歴史的鋼橋集覧によれば、橋長130.7m、5径間。上の写真でわかるように、中央部が少し反っている。そして西側の端部、写真でいえば右だが、そこはポニーワーレンであり、しかも水平方向に曲がっている。 橋台は四角(実は「五」角)が鉄板で補強されている。 真正面に家があるが、その土台からして水管橋が架けられた当初からあったのかどうかはわからない。 ということは、この橋が架けられた明治38年当時は、L字型のアングルが生み出す「乱れ」に対しての意識が働いていなかったということでもあろう。 橋台は橋脚のように隅石の意匠を施されている。向かって左は道路橋の京橋の橋台、切石が整然と積まれている。向かって右の石垣はまた別の時代の布積みだ。 橋脚は、上流側を三角形にした五角形をしている。最上部の写真でかろうじてわかるのだが、迂闊にも「わかるように」撮っていない。「京橋水管橋」という銘板も撮っていない。もう一度行かねばならぬか。 右の、鋼管橋脚の京橋につづく。 PR 木製の壁にはキツツキが開けた穴がたくさんある。これは現役時代もあったそうだ。 男性は70を超えたいまも農業を営む。いまとなっては便利ではない土地だが、かつてはそれだけの人口があったことを懐かしんでいた。 校内を覗くと、平成9年4月のカレンダーがあった。その前月、歴史を閉じたのかもしれない。 軒下、間口向かって右には「昭和三十五年十月十五日指定 食糧庁指定倉庫」、間口上には「倉番2 建築面積105m^2 内容積635m^3」。その上は非常ベルか。 隣の建物は「始終地区老人集会所」。新しい建物だが、玄関まで5段の階段があるというのはいかがなものか。 わりと簡単に見つかった。この防火壁下部の緑色からしても現地はかつて給油所だったようだが、いまは犬走りのない土台の上に住宅が建ち、防火壁前は駐車場になっていた。そこにはENEOSのローリーが停まっていたので、住宅敷地内の壁にしては異様なこれも「残してある」のだろう。 近くにあるENEOSはセールスルームの屋根に三本線の入ったものだった。ということは、ずいぶん前に、この敷地から移転していたのか。それとも、ここは「離れ」のような位置づけだったのか。すてきな建物だったが、あいにく給油するほどガスは減っておらず、また給油所前の道も国道ながら非常に狭いのでこっそり撮ることもできず、写真はない。ストリートビューがあるので探して欲しい。 * * *
三次は素敵な町だった。この夜は、北に行った温泉併設の道の駅で寝た。 |
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