なぜこんな場所にあるのだろう。新潟の平島あたりの大きな通りから、ほとんど見えない路地にひっそりとあった。見つけたのはまったくの偶然だ。
サービスルームの上部に品よく、ほどよい大きさのENEOSのロゴ。サインポールも2階建ての屋根くらいの高さしかなく、威圧感がない。正面窓は大きな一枚ガラス、側面は引き違い戸。 計量機はひとつ、ガソリンとハイオクのみに見えるが、見えない位置に灯油のそれがある。こんな規模でも、敷地内は整頓され、お約束として消化器が活躍する場もなく無聊を託っている。…託ったままでいるべきだが。サービルルームの後部、下部が斜めに切り取られた板があるのは防火壁兼用なのか。 まるで、ENEOSのカラーリングにあわせたかのような給油所。しかし。 スタンドラリーのサイトを見て驚いた。JOMOじゃないか。緑一色の防火壁も、緑の計量機も、まったく「ひどい」としか言いようがない。水道のホースが水色であることすら気に障る。コスモだってここまではひどくないのではないか。近隣住民は、ENEOSになってさぞ心安らぐ空間になったことと思う。 ここは、JOMOになる前は、どのブランドだったのだろうか。そのデザインも見てみたい。 PR
新潟県の、とある県道を走っていると、計量機がひとつ、目に飛び込んできた。道路は写真で言うと右の画面外にあり、道路と並行して短い防火壁がひとつ。そして給油所の両側は道、ないし道のようなもの。防火壁の向こうには、平屋の民家。あまりじろじろみなかったのだが、工務店のような印象も持った。
ガソリンの計量器がひとつだけある。この給油所のある場所は水平ではないため、防火壁も斜めになっている。 防火壁の、出光のロゴとアポロ。「出」の背後に、二回りくらい大きな文字が消えかけているが、これはなんだろう? 防火壁側から道路を見る。 トキコの計量器には、「修理年月日 昭和62年」という打刻があった。その銘板は、東京エンヂニヤー・サービスとトキコのコンビで、型式はSS23とある。 東京エンヂニヤー・サービスはタツノ系、トキコは日立系。このあたりの系譜もおもしろそうだ。 【2012/5/26追記】 @g_standさんより、出光ロゴの後ろに見えているのは出光灯油の炎のマークで、その下に「出光灯油」と書いてあった痕跡が見えるとのこと。さらに、防火壁の下部の薄い水色のラインは出光灯油の塗装パターンであるとも教えていただいた。ありがとうございました。
与板の街中には、いまだ越後交通の廃線跡が堂々と残っている。ホーム跡も容易にわかる。関係建築物を解体したものと思しき残骸もある。更地化したところは、運送会社の駐車場になっている。
もっとも、駅(跡)は街の中心ではなく、住宅地が尽きてそろそろ他の用途、たとえば田畑や山になろうかというあたりにあるので、残っているのもむべなるかなと思う。西に向かう廃線跡は遊歩道になっている。 さて、上の写真の写っているのは、日通の倉庫である。 倉庫内は無人のようだったので(撮影は祝日の土曜日)、前に停まっているクルマは近所の人のものだろうか。 この建物は、「鉄道の駅舎だ」と言っても信じてもらえそうな形をしている。 角度を変えて。妻面に掲げられている「日本通運」。中央の円形はもう読めないが、「通」のロゴマークと推察できる。 サッシはすべてアルミ(?)化しているが、その外枠は木製のまま。そして、波板(トタン?)や細い凹型が入った板を巻いたこういう外装は、新潟ではよく見るのだけれど、他の地域ではどうなのだろう? 反対側の妻面。道路に面しているためか、3枚の戸。この、おそらく木製フレームに金属板を打ち付けた戸も、新潟ではよく見る。冒頭の写真を見ると、その戸袋がおかしな形で飛び出している。そこに、興亜火災の行灯がある。 いま気づいたのだが、ここに見える鬼瓦の下の瓦は三つ巴だ(反対側は無地)。五十公野の農業倉庫も三つ巴だった。 一周して正面。正面玄関…と思しきところは実は玄関ではなく、その左隣りが玄関なのだが、その「思しきところ」にはこんな標識があった。上から 「電話一一七番」(縦長。時報じゃないのか?) 「電話 44」(楕円/電電公社マーク) 「電話117」)楕円/電電公社マーク) 電話番号2桁ということは、相当に古い建物で、かつ公共性が高い建物だったということだろう。 この日通倉庫は現役で使われている。撮影した日はたまたま休業だったらしいので、近寄ったり撮影したりできたら、もし関係者が仕事中の場合はご配慮を。 1984年(昭和59年)夏、自転車で新潟から柏崎まで走った際、発見して驚いたのが越後交通の廃線跡。そんなものがあるとはまったく知らず、偶然出くわしたその驚きは、いまも記憶している。PCはおろか携帯電話で検索すればすぐに情報が得られる今日、そんな出会いはなかなかなくなった。その越後鉄道長岡線の廃線跡を、この4月の連休にきちんと訪ねた。部分部分はかつて訪ねたこともあるが、多くの区間をたどろうとしたのは初めてだ。 槙原駅跡。 「駅だったもの」がひとまとめにされ、虚しく朽ちるのを待っていた。しばらく前までは、ここにホームやレールもあったらしいが、整地されて間もないような雰囲気の砂利敷きになっており、ほぼすべてこの一塊に集約されていた。 ところで、背景の倉庫。いかにも鉄道駅の裏手にあった倉庫だ。 右書きで「(大津)大津農業倉庫」とある。最初の「大津」を左に移したのだろうか。ここは現在「JA越後さんとう大津」との表示がある。合従連衡でいまのJA大津ができあがったが、1978年(昭和53年)まで、ここだけでJA大津を名乗っていた。以後、三度の改組を経て、いまは「JA越後さんとう」である。 こうして見ているのは、裏口。鉄道貨車に積み込むほうだ。なぜか、この農業倉庫の正面(写真で言うと「向こう側」)の写真を撮っていない。なんと迂闊な。
* * *
冒頭の写真のガレキの中には。油入地絡過負荷しゃ断器。 形式 H6-AE7-T 定格電圧 7200V 定格電流 100A 変圧器 6600V/110V 定格しゃ断容量 50MVA 極数 3P 周波数 50.60~ ZCT.NO B2394 はずし電圧 AC110V 引はずし電流 1.0/0.8A ○量 74L 総重量 175kg 製作 昭和44年5月 製番 B108926 ○○(たぶん日立)製作所 二枚目の写真、左に見えるのは、吉岡材木店という製材所である。その左、緑の部分が、かつての鉄道の敷地。 そこは、このように木材の乾燥のための場所になっていた。ところどころ、枕木が見えている。 ここから振り返ると… こんな形で路盤が残っている。 製材所前の地面に突き立てられたレール。まるで、墓碑銘のようだ。
かつて、駅の周辺には倉庫があった。正面の横には日通の倉庫、裏手には農協の倉庫。いま、駅が無人化され、貨物列車も走らなくなって久しくても、あるいは鉄道路線が廃止されても、倉庫だけ残っている場合がある。それが、とても愛おしい。
上の写真は、1984年3月末に廃止された国鉄赤谷線意義美濃駅跡の農業倉庫。手前の道路はかつての線路跡、五十公野駅跡だ。 なんとすてきな文字。右書きで「農業倉庫五十公野支庫」。「農」の中に「民」があり、「野」の中に星がある。 横(南側)から。倉庫そのものは前後対称なのだが、付帯する屋根およびその下の空間が異なる。 正面側(道路側)。この車寄せのような庇の内側、梁は曲がった木材を加工したもの。 その「向こう側」から。新たに設置された車寄せの屋根。 正面玄関向かって左に掲げられた看板。 (新発田)支第43号 新潟食糧事務所 昭和五十九年三月一日設定 国内農産物(米)検査場所 云々。 向かって右にはこんなものが。 政府指定倉庫 (他の文字は読めない) 正面玄関の鬼瓦。「が」にマル、はなんだろう?
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五十公野駅、現役の姿。wikipediaにある写真と同じなのだけれど、私がアップしたものなのだ。 『赤谷線賛歌』など、他の本も探したが、現役時代の農業倉庫の写真はなかった。 |
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