忍者ブログ
[273] [274] [275] [276] [277] [278] [279] [280] [281] [282] [283]
道の「下」にグラウンドがあった。その向かいを見ると、木造小学校があった。どうやら閉鎖されているようだ。

グラウンドに降りてみる。ずいぶんと大きな木造校舎だ。すぐ近くで農作業をしていた男性が、学校の隣の家に戻ってきたので、ご挨拶をした。

もうずいぶん前に「休校」となった。そのとき町は「(たしか)5年後に校舎は取り壊す」と言っていたそうだ。時が過ぎ、東城町は庄原市と合併し、いまも休校のまま、昭和28年の改築から60年を経た木造校舎は朽ちることなく建ち続けている。

木製の壁にはキツツキが開けた穴がたくさんある。これは現役時代もあったそうだ。

「この学校は、裏山から木を切り出して作ったんだ。ここで製材してな。できたときは、それは立派な校舎だった。中学も併設していたから、何百人も生徒がいたよ。でも、いまは…」

男性は70を超えたいまも農業を営む。いまとなっては便利ではない土地だが、かつてはそれだけの人口があったことを懐かしんでいた。

この始終小学校には校門がないので銘板の代わりに表札がある。それが残っている。玄関は木製の開き戸。

校内を覗くと、平成9年4月のカレンダーがあった。その前月、歴史を閉じたのかもしれない。

目の前には「開校百年」の記念碑がある。百年の歴史を持つ学校は、形の上では休校中であり、廃校ではない。



PR
広島県北の県道沿いに、小さな給油所の跡があった。敷地内に入ったら、一度切り返してバックしないと軽量機につけないような敷地。軽量機を覆うばかりのキャノピー。小さいながらもピットも備えたサービスルーム。しっかりと敷地を囲う防火壁。現役時代はさぞかしすてきな給油所だっただろう。たとえJOMOの、あの緑の意匠にくるまれていたとしても。

広島県の帝釈峡の近く、始終という集落で出会った農協倉庫。妻面の上部に農協のマーク。だが、その手前に増築されたとおぼしき建屋のせいで…いや、増築部分は「庄原市消防団東城方面隊」とあるのでおそらく消防倉庫。非常に重要な建屋だ。その左のスロープは隣の住宅のアプローチ。なんと高床な。

正面から。屋根上の三つのベンチレーターがかっこいい。

軒下、間口向かって右には「昭和三十五年十月十五日指定 食糧庁指定倉庫」、間口上には「倉番2 建築面積105m^2 内容積635m^3」。その上は非常ベルか。

こちら側は妻面むき出し。農協マークは色褪せていて、フチだけが白く残っている。

隣の建物は「始終地区老人集会所」。新しい建物だが、玄関まで5段の階段があるというのはいかがなものか。



あるブログに「三次市内にCALTEXがある」と書いてあった。場所はわからない。それほど大きな市街ではない、行ってみればわかるだろう。地図から検索するとENEOSが3店ある。それに隣接するか、その近くだろう。

わりと簡単に見つかった。この防火壁下部の緑色からしても現地はかつて給油所だったようだが、いまは犬走りのない土台の上に住宅が建ち、防火壁前は駐車場になっていた。そこにはENEOSのローリーが停まっていたので、住宅敷地内の壁にしては異様なこれも「残してある」のだろう。

近くにあるENEOSはセールスルームの屋根に三本線の入ったものだった。ということは、ずいぶん前に、この敷地から移転していたのか。それとも、ここは「離れ」のような位置づけだったのか。すてきな建物だったが、あいにく給油するほどガスは減っておらず、また給油所前の道も国道ながら非常に狭いのでこっそり撮ることもできず、写真はない。ストリートビューがあるので探して欲しい。
* * *

その国道を北にいくとすぐに閉鎖された給油所があった。そして、この、コウモリマークの日石プロパンの行灯が建っていた。

注油口のコウモリ。

なんとも味のある看板。写真内、看板の右のオレンジのポスターには「日石三菱」とある。まだ閉鎖されて間もなさそうだが、当時のポスターをずっと貼っていたのだな。


三次は素敵な町だった。この夜は、北に行った温泉併設の道の駅で寝た。

雑誌『東京人』2013年8月号に『写植の時代が教えてくれること』(正木香子)という記事がある。現在、出版物、放送におけるスーパーインポーズ(というのだろうか)含めてほぼすべて「フォント」、つまるコンピュータによる文字の出力となり、「写植」は壊滅したと言っていい。

写植の基本は、文字が打たれた印画紙である。その現物は手元にないのでお見せできないが、光沢がある写真プリントの紙に文字だけが刷られているとお考えいただきたい。

10年前にはまだまだ全盛期だった。「台紙」というものを写植機で作っていた。今で言えば、Illustratorの「アウトラインモード」と思ってもらって大差ない。

(イラレのアウトラインモード)

その台紙を作るために、デザイナーは「ここにこう線を引いて、ここにこの写植をこの大きさで入れる」と指定したレイアウト用紙を作っていた。電算写植機のオペレータはレイアウト用紙の上に「厚トレ」こと厚手のトレーシングペーパーを乗せ、罫線、文字をそれぞれ切り貼りして台紙を作っていた(ほかにも方法はある)。文字の訂正は、印画紙の一部を切り貼りする。文章は、張り直したときに歪みを出さないために、行ごと、段落ごと貼り替えることがある。それが、写植による誌面作りだった。

* * *

さて、書体の話である。

写植のデフォルトだった写研の書体は、いまのPCのフォントになっていない。そのために、生じたことがいくつかある。特に1990年代半ばから2000年代前半に多発した。

・Macのデフォルトで搭載されていたフォントのみでDTPしていた場合、ひどい誌面が多かった。デザインの基本…文字の大きさ、1行あたりの文字数、行間スペース、字間スペースを知らない人がレイアウトしたために起きた現象。また、フォントも数種類しかなかったため、非常に単調な誌面になった。
・太文字の王として君臨していた「ゴナ」(写研)ファミリーに飽き飽きされていたこともあり、極太のゴシックが多用されるようになった。極太の明朝は使い慣れない人が多かった。
・ゴナに変わり、「なんでも新ゴ」になった。個人的にはゴナのほうがずっと洗練された書体だと思っている。

2000年代に入り、加速度的にMac+QuarkXPRESSによるDTP化が進行し、写研書体を見ることはほとんどなくなった。写植時代、文字の装飾は、斜体、単色のシャドウ程度だった(シャドウを表現した書体があったほどだ)が、DTPではフチドリが多用される。さらにDTP化によって画像としての表現力が飛躍的に高まり、グラデーションを持った装飾が当たり前になった。それに見慣れてしまうと…「写研書体=古いデザイン」という観念が誕生する。

ご覧いただきたい。

家にあった、1993年初版の本。この「ゴナ+斜体」というだけで、なんと古くさく見えることか!

これは1989年刊。

タイトル文字にゴナ、というだけで、非常に強いノスタルジーを感じてしまう。バブルが終わってもまだまだ元気だった1990年代前半の空気を感じ、その時代の思い出にふけってしまう。この、ゴナに反応する気持ちは、きっと一生続くのだろう。

本当はもっと別のことを書こうと思ったのだが、長くなったのでここで。



関連項目
『「時刻表」はこうしてつくられる』(時刻表編集部OB編著/交通新聞社新書)











Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
カテゴリー
twitter
twitter2
プロフィール
HN:
磯部祥行
性別:
男性
自己紹介:
メールはy_磯部/blue.ぷらら.or.jpにお願いします。日本語部分等は適宜置き換えてくださいませ。
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア