雑誌『東京人』2013年8月号に『写植の時代が教えてくれること』(正木香子)という記事がある。現在、出版物、放送におけるスーパーインポーズ(というのだろうか)含めてほぼすべて「フォント」、つまるコンピュータによる文字の出力となり、「写植」は壊滅したと言っていい。
写植の基本は、文字が打たれた印画紙である。その現物は手元にないのでお見せできないが、光沢がある写真プリントの紙に文字だけが刷られているとお考えいただきたい。 10年前にはまだまだ全盛期だった。「台紙」というものを写植機で作っていた。今で言えば、Illustratorの「アウトラインモード」と思ってもらって大差ない。 (イラレのアウトラインモード) その台紙を作るために、デザイナーは「ここにこう線を引いて、ここにこの写植をこの大きさで入れる」と指定したレイアウト用紙を作っていた。電算写植機のオペレータはレイアウト用紙の上に「厚トレ」こと厚手のトレーシングペーパーを乗せ、罫線、文字をそれぞれ切り貼りして台紙を作っていた(ほかにも方法はある)。文字の訂正は、印画紙の一部を切り貼りする。文章は、張り直したときに歪みを出さないために、行ごと、段落ごと貼り替えることがある。それが、写植による誌面作りだった。 * * *
さて、書体の話である。 写植のデフォルトだった写研の書体は、いまのPCのフォントになっていない。そのために、生じたことがいくつかある。特に1990年代半ばから2000年代前半に多発した。 ・Macのデフォルトで搭載されていたフォントのみでDTPしていた場合、ひどい誌面が多かった。デザインの基本…文字の大きさ、1行あたりの文字数、行間スペース、字間スペースを知らない人がレイアウトしたために起きた現象。また、フォントも数種類しかなかったため、非常に単調な誌面になった。 ・太文字の王として君臨していた「ゴナ」(写研)ファミリーに飽き飽きされていたこともあり、極太のゴシックが多用されるようになった。極太の明朝は使い慣れない人が多かった。 ・ゴナに変わり、「なんでも新ゴ」になった。個人的にはゴナのほうがずっと洗練された書体だと思っている。 2000年代に入り、加速度的にMac+QuarkXPRESSによるDTP化が進行し、写研書体を見ることはほとんどなくなった。写植時代、文字の装飾は、斜体、単色のシャドウ程度だった(シャドウを表現した書体があったほどだ)が、DTPではフチドリが多用される。さらにDTP化によって画像としての表現力が飛躍的に高まり、グラデーションを持った装飾が当たり前になった。それに見慣れてしまうと…「写研書体=古いデザイン」という観念が誕生する。 ご覧いただきたい。 家にあった、1993年初版の本。この「ゴナ+斜体」というだけで、なんと古くさく見えることか! これは1989年刊。 タイトル文字にゴナ、というだけで、非常に強いノスタルジーを感じてしまう。バブルが終わってもまだまだ元気だった1990年代前半の空気を感じ、その時代の思い出にふけってしまう。この、ゴナに反応する気持ちは、きっと一生続くのだろう。 本当はもっと別のことを書こうと思ったのだが、長くなったのでここで。 関連項目 『「時刻表」はこうしてつくられる』(時刻表編集部OB編著/交通新聞社新書) PR
複雑に入り組んだ谷筋の一角が、少しだけ開けた集落になっている。そこに、白くなってしまった給油所があった。閉店してまだ間もないのか、敷地内はとてもきれい。自動洗車機も使えそうだった。
壁を見ると、JOMOの、なんともいえない□○○□が見えていた。ENEOSにならずに閉店したのか。JOMO、ということは。 共同石油のマークを見つけた。
匹見川の澄川発電所千早堰堤そばに架かる業務用吊り橋。
主塔は円柱状の鋼製であり、両脚の上部と中部で横材が溶接されている。主塔の足下は支承になっていて、軸方向に可倒式である。 アンカー。 床版は木製。補剛桁はワーレントラス、そして手すりには河川占用工作物の掲示がある。 河川占用工作 設備名 澄川(発)千原えんてい吊橋 占用目的 橋梁(吊橋)のため 専用期間 平成●年4月1日から 平成21年3月31日まで 占用規模 79.58m^2 許可者 島根県益田土木建築事務所長 申請者 益田市幸町1-5 中国電力(株)益田電力所長 たもとには発電所の水利利用標識がある。 こういう、小規模な吊橋は、華奢で、でもシュッとしていておもしろい。 興味深い点と、よろしくない点と、非常に評価の難しい本。 本作り、つまり「原稿を書く/入稿/校正/校了/印刷」という行程を知らないと、「つくりかた」の説明をするのは難しい。たいてい、こうした裏方作業の話は印刷工程における苦労話や極端なエピソードなので、うっかりすると「時刻表ならではの作り方」ではなく、「通常の本作りのプロセス」になってしまいがちだ。そのあたりのバランスにはかなり苦労しただろう…と思いきや、どうも全然苦労してない雰囲気も漂う。つまり、「通常の本作りのプロセス」に終始している。 「時刻表ならでは」の部分が、少なすぎると感じる。「時刻表ならでは」の部分は、全体の数分の1程度しかないのではないか。執筆は分担制なのか、専門用語が解説なしで出てきてあとから注釈が入ったり、注釈なしの専門用語が散見されるのも残念だ。 例えばP70、APRという樹脂版(いわゆる樹脂凸版)での作業について「清刷を所定の場所に配置してカメラ撮りをしてネガを作る」と書いてある。「カメラ撮り」とは、確かに印刷所の人は、そう言う。でも、普通は「カメラで撮る」という行為は「撮影」と言う。そして、これはまだ「スキャン」が一般的ではなかった時代の技術だ(現在でも大判の図版は「カメラ撮り」をする。『空から見える東京の道と街づくり』の地図の一部はカメラ撮りをした)。ここは注釈が絶対に必要だ。 樹脂版にしても、私は週刊漫画雑誌で実物を扱っていたのでよくわかるのだが、若い編集者にすら伝わらないだろうこの部分、読者にはもっと伝わらないに違いない。この部分を解決するためには、その樹脂版の写真があればいいのだが、本書の最大の欠点は「写真や図版がない」ということである。 参考:樹脂凸版(東レのトレリーフ)ー要するに、このぺらぺらが「ハンコ」の役割を果たす 同じく「活字」と「DTP」の違いについても、もっとわかりやすく書かねばなるまい。 参考:鉛活字を並べるということ(印刷博物館) 活字の時代、駅名や罫線が撚れた。それを説明するためには、実際に昭和40年代の、活字を使っていた時代の紙面と、現在のDTPによる紙面とを見比べさせないといけない。例えばこういう風に。 1980年4月のコンパス時刻表。紙面の文字に凹凸があり、見るからに活版印刷だ。みどりの窓口マーク、駅弁マーク、「急行」マーク等は、特殊な活字である。本書には写植に切り替えたのは1987年とあるので、それまでは鉛活字とその罫線を組んでいたはずである。上写真で薄く赤になった部分をご覧いただきたい。この時点では活字を一度樹脂版に置き換える方法だったとは思うが、活字の罫線は途切れるところがある。また、矢印は、矢羽根/シャフト(?)/鏃がそれぞれ別パーツなので、それぞれの間に隙間がある。 そして、右上カドの縦罫のように、ときに曲がる。これは樹脂版が歪んだのか。 縦長ピンクの線の場所、横書き文字なのにおかしな隙間がある。これも罫線、というか空白スペースのなせるワザ。上段、枕崎発山川港行きだが、時刻の「1136 1207 1313 1400」とそれぞの間にわずかなスペースがある。これが、上下の、横書き日本語にも干渉してくる。これは、活字を並べるとき、時刻を基準に、そこにスペーサーを挟み込んでいる、と思ってもらって差し支えない。 いや、これらはまだ古い時刻表を持っている人には直感的にわかるかもしれない。本書でもっともダメな点は、時刻表製作に欠かせないという「フンドシ」の写真がないことだ。まったくイメージがわかない。 本書は「ヨンサントオ」の通り一遍の説明などを掲載するのではなく、裏方作業を知ってもらう本に徹して、こうした部分にもきちんと解説が欲しかった。非常に残念だ。 |
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