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「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」

「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」

独言・日記

20110426r.jpg
4月26日(火)、枡野浩一presents「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」に行ってきた。

枡野さんとおかざきさんは古くからのおつきあいで、枡野さんのデビュー作『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』で、大きな役割を果たす「絵」をおかざきさんが描いている。オカザキマリ名義で、まだ広告代理店のCMプランナーだった頃だ。そして、丸田さんとおかざきさんは、それよりも古くからの「存在上の知り合い」だったおふたり。20年間、お互いの作品に片思いしていて、それが今日、初めて対面するというご両人にとってはとても重大なシチュエーションが、このトークイベントだった。

縁は、枡野さんのツイッター。丸田さんのPCに「おかざき真里があなたをフォローしはじめました」と表示されたとき、丸田さんは「まさか、ご本人??」と鳥肌が立ったそうだ。特に思い入れが強い、作品中の女性キャラクターがいるくらい、丸田さんはおかざきさんの深いファンで、おかざきさん自身も持っていない掲載誌を持っているほどだ。お互いのそうした思いは、USTのアーカイブをぜひ。
前半
後半


今回もとても興味深いお話がぽんぽん飛び出した。

「好きな作品は言葉にしづらい」

丸田さんと廃道の撮影に行き、作品を一番に見せていただく。つい感想を書こうと思うのだが、「すごい」以外の言葉がないことが多々ある。でも、何か「これはこうですね」見たいな返事を書かなければならない義務感があるので、なんとか言葉にしようとする。もちろん、その言語化で見えてくるものもあるのだが、人を好きになることに理由を考えるのがばかばかしいように、「うわー、うわー…」とか言っているだけでいいと思う。


「ああ、もう私は写真を撮らなくていいんだ」

おかざきさんの発言。おかざきさんは美大で写真の勉強もし、また写真も撮影されていたのだが、丸田さんの作品集に出会ったとき、「写真はこの人に任せた。もう自分は撮らなくていいや」というようなことを思ったそうだ。おかざきさんが漫画を描くのは、「絵ではなくて、感情や感覚を乗せていきたい」からであって、もし、自分自身の感情や感覚を漫画で表現した人が現れたら、漫画を描かなくなるのかもしれない。この感覚は、とてもよくわかる。

おかざきさんが、丸田さんの作品が好きなのは、「男の人なのに」感情や感覚を、風景や建物なのに乗っているからだという。だから、おかざきさんは写真でそれを表現することはしない、ということだ。


「丸田さんの作品に女性が写っていることは…」

おかざきさんがかなり遠慮がちに「女性がないほうがいい」と言ったのだが、これはどうやら「女性だから」という視点でもあるようだ。「ひとつの、完璧な作品なのに、そこに女性がいることで、女性のイメージが増幅され、作品鑑賞にノイズが入る」というようなことだったと思う。そして、丸田さんはそれを狙って、作品中に女性を取り込む。目的はひとつではないと思うが、作品の完成度が高まることもあるし、不安定感や緊張感(丸田さんの作品の重要な要素だと思う)を増加することもある。完璧すぎる作品ではなく、少しだけ、崩した部分を作っておく。

話の流れでおもしろかったのは、写っているのが女性だから気になるということだ。これは、おかざきさんが女性だからで、もし写っているのが少年だったら、なにも気にならないかもしれない、と。これは、丸田さんが男性の目で作品作りをしているということでもある。それは気づかなかった。



まだまだ気になる言葉はたくさんあったが、今日はここまで。

<続き>「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」続き

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大月橋 新たな謎(国道20号)

大月橋 新たな謎(国道20号)

プラットトラス

国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋の続き。
(関連事項)
国道20号の大月橋(上路カンチレバートラス)
中央本線 新桂川橋梁(1)
中央本線 新桂川橋梁(2)


ついにというかさすがというか、ヨッキれんさんが資料を発見した。
20110425-1.jpgその資料とは、郷土出版社の『目で見る郡内の100年』だ。

郷土出版社は、鉄道の書籍でも非常に貴重な写真類を網羅した歴史書を多数刊行している。だが、高価なのでおいそれと買えない、買ったことがない出版社。そして「郡内」。いま改めて知ったのだが、「郡内」とは、行政区としての「郡」ではなく、「郡内地方」という山梨の都留地方の別名である。

この写真のキャプションにはこうある。
大月橋と中央線鉄橋(大月市・昭和初期) 鉄道線路敷設のため右手は掘削され、そこを通っていた甲州街道は分断された。人が立っている道は新街道である。直角に曲がって橋になるため、昭和15年にはバスの転落事故が起きた。
このキャプションから、このプラットトラスは昭和15年にはこの場所にあったことになる。また、「鉄道開通に伴って、道路の位置が変な場所に変更された」というニュアンスを読み取ることができる。大月駅の南側を通る国道20号が、この桂川の部分だけ線路の北側を通っている不自然さを語っているかのようだ。


この大月橋の向こうに見えるプラットトラスは中央本線の200フィートボルチモアトラスで、いまの磐越西線一ノ戸川橋梁と同じ形式である。



アプローチ部も石積だったことがわかる。下記写真の、矢印を向けた部分に違いない。
20110425-04.JPG川底に残る丸いトウモロコシの断面みたいなものは、先の先の国道20号 新大月橋の旧道・旧旧道・大月橋では、丸田祥三さんの写真参照。そこに橋脚が立っていたものだ。そして、その橋脚は、今回ご紹介したプラットトラスの橋脚ではなさそうであることも、先の記事に書いている。

まとめよう。この場所に架かる道路橋である。斜体字は私の勝手な憶測である。「大月橋○」というのも私が仮に付したもの。

・明治17年or18年(1884年or1885年)架設の大月橋は「はじめてセメントを使用した橋」。現・中央本線付近?…大月橋A
・明治35年(1902年)中央本線開通。桂川の前後は開鑿された。そのため国道を線路の北側に移設。本項の橋をかける。…大月橋B
・? その橋の位置に、カンチレバートラス(?)を架ける。丸田さん写真の橋脚。…大月橋C
・? その橋に隣接して、現・新大月橋の位置にカンチレバートラスを架ける。…大月橋…D
・昭和33年(1958年) 大月橋架設(現存する国道20号のカンチレバートラス)…大月橋E
・? 新大月橋架設…大月橋F

現存するのは大月橋DとF。本項で紹介したのは大月橋B。ということだ。もっときちんと裏付けしたいが、現在得ている資料から類推できるのは以上。



…と、眺めていたら、またまた…
20110425-2.jpgこの赤く塗った部分にある鉄製橋脚は何? 少なくとも中央線の桁に関するものでも、写真の道路のものでもない。まったくわからない。



『マッピングナイト2』(大山顕・石川初・渡邉英徳)

『マッピングナイト2』(大山顕・石川初・渡邉英徳)

独言・日記

20110423-01.JPG(ちょっと看板が簡素すぎやしないか…満員御礼なのに!)

4月23日(土)、東京カルチャーカルチャーで開催された『マッピングナイト2』に行ってきた。前回は昨年夏、自宅にいる必要があったので泣く泣くUSTで見ていて、なんとすごいイベントなのだと思って楽しみにしていた。

出演は、大山顕さん石川初さん渡邉英徳さん。大山さんは『工場萌え』『団地』『ジャンクション』はじめさまざまな「石ころ帽子をかぶっているもの」を可視化する方。石川さんはGPS地上絵師として、前日のテレビ番組『たけしのニッポンのミカタ』にも出演されている方。渡邉さんは『長崎アーカイブ』の方(などという乱暴な紹介で許してください)。

大山さんと石川さんのコラボ企画はDPZに「馬込馬」「うさぎ」のレポートがある。どっちも行きたかったのに行けなかった。石川さんは、私が担当である書籍『カシミール3D』シリーズにもご協力いただいており、ぜひお目にかかりたかった。



20110423-07.JPG内容は多岐に渡りすぎかつ密度が高すぎるので、後日出るカルカルのレポートに譲るが、おぼろげな記憶ではこう。

・土地の記憶~習志野埋め立て地のカーブ、いまのIKEA周辺にはこの50年間、常に集客施設が建っている。(大山さん)
・GPS地上絵(石川さん)
・長崎アーカイブプロジェクトのお話(渡邉さん)
帰宅ログ(大山さん)
・震災への備えと地図(石川さん)
・震災において「半径20kmの円」を地図で提供することと、現在の様子のマッピング(渡邉さん)
・「どこまで東京」から「どこからホーム」全員マッピング

3時間という、最初からオーバーするつもり満々の予定時刻を大幅に過ぎて4時間半使ってもまだ終わらない内容となった。




以下、内容に私が勝手に話の穂を継いで書き散らす。

●GPSでトラックログを取り続ける行為は「乗りつぶし」に似てくる

石川さんが自宅と職場を自転車で往復してみたときに、往路と復路でコースを変えていた。その気持ちはとてもわかる。ジョギングだって、同じトラックをグルグル走るよりも、街中を一周したほうが気持ちいいのと同じだ。でもそれって、鉄道の「乗りつぶし」にも似てるんじゃないか。

そんなことを思って、翌24日、自宅近くの気になる道路を歩いてみた。気になる道路で、ちょこちょこ行ってはいるのだが、「通し」で歩いたことはなかった。
20110423-map.jpg(DAN杉本氏のカシミール3Dで作成)

GPSに地図を放り込み、それを見ながらこうして歩いてみると、「次は円周ではなく対角線を歩いてみたいとか、この2.5万図には乗っていない道も歩かなくてはとか、そういう気持ちはたしかに「乗りつぶし」である。上記は500m四方もないのだが、自宅からの距離を含めて6kmある。自宅近くだけを塗りつぶすだけでも大変な作業だが、散歩のルート選びが楽しくなった。

通勤が地下鉄だということもあって、いままでは「出かけよう!」と思ったとき、つまり電車かクルマかバイクか自転車か、そういうときしかログを取っていなかったのだが、これからはとらなくてもGPSを持ち歩こうと思う。


●トラックログの記憶

これも、石川さんのお話で思いついたこと。石川さんは先日、まだ地図を表示できない端末(eTrex)にログが表示されているのを見て、自分は道路を歩いてるんじゃない、地球を歩いているんだ、という気持ちになったという(違っていたらスミマセン)。そう、ログは、GPSの衛星との相対的な位置関係(点)を結んだものだから、道路だろうが関係ない。地球の大きさが変わらず、GPS測量の原点も移動させないとしたら、いま取ったログを、1億年前の現地、あるいは1億年後の現地に置いても許されるはずだ。

そう考えると、道路を歩きながら端末の画面でログを見ているとき、ふと「道路ではなく、星の上を歩いている」という感覚になってきた。道の両側の建物が建て替えられようが更地になろうが、それ以前、道路ができる前は畑だろうが、ログはそこに置ける。地形が変わってしまった場合には、ログは地中にも海中にも潜る。谷になれば空を飛ぶ。自分の目が現実に見ている、晴れた春の青い空に、赤く表示されたトラックが見えてくるような錯覚に陥る。危険だ。

もっとも、出演者の方々はとっくにこんなことは看破されておられると思うけれど…。

20110423-map2.jpg(イメージ。下の赤い線をログとして描いたつもり()でも、1万年後に地盤が5m沈降してしまえばそのログは空中に残る()ことになる)

いやもちろん、「乗りつぶし」的にトラックログを見る場合は標高データを捨象して見てしまっているわけで、正確には高さも記録している。ただし、GPS測量では高さの値は緯度経度に比べてはるかに不正確で、また日本の地形図における「標高」は「海抜」を取っているため、本当に正確を期するならば緯度経度ほど簡単にはいかない。

海抜は、東京湾からその地点まで川を引き、東京湾が平均海面値になったときに水が来ている面、なので、地中に質量の大きな部分があればその面は歪むし、GPSはジオイドというそれとは異なる基準を用いている。しかもジオイドは測地系によって異なる。



などと書いてきて、これは、被災地では現実にこれから起きることなんだと気づく。ログを残していた築堤上の道路や高架橋が流される。まったく同じ場所に復旧しない場合は、そのログは永遠に再現できなくなる。石川さんが冗談めかして「いま歩いたログはいましか取れない、だからログを取ろうよ」みたいなことをおっしゃっていたが、そのとおりだ。

普通の人にはピンと来ないかもしれないけれど、ログを「写真」に置き換えて考えるとわかるだろう。写真は残されていても、なんの異常さもないし、誰もがやっていることだ。写真に撮った場所が、災害を含めてなくなってしまうなど、よくあることだ。それと同列に考えるならば、「ログを取ろうよ」というのは、不謹慎に楽しもうと呼びかけるわけでもなんでもない。


●地図の把握

「帰宅ログ」の話で、自分が日常移動している自宅と職場の位置関係すら把握していない人が多いのに驚く。興味がない、といえばそれまでだが、そうした人が、地図の話がしょっちゅう出てくる大山さんの読者だというあたりもまた興味深い。

などと言いながら、東京の南側、中央線より南側はきちんと把握はできていない。常に「練馬ナンバー」地域に住んできた弊害か。あてずっぽうに道路を歩いたら明後日の方向に出てしまうだろう。でも、だからこそ、地図を漫然と眺めるのが楽しい。「西武池袋線と新宿線は、所沢より向こうはこんなに平行しているのか」というのは、恥ずかしながらつい最近知った。


また、鉄道と、帰宅支援道路のあまりの乖離も驚いた。京王線とR20の親和性の高さも驚きだ。平行道路が内に等しい小田急沿線住民は、自分なりの把握をしておきましょう。



イベント中はいろいろ思いついたんだけれど、あまりに入力情報が膨大だったので断片化してしまった。思い出せないのはもったいないなあ。公式レポを見て思い出せばいいのだが。


余談。
鉄道と関係ないイベントで、鉄ではない人が「鉄ちゃん」をもちあげると会場は異様に沸く。プレゼンに不安のある方はぜひ取り入れてみてください。

東鉄工業製のプレートガーダー 秩父鉄道

東鉄工業製のプレートガーダー 秩父鉄道

鈑桁(プレートガーダー)


20110420-05.JPG
秩父鉄道の和銅黒谷駅近くの、何の変哲もない橋。なんとなく古びた橋桁だな、と思ってとりあえず撮った。数を集めれば何か新しい知見が得られるかもしれない、程度のつもりで。

銘板があった。まるで道路トンネルの坑門にあるみたいな、黒い陽刻。
20110420-03.jpg東鉄工業製!?

1980年3月
秩父鉄道株式会社
活荷重KS16 支間10.68M WTG810
W 12.5T A256●
材質 SS41 SM41
製作 東鉄工業株式会社

東鉄工業とは、簡単にいうとJR東日本が筆頭株主である、軌道保守や鉄道・道路の土木工事などを得意とする東証一部上場のゼネコンである。少なくとも、事業内容には「橋桁製作」みたいなものはない。強いて言えば「土木、建築工事用資材の販売」が当てはまるか。

また、桁の製作年も意外や意外、新しかった。1980年に架け替えられたということだ。よく見ると、古い桁ではリベット留め、ボルト留めであるようなあらゆる部分が溶接されている。といっても『鉄道構造物探見』によれば、下路鈑桁で溶接構造となったのは1955年(昭和30年)からだそうなので、自分が見た範囲が狭すぎる、あるいは何の変哲もない鈑桁が見えていなかった、ということになる。



20110420-04.jpg塗装標記。通常、記載されている橋梁名の記載がない。そもそもこの塗装標記、なにか定義があるのだろうか。

塗装年月日 1991年3月20日
下塗 SDシアナミドサビナイトJIS-K-5625-2種
中塗 橋梁用SDマリンペイント中塗JIS-K-5516-2種
上塗 橋梁用SDマリンペイント中塗JIS-K-5516-2種
施工者 内藤塗装工業(株)

下塗の「サビナイト」という名称が興味深い。こうしたダジャレネーミングは土木事業に関係する製品名ではよくあることだ。関西ペイントでいまでも取り扱っている。(PDF)

また、溶接構造であることもよくわかる。

20110420-02.JPG桁裏。主桁、横桁、縦桁はそれぞれボルト留め。主桁、横桁、縦桁それぞれは溶接だ。



ちょっといろいろ反省させられる出会いだった。ほんと、見るたびに発見があるよ。


『人物国鉄百年』青木槐三(中央宣興)

『人物国鉄百年』青木槐三(中央宣興)

鉄道の歴史・人物史

20110419-01.JPG『国鉄を企業にした男 片岡謌郎伝』(高坂盛彦著)に参考文献として挙げてあった、『人物国鉄百年』を入手した。刊行は昭和44年(1969年)9月7日で、その十数年前の旧著(詳細不明)の書き直し版である。版元は昨年倒産して各方面に影響が大きかった広告代理店、中央宣興出版局である。

著者の青木槐三(明治30年<1897年>~昭和52年<1977年>)は片岡謌郎と深い親交を持つ人物で、毎日新聞の鉄道担当記者を経てほうぼうへ首を突っ込み、国鉄の社外取締役のような存在になった男である(国鉄に「取締役」などない、というツッコミはナシで)。仙石貢から直接話を聞くような立場だった上に十河信二や島秀雄らとも親しいほど鉄道史に精通しており、いま世の中に流布している「鉄道裏話」の出所は実は青木槐三が聞き取った話だった、というものも多くある。その青木が書いた「人物」の本である。入手して、巻末に付された人名索引を見るだけで心躍る。

20110419-04.JPG大隈重信のような鉄道を導入した人、大河戸宗治や太田圓三のような土木技術者が見える。そう、この本がスポットを当てている人物とは、萩原良彦や壇上完爾が描く、無名の「現場の人」ではなく、幹部クラスの人物なのだ。

鉄道趣味的にスポットが当たる幹部といえば、車両技術系の島安次郎-朝倉希一-島秀雄、あるいは国鉄総裁系くらいなもので、その下、次官クラス、あるいは局長クラスはなかなかスポットが当たらない。任官の順番すら定かでないような人物群だからこそ、発掘していく楽しみがある。

読めば読むほどに、明治から昭和の鉄道人というか官界は、大学卒のごく一部の幹部社員が仕切っているというのがよくわかる。鉄道に入るとまず中央で下積み。次いで地方の偉いポストに就き、30歳前で本社に戻ってあとは着々と階段を上っていく。ひとかどの人物となってから亡くなると「○○伝」のような、私家版だと思うが伝記が刊行される。それはそれで、後年の貴重な資料となる。




本書は人物像を描いた本だ。勢い、人物の特徴を浮かび上がらせ、それに沿った話となる。雷親父のような人物や、親分肌の人物は絵になりやすい。だから、多少の誇張もある。場合によっては誤りもあるかもしれない。でもそれでもいいのだ。青木はこう書いている。
山陽鉄道のことは営業については渡辺金吾翁にきいておいた。(略)運転のことは結城弘毅に聞いた。(略)自分の生まれていない前のことはきき書が正しいかどうかは知らないが、史実を書くわけではないからそのまま書いていく。(下線部は磯部)
渡辺は山陽の経営陣で赤帽や連絡線を作った人物、結城弘毅は特急「つばめ」や「あじあ」を「作った」人物である。

この記述の姿勢はとても大切である。なぜならば、史実即ち異常事態だけ描いていたら、事件事件事件事件になってしまううえ、経営側からの歴史観しか残らない。それに対して、史実でない部分には日常が詰まっているわけで、そこには働く側、利用する側からの歴史観が存在しているので、それを汲み取る意義はとても大きい。

たとえば、こんな記述がある。「電車の誕生」という一節である。大正3年(1914年)12月18日、京浜間で電車の運転が始まった当日、その開業式でのことである。試運転もほとんどせずに営業開始したため、架線の張り方は不適切、道床は沈み、パンタローラーが離線し、貴族院や衆議院の面々を乗せた記念列車が立ち往生してしまったのだ。
此の立ち往生事件は一般にはパンタローラーが架線をはずれて動かなかったと一口に片付けられているが、(略)この大事故が鉄道五十年史の年報にも、昭和三十七年の国鉄年表にも一行も掲載されていない。だからこの日から電車が運転しつづけたと世人は思ってしまう。
此の京浜線電車事故は一日名士を乗せて立ち往生した失態で止ったのでは無くて、到底このまま電車運転を続ける自信が無くなり遂に二十六日電車運転を中止(略)五カ月の長きに及び五月の十日に至って再開し今日に至っているのである。(下線部磯部)
こんなことがあるから、史実だけを追ってはいけないのだ。この事故の始末としては、鉄道院総裁の仙石は謝罪広告を出し、技監は廃止され、技監だった石丸重美(狭軌派として悪名?高い)も更迭されてしまった。この、史実には乗らない事実はwikipediaの東海道本線の項目にも「東京駅 - 高島町駅間の電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始」としか掲載されていない。


20110419-02.JPGこのように、2段組になっている。体裁は新書判。




本書の中から二つ、気になる記述を拾う。まずは九州鉄道のくだりである。
ルムシュッテル(略)のつくったドイツの匂いを、九鉄局の何処かに探してみようと思うが見つからない。レールや付属品はドイツのドルモンドユニオン会社に註文しているから、博多-久留米間をさがしたら、跨線橋の柱ぐらいに残っているかもしれない。
いまや古レール研究は愛好者もたくさんいて、私ですらウニオンくらいは知っている(UNION製のレール参照)。それは、趣味界が膨大な時間を積み重ねたからこそ広く知られるようになったものであって、本書が書かれた昭和40年代前半では、まだまだそのような認識はなかったのだろう。



同じく九州鉄道のくだりで、なんと三島通庸の名前が出てくる。
九鉄は(略)小倉方面を馬場兼が担当した。(略)馬場は大蔵大臣をやった馬場鍈一の父で、土木知事三島通庸の下で土木課長をやったので知られている。(下線部は磯部)
三島通庸関係文書に「栃木県土木課員」とあるのはその一部だろう。


このような形で、さまざまな人物を採り上げていく。基本的には営業の話である。技術の話はほとんどない。久保田敬一にしても、鉄道次官などとしての活躍であり、私がしょっちゅう引用している橋梁の論文などは触れていない。土木畑の人がそちらで評価されない風潮は、いまに始まったものではないという証だ。

青木の他の著書もさがして読んでみようと思う。いま、鉄道官僚の系譜図を少しずつ作っているが、おもしろい鉄道史が見えてくる気がする。壮大な構想ではある。

横関橋(国道8号/滋賀県)

横関橋(国道8号/滋賀県)

鈑桁(プレートガーダー)+鉄製橋脚



国道8号を走っていて目に止まった橋。地図でもわかるが、ちょっとへん。どれくらい変かというと…

20110418-01.JPGこれが北側。

20110418-06.JPGこれが南側。


そしてこれが西側から見た路面。
20110418-03.JPG

おわかりだろうか。北側は5スパンのカンチレバープレートガーダー、南側は3スパンのプレートガーダーである。それに対して、路面は一体化しているのだ。路面の写真はガードレールが邪魔してうまく見えないが(わかるように撮ればよかったのだが!)、ガードレールはあたかも中央分離帯のように、ふつうに両側と地続きである。路面はひとつ、桁は2種類。

なお、路面の画像、左側に親柱が写っているここには
横関橋
日野川

とかいてある。「橋」のじは異体字で、旁の上がナ、その下がハシゴ高のようになった文字である。


路面を東から見る。
20110418-02.JPGせっかく改修した橋なのに、なっぜこんなに幅員狭小なのか。ガードレールを中央分離帯的な意味とするためにも、向かって右(歩道化した車道、北側)を東行きに、向かって左の現在2車線の部分を西行き+歩道にしたほうが安全なのではなかろうか。

西・南側の親柱。
20110418-05.JPGよこぜきばし
昭和44年2月完成

気になる桁裏に行ってみる。
20110418-08.JPG西側の桁下。向かって左のカンチレバープレートガーダーが北側(下流)、右のプレートガーダーが南側(上流)である。右の方が橋脚がすくないのがわかろう。また、スパンが短く桁幅が1車線分しかないカンチレバープレートガーダーは2主桁、対して2車線分あるプレートガーダーは3主桁である。

でも、床版の接合部が見えないので寄ってみる。
20110418-10.JPGどうだろうか。橋脚と橋桁は独立しているのに、床版がくっついているのがおわかりだろうか。また、向かって左の橋脚は、古い橋脚を包み込むようにして建っているように見える

振り返る。
20110418-09.JPGよりはっきりわかる。そしてなぜかカンチレバー側にはツナイダルがあるのに、プレートガーダー側にはない。
銘板。
20110418-99.jpg横関橋
1968年11月
近畿地方建設局
鋼示(1964年)一等橋
製作株式会社駒井鉄工所
材質SM50B.A SS41

再度、床版の上へ上がってみよう。
20110418-12.JPG片や5スパンのカンチレバープレートガーダー、片や3スパンのプレートガーダーなので、このように、継ぎ目の位置がずれる。

20110418-04.JPG最後にアプローチ道路。このように轍があるので、最近まで車道だったのがわかる。

1982年に撮影された航空写真を見る。
20110418map.jpg国土画像情報よりトリミング・転載)

この時点では、カンチレバー側も利用されていて、プレートガーダー側は外側のみを車道として使っている。


この場所に橋が架けられたのは、近くにある中山道六十九次の武佐縮の看板によれば、明治8年(1875年)。それ以前は渡し舟もしくは舟橋だったらしい。明治26年(1893年)改築、さらに昭和12年(1937年)「近代的な横関橋」を新築。旧橋は2年後に撤去された。

この横関橋が渡るのは日野川。小さな川だ。それでも一級河川であるのは、この日野川が琵琶湖に注ぐためだろうか。琵琶湖は「一級河川淀川」である(滋賀県内は瀬田川と称する)から、その支流たる日野川も一級河川ということになる。


昭和57年 上越新幹線 開業前試運転ハコダイヤ

昭和57年 上越新幹線 開業前試運転ハコダイヤ

鉄道

20110417.jpg古いアルバムに貼ってある写真をスキャンしていたら、こんなものが挟まっていた。

昭和57年11月の上越新幹線開業を控え、直前の夏には試乗会を多く開催していた。私は鉄道少年団という非常に楽しい組織に属していたので、そこからご招待があった。このハコダイヤは、おそらくそのときにもらったものだと思う。


公式試運転とはよく聞く言葉だが、試運転との違いは何だろう? その編成初めての試運転?



昭和50年代の駅名標(越後線)その3

昭和50年代の駅名標(越後線)その3

鉄道

昭和50年代の駅名標(越後線)その1
昭和50年代の駅名標(越後線)その2の続き。

●石地駅
e651d12a.jpgいまのいままでオリジナルの書き文字だと思っていたが、RAを見ると、大河津系だ。所在地表記もないのも同じだ。

しかし、燐駅表示の矢印がなく、T字型の交点に「・」がある。なぜだろう?

●礼拝駅
7a862b6b.jpg「桐原系」。このRにしびれるね。

●西山駅
7d80f497.jpgこれは新しい系統。燐駅表示のT字の交点が▼になっている。書体は、角丸ゴシックとでも言おうか。そして「わ」の縦棒が左に撥ねるという特徴的な書体。

そして、鳥居の組み方だ。古レールなのだが、縦の柱が、側面ではなく、レール頭頂部がこちらを向いている。これはいま気がついた。写真を撮って30年近く経つのに。こういうのに気づくことが、「数を見ることの大切さ」を再認識させられる。

西山と田中角栄。越後線と平行する国道116号は、新潟から来ると、それまで2車線だったものが、西山駅付近から4車線になる。かつてはまた2車線に戻ったような気がするが、いま改めて衛星写真を見ると、国道8号との合流地点まで4車線となっている。私の記憶違いか。その4車線部分を、この西山駅に停車中の電車内から見ることができる。

周辺は刈羽郡。昭和50年代後半、郡名を冠した刈羽郡刈羽村が「村」であるのに対し、刈羽郡西山町が「町」であることに引っかかった。郡名を冠しているのはあまり意味はないのだが、当時はそう思った。そして、駅の「格」は、その当時から、西山駅は交換可能な2面2線、刈羽は1面1線である。いやもちろん、交換設備というのは駅間距離によるもので、「駅の格」などというのは言葉の綾である。

『国鉄全線各駅停車 中央・上信越440駅』(昭和58年刊)によれば、電化・CTC化前の当時の越後西線の交換可能駅は、吉田側から(括弧書きは棒線駅)

吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-小島谷-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-石地-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎

である。現在は、新たに棒線化された駅を<>とすると、

吉田-(南吉田)-(粟生津)-分水-大河津-(桐原)-<小島谷>-(妙法寺)-出雲崎-(小木ノ城)-<石地>-(礼拝)-西山-(刈羽)-(荒浜)-(西中通)-東柏崎-柏崎

となっている。


●刈羽駅
5cdff71c.jpg西山系。なぜか「あらはま」の「あ」が消されている。

●荒浜駅
71557edf.jpgこれもかなり好きな駅名標。桐原系。RAの特徴も健在。この「ら」は、ちょっと縦棒を左に振り過ぎたか、というような感じ。他の駅名標(撮ってない)では、ここまでひどく(?)ない。

背景のどんよりとした灰色の空、これが冬の裏日本。

●西中通駅
d6dd634c.jpg桐原系。昭和50年代前半に、一度だけ下車したことがある。そのときは相対式ホームだったような記憶があるのだが、不詳。

●東柏崎駅
6a7b1ca8.jpg新しい系統。

最寄り駅が柏崎駅である母方の実家の祖母は、なぜかこの東柏崎駅を愛用した。タクシーでわざわざここまで来て、越後線に乗って来るのだ。やはり新潟駅ではなく、手前の白山で降りてタクシーに乗って我が家に来た。なんでも、「大きな駅は落ち着かない」とのことだった。かつて、「比角駅」と言った。だから、祖母はこの駅を「比角の駅」と言っていた。もう亡くなって23年経つ。

●柏崎駅
c2fe44b2.jpg確か、手書きではなく、プラスチックを貼り付けたものだと思う。柏崎駅の鳥居型はこのひとつだけだった。そして、鳥居型ではなく、このように逆U字型のパイプに吊す「門型」も新潟界隈では珍しい存在だった。


了。



昭和50年代の駅名標(越後線)その2

昭和50年代の駅名標(越後線)その2

鉄道

昭和50年代の駅名標(越後線)その1のつづき。

●南吉田駅
a8041a15.jpg燐駅表示にご注意。「あおうづ AOUZU」である。

●粟生津駅
7d4ebe0d.jpg「あおうづ」が
「AÔZU」

と、「おう」が長音になる! これを初めて見たとき驚いた。駅名標が好きだったので、ローマ字は読めたのだが、こう来るとは。

「う」の形が違うので、南吉田とは異なる筆跡である。

●地蔵堂駅(現:分水駅)
1fffd937.jpgこれまた長音記号の連発に萌える。JIZÔDÔ!

そして

AÔZU! ÔKÔZU!
古レールでできた駅名標に5つも長音記号がある。

b7aea98d.jpg「鳥居型」ではないが、こんなのもあった。どうですか、おの極太丸ゴシックといおうか、看板文字。フォントにして配布したいくらい。

●分水駅(改称)
e3c005c2.jpg昭和58年4月1日、地蔵堂は分水に改称された。このとき、前日と当日の2回、新潟駅から往復した。当日は朝4時50分発という始発に乗って入場券を買いに行ったが、すでに100番を超えていた。

この時代はまだ手書きであるのがよくわかる。前日には駅名標は書き換えられており、上に「じぞうどう」と書いた張り紙がしてあった。

ea7d2d8d.jpg駅舎。「分水駅」の文字、「駅」の「馬」の中の点々を一直線に書くのもお約束である。

●大河津駅(現:寺泊駅)
8fc95543.jpg少し投げやりな感じの書体。擦れているので、薄幸な感じもする。いや、擦れていると共に、イタズラでなぞって削ってあるのだが。燐駅表示の「き」が好きだ。

鳥居自害は古レール型。

●桐原駅
19742179.jpgこの「桐原」で駅名標に目覚めた。この平仮名とローマ字のぶっとい書体、そしてサビ具合。

この鳥居いは照明がない。

●小島谷駅
b8b86c82.jpg美しい駅名、「おじまや」。「き」「R」「A」の書き方からして、大河津と同系統。「大河津系」とする。

漢字表記の「谷」だけ、ちょっと書き直したようにも見える。

偶然か、鳥居の形状も同系統。風格のサビ。


●妙法寺駅
953e65ee.jpgエキゾチックな名前だと思う。妙法寺。同レベルのものは「妙寺」しか知らない。

「桐原」と同系統。もっとも好きな系統。

b5ceb2e6.jpgあるときからプレハブ駅舎になった。そして、こんな駅名標が掲げられた。こんなものでも、手書きである。

●出雲崎駅
9d694e78.jpg桐原系かと思いきや、所在地表記の「潟」が略されている。真相は不明。

●小木ノ城駅
ab71c45f.jpg分かち書きとでもいおうか、ローマ字が一音一音に対応している。



昭和50年代の駅名標(越後線)その3に続く。




昭和50年代の駅名標(越後線)その1

昭和50年代の駅名標(越後線)その1

鉄道

20110411-99.jpg

19歳まで新潟に住んでいた。そして母方の実家が柏崎だったため、日頃は急行「しらゆき」または「赤倉」をよく利用していた。「とがくし」は、利用時間が都合が悪かったのか、1回しか乗った記憶がなく、気動車急行が非冷房で窓全開だったのに対し、冷房が寒すぎた記憶がある。もちろん、自由席にしか乗ったことがない。

昭和55年、なぜかは知らないが、越後線で行った。急行なら柏崎まで1時間半のところ、越後線の各停は3時間かかる。吉田を過ぎると子供心にエキゾチックな駅名が続き、興味をそそられた。その時の写真が、上のキハ55である。これは母がカメラを持っていて(ミノルチナSという)、母が撮った。

それから少し経って、ミノルチナが壊れた。シャッターが下りなくなった気がする。もともと写真など撮る家ではなかったので、私がへたくそな小学生らしい写真を撮るために、お年玉でミノルタハイマチックSというカメラを買った。それで駅名標を撮った。間違いなく、種村直樹『鈍行列車の旅』巻末の、森嶋孝司さんの824列車全駅名標撮影、が大きく影響している。そのため「鳥居型」に絞って撮った。

総じて、越後線の鳥居型駅名標には木製ので鳥居型に組んだものはなく、すべて鉄製であったと思う。L字型のアングルか、古レールを組み合わせていた。興味深いのは書体である。すべて手書きであるため、個人のクセが出ている。文字にも、矢印にも、罫線にもクセが出る。そのおかげで、同じ人が書いたと推測できる複数の駅名標がある。そうした観点で見て行く。


なお、定型は、

ひらがな
漢字
ローマ字
(所在地)
←---→
燐駅|燐駅

である。

ここにアップするのは、。そのとき、あるいは後日撮った写真である。雪景色のものは、ほとんどが昭和56年冬の撮影である。モノクロは昭和57~58年頃と思う。

●新潟駅

「鳥居型」がないので割愛。

●白山駅
5048e90e.jpgとにかく平仮名の太さが目立つ。「は」「さ
」に、後日書く越後西線の駅名標と同じテイストを感じるが、他の平仮名を見ると別。所在地表記もない、オリジナル型。

後ろのキハ45 32は、寒冷地仕様の500番台とともに新潟の顔だった。

白山駅は島式ホームで、駅舎には地下道が通じていた。その、地下道の階段がとても味わい深かったのだが、いま現在はホームともども改築中で、跨線橋が架設されている。白山駅は、高校時代、「汽車通」してた友人をときどき見送りに行った。私は自転車通学だった。

●関屋駅
c21b5694.jpgこの時代の駅名標は、ローマ字に特徴がある。PCで言うところの「全角英数字」になっているのだ。こんなに丸っこいアルファベットはアルファベット文化圏の人は読み取りづらいのではないか。アルファベットには、アルファベットを表記するのに適した書体があるのだ。気にしてない書物が世の中には多すぎるけれど。

窓の外を見れば、まだ貨物輸送をしていた時代。

新潟から内野あたりは当時でも乗客が多く、車内から駅名標を撮るとどうしても人が入ってしまい、思うように撮れなかった。子どもとはいえ、(被写体でもない)人にカメラを向けることには抵抗があった。

●青山駅

当時は存在しない。

●小針駅
321e8a5d.jpg駅名標は、古レールである。ローマ字を「TE RA O」と書くようなスタイル。これは新潟口で見られた。

●寺尾駅
dff9b3f0.jpgこれも「アルファベット全角系」だ。露出オーバーのため、よく見えない。

●内野駅
8a813b9c.jpg「てらお TE RA O」の書き方からして、小針駅と同系統だろう。

●内野西が丘駅

当時は存在しない。

●越後赤塚駅
55616d50.jpgここだけ書体が違う。丸ゴシック系ではなく、角ゴシック系で力強い。「か」を見ると、国鉄フォントに似ているが、他の文字はそうではない。

ローマ字表記、「越後」と「赤塚」の間にハイフンが入る。

ここまで(旧)新潟市。

●越後曽根駅
47de0e24.jpg白山駅と同系統かもしれない。所在地表記もないし。また、ここも「越後」「曽根」の間にハイフンが入る。

その向こうの「銀バス」が気になる人もいるかもしれない。

●巻駅
cf905599.jpgなぜかローマ字だけが角ゴシックになっている。それ以外は、後述する荒浜駅などと同じ系統に見える。

こちらも古レール。古レールを門型に組み、その上に鉄板をかぶせてある。

●岩室駅
7ab3b3d1.jpgこんな写真ばかりで本当に申し訳ない。所在地表記あり。

●北吉田駅

当時は存在しない。

●吉田駅
669ffa28.jpg岩室駅と同系だろう。「み」「よ」がかわいいし、「わ」も筆順ではなくレタリング的に処理されていて、かわいい。

燐駅表示、「いわむろ 」とスペースがあるのが気になる。


昭和50年代の駅名標(越後線)その2に続く。
昭和50年代の駅名標(越後線)その3もあるよ。


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