交通新聞社新書の『日本初の私鉄「日本鉄道」の野望』(中村建治著)を読んだ。私のTL上では概ね好評か、好意的に迎えられているようだ。
私としては、本の完成度がとても低いと感じた。素材はとてもいいはずなのに。 内容、エピソードのひとつひとつはきっちりと検証している。登場人物も、そのとき何歳でどういう経歴の人かをきちんと書いているから、とてもわかりやすい。でも、単にそうしたエピソードを箇条書きに羅列しているだけ。挙げ句の果てに、下手くそな小説仕立てにしてしまっているため、おそらく膨大な資料を参照して検証された事実が、フィクションであるかのように見えてしまう。「ダイヤ作成の秘話」でお馴染みのお雇い外国人・ページのエピソードも入っていて、私はそれが誤りだと検証されているものを読んでしまっているのでますますいい加減な本に見えてしまう。(『日本の鉄道をつくった人たち』(悠書館)参照) 本書の書き出しは、青森までの全通から始まっている。小説仕立てで、18ページ目(本文1ページ目)では主人公である二代目社長・奈良原繁が開通一番列車に乗っている。その後、会社設立の経緯、まずは熊谷までの開業、高崎、仙台、などと帰納法のように展開していき、青森までの全線開通は単なる時代の一点として通り過ぎ、鉄道国有化まで行ってしまう。196ページで、ようやく冒頭の数日前の描写になる。その後、わずかなページで現・常磐線や東北新幹線に触れ、本書は終わる。なんだこのジェットコースター展開は。 小説仕立てが下手くそで困ったのは、『余部鉄橋物語』(田村喜子著/新潮社)も同じだ。どちらも、書き手が小説家でないものだから、台詞がすべて単なる説明なのだ。また、伏線というか、物語のつながりがない。本書22ページで、仙台開通記念式典が冬になったことを「あのお方のせいだ」といい、その伏線を回収するのは166ページである。しかも描写は重複している。 また、著者が撮影したという写真があまりにも下手くそすぎる。いまどき、携帯で撮ってももっとうまく撮れるしシャープに写る。なぜピンボケ写真がたくさん掲載されているのか。もしかしたら、版元のせいかもしれないが。私が担当だったら、著者が撮った写真は使用せず、別に手配しただろう。 まだ買う前の方。wikipediaの日本鉄道の項目と鉄道国有法の項目を読めば十分です。 PR
野尻森林鉄道 木曽川橋梁(長野県)
野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。 現在、上記地図の中心点には「野尻向橋」がかかっている。下記写真で手前に見えている橋だ。 . その橋に立つと、すぐ近く怪しげな痕跡が見える。 (右に見えているのが野尻向橋) いかにもここに橋がありました、という感じ。周囲は少し盛り土してあり、ここがT字路になっていた。対岸には、この橋跡と対になるような痕跡と、その左側に吊橋の主塔が見えた。 . となると、親柱が残っているのは旧橋、主塔が残っているのはさらにその旧橋ということになろうか。旧橋の橋台の左側には、川に降りる階段のようなものが見える。 主塔をアップ。コンクリート製。阿寺橋の旧旧橋の主塔は木製だった。 対岸に渡る。 対岸はこんな感じの広場が広がっている。その中に屹立する主塔。 横から近づく。どうも、主塔の周囲だけ灌木が生い茂っているように見える。 このように、樹木を口にくわえたような格好で立っている。銘板類はないようだ。 主塔の下から川際に出る。さきほどいた対岸が見える。しかし、吊橋の主塔は見えない。撤去されてしまったのだろうか。 さて、もうひとつの怪しい橋。 床版と橋脚の隙間が吹き抜けになって折らず、シェルターのようになっている。 その上に上がると、現在のクルマでは曲がれないのではないかと思えるくらいに床版がカクッと曲がっているのがわかる。なんだ、この線形は。 古い航空写真で確かめた。青い矢印は野尻森林鉄道の木曽川橋梁。 (国土変遷アーカイブより1947年撮影)赤矢印の部分が、この吊橋だろう。野尻森林鉄道の線形がくっきりと見えているほか、右下の野尻駅、左下の謎のループ上の線形(これはいまもある)も明瞭だ。 (国土変遷アーカイブより) 1977年となると、すでに吊橋ではない。いまは撤去された橋に移行している。 その吊橋の現役時代の姿が、やはり『写真で見る100年』にあった。 「野尻向橋 大正10年頃」というキャプションがある。その向こう側では、何をしているのだろうか。 旧橋を建設中? この旧旧橋の主塔がコンクリート製であるということは、その建設はせいぜい大正時代に入ってからではないかと思うのだが、大正10年には早くも旧橋に架け替えに着手するというのはちょっと考えがたい。 となると、見えているのは建設中の橋ではなく、単に桟橋に荷物が積み上がっているだけではないか? 旧橋は、その桟橋状のものを転用して架けられたのではないか。 階段が湖底に続いているようにも見えるが、なぜかこの階段は、現在残っているものよりも角度が相当にゆるい。現在残る階段が何のためのものなのかは不詳である。
野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)の続き。
このIビーム桁が見える場所で逆方向を見ると、このような橋梁が鎮座している。 左岸(画面右)から上路ワーレントラス、下路プラットトラス、上路プレートガーダー×3。 近づくとこのように見えてくる。築堤は間違いなく林鉄のものだが、切り下げられ、橋梁だけが高みに取り残されている。 橋台だったものの裏側。本来ならば築堤の中に埋まっている部分なので、なかなか見る機会はあるまい。画面右側についている三角形のものは築堤の断面を押さえる翼壁。これも、本来委は土に接している面が露出している。 上路トラス全景を真横から撮った写真が手ぶれしていた…ので、別カットを。 この形は、同じ野尻森林鉄道の多の橋梁や木曽森林鉄道鬼淵橋梁でも見られる。当時、日本橋梁が作っていた規格品なのだろうか。 また、枕木が存置されているのがわかる。 上路トラスの真下。下横構を構成する、格点を対角線上に結ぶ部材が、向きによって格点の上、下それぞれにそろえられている。 トラス橋真正面。端正、かつ細い。直線的な印象が強い。 10パネルのプラットトラス。端部のパネルには、斜材のようなコリジョン・ストラットを備える。 全体的に華奢な印象。部材の細さはまるでアメリカ式のピントラスのようだ。これは設計活荷重が比較的小さいからか。 そして銘板。 大正十年四月
日本橋梁株式会社 製作 大阪 先の野尻森林鉄道 Iビーム桁橋(長野県)と同じ形状をしている。 この橋梁については、他にすばらしい発表記事がいくつもあるので、そちらを参照された。 近くには有名な野尻森林鉄道木曽川橋梁があるが、そこを目指して野尻駅から道を下ると左手にこのプレートガーダーが目に入る。場所はここ。 小さな架道橋である。いまは築堤に電柱が立ち、放置されている。道路から見えるくらいなので、近づくのは容易だ。 こんな感じで電柱が立ち、それを支えるというかテンションをかけている索が2本。街中の道路にあるように、下部をトラ塗りのプラスチックカバーで律儀に覆っている。こんな場所をクルマで走る人はいるまいが、決まりなのだろう。 角度を変えるとこんな。 Iビーム桁。2本のIビームを上面と下面に梁を渡して接合している。スパンは3mくらいか。 きちんと銘板がついているのが嬉しかった。 大正十年四月
日本橋梁株式会社 製作 大阪 この銘板は形状がおもしろい。車名を囲む枠の底面が下に膨らんでいる。その台座は、上底が上に膨らみ、下底が上に向かって凹んでいる。ざっと検索すると、大正十三年製の銘板にはこの形状を確認できた。大正十四年製のものは長方形になっていた。この時代だけのものなのかもしれない。 サイズは小さい。Iビームの側面についているものなので、横幅20cmくらいのものか。よくぞ盗まれずにあったものだ。この銘板を撮影するには橋台ギリギリから体を乗り出さねばならない。高さは4~5mはありそうなので、ちょっと怖かった。
「阿寺渓谷」と書いてある橋のつづき。『トラック野郎 熱風5000キロ』のオープニングに出てくる橋である。
下記動画もあわせてご覧いただきたい。 1分08秒付近で、一番星とジョナサンが、赤いプラットトラスを渡る、その橋だ。「阿寺渓谷」と書いてある橋で推測した場所に架かっている橋であることをつきとめた。 この成果は、全面的にtyafficさん(@fusamofuさん)に依る。前掲記事に対して当時何度かやりとりし、そして最近、映画と同アングルでランガー桁が架かっている画像を教えてくださった(こちらのページ)。背景の山の感じがそっくりなのである。そして、そこに大きなヒントがあった。『写真で見る大桑町100年史』云々。 その本が、現地から少し離れた須原地区の大桑村スポーツ公園内にある大桑村歴史民俗資料館にある、ということを、やはりtyafficさんからうかがったので、行ってみた。ありましたよ。。。 「旧阿寺橋(昭和34年)」とあるのは、手前の吊橋のこと。お目当ては、その奥。 この橋だ! 後日、このプラットトラスは道路橋に転用される。阿寺の森林鉄道の終焉が昭和40年(1965年)というから、転用されたのはほぼそれと同時期と見ていいだろう。 このプラットトラスの規格はわからないが、木曽森林鉄道の鬼淵橋梁がTL-14すなわち14t制限。後日紹介する野尻森林鉄道の木曾川橋梁が10t機2両分。ということで、一番星号(11t車)とジョナサン号(4t車)が通過する分にはOK。 そして、いつまでこのプラットトラスが使われたかというと、隣接してランガー桁「阿寺川橋」が竣工したのが平成5年(1993年)11月。ここから遠からず、プラットトラスは撤去されたに違いない。また、吊橋は昭和35年(1960年)に2連のワーレントラスに置き換えられたあと、平成20年竣工のニールセン・ローゼ桁「阿寺橋」となっている。 この、昭和35年のものが、いまでもYahoo!地図の衛星画像にある。 (縮小すると、建設中のニールセンローゼ桁が見えるようになる) 現在の姿。 このような位置関係で、阿寺橋(旧吊橋=左の茶色)、阿寺川橋(旧プラットトラス=右の赤)が接している。 ●阿寺川橋(ランガー桁) 上流側から。なぜ『トラック野郎』と同じアングルで撮らなかったのか。よく見ると、手前にプラットトラスの橋台が残っている。 北側。画像右下に橋台がかすかに写っている。 上流を見ると、橋脚がある……。 近づいて見た。詳細不明。 そのすぐ上に、碑がある。
林鉄記念碑
六十余年の輝かしい歴史を有する森林鉄道との訣別 誠に感無量なり 昭和四十年十二月二十日 野尻営林署長 岡田寛治 ●阿寺橋(ニールセンローゼ桁) こんな形で、阿寺川橋よりはるかに重厚な存在感を持っている。 そして、以前あった、2連のワーレントラスは… こんな位置でスッパリと切り落とされていた。対岸は完全に痕跡がない。 『トラック野郎』に端を発したトラス橋を巡る旅。とても楽しかった。解決の糸口をくださったtyafficさんに感謝申し上げます。 |
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