EIZOガレリア銀座で本日から開催されている、『「鉄道物語」マイブックでつづる鉄道写真家17人の写真集展』に行ってきた。 写真展…なのだが、一風変わっていて、17人の作品は会場には1枚ずつパネルで展示されてそこにコメントがあるだけで、メインの作品はそれぞれ写真集になっている。その写真集は「マイブック」というサイトを通じて作成したもののようで、体裁はさまざま。多かったのは、25cm四方くらいの正方形に近いハードカバーのものだ。 ところが、率直な感想として、その写真集を「作品」と呼べるのかどうか…。そう感じたものが多かった。掲載されている一点一点は、それは美しいものだ。しかし、それが写真集という形にひとまとめになると、とたんに褪せてきて、「作品」とは呼べないしろものになってしまう。 これは定義の問題かもしれないので、反論はあるだろう。だから、ここで私の「写真集(以下、写真展も含む)という作品」の定義をしておく。 明確なテーマのもと、読者が「読む」体験ができるように編集されたもの。 有無を言わせぬ写真が文脈を持って展開し、 自然に読者がテーマを自分と絡めて考えはじめてしまうようなもの。 会場にあった多くの写真集は、「編集」がなされていなかった。テーマを設定しても、編集されていないから、文脈がすごく弱い。写真集や写真展というのは、「美しくうまく撮れた写真」をただ並べればいいというものではない。どんなに素晴らしい写真でも、どんなに思い入れがある写真でも、文脈からはずれるものは、落とす。逆に、通常なら没にするような写真、例えばブレてたりピントが甘かったり、フィルムの時代なら誤って半分感光してしまったようなポジだったりしても、文脈に沿うなら使う。それが「編集」というものだ。こんなことは写真集や写真展に限らない。音楽のアルバム収録曲の選曲でも、短編小説をまとめた本でも同じ作業がなされているはずだ。 また、その(弱い)文脈の作り方にも、疑問を感じるものが多かった。「過去に撮影したもの」から適当にピックアップしただけ、としか見えないものもあった。ひとつのテーマを決めて、たとえば「人」なら「人が写っているもの」を集めるのではなく、「どんな人を集めるのか」を決め、「そんな人」をテーマに撮り下ろせ。そういうものだろう。なにも、全部を撮り下ろせと言っているのではない。欠けているピースだけでいい。 先にテーマを設定し、そこから撮影するという「組み写真」の正統な作り方をしたものは、中井精也さんの作品集が唯一だった。中井さんは「DREAM TRAIN」のように、ふだんからこうした作品作りをしておられるが、そういうことをしている鉄道写真家は、どれだけいるのだろう? また、梅木隆秀さんの「屋久島 安房林用軌道」は、林用軌道の姿をひたすらに記録するという視点で作られており、すばらしいものだった。 広田尚敬氏が、いまでも超一流なのは、その作品が「昭和30年代にこんなことをやっていたのか!」と思うような圧倒的な力量の作品ばかり、ということだけでなく、その著書が「編集」されているから、という点も非常に大きいのではないかと思う。いや、著書に限らず、RailMagazineに掲載される場合も、かならず素晴らしい編集がなされていた。 いま、「60周年記念出版」のうち、『Fの時代』と『永遠の蒸気機関車 Cの時代』が手元にある。どちらも同じセンスで編集されている。撮影された時期、地点は北海道から九州までバラバラなのに、それを編集することで、ここまで流れのある作品集に仕上がるのか! と感じる、すばらしいものだ。 もし、『Fの時代』に掲載されている作品が、ブレてたりボケてたり色がおかしくなっていたとしても、作品集の価値はいささかも減じることはない。それほど「編集」がきいている。 『Fの時代』については、広田氏と、編集担当の江上英樹氏、装丁家の祖父江慎氏でその流れを考えたと聞く。写真集というのは、この作業がいちばん大切なのだが、そこを、超一流の編集の目が作り上げた。そして、ページをめくるのに、読者が真剣勝負を挑まれているような、「次のページをめくるのが怖い」と感じるような、ものすごい写真集が完成した。 残念ながら、今回展示されていた半分以上は、そこには遠く及ばない。作るべきは図鑑じゃない。写真集だ。ふだんから私が「鉄道写真」全般に感じている「練れてなさ」がそのまま具現化してしまったような展示会だった。 PR
道道94号を西へ走っていた。とある場所で、橋梁の架け替え工事のため、仮橋を通らされた。その少し先の右側に、プレートガーダーの残骸が置いてあったのでバイクを止めた。
場所はここ。 橋の名称は不明。どこの工事をしていたかも不明。戻れば、先の工事中の橋があるのだが、それをしなかったので、わからないままだ。 このプレートガーダーの厚みは10mm以上は余裕であるが、体重70kg代前半の私が乗るだけで「曲がっている」という感触を得る。 解体は無造作だ。とにかくバーナーで切る! おそらく上路プレートガーダーだが、路床も引っぱがす! そして、それらの断面は(おそらく架設時を最後に)防錆塗装をしていないため、既に錆が浮いてきている。 3枚(?)のうち、上と下の2枚が床版が据え付けられていた面。 木材の上に載せてあるが、プレートガーダーの重みには耐えきれなかったようだ。 裏側をのぞき込んだら、銘板があった!
1973年12月
北海道建造 ○○○○○○○○ 製作 東京鉄骨橋梁製作所 ○○○○○○○○ この銘板、本体と同じくスクラップにされてしまうのだろうか。ちょっとっほしい…。 継ぎ目板。これも大量にあった。 ふと目を上げると、標識。どうしてこんなに傷がついているのだろう? 再利用などは考えないのだろうか。また、標識の左に見える黒い「棒」はレールのようにも見える。 図らずも見ることができた、鈑桁の末期。大きさからして、このままトラックに積まれ、搬出されるのだろう。 (写真は右岸、下流川から。画面右が碧水、左が秩父別) 北海道の深川付近を走っているとよく「青看」に出てくる(ような気がする)割には大きな地名ではない「碧水」。R233とR275の交差点で、行ってみると、「なぜここが青看地名に?」と思ってしまうようなところ。その碧水交差点の東、R233が雨竜川を渡るところに架かるのが、この筑紫橋である。 サイト『北海道鋼道路橋写真集』は相変わらず閲覧できないが、筑紫橋の項目は閲覧できる。それによれば、諸元はこうだ。 ・単純合成桁 ・橋長:201.900m ・支間:50.000+70.000+50.000+30.000(単)m ・幅員:6.500m ・橋格:昭和14年示1等橋(T-13) ・鋼重:512.1t ・完成:昭和31年 支間は、ちょっと疑問。カンチレバートラス部分は50m+70m+50mとして、「30m」とはなんだろう? その両側は2径間連続PC桁にしか見えない。 この筑紫橋は、見た感じ、かなり巨大。カンチレバートラスは、吊桁ポニートラスになるような、それほど大きくないものが多い印象だが、これは大きい。周囲が平たい農地であるため、遠くから、碇着桁の三角がよく目立つ。一般的に、アーチ橋のアーチはランドマークになるが、この筑紫橋も十分にランドマークたりえる。 上の写真を、もっと寄って撮ったもの。碇着桁のツノが巨大なのかおわかりいただけると思う。 反対側(右岸、上流川から撮影)。上流川に歩道橋が添接されている。この歩道部分は、トラス桁とは構造上、無関係である。 碇着桁と吊桁の結合部。 歩道から撮影しているので、手前が上流川の外側、奥が下流川の内側である。桁の接合部、上部はリベット留め。 上部はこのような感じ。左が碇着桁、右が吊桁。その接合部はピンではなく、リベットとタイプレートによる剛結である。 対して、下部は碇着桁から飛び出した部分にピンで結合する形式となっている。このピンの位置に、いささかとまどいを覚えるが、それは単なる見た目の印象でしかないだろう。 下流側右岸側銘板。
昭和30年(1955)
北海道開発局建造 内示(昭和14年)一等橋 製作株式会社宮地鉄工所 上流側左岸側にも同じ銘板がついている。 撮影していたら、太陽がすごい勢いで沈んでいった。冒頭の写真は17時54分、そしてこの写真は18時12分。わずか18分の間に、太陽がこの角度になり、光線が赤くなってきた。 目を上流側に転じれば、太陽が部材に反射し、それが背景の山並みと山の端のように見えた。 日が完全に没するまで見守り、すぐ近くの道の駅秩父別に向かった。 日高大橋。それが径間72.8mの上路三弦橋である、と知ったのは、なにをググっていてたどり着いたのかは忘れたが、『北海道鋼道路橋写真集』というサイトからであった。いま、親ページ(?)はサーバエラーで表示されないが、該当ページは見ることができる。→日高大橋 すでにLEVEL_7Gさんが現地に行き、写真集まで出してしまったのだが、自分の目で見に行った。 事前にLEVEL_7Gさんから「ぜんぜん見えませんよ」と聞いていたとおり、ぜんぜん見えない。ここは、左岸・南側で、足下にはエロ本が落ちていた。 川岸は断崖で、河床に降りることはできない。先のサイトでは、冬に河床から撮っているようだが…。そのため、せっかくの三弦橋なのに、横からの干渉が不可能だ。唯一近づけるのはこの左岸・南側で、それも、このとおり樹木にさえぎられている。橋台を地盤に固定するためのアンカーが目立つ。そういう地質なのか。 こんな角度でしか見ることができない。とても残念だ。 これを見ていると、支承付近の構造が興味深い。 上路三弦橋だから、下弦材は1本、つまり三角錐の、カドが下面に来る。橋脚の軸方向の断面はV字型になり、下弦をひとつの支承でささえるのか、と思いきや、通常(?)の形状をしている。それにあわせるために、トラスの端部は、上から見ると三角形になっている。言葉だとわかりづらいので、ちょろっと描いてみた。 左が橋脚(イメージ、実際の形とは異なる)。いろいろ不具合があるので、パスを連結できておらず、カドがお見苦しい点はご容赦いただきたい。 このような治具とでもいおうか、部材を設置して、橋脚に据えている。 各地にある、▽形の水管橋の端部はどうなっているのだろうか。上弦2本から、断面がΠ字になるような脚が出て橋脚に据えてあるのは見たことがある。ちょっとここに興味をもってみよう。 道路を走っていると、これがそんな特殊な橋であるなどとはまったくわからない。それがいいのか悪いのか。利用者にとってはそれでいいに違いない。ガードレールと同じような高さの欄干と親柱。それで、「ここは橋ですよ」ということがわかれば十分なのだろうな。 この日高大橋が、なぜこんな上路三弦橋という形式を取ったのか。工事誌等を見れたらいいのだが。 北海道の日高町を日勝峠に向かって登る途中に新清見トンネルがある。長さ910メートル。その手前右側に、旧道が見える。 左に見えるのが新清見トンネル。手前の橋(新清見橋)を渡っていると、車窓右に「旧道だろうな」と思える橋がある。その向こうには隧道も見えている。 右側の橋は幅も狭いし、これは旧道に間違いなしだろう…? なんかおかしくないか。幅、ではなく、その処理というか…。 だってほら、センターラインが…。 登り側の写真がごっそり切り取られている。 断面を見てみると、非常にきれいだ。まるで最初から「いまの形」に作られているかのようにすべすべしている。 ノーファインダーで撮ってみた。 鉄筋の断面から錆が垂れている。酷材たる石まで断面を見せているので、工事にあたり、橋の5分の2ほどをカットしてしまったのだ。 川の高さに降りてみる。 PC桁がスッパリと切断されているだけでなく、前後の橋台は崩されている。 西側の橋台部分。右側(北側)がごっそりと欠き取られている。コンクリートの切断面、「刃」が回転した痕跡がある。 画像右の欠き取られた部分を見るに、本来はこれだけの幅があったのだ。橋台を崩した跡には新橋の橋台が設置されている。崩された橋台の「中身」は土砂だろうから、切断面が崩れてこないように矢板がカマしてある。 桁の裏側。左側がカットされたているのだが、これだけ見ても、カットされたようには見えない。 上にあがって対岸へ。 新清見橋(現道)の工事は、清見橋を欠き取らないと進行できないはずだ。では、通行量の多いこの日勝峠ルート、どうやって1車線分になった橋の交通を確保していたのだろうか? 現状から推察するに、清見橋を半分欠き取ったあと、反対側(上記画像の左側)に仮橋を設置し、2車線を確保していたのではなかろうか。 (8月28日追記) 8月28日、@Einshaltさんから上記架設を裏付ける、工事中の画像をいただいた。 この画像右側、トラックが載っているのが仮橋だ。 これを見て思うのは、PC桁を縦に割っても、通常の道路として使用できるほどのきちんとした強度が確保されているのか、ということだ。まさかそんな使用法は想定していないのだろうが、当然、その点は確認した上でこの形態になっているのだと思う。 そして、新たな謎を@LEVEL_7Gさんが提起した。PC桁を半裁にする工事は、供用中にしたのか否か? 一般的な道路工事を見ていると、カッターで切断するのは、その外側に少しの余裕があればできそうだ。この橋でいえば、センターラインにカラーコーンを置き、それより内側で作業をするならば、片側車線だけを不通にすることで作業は継続できるのではないか、ということだ。じっさい、センターラインから切断面までは 1mはないけれど…というくらいの余裕がある。一時的に仮橋を2車線分作ったのでは…という可能性もなくはないが、現地では、「仮橋の跡」は明確に1車線分しかないこと、また、この規模の国道でも数時間の片側交互通行で対処できるものと考えるので、それはないだろうと思う。 貴重な画像をありがとうございました>Einshaltさん (8月29日追記) @3710dc205さんから、 「カットされた側の主桁を挟んで横梁の構造が変わっているようなので、残った5主桁でもともと構造として完結している気もします。旧橋を拡幅したときに2連目の桁をかけて目地でつないでいた可能性もあると思います。6主桁以上のPC桁を切って5主桁にするのはできそうですが、主桁同士がPC鋼材で横方向に連結されているのを一度解除して連結し直す必要があると思います。そうなるとそこそこ大変な工事になりそうな。もともと5主桁のPC桁だとすれば主桁に支持されて側方に張出したRCの梁・スラブを切り落とすだけなので、供用しながらでも施工できると思います 。」 というご指摘をいただいた。たしかにおっしゃるとおり。上の、桁裏の画像を見ても、橋脚はPC桁の縦桁5本の幅しかなく、その左側=カットされた部分との境は、橋脚とは別の種類・仕上がりのコンクリートになっている。 ということは、ご指摘の中でも相当譲歩のある「6主桁を5主桁に」ということは考えづらく、分離しやすい部分が(たまたま?)センターライン付近であった、と考える方が自然であろう。 貴重なご指摘をありがとうございました>3710dc205さん この橋がある場所は冒頭のとおり。現在の地形図には、この旧道は、このとおり抹消されている。 (カシミール3D+電子国土) 旧道を掲載しておく。 (カシミール3D+山旅倶楽部) |
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