Pロバーツ製の200フィート上路プラットトラスが架けられていた。1901年(明治34年)製で、1902年(明治35年)開通。しかし、不思議なことに、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その5』(小西淳一・西野保行・淵上龍雄)によれば、撤去は昭和43年(1968年)だという。そうすると、複線化の時期と合わせるには、

1)既設線に平行して新線を設置。新線を下り線とする。上り線は旧橋のまま
2)上り線の旧橋を交換する

という手順が必要となる。そうでない方法を取るなら、さらにもうひとつ廃橋跡があるはずである。このあたりがちょっとわからない。


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国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋

国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋

橋梁一般

約1年前、山梨県大月市の国道20号大月橋について『国道20号大月橋(山梨県大月市)ゲルバートラス桁』を書いた。ここには、南から、

国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)
・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス)
・JR中央本線 新第二桂川橋梁下り線(上路ワーレントラス)
・(市道?)新大月橋(上路プレートガーター)

と、四つの橋が平行してかかっている。大月橋の記事では「興味深い発見」などと書いたが、それは次のものである。

20110409-02.JPGこれは桂川の右岸(東側=大月駅側)で写したもの。左端に写ってしまっているものが、国道20号の大月橋。メインで写っているのが中央本線の第二新桂川橋梁2線分。右が、新大月橋。その下、赤い矢印をした部分に橋脚がひとつ、その右、赤い矢印をした部分には橋台が残っているのだ。

これについて、『山さ行がねが』のヨッキれんさんと、写真家の丸田祥三さんにお話ししたら、お二人とも資料や写真をお持ちだった。すごい。今回、それらをお借りできたので、自分が再調査したこともふくめて1年ぶりにここに報告する。


新大月橋は、ここにある。




この橋の真下に橋脚が、そしてその北側に橋台と橋脚の痕跡がある。左岸がわかりやすいので、そちらからいこう。

20110409-04.JPG左の新大月橋の橋台はコンクリート製である。他面左端には橋脚があるのだが、その間にひとつ、背の低い橋脚がある。

その右には、やはり橋台と、石積みの橋脚がある。右側の橋台の延長線上には、橋脚の痕跡として円柱がふたつ、見えている。

20110409-09.JPG新大月橋の上から見ると、右の橋台はこんな感じ。その上、畑になっているが、そこがかつて道路だったのだろうと推測する。その右にも橋台らしき形状をしたものがあるが、その対岸は完全に擁壁になっているので関係があるのかどうかの推測ができない。

20110409-99.jpg橋脚の痕跡を同様に見る。まるでトウモロコシの断面だ。

状況からすると2ヶ所に橋脚の痕跡があるべきだが、もう1ヶ所のあるべき場所にはそれが崩れたとおぼしき石が散乱している。

通常、橋梁が鉄橋される際、「河川を占有していた」橋脚は完全撤去を求められると国交省地方建設局の人に聞いたことがあるのだが、ここは例外、というか「体勢に影響ないからそのままでいいよ」となったのだろうか。

右岸を見る。

20110409-05.JPG左岸は降りられなかったので、至近距離で撮る羽目になり、ちょっと状況がわかりづらいかもしれない。右に画面から欠けているコンクリート製のが新大月橋下の古い橋台、画面中央の石積みのが古い橋台。

20110409-03.JPG別の角度から。橋脚がこの位置にあるのであれば、その上にはどのような橋が架かっていたのだろうか。

橋脚から飛び出す鋼材の角度を考えると上路アーチ橋だろうか
上路トラス橋や上路カンチレバートラス橋ならば支承を設けるだろうし、ラーメン橋にしても同様か、あるいは鋼材の角度がおかしい。(上路アーチ橋も支承を設けるのではあるが…)

旧旧道(?)の写真を丸田祥三さんからご提供いただいた。1980年の状態をご覧にいれたい。
20110409-14.jpg新大月橋から身を乗り出して撮影されたもので、石積橋脚が完全に残っている。そして、その上部を見ると、ここにかかっていたのはやはり支承を要する桁橋ではなく、アーチ橋ではないかと思えてくる。現・新大月橋の下には1スパン、その隣りに橋脚の痕跡だけ残す橋には3スパンのアーチ橋。

ただ、残念ながら、その確証は得られていない。大月市史等で架橋について見いだせた記事は、わずか下記のもののみである。

大月橋 廣里村字大月、花咲間/桂川/明治十七年架設、経営は県
(北都留郡誌 復刻版 昭和48年(1973年)11月14日発行。底本は大正14年(1925年)刊)


【追記】ヨッキれんさんから続報をいただいた(斜字体部分)ので追記する(4/10夜、追記部分は青字)。

 大月橋、「街道調査報告書」によれば、近世にはすでに「駒橋」という名前の板橋が桂川と笹子川の合流付近に架かっていたが、大月宿が出来てから大月橋に名前が変わったとのこと。
「JSCE橋梁史年表」によれば、慶応2年に(おそらく近世からの位置に)土橋形式の大月橋全長38m幅2.4mが架設されたが、明治3年と明治15年に流出。ちなみに明治13年に明治天皇がこの橋を渡って巡幸している。
「JSCE橋梁史年表」には続いて、明治18年6月に(おそらく今の新大月橋付近に)木鉄上路トラス1スパンの大月橋全長62m、幅5.4mが架設されたとしています。この橋はご存じ「大月市史」のなかにある、明治17年架設の橋のことだと思います。「大月市史」はこの明治17年(or18年?)架設の大月橋について、「はじめてセメントを使用した画期的なものだった」としか書いておりませんです。
また、「JSCE橋梁史年表」で大月橋を拾っていっても、その次は現在の昭和33年架設の国道20号大月橋になります。しかし、郡内における藤村紫朗県令の貴重な遺構ということが分かったので、私も今度実見に行ってみたいと思いました。(以上、ツイッターでのよっきれんさんのツイートを転載)



私も『大月市史』は何度も読み返したのだが、こうした記述を見逃していたのは「読み取る力」がないことによるものだろう。また、「JSCE橋梁史年表」は、まったくノーチェックだった。いつも見ている『歴史的鋼橋集覧』とセットになっているものなのに。

ともあれ、比較的容易に閲覧できる資料としては、明治17年または18年架設の橋、その次が昭和33年架設の橋、ということになる。しかし、現実には、その間に少なくとも2回、道路橋が架けられている。



地図で見てみる。すべての旧版地形図をみたわけではないので、現状、把握しているものを掲げる。

20110409-16.JPG<5万分の1谷村(現在の『都留』。昭和27年8月30日発行・応急修正版)よっきれん氏より>

赤く塗った部分が、当時の国道20号である。いまの大月橋はない。

中央本線はまだ単線の時代。当時の航空写真を見ても、現在と同じルートを通っている。大月駅から西へ、堀割で桂川に至り、渡ってからは若干高い位置を走ってまた堀割になる、というものはいまと変わらない。この区間が複線化されたのは昭和41年(1966年)11月30日である。

現在のもの。
0c8c5573.jpgDAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用)

赤い線が国道20号、青い線が、先に記した旧道である。

この青い線で記した旧道は、昭和27年の地図では中央本線を横切っている。現在はその痕跡はなさそうだ。しかし、当時もここは堀割で、踏切とするには不自然である。そのような痕跡はない。もしかしたら道路橋が架かっていたのかもしれないが、それはいま思いついた可能性であり、調査では鉄道線はまったくチェックしていないのが悔やまれる。

昭和23年(1948年)に撮影された国土変遷アーカイブをもとに推測してみる。
20110409-01.jpg国土変遷アーカイブより加工・転載)

光線が左上からではないので、立体感がよくわからないかもしれない。いま見ているのは画像の左側である。

この画像では、すでに現在の国道20号から駅裏(北側)に行く跨線橋が写っている。

ということは、地理院の「応急修正」が、資料を基に、この跨線橋の位置を誤記したのかもしれない。

【追記】別の航空写真で見たら、北側に道路橋が2本見えるものがあった(追記部分は青字)。

昭和18年(1943年)に陸軍が撮影したものである。
20110409-98.jpg国土変遷アーカイブより転載)

A…中央本線
B…現・新大月橋のルート
C…現・新大月橋の北に残る橋脚跡のルート

ではないかと推測する。

また、D地点から線路方向に進む道も、おぼろげながら確認できる。よって、旧版地形図に描かれた道は存在したものと考えられる。踏切か立体交差化はわからない。




新大月橋を見る。

20110409-06.JPG桂川右岸(大月駅側)から。

20110409-07.JPG親柱1。右岸左。「新大月橋」。

20110409-08.JPG親柱2。「志んおゝつきはし」。

20110409-10.JPG親柱3。左岸左。
「新大月橋」。

20110409-11.JPG親柱4。「桂川」。

どこにも竣工年がない。それなのに「大月橋」である。そして市史にもエピソードの記載がない。国道20号大月橋の開通が1958(昭和33)年12月7日なのだから、それより新しいのかもしれない。となると、橋脚を残す旧道、旧旧道の橋の名前は……?

二度も訪問して謎をまだ残している。どこかに、この桂川を渡る道路橋変遷を把握している本などはないだろうか?


富士吉田駅のUNION製のレール

富士吉田駅のUNION製のレール

古レール・駅ホーム上屋・柱

古レールに対する知識はまったく持ち合わせていない。なぜなら、首を突っ込むのが怖いからである。アメリカだけでもまったく追い切れないのに、ドイツやイギリスの産業史や経済史まではとても無理。

とはいえ、見つけたものをアップしておけば、どなたかのお役に立てることがあるかもしれないと思い、ここに掲げる。たまたま目に付いたもの、程度である。

UNION(ウニオン)製のものを2点、アップする。ウニオンは、ドイツの製鉄会社である。
wikipediaドイツ語版



●富士急 富士吉田駅
20110407-2.jpg陽刻は、UNION D 1885 I.R.J.。

Dはドルトムントを意味する(参考:古レールのページ)。1885は製造年、。IRJは官設鉄道だ。1885年といえば明治18年。たぶん、京阪神の新橋~横浜、京阪神程度しか開通していなかったはずである。


富士吉田駅には、他のメーカーの古レールも多数あったように思う。



●越後線・弥彦線 吉田駅

20110407-1.jpg陽刻は、UNION D 18XX I.R.J.。

年号を読み取れないのが残念だ。

鳥飼大橋(大阪府)

鳥飼大橋(大阪府)

カンチレバートラス(ゲルバートラス)

20110405-12.JPG



大阪の淀川に架かる、鳥飼大橋。このゲルバートラスが今年の早いうちに解体されると聞いたので、3月末に行ってきた。場所は、東京モノレール大日駅から徒歩10分強のところにある。既に道路としての役割は終えているが、詳細は下記wikipediaをご覧いただきたい。

wikipediaの記事はこちら
歴史的鋼橋集覧の記事はこちら

写真はすべて、左岸側(南側)である。また、下記に「鳥飼大橋」と書くのは、すべてこのカンチレバートラスのことを指す。


20110405-01.JPGこのように、アプローチが微妙にS字カーブを描いている。これは、。鳥飼大橋の架け替え用の橋(画像左側)へのアプローチとなっている。

20110405-02.JPG一歩進む。橋門構の前に、背の高い銀の柵。その手前に工事現場でよく見かける黄色の柵。

20110405-05.JPG金網にレンズ先端を差し込めば、そこにあるのはなぜかクルマだけがいない道路。異質である。

20110405-03.JPG向かって右の親柱。「鳥飼大橋」。

20110405-06.JPG向かって左の親柱。「とりがいおおはし 昭和二十九年十月竣工」。

20110405-04.JPGその右に、記念のレリーフがある。書き出してみる。

鳥飼大橋概要 大阪府
路線名 府道堺布施豊中線
橋格  二等橋
橋種  ゲルバートラス
橋長  三四六・九米 四二・六八M 二連六五・五M 七連
幅員  七・五米
工期  自昭和二十(←十を並列した字)七年九月 至昭和二九年七月
橋台  杭打基礎●壁式鉄筋コンクリート二基
橋脚  深二三米井筒基礎重力式コンクリート八基
主体橋 縮碇着桁二連 碇着桁三連 吊桁四連
床版  鉄筋コンクリート厚一五糎(←の略字)
鋪装  アスファルト・ブロック厚五糎
総工費 参億一千五百万圓
使用資材 桁鋼材 一、七〇〇屯
鉄筋    五〇〇屯
セメント 二、四八〇屯

工事請負者
下部・床版 株式会社大林組
桁・高欄 日本橋梁株式会社
鋪装 アスニュー工業株式会社
親柱 関西石材株式会社
照明 近畿電気工業株式会社

20110405-07.JPG向かって右の端柱には銘板がある。

昭和二十九年(一九五四年)
大阪府建造
製作 日本橋梁株式会社

20110405-08.JPG高速道路との間はこれしかない。まだ、反対側も新橋が隣接しているため、ゲルバー桁の美しさを堪能できる場所はない。

20110405-09.JPG橋門構と上弦の突き合わせ部。

20110405-10.JPGその上。部材の曲がり方が美しい。

20110405-11.JPG改めて見てみる。美しい。

20110405-13.JPG下に降りてみる。

20110405-14.JPG碇着桁と吊桁の接合はピン。

20110405-15.JPG桁の裏側。




図面はここにある。リンクを貼っておく。





横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(2)

横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(2)

プラットトラス

横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)の続き。

(1)で書き忘れた。(1)冒頭の
20110402-01.JPGここで振り返ると、こうなっている。
20110402-15.JPG怪しげな細い道が、JR相模線に向かっている。右側に立て看板がある。

「この道路は水道用地のため、自転車及び関係車両を除き、車両の通行を禁止いたします。横須賀市 海老名市」

関係車両は通れる、ということは、クルマが通るのに強度に不安があるとか、そういうことではあるまいが、水道道路はたいてい「4t以上通行禁止」みたいになっている。

この、歩行者用道路部分の「低さ」を見ると、水道管がどの高さに埋まっているのかの参考になる。手前、2車線の車道はその上にかなり盛土してあり、水道管を破損するような薄い土被りではないことがわかる。



さて、対岸に渡る。対岸に渡るには、上流の新相模大橋経由で約4kmも迂回しなければならない。R246からこの水道道路に左折で入ると、明らかに通常の道路の線形とは異なる緩やかな左カーブがある。そのまま行くと……

20110402-16.JPG左が厚木市環境センター、右がソファーのメーカー、セルタン。真正面にトラスが見える。

20110402-17.JPGよいしょ。

20110402-18.JPGよいしょ。柵には「厚木市」ではなく「横須賀市」の表記。横須賀市が厚木市の許可を得て占有してるのだろうか。

20110402-19.JPG柵の隙間から撮影。厚木側は周囲に樹木がないのですっきりしている。

20110402-20.JPG昨日アップしたものとは逆側、上流側。

20110402-21.JPG裏面。


この近くに、オフロードバイクが走れるコースがある。昔っから、このあたりでは練習していた人たちがいた。荒川や利根川、多摩川の河川敷は軒並み締め出しを食らったが、ここではまだ生きているし、。練習している人もいた。ぼくも何度も来ているが、そのころは橋など興味なかったので、この水道橋があったことすらまったく記憶にない。


この横須賀水道道、自転車で踏破されている方がたくさんいるようだ。いつか自分もたどってみたいと思う。


横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)

横須賀水道道 相模川を渡る水道橋・上郷水管橋(1)

プラットトラス


20110402-12.JPG
相模川にかかるプラットトラスがずっと気になっていた。国道246の新相模大橋から下流側に見える橋であり、道路橋ではなく水道橋である。水道橋がプラットトラスであるということは、ある程度古い時代に架設されたものだということになるが(鋼トラス橋としては、昭和に入ってからワーレントラス一本になる。すでに大正時代の関東大震災復興橋梁の時点で、プラットトラスはピン結合のための時代遅れの構造だという認識がエンジニアの間ではあったようだ)、人やクルマが渡る橋も満足になかった時代にこれだけの規模の水道橋を架ける意味とは? いろいろなことが気になってくる。

上記の航空写真を縮小して見ると、水道橋の前後もほとんど真っ直ぐな道がついている。ずっとずっと辿ることができるだろう。この道は、遡ればこの上郷水管橋の下流で相模川に合流する支流、中津川に寄り添い、愛川町の半原という地区に至る。下れば逸見浄水場に至る。

この横須賀水道橋は、横須賀の軍備拡張にともなって1912年(明治45年)から1921年(大正10年)にかけて建設されたもので、老朽化を以て2007年(平成19年)に取水を停止している。詳細は横須賀市のサイトにある。こんなサイトを作る横須賀市は素晴らしい。

水道のあゆみ(横須賀市)



「横須賀水道」は地形図にも掲載されており、20万分の1地勢図でも記載されるほどの格である。下記に2万5000分の1地形図を掲げる(DAN杉本氏制作のカシミール3Dを使用した)。
20110402-99.JPG道路に沿って水路の記号がある。もっとも、実際には道路の真下にあるので、この地図はいささか正確性に欠ける。

いつか、このルートをたどりたいなと思っているが、今回は上郷水管橋についてである。


まずは左岸(海老名市)側から。「上郷水管橋」の「上郷」とは海老名市の地名である。

20110402-01.JPG国道246号から海老名駅方面に入り、繁華街を過ぎていきなり畑になったころ、右にこんな道がある。この、入口の通せんぼ具合は水道道路の証しだ。


真正面になんかいる……。

20110402-02.JPGトラス橋が見える。立ち入り禁止くさいのも見える。

足下を見ると……
20110402-03.JPG「水道部」。

裏側は
20110402-04.JPG「横須賀」。

それ意外にも文字が書かれているのかも知れないが、これ以外にも見たいくつかのものも埋まっており、確認していない。

さらに近づく。
20110402-05.JPGなかなかの存在感。

20110402-06.JPG堤防に向かっては、このようなスロープがついている。

20110402-07.JPG当然の如く、柵で塞がれている。

20110402-08.JPG柵の間からレンズを入れて撮る。見たところ、通常の道路橋や鉄道橋と構造は変わりないようだ。

20110402-09.jpg右の端柱には銘板がある。
横河橋梁製作所
東京工場製作
大正七年三月竣工
(右書き)

大正7年とは1918年。当初、大阪に工場を持っていた横河橋梁が東京工場を開設したのが1914年であるから、初期の製作である。私が見た少ない例で書けば、のちの銘板には「東京工場」という記載がない。『横河橋梁80年史』には、この上郷水管橋に関する記述はない。

20110402-10.JPGこうしたディテールも、なにかの参考になるかもしれないのでアップしておく。上弦と橋門構・上横構の関係である。

20110402-11.JPG水管を見る。ボルトで結合された水管。どこかでパイ何mmか見た気がするのだが、思い出せない。

20110402-13.JPG真横から。

20110402-14.JPG河川敷より。全10連である。右端に見えているのは海老名側の最終連。

「壮大な土木遺産 ―旧横須賀軍港水道 ~走水の水道~」には「長さが500mにもおよぶ」とあるので、10連で500mくらいになるのか。鉄道用橋梁ではフィートが基準だったので、スパン50mという橋梁は定型ではないが、この水道橋の正確な寸法が知りたい。



(続く)



柏崎駅の0番線と跨線橋

柏崎駅の0番線と跨線橋

跨線橋

新潟県の柏崎駅には0番線ホームがあり、その向こうに5線、留置線がある。つまり、こちら側に6線ある。私が小学生の頃に撮った写真を見ると、ここにはレールを積んだチキやワム8、タキなどが留置されている。現在は草むしていて、使用されている気配はない。

20110331-01.JPG左が0番線、右が1番線。0番線は越後線線用。

その0番線、行き止まりの部分に不思議なものがある。
20110331-02.JPG櫓が、それぞれの線路に対応する形で設置されている。これはなんだろう?

荷役の設備だろうか。ご存知の方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。

(4/10追記:架線の末端を保持する架線柱ではないかとのご指摘をいただきました。さん、さんありがとうございました。)


0番線の向こうは更地になっている。かつては日本石油の柏崎製油所があり、その後は日本石油加工となったが、とにかく石油関連施設がここにあった。産業遺産的な話がたくさんあるが、それは割愛する。それらをふくめ、新潟県中越地震でその多くに被害が生じ、取り壊されたようだ。


振り向けば、跨線橋。
20110331-06.JPGプラットトラスタイプだ。裏に回れば補強もされている。
20110331-05.JPG青い部材が当初のもの。それを、T字型に受ける柱を付加している。

20110331-04.JPG目を上げると、なんか古そう。

20110331-03.JPGいや、ほんとに古い。鋳鉄製だろうか、こうした鉄製橋脚は、東京都内の鉄製橋脚の年代から考えると1920年代くらいのものだと思いたいのだが、いかがだろうか。

参考までに、愛知県の武豊線半田駅の跨線橋の橋脚の写真をリンクしておく。出典はwikipediaである。半田駅の跨線橋は1910年設置であるとも記載がある。そこから大きくは離れないうちに設置されたと見てよかろう。



●2013.9.26追記
写真を追加する。
階段部分は、古い桁をベースに、踊り場から下を別の部材で新設している。また、踊り場より上、腰板は木製のままだ。こういうところに「残ってしまった」部材が愛おしい。

内部は木製ということがわかる。

この跨線橋も、古いものを利用しながらエレベーターを後付けしている。

桁裏。汚れているので木製にも見えるが、波板である。

2013年7月に訪れたとき、柏崎駅は更新作業に入っていた。このスタイルとこの色が失われませんように。



中央本線 新桂川橋梁(2)

中央本線 新桂川橋梁(2)

ワーレントラス

中央本線 新桂川橋梁(1)の続き。

周辺にある架橋記念碑について。
20110321-01.JPG橋梁の東側にある。この位置から列車を撮影した画像はネット上にもたくさんある。

「架橋記念碑」となっているが、慰霊碑でもある。

20110321-02.JPG縦書きだが、横書きにして転載する。

この桂川橋梁は全長五一二米高さ四〇米で其の雄大にして優雅な
姿を桂川の水面に映す景観は実に近代美の極致であります
国鉄は鳥沢猿橋間の復(ママ)線建設に二十年の歳月と約十五億円の巨費を
投じ施工昭和四十三年九月二十日開通しました
而して茲(ここ)に尊い殉職者 高橋正光 宮脇貞夫 古野信昭 望月光雄
四君の冥福を祈ると共に苦心の連続作業で完成した 全従業員の労苦
を感謝して後生に伝へるものであります
昭和四十三年九月二十日
鳥沢工業区長 佐藤初男
鳥沢駅長    久島 薫
汽車製造KK(キは、サンズイ+気、で記載)  竹中土木KK
建設塗装KK ○○工業KK
熊谷組KK   調布保正石材



すぐ下には道路橋がある。そちらは曙橋といい、記念碑まである。
20110329-oo.JPGわざわざ書き出さない。感じ取ってください。



枡野浩一プレゼンツ 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1

枡野浩一プレゼンツ 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1

独言・日記

20110322-01.JPG

歌人・枡野浩一さんによる、丸田祥三さんのトークイベントに行ってきた。ゲストはおふたりの間をつないだ切通理作さん。会場はNaked Loft。


今年、丸田さんの著書が共著をふくめて3冊出るはずだ。そのうちの1冊は、枡野さんとの共著である。そしてもう1冊は、私が担当している、ヨッキれんさんとの共著、廃道の写真集だ。今回のトークは、一連の裁判を経た(継続中ではあるが)からこそ始まったともいえる新たな動きをきっかけに、丸田さんの作品を広くしってもらうためのものだ。


作品を大写しにしながら、作品に関するトークが始まる。1枚目は、新宿駅に佇むEF13と三井ビル。
(『東京人』2009年3月号の表紙に採用されたもの。原版横位置。amazonにリンク)

丸田さんは、「戦時決戦機関車」として作られたEF13と、1970年代の象徴である新宿三井ビルディングを対比して撮影したかったのだという。そのとき、小学生。その1枚を得るために、1ヶ月半、学校にも行かずに新宿駅に通った。当然、学校の先生が何度も訪問してくる。先生は丸田少年に言う。「大人になったら撮ればいい」。しかし、丸田少年は答える。「大人になったら、もう撮れない」。製造後30年たったEF13はいまこのベコベコの外板で佇んでいるが、1970年製のものが30年経ったとて、EF13のようにはなる保証はない、いや、ならない。それを見越して撮影しているのだ。

あるいは、新宿駅貨物ホームのEF13。「戦時中に作られた機関車を、戦時中のイメージで撮りたかった」と思った小学生(中学生?ちょっと失念)の丸田少年は、父(出征している)の友人に聞いた「戦時中は黄砂でほこりっぽかった」という言葉から、Y2フィルター(モノクロフィルムのコントラストを高める、黄色いフィルター)をカラーフィルム(ネガ?)に使用し、そのイメージを作り上げた。

そんなエピソードがどんどん出てくる。小学生にして、そんなことを考えているのか。話は写真論、そしていつのまにか「丸田祥三論」になり、『日本風景論』になり、また写真論になり、たまに脱線。そんな感じで、「休憩にします」と言っても話は続いてしまい、観客もほとんど席を立たない。


さまざまな論評も飛び出した。ひとつ、丸田さんの持論にして私も常々そう思っている、「フラット化」への反対は、それだけで1冊の単行本ができそうな内容だった。私も「酒で(問題を解決しないまま)仲直り」とかは大嫌いだ。


第1部終盤、ひとつ質問をした。丸田少年は、常にカメラを持ち歩いていたのか? これは、1970年代の都内の普遍的な光景を撮影した作品に対しての疑問だった。答えは否。ということは、「こういう写真が撮りたい」と決めて、カメラを持ち出しては撮ってたということになる。

「カメラが常に持ち歩くのは、警官が拳銃をつねに手にしているのと同じだ」。という丸田さんの言葉も少し極端かもしれないが、でもまあ、そうだろう。私もよく「ここを、あのカメラとあのレンズで撮りたい」などと思うことが多々ある。結局はそれっきりになってしまうのだが、丸田少年は、そう思ったら必ず撮りに行っていただろう。そんな気概を、トークの節々に感じられた。


ここまでの話は、USTのアーカイブにあるのでぜひご覧いただきたい。ただし、いずれ削除される可能性があるのでお早めに。



20110322-03.JPG
22時30分頃から、第2部として、枡野さん・丸田さん共著の公開編集会議となった。

この本は、丸田さんの作品に枡野さんの短歌が載るもので、おもしろいのは、枡野さん、丸田さんがそれぞれ、それぞれの事情で単行本未収録だったり未発表だったりした作品が、偶然組み合わされ、桝野さんの言葉を借りれば「自分では硬いと思っていた短歌が、丸田さんの作品と組み合わさることで、風通しがよくなる」ということだ。大きな示唆をいただいたと思う。


そうこうしているうちに終電時刻。まだまだトークは続きそうだったが、中座してしまった。無念。また来月もあるだろうから、楽しみにしています。


写真について。
私は、個人個人の写真へのスタンスは異なるのが当然なので、思い切り「自分にしか撮れない」ものを追求するのも、没個性でフラットに撮るものも、なんでもいいと思う。私は前者を目指すけれど。後者は後者で、数がまとまればそれとて前者に近づいていくのではないだろうか。

また、カメラも、日常的に持ち歩けるような環境になったのだから、持ち歩いてもいい。私はよく「いまここに5Dと28mmがあればいいのに!」という後悔をしている。そういうときに撮れないと「また今度でいいや」になり、結局は撮りに行かない。ぼくがいま一番撮りたいのは、会社のビル1階にある、タワー式駐車場の前にあるターンテーブルだ。


中央本線 新桂川橋梁(1)

中央本線 新桂川橋梁(1)

ワーレントラス



20110321-04.JPGこの巨大な船底型のワーレントラス橋は、中央本線の撮影地としても名高い新桂川橋梁だ。3径間連続トラスで、もっとも長い中央支間は130m、左右はそれぞれ70mあり、計270mの連続トラスである。

「新桂川橋梁」ということは「旧」もあるわけだが、それは後述する。この「桂川」は相模川の山梨県での呼び方であり、山中湖を水源をする。その桂川をまたぐ部分がこの長大なトラスであり、川でない部分は支間40mの合成桁が架けられている。それぞれ大変な高さがある。

20110321-08.JPGまあ、美しいこと。

少し左に振って……
20110321-09.JPG現代版余部橋梁と言っていいのではないだろうか。6連の合成桁。通常、架線柱は50mおきに建てられるが、合成桁部分では支間と同じ40m間隔となっている。トラス部分においては少し不揃いとなっている。

まずはトラス、セオリー通り、真横から見てハの字型になる部分に圧縮力がかかるので、ハの字型の斜材は左右のトラスを対角線で結ぶ部材を付加している。
20110321-99.jpgここが中央径間の中央部。ハの字型のところと、逆ハの字型のところを見比べて欲しい。

20110321-05.JPG向かって右の部分。\方向の斜材は左右が結合され、/方向の斜材はスラリと鉄骨があるだけ。

そして、この画像を見るとよくわかるのだが、あくまでも桁橋としての機能は巨大なトラスが負担する。その格点を、まるでプレートガーダーのような縦桁が結び、その上にレールが敷かれる。縦桁は、スティッフナーが内側についているため、トラスの表面とあわせてツルリとした印象を見るものに与える。

猿橋側の端に、銘板が…
20110321-06.JPG遠い! これでも35mm判換算300mm相当。

P3203707-2.jpgトリミング。見えない…。

このトラスを製造したのがどこなのかちょっと調べたが、どうやら汽車製造株式会社だったらしいことがわかった。もう少し掘ってみようと思う。


鳥沢方には塗装標記がある。
20110321-03.JPG(新桂川橋りょう)←うっかり写さなかった
位置 鳥沢~猿橋間81k848M60
支間 70M+130M+70M 3径間連続トラス
塗装年月 2002年3月
塗装回数 4回塗
塗装種別及塗料名 下塗1層中塗2層・3層 厚膜型変性エポキシ樹脂塗料 上塗り ポリウレタン樹脂塗料
塗料メーカー 日本ペイント株式会社
施工者 建設塗装工業株式会社

これを見ると、なぜ「km」を意味する「k」が小文字で、メートルが大文字なのかとか、不自然な文字間隔などに違和感を持つ。

さて、いよいよ下へ…。
20110321-10.JPG橋台の銘板。

新桂川橋りょう
設計 東京第二工事局
施工 株式会社熊谷組
設計荷重 KS-18
基礎工 鉄筋コンクリート工
基礎根入 天端から[11.0]M
着手 昭和42年7月20日
しゅん功 昭和43年7月19日

この銘板は橋脚にもついていた。基礎根入の部分だけをそれぞれ変えている。中央径間を支える橋脚のうち鳥沢方のものは、「根入 天端から31M」とあった。

20110321-11.JPG支承。思ったよりでかくない。そして、橋台の垂直面でも結合されている。そして…

20110321-15.JPG中央にはこのような荷重を受けるダンパー(?)が鎮座する。

20110321-12.JPGでかい。…と、列車が通過する。

20110321-14.JPG恐ろしい騒音だ。恐怖を感じるレベルの音。いや、こんな場所に潜りこんでいるのが悪いのだが、本当にこのまま鉄骨がバラけて自分を潰してしまうのではないかと思うほどの恐怖。

外に出て、合成桁に戻る。

20110321-98.jpg
首都高でも見ているのかと思うような、すらりと伸びた合成桁。箱桁部分が鋼製、上路の床版がコンクリート製か(←推測)。この合成桁部分では、線路はバラスト軌道となっている。

20110321-07.JPG箱桁の塗装標記。

支間40mということ以外はトラスと変わらない。


長くなったので一度切る。


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