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日本石油が染みこんだ壁

日本石油が染みこんだ壁

ENEOS/日本石油

先日、土砂降りの中、クルマで北陸道福井北ICから国道416号を東へと走っていた。目的地はえちぜん鉄道永平寺口駅。ふと、左手に廃ガソリンスタンドがあった。

といっても計量器はすでになく、防火壁があるのみ。しかも、一面だけ。

20110516_000.JPG
場所は記憶にないが、タイムスタンプからすると、えちぜん鉄道小舟渡駅よりも5分ほど西側のはずだ。背後は川ではなく泥田。

この壁。モザイクがすてきだ。そこに紅一点、日本石油のライジングサン。

逆から。
20110516_001.JPGこの、唐突に壊されたような印象の壁が雨に濡れそぼっており、重みがあった。壁にものが掛けてあった跡や壁の前にものを置いていた跡に、この壁が重ねた年月を感じる。

振り向くと、こんなだ。
20110516_002.JPGこの温室のようなものはなんだろう。そういえば、給油所には、こうした温室があるなあ。

この写真でいう温室の左側、おそらくそこにもかつては防火壁があったのだろう。ここから先は推測だが、営業中は窓を開けても防火壁の裏側しか見えなかった隣家が、給油所が休業するにあたり、懸案事項であった日当たりを解決するために、この部分の防火壁のみ、取り払ったのではなかろうか。そして、壁の断面をよく見ると、コンクリートブロックが覗いている…。

その手前の三和土のような部分はなんだろう? 以前はサービスルームがあったのだろうか。いずれにしろ、いまはすべて過去の形となっている。入口にロープを張ったりしてないので、じっくりと観察できる。これがいちばんの魅力かもしれない。


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大木茂『汽罐車』

大木茂『汽罐車』

鉄道の本

20110515-999.JPG気になっていた、大木茂氏の写真集『汽罐車』を買った。本の詳細はこちら

この写真集を知ったのはどこだったか。どなたかのツイートだったと思う。まだ刊行前の頃だ。この写真を見て、吸い込まれた。買う!


ビニールにくるまれていた本を、深夜、心してテーブルの上で開封する。まずはカバー回りをなめるように見る。美しい。帯には、多くの作品を共にした、俳優・香川照之氏の言葉がある。まず、その帯を外してみる。
20110515_001.JPG.

そして、カバーをはずし、本体表紙。
20110515_003.JPG本体表紙は、もっとも自由奔放なページだ。商業的なもくろみもなく、デザイナーがいちばん遊べるページ。本体表紙については、かつてこちらに書いた。→丸田祥三『棄景V』『棄景origin』


カバーを戻し、表紙をめくる。そこには見返し。見返しは手触りを楽しむ。本扉は…前述のリンク先。この本扉だけでもうお腹いっぱいになる。氏、23歳のときの作品。

ページをめくる。いちいち、次のページに行くのに躊躇する。なんというか、次々にページを繰ることが、作品を消費してしまうような気がしてためらうのだ。次にどんなすごい作品が来るのか、どう裏切られるのか。

写真は144ページ、153点。私が見入る作品の傾向は、黒が美しいもの。撮影した時代が感じられるもの。これを、香川氏は「匂う」と表現している。的確だと思う。なので、C62重連ニセコの銀山峠などは、失礼ながら、あまり興味をそそられない。


もっとも美しいと思った作品は、128番浜小清水の流氷の朝。これは、本文(モノクロ20ページ)で大木氏自身の印象も強いそうで、私の、作品を見る目もそう変な方向を向いているわけではないと思う。

もっとも匂いを感じた作品は、49番野辺山。C56が未舗装の道路をバックで横切る作品(←リンク先の3枚目)。未舗装の道路が若い時代の光景のひとつだった私にとっては、こうした作品にグッと来る。なにより、夏の匂いを感じる。広田尚敬氏の作品にも、9600が北海道の未舗装路(遮断機なし)を横切る作品があるが、それも好きだ。

もっとも旅情を書き立てられた作品は、67番の抜海。

明るさと広さを感じた作品は、82番の香月と、133番沼ノ端。

人物を主題とした作品も多いが、あまりに完成されすぎていて、別の言い方をすれば本当に映画のスチル写真なんじゃないかと思うほど完璧なので、私の「引き込まれる度」でいえば上の作品たちに一歩譲る。



いま、「映画のスチル写真なんじゃないか」と書いたが、大木氏はスチル写真家である。とはいえ、大木氏のお名前はほうぼうで目にしてはいたが、映画のキャメラマン・木村大作氏と組むスチル・キャメラマンだとは知らなかった。目にしていたのは、こうした写真だ。
20110515_000.JPG(RailMagazine1991年6月号表紙)

大木氏といえば、この「ズーム流し」。露光中にズーミングする手法で、大木氏オリジナルとのこと。被写体が止まっているものに対する露光間ズームとは違い、走行中の列車に対してズーミングすることで流し撮りに見せるわけだ。もっとも、偶然にも広田尚敬氏も、広田泉氏も、それぞれ独自にその手法を使っていたというから、機材に対する研究心の塊のような人ならば到達する技術なのかもしれない。

また、この写真集に収録された作品は、1963年から1972年の間に撮影されたもの。大木氏は1947年生まれなので、16歳から25歳の間に撮影されたものだ。その撮影行は本文に詳しく紹介されているが、若くしてこの作品はほんとうにすごいと思う。



これだけの写真集が、3990円。鑑賞後、感じたのは「安い」。買うべし。

ステンレスとグラインダー

ステンレスとグラインダー

スーパーテネレ・テネレ700

約1年前にオーバーホールしてから、結局1000マイルも乗ってない。やっと今日、オイル交換をした。ついでに、懸案事項だった、ゆがんだままのシフトペダルを交換した。

ペダルの交換は、以前もしてみたことがある。しかし、新品のペダルはアンダーガードに干渉してしまう。これは、アンダーガードをワンオフで作ってもらうとき、ゆがんだペダルをつけたままバイク本体を預けたためで、ゆがんだものを基準に完成してしまったからだ。

作ってもらったのは千歳烏山の清水工業所。オーナーの清水さんもバイク好きで、バイク雑誌に関わっていたときに随分とお世話になった方だ。そこで、個人的に作っていただいたのがアンダーガードだ。製品サンプルのページにある。4mm厚のステンレス製だ。



かれこれ7~8年、ゆがんだペダルのままでバイクに乗っていたのだが、シフトチェンジもしづらいので交換することにした。純正のアンダーガードは、シフトペダルとクランクケースの間には入っていないのだが、このワンオフものは入っている。
20110513.jpg対処としては、アンダーガードを削ればなんとかなると思っていた。いろいろ削ってみた。しかし、まったく埒があかない。そのため、アンダーガードを切り取ることにした。

297982012.jpgアンダーガードを取り外して改めて気がついたのだが、ノーマルのアンダーガードはペダルとクランクケースとの間には入り込まない。忘れていた。その証拠として、ペダルがクランクケースと擦れた跡が無数にある。

297995757.jpg297980696.jpg下2枚の写真のように切り取った。これでストレスなくシフトチェンジができるようになった。勝手に切り取ってごめんなさい、清水さん。



『日本初の私鉄「日本鉄道」の野望』中村建治(交通新聞社))

『日本初の私鉄「日本鉄道」の野望』中村建治(交通新聞社))

鉄道の本

交通新聞社新書の『日本初の私鉄「日本鉄道」の野望』(中村建治著)を読んだ。私のTL上では概ね好評か、好意的に迎えられているようだ。

20110510.jpg

私としては、本の完成度がとても低いと感じた。素材はとてもいいはずなのに。

内容、エピソードのひとつひとつはきっちりと検証している。登場人物も、そのとき何歳でどういう経歴の人かをきちんと書いているから、とてもわかりやすい。でも、単にそうしたエピソードを箇条書きに羅列しているだけ。挙げ句の果てに、下手くそな小説仕立てにしてしまっているため、おそらく膨大な資料を参照して検証された事実が、フィクションであるかのように見えてしまう。「ダイヤ作成の秘話」でお馴染みのお雇い外国人・ページのエピソードも入っていて、私はそれが誤りだと検証されているものを読んでしまっているのでますますいい加減な本に見えてしまう。(『日本の鉄道をつくった人たち』(悠書館)参照)

本書の書き出しは、青森までの全通から始まっている。小説仕立てで、18ページ目(本文1ページ目)では主人公である二代目社長・奈良原繁が開通一番列車に乗っている。その後、会社設立の経緯、まずは熊谷までの開業、高崎、仙台、などと帰納法のように展開していき、青森までの全線開通は単なる時代の一点として通り過ぎ、鉄道国有化まで行ってしまう。196ページで、ようやく冒頭の数日前の描写になる。その後、わずかなページで現・常磐線や東北新幹線に触れ、本書は終わる。なんだこのジェットコースター展開は。

小説仕立てが下手くそで困ったのは、『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)も同じだ。どちらも、書き手が小説家でないものだから、台詞がすべて単なる説明なのだ。また、伏線というか、物語のつながりがない。本書22ページで、仙台開通記念式典が冬になったことを「あのお方のせいだ」といい、その伏線を回収するのは166ページである。しかも描写は重複している。

また、著者が撮影したという写真があまりにも下手くそすぎる。いまどき、携帯で撮ってももっとうまく撮れるしシャープに写る。なぜピンボケ写真がたくさん掲載されているのか。もしかしたら、版元のせいかもしれないが。私が担当だったら、著者が撮った写真は使用せず、別に手配しただろう。



まだ買う前の方。wikipediaの日本鉄道の項目鉄道国有法の項目を読めば十分です。








野尻向橋の旧道?の橋跡(長野県)

野尻向橋の旧道?の橋跡(長野県)

吊り橋

野尻森林鉄道 木曽川橋梁(長野県)
野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。


現在、上記地図の中心点には「野尻向橋」がかかっている。下記写真で手前に見えている橋だ。
20110508_R000.JPG.

その橋に立つと、すぐ近く怪しげな痕跡が見える。

20110509_000.JPG(右に見えているのが野尻向橋)

いかにもここに橋がありました、という感じ。周囲は少し盛り土してあり、ここがT字路になっていた。対岸には、この橋跡と対になるような痕跡と、その左側に吊橋の主塔が見えた。
20110509_001.JPG.

となると、親柱が残っているのは旧橋、主塔が残っているのはさらにその旧橋ということになろうか。旧橋の橋台の左側には、川に降りる階段のようなものが見える。

20110509_002.JPG主塔をアップ。コンクリート製。阿寺橋の旧旧橋の主塔は木製だった。



対岸に渡る。
20110509_003.JPG対岸はこんな感じの広場が広がっている。その中に屹立する主塔。

20110509_004.JPG横から近づく。どうも、主塔の周囲だけ灌木が生い茂っているように見える。

20110509_005.JPGこのように、樹木を口にくわえたような格好で立っている。銘板類はないようだ。

20110509_006.JPG主塔の下から川際に出る。さきほどいた対岸が見える。しかし、吊橋の主塔は見えない。撤去されてしまったのだろうか。

20110509_007.JPGさて、もうひとつの怪しい橋。
床版と橋脚の隙間が吹き抜けになって折らず、シェルターのようになっている。

20110509_008.JPGその上に上がると、現在のクルマでは曲がれないのではないかと思えるくらいに床版がカクッと曲がっているのがわかる。なんだ、この線形は。



古い航空写真で確かめた。青い矢印は野尻森林鉄道の木曽川橋梁。

20110509_map2.JPG国土変遷アーカイブより1947年撮影)赤矢印の部分が、この吊橋だろう。野尻森林鉄道の線形がくっきりと見えているほか、右下の野尻駅、左下の謎のループ上の線形(これはいまもある)も明瞭だ。

20110509_map1.JPG国土変遷アーカイブより)
1977年となると、すでに吊橋ではない。いまは撤去された橋に移行している。

その吊橋の現役時代の姿が、やはり『写真で見る100年』にあった。

20110509_010.jpg「野尻向橋 大正10年頃」というキャプションがある。その向こう側では、何をしているのだろうか。

旧橋を建設中? この旧旧橋の主塔がコンクリート製であるということは、その建設はせいぜい大正時代に入ってからではないかと思うのだが、大正10年には早くも旧橋に架け替えに着手するというのはちょっと考えがたい。

となると、見えているのは建設中の橋ではなく、単に桟橋に荷物が積み上がっているだけではないか? 
旧橋は、その桟橋状のものを転用して架けられたのではないか。

階段が湖底に続いているようにも見えるが、なぜかこの階段は、現在残っているものよりも角度が相当にゆるい。現在残る階段が何のためのものなのかは不詳である。


野尻森林鉄道 木曽川橋梁(長野県)

野尻森林鉄道 木曽川橋梁(長野県)

プラットトラス

野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。

このIビーム桁が見える場所で逆方向を見ると、このような橋梁が鎮座している。
20110508_R000.JPG左岸(画面右)から上路ワーレントラス、下路プラットトラス、上路プレートガーダー×3。

20110508_R001.JPG近づくとこのように見えてくる。築堤は間違いなく林鉄のものだが、切り下げられ、橋梁だけが高みに取り残されている。

20110508_R006.JPG橋台だったものの裏側。本来ならば築堤の中に埋まっている部分なので、なかなか見る機会はあるまい。画面右側についている三角形のものは築堤の断面を押さえる翼壁。これも、本来委は土に接している面が露出している。

20110508_R005.JPG上路トラス全景を真横から撮った写真が手ぶれしていた…ので、別カットを。

この形は、同じ野尻森林鉄道の多の橋梁や木曽森林鉄道鬼淵橋梁でも見られる。当時、日本橋梁が作っていた規格品なのだろうか。

また、枕木が存置されているのがわかる。

20110508_R004.JPG上路トラスの真下。下横構を構成する、格点を対角線上に結ぶ部材が、向きによって格点の上、下それぞれにそろえられている。

20110508_R002.JPGトラス橋真正面。端正、かつ細い。直線的な印象が強い。


20110508_R007.jpg10パネルのプラットトラス。端部のパネルには、斜材のようなコリジョン・ストラットを備える。

全体的に華奢な印象。部材の細さはまるでアメリカ式のピントラスのようだ。これは設計活荷重が比較的小さいからか。

20110508_R003.jpgそして銘板。
大正十年四月
日本橋梁株式会社
製作
大阪

先の野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)と同じ形状をしている。


この橋梁については、他にすばらしい発表記事がいくつもあるので、そちらを参照された。


野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)

野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)

Iビーム桁

20110507-02.JPG
近くには有名な野尻森林鉄道木曽川橋梁があるが、そこを目指して野尻駅から道を下ると左手にこのプレートガーダーが目に入る。場所はここ。


小さな架道橋である。いまは築堤に電柱が立ち、放置されている。道路から見えるくらいなので、近づくのは容易だ。

20110507-01.JPGこんな感じで電柱が立ち、それを支えるというかテンションをかけている索が2本。街中の道路にあるように、下部をトラ塗りのプラスチックカバーで律儀に覆っている。こんな場所をクルマで走る人はいるまいが、決まりなのだろう。

20110507-05.JPG角度を変えるとこんな。

20110507-03.JPGIビーム桁。2本のIビームを上面と下面に梁を渡して接合している。スパンは3mくらいか。

20110507-04.JPGきちんと銘板がついているのが嬉しかった。

大正十年四月
日本橋梁株式会社
製作
大阪

この銘板は形状がおもしろい。車名を囲む枠の底面が下に膨らんでいる。その台座は、上底が上に膨らみ、下底が上に向かって凹んでいる。ざっと検索すると、大正十三年製の銘板にはこの形状を確認できた。大正十四年製のものは長方形になっていた。この時代だけのものなのかもしれない。

サイズは小さい。Iビームの側面についているものなので、横幅20cmくらいのものか。よくぞ盗まれずにあったものだ。この銘板を撮影するには橋台ギリギリから体を乗り出さねばならない。高さは4~5mはありそうなので、ちょっと怖かった。


阿寺川橋 顛末/『トラック野郎 熱風5000キロ』に捧ぐ

阿寺川橋 顛末/『トラック野郎 熱風5000キロ』に捧ぐ

プラットトラス

「阿寺渓谷」と書いてある橋のつづき。『トラック野郎 熱風5000キロ』のオープニングに出てくる橋である。
adera.jpg

下記動画もあわせてご覧いただきたい。



1分08秒付近で、一番星とジョナサンが、赤いプラットトラスを渡る、その橋だ。「阿寺渓谷」と書いてある橋で推測した場所に架かっている橋であることをつきとめた。

この成果は、全面的にtyafficさん(@fusamofuさん)に依る。前掲記事に対して当時何度かやりとりし、そして最近、映画と同アングルでランガー桁が架かっている画像を教えてくださった(こちらのページ)。背景の山の感じがそっくりなのである。そして、そこに大きなヒントがあった。『写真で見る大桑町100年史』云々。



その本が、現地から少し離れた須原地区の大桑村スポーツ公園内にある大桑村歴史民俗資料館にある、ということを、やはりtyafficさんからうかがったので、行ってみた。ありましたよ。。。

20110506-02.jpg「旧阿寺橋(昭和34年)」とあるのは、手前の吊橋のこと。お目当ては、その奥。

20110506-01.jpgこの橋だ!

後日、このプラットトラスは道路橋に転用される。阿寺の森林鉄道の終焉が昭和40年(1965年)というから、転用されたのはほぼそれと同時期と見ていいだろう。

このプラットトラスの規格はわからないが、木曽森林鉄道の鬼淵橋梁がTL-14すなわち14t制限。後日紹介する野尻森林鉄道の木曾川橋梁が10t機2両分。ということで、一番星号(11t車)とジョナサン号(4t車)が通過する分にはOK。

そして、いつまでこのプラットトラスが使われたかというと、隣接してランガー桁「阿寺川橋」が竣工したのが平成5年(1993年)11月。ここから遠からず、プラットトラスは撤去されたに違いない。また、吊橋は昭和35年(1960年)に2連のワーレントラスに置き換えられたあと、平成20年竣工のニールセン・ローゼ桁「阿寺橋」となっている。

この、昭和35年のものが、いまでもYahoo!地図の衛星画像にある。
20110506map.JPG(縮小すると、建設中のニールセンローゼ桁が見えるようになる)



現在の姿。
20110506-04.JPGこのような位置関係で、阿寺橋(旧吊橋=左の茶色)、阿寺川橋(旧プラットトラス=右の赤)が接している。

●阿寺川橋(ランガー桁)
20110506-07.JPG上流側から。なぜ『トラック野郎』と同じアングルで撮らなかったのか。よく見ると、手前にプラットトラスの橋台が残っている。

20110506-06.JPG北側。画像右下に橋台がかすかに写っている。

20110506-08.JPG上流を見ると、橋脚がある……。

20110506-10.JPG近づいて見た。詳細不明。

20110506-09.JPGそのすぐ上に、碑がある。
林鉄記念碑

六十余年の輝かしい歴史を有する森林鉄道との訣別 誠に感無量なり
昭和四十年十二月二十日

野尻営林署長
岡田寛治


●阿寺橋(ニールセンローゼ桁)
20110506-05.JPGこんな形で、阿寺川橋よりはるかに重厚な存在感を持っている。

そして、以前あった、2連のワーレントラスは…
20110506-03.JPGこんな位置でスッパリと切り落とされていた。対岸は完全に痕跡がない。



『トラック野郎』に端を発したトラス橋を巡る旅。とても楽しかった。解決の糸口をくださったtyafficさんに感謝申し上げます。


吊橋の水管橋(高山市久々野町阿多粕)

吊橋の水管橋(高山市久々野町阿多粕)

吊り橋

4月28日夜から5月2日にかけて、岐阜~富山~福井を回ってきた。道中、突然、おもしろい橋にでくわすのは楽しいものだ。今回は水管橋を。

20110505_R005.JPG国道41号を走行中、こんなものが目に入った。吊橋の水管橋。しかも主塔はA型トラス構造。

日暮れが近いため、先を急いでいたのだうえ土砂降りだったが、クルマを停めてざっと見学した。

場所は、岐阜県高山市久々野町阿多粕。


地図のデータでは、Yahoo!もGoogleもmapionも、きちんと道路を表示しないので、地形図を。
20110505map.jpg(DAN杉本氏作製のカシミール3Dを使用)

この、JR高山本線渚駅南側、現在の高山市が下呂市と接する部分にこの水管橋はある。


20110505_R002.JPG通常、人やクルマを通す吊り橋は、主塔がπ型をしている。それは、踏板を水平に吊すために主索が左右で2本あるためだ。ところが、この水管橋は、吊す対象が円柱型の鉄管であるため、主索は1本。それに伴い、主塔もπ型ではなく三角形をしている。トラス構造を利用したものだ。

20110505_R001.JPG画像奥が下呂市、手前が高山市。

耐風索(水管の下にある索)は2本ある。これで水管をほぼ固定している。この場合、「主索2本+耐風索1本」でもいい気がするが、たぶんこちらのほうが簡易というか強度としても十分なのだろう。なお、耐風索がなくても構造としては成立する。

20110505_R003.JPG水管を下から見上げる。三角形の頂点は水管、/\と広がっているのは耐風索。

水管はそれなりによれている。

20110505_R000.JPG水管の根本側。さすが吊橋、ちゃんと主索がどこかにアンカーされている(と思う)。土砂降りなので見に行かなかった。

20110505_R004.JPG主塔の付け根。支承と言っていいのだろうか。ピン構造になっている。通常の吊橋では、主塔は橋脚と一体化しているが、ここではピン構造になっている。ということは、主索の張り具合によって、この主塔が傾ぐことになる。吊橋の構造としてはとても理解できる。




銘板等は見つけられず、橋の名称もわからなかった。地形図でも、水路が書いてあるわけではないため、この水管橋が、何を目的としているのかもわからない。両端が地中にあるのか、地上にあるのかも見ていない。

ともあれ、見た目が非常に興味深い水管橋吊橋である。場所は、濃飛バス「あたがすバス停」付近である。久々野駅、あるいは高山駅からバスでも行けますよ。


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「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」続き

独言・日記

「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント 四月」の続き。

「中二病こそ美しい」

昨日書いたのは、私の感覚と同じだ!と思ったことだ。ところが(?)、丸田さんに向けたツイートを見ると、「中二病こそ美しい」といったくだりに「そうだそうだ!」と共感する人がいた。おかざき真里さんも、切通理作さんも。それだけでイベントできるくらいに共感されている。

では中二病とはなにか。

私は、トークを聞いているときは、なんとなく全面肯定できない気持ちがあった。それは、ネットスラングとしての中二病のイメージで話を聞いていたからだと、上記のツイートを見て気づいた。スラングとしては「自分をわきまえずに自分自慢」「誰も見てないのに自意識過剰」というニュアンスがとても強い。他人の目を意識した行動なのだ。

対して、丸田さんが言葉にした「中二病」は、「何も恐れず、自分の信じていることをやり抜く子どもらしい頑固さ」である。そこに表現者たちが共感した。先のスラングと正反対で、この文脈では他人の目などおかまいなしの行動だ。

「中二病」なんて、べつに辞書が定義した言葉じゃなくて伊集院光が発したものがネット上でいろいろな解釈、主として嘲笑の文脈で使われてきた単語だ。だから、どちらの解釈が正しいとか誤りとか言うべきものではない。ここで重要なのは、表現者たちはみな後者で即座に理解し、共有する新たな地平を作り出したということである。近い将来、中二病をテーマにしたトークライブが開催されるに違いない。切通さんは「司会をやる!」と宣言している。



丸田さんの「中二病らしい」エピソードは、前回のトークイベントでも触れられた。戦時中に粗製されたEF13形電気機関車と、新宿の新たなランドマーク(当時)となった新宿三井ビルを組み合わせて撮影するために、10歳の少年が、担任の先生にその意義を説き、1ヶ月半、学校に行かなかったこと。
<参考>枡野浩一プレゼンツ 「丸田祥三 写真へと旅するようなトークイベント」vol.1

実相寺昭雄監督とともに取材をしていて、あることでたしなめられたときに、思いの丈を口にしてしまったこと。

そういう一途さも、経験を経たあとで振り返れば「美しい」。それがあるから作品が作れた。それを認めて、作品作りはまた力を得ていく。


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