ここに紹介するのは、「新」北上大橋である。歴史的鋼橋集覧には旧橋のことが載っているが、もはや解体されて現存しない。 この「新」北上大橋は、私にとってはいまさらなぜこの形式なのだろう、と思ってしまうブレーストリブ・バランスト・タイドアーチ。アキバのあのでっかい橋の両側を延長したものだと思えばいい。「旧」北上大橋がブレースドリブ・タイドアーチだったので、そのイメージを踏襲してこの形式を選択した。 中央支間208m、側径間136mという巨大な橋だ。さすが北上川。この形式の橋は、旭川の旭橋や、東京の明治通りの白髭橋、岐阜県の路面電車が走っていた忠節橋が有名だが、ということは、路面電車を敷設していたような時代にもあった形式である。そして、日本では4例しか現存しない。 日本橋梁建設協会の『虹橋』No70のP50に形式図がある。 午後に仙台で用を足し、夕方から一関の旧川崎町まで移動した。よって、写真はバルブから始まる。 国道284号であるこの北上大橋、つい意識することなく渡ってしまった。渡る前に威容に触れようかと思っていたのに。クルマなので、渡り始めてしまえば、渡りきるしかない。渡りきった後で、どこから撮影しようか考えた末、旧橋がかかっていたあたりの左岸(北側)からと決めた。 最初、広角を取り出したが収まらない。17mmめいっぱいでも収まらない。しょうがないので15mm魚眼で撮影した。この日は月が低く、画面左側の白い光源は月である。 この場所に旧橋がかかっていたときちんと知ったのは後日であるが、現地では非常に不思議なことになっていたので、ここに旧橋があったことは確信でした。地図があったほうがわかりやすいので、上の地図を拡大して再掲する。 謎の三角広場がある。この場所は、画面右から左に向かって登り坂となっていて、浪分神社に向かって道が曲がって行き止まっている。以前は、この三角広場から橋がかかっていたのだ。詳細は後述する。 左岸の南側へ移動し、またバルブ。すると、パトカーが近づいてきて職質された。なんでも、橋に落書きがあったらしい。 非常に寒かったのでこれくらいにして、道の駅かわさきで仮眠を取った。翌朝、道の駅かわさきに、旧橋のモニュメントがあるのをみつけた。ここを寝床にしてよかった。これも後述する。 翌朝、改めて撮影。 大きな画像はこちら。↓ あまりに大きいので、南に600mほど行ったところから70mmで撮影したものを合成した。35mmで撮影してもいいが、レンズが2世代も前のもので写りの悪さに辟易していたので、あえてこうした。 歩いて渡る。長いので、行ってくるだけでも大変だ。こんな長い橋を歩いて対岸に行く人など希だと思うが、途中にはベンチがある。 ここが中間部。まったくもって視界をはみ出す大きさだ。 戻って橋の下に潜る。 きれいすぎてなんの感慨も湧かない。 床版の裏側。 支承はゴム支承だ。こんなばかでかいものの膨張・収縮をゴムのたわみ(あるいは滑り。どちらの形式化は不明)で吸収する。というよりも免震構造として採用しているのだろう。 高張力ボルトに陽刻されている記号「10.9T」「SCM43」を検索していたら、おもしろい動画があった。油圧トルクレンチだ。こうやって締め上げていくのか。 銘板。 塗装標記。 西側から見た橋門構。 単に「行ってきました、見てきました」にしかならないが、長くなったので続く。 PR
そのうち形式ごと・地域ごとなどにまとめページつくらなきゃな。
あと、バックアップも。 1986年、福知山線の生瀬-道場間が複線電化の新線に切り替えられた。近年、その廃線跡が遊歩道として整備され、それはそれは賑わいをみせている。私が尋ねたのは「廃道ナイトin大阪」の翌日、5月の日曜だったが、おそらく300人くらいにはすれ違っていると思う。 ここにはいくつかの廃隧道と廃橋がある。また、道中についても、遊歩道であるためにさまざまなレポートがネット上にあるので割愛するが、とても気持ちのいい道であった。 さて、ここを尋ねたのは、上記地図にある武庫川第二橋梁を見に行くためであった。この橋が分格ワーレントラスであることは歴史的鋼橋集覧などで知ってはいたが、例外なく、「分格」であることがほとんどわからない、真正面からの写真ばかりしかない。上の写真を見ればわかるとおり、隧道を出るといきなり武庫川第二橋梁であるため、写真の撮りようがないのだろう。 そんな話をnagajis氏にしたら、こっそり(?)この第二武庫川橋梁を横から撮った写真を見せてくれた。ああ、行こうと思えば行けるのか。それを見て、ここに行こうと決心した。 その、隧道を出たところにドーン! という構図は、こんなである。 橋梁そのものは枕木も取り外してあり、向かって右の保線用通路が開放されている。向かって左側は、柵はあるのだが施錠などされておらず、ここから橋台づたいに河原に下りることができる。たいてい、こういう場所は下に下りられるように足場が切られているものだ。事実、ある場所には犬釘が2本打ち込まれ、そこに足をかけるようになっていた。 まずは保線通路を通り、対岸へ。途中、分格部分。 南側。 ここから先は興味がないので、ここで戻り、河原へ下りる。 この橋台に向かって右を下りてくる。 河川敷をいくと、これこのとおり、ほぼ横位置を見ることができる。 まずは下流側(地図でいうと右)に行ってみた。地図をご覧いただければわかるとおり、下流側からなら、真横から撮れると思ったのだ。 橋台が見えない。そして、引けない。この画像は17mm(フルサイズ)で撮影している。 仕方がないので上流側へ行く。その前に裏側を・・・。 そして上流側から。 う~ん、やっぱりあまりそそらない。羽幌線天塩川橋梁を見つけた時みたいな感動がないのは、やはりピントラスじゃないからに違いない。 上流側を対岸に行けば真横から撮れるのだが、飛び越えるには微妙な間隔で岩が並んでおり、運動神経のない自分は自重した。また、いったん上に登り、対岸に渡ってからまた河原に下りる道を探す路言う方法もあったが、それにはちょっと時間が惜しかった。このあと余部まで300km近く運転してしかも陽のあるうちにつかねばならぬという時間的プレッシャーがあった。 ・・・と、橋台のほうからバスン! バスン! と、なにかが落下する音がする。しばらくして、四角い何かを背負った男性2名がこっちに歩いてきた。ボートかと思ったら、岩登りのマットだった。ここらへんはそういう地域らしい。 * * *
この第二武庫川橋梁は、2代目である。上の写真の橋台を見て不自然を感じ取った方もおられるだろう。いまの橋台はどう見ても後付けのコンクリート製。その奥というか地上側には切石積みの橋台がある。上の写真を拡大してみよう。 黄色い矢印を入れたところで石積みが異なっているので、ここから上数段(2段に見える)が初期の橋台の高さか。 では、ここに架かっていた初代の橋はどんなものだったのかといえば、明治時 代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラス桁その1(小西純一、西野保行、淵上龍雄、1988)によれば、250フィートの単線ペンシルベニアトラスだった。そのスケルトンもリンク先にある。支間253フィート5と1/2インチ(77.254m)、格間18フィート1と1/4インチ(5.518m)、高さ41フィート11と31/32インチ(12.801m)という巨大な鉄の塊である。1898年フェニックス・ブリッジ製、開通は1899年。フェニックス・ブリッジはアメリカの製鉄・橋梁会社ながら、アメリカン・ブリッジには統合されたなった会社だ。 その写真が『日本国有鉄道百年写真史』にある。そこから転載した写真がこちらのサイトにある。あいにく橋台は見えないが、1953年まで使用されたこの初代のトラス桁が、石積み橋台を使用していたのだろう。 このトラス桁は、巨大さと特殊なサイズゆえか、転用はされなかったようだ。同時期に架け替えられた120フィートのプラットトラスである第3武庫川橋梁、第4武庫川橋梁(ともにA&Pロバーツ製)は転用され、後者は短縮改造の上、弥彦線で現役なのは過去にレポートしたとおりである。 かつての姿は国土変遷アーカイブにもかろうじて写ってはいたが(左上)、縮尺が約1.5万分の1であるため、形はまったくわからない。 初代の桁は54年、この2代目は32年。新しいほうが寿命が短いとは、老朽化のため使用停止となったわけではないとはいえ、なんとも皮肉なことである。 関西本線木津川橋梁である。3連のこの橋は、西側の沈下今日から撮影したもので、画面左が大河原・名古屋、右が笠置・木津方面となる。 全体がミリ60度の斜橋となっており、それは中央径間のワーレントラス桁を見ればわかるが、この橋を特徴付けているのは側径間である。 ご覧のように、8パネルのポニーワーレントラスの上に、補強する部材を取り付けている。 このアーチ型の補強剤はランガー桁(アーチには軸力のみ、補剛桁には曲げモーメントとともに軸力がかかる)と同じ作用がある。つまり、荷重がかかったときに桁がしなるが、その力の一部をアーチが受け止め、それに抵抗する形になる。 この木津川橋梁は1897年(明治30年)に架けられており、この補強工事は1925年(大正14年)に行われている。おもしろいのは、日本初のランガー桁が架けられたのは、この補強工事より後の1932年(昭和7年)であるという点である。それは、かの田中豊設計による総武本線隅田川橋梁で、隅田川の記事でも橋梁の記事でも名前のあがる有名な橋である。 なお、ランガー桁とは、オーストリアのジョセフ・ランガー(Josepf Langer、1816-?)が考案し、1881年にフェルディナンズ橋に使用したのが世界初である(『[広さ][高さ][長さ]の工業デザイン』坪井善昭・小堀徹・大泉楯著)。「ランガー桁」が比較的人口に膾炙した用語であるのに対し、ジョセフ・ランガーの名前は検索しても出てこず、wikipediaの英語版にもドイツ語版にも項目がない。ググっても、グーグル・ブックにこの本くらいが関の山であり、没年すらはっきりしない。
その他、このあたりが参考になるかもしれない。私もよく読み込んでいないので、読めば何か新たな発見があるかもしれない。 ・http://en.wikipedia.org/wiki/Self-anchored_suspension_bridge ・http://gilbert.aq.upm.es/sedhc/biblioteca_digital/Congresos/CIHC1/CIHC1_151.pdfの1621ページ もうひとつの特徴は、横桁にある。愛知川橋梁のポストでも書いたが、「その6」までに見てきたポニーワーレントラスとは横桁と縦桁の関係が異なる。 愛知川橋梁のポストをご覧いただいた方にはわかるだろうが、パッと見ても気づかないかもしれない。別の角度で寄ってみる。 横桁が2種類ある。 また、「その6」までに見てきたポニーワーレントラスの横桁は各パネル間に均等に2本置かれていたが、こちらは高さの異なる横桁が、それぞれオフセットされている。 背の高い横桁同士を縦桁がつなぎ、背の低い横桁がそれを下から支える、というようになっている。わかりやすくイラスト化してみた。 パースがおかしい感じがするのは遠近感の処理をしていないため。浮世絵と同じである。また、各横桁の間隔がずれていたりするのはお目こぼし願いたい。 『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2』(西野保行、小西純一、渕上龍雄、1986年6月)では、「その6」までのパターン(9パネル、横桁同一)、を「100ft単線ポニートラス」の一群として捕らえており、この木津川橋梁と先の愛知川橋梁(8パネル、横桁と縦桁の関係がそれぞれ異なる)は「その他の英国系トラス桁」としている。どちらも、白石直治と那波光雄が設計者として記録されている。そしてこの100フィートポニーワーレントラスは1897年、パテントシャフト&アクスルトゥリー製である。 枕木は縦桁に載るが、「その6」までのパターンでは自由に配置していたのに対し、「その他」である木津川橋梁は、縦桁と剛結された横桁の上には枕木はなく、縦桁を載せている横桁の真上には枕木がある。これで統一されているようだ。 こちらの写真で見た方がわかりやすいかもしれない。 「通常の」横桁に寄ってみる。 ついでに支承。 これは「その6」までのタイプと同じ、平面支承である。単純に前後する。 そして、アーチ部分。 中央径間。 この中央径間は、1926年横川橋梁製の2代目以降である。初代は200フィートの単線下路プラットトラス桁で、しかもピン結合だった。先に見てきた100フィートポニーワーレントラスと同じく白石直治と那波光雄が設計した桁で、製造も同じパテントシャフト&アクスルトゥリーであった。その桁は1926年まで使用され、1929年に京福電鉄永平寺線の十郷用水橋梁(鳴鹿-東古市間)に転用され、1969年に廃止された。国土変遷アーカイブには写っているが、200フィートクラスがふたつあるようであり、どちらが該当するのかはわからない。(→周辺全体を撮影したものはこちら) 横桁と縦桁の関係を考えると、ますますこの形式にはまってくる。すべてを再訪してすべてを採寸したい。でも、アレしたりコレしたりしないとかなわないよな・・・。 滋賀県の近江鉄道の愛知川橋梁である。愛知川-五個荘間にある。写真の左が愛知川方。見てわかるとおり、愛知川方のみ100フィートのポニーワーレントラスがかかり、五個荘川はスパン22mの鈑桁9連がかかっている。 冒頭の地図を衛星写真に切り替えていただきたい。なぜここだけポニーワーレンがかかるのか、不思議に感じないだろうか。河川敷というよりも、草の生えた土手。通常、スパンの長い桁は、本流部分にかかる。本流の中に橋脚を建てたくないからだ。いま、このポニーワーレンがかかる部分の真下は、愛知川の本流ではない。 ここで、1946年撮影の写真をご覧いただきたい。 見事にポニーワーレン部分に本流がある。ただし、川の流れはよく変化するものであるから、この橋が架設された1897年当時もこの流れ方だったとは必ずしも言えない。 参考までに、周囲まで写っている国土変遷アーカイブのサイトはこちら。 さて、橋の詳細に戻る。 すぐ西に並行して国道8号の御幸橋がかかるが、そことの間には木が茂り、全体が見えない。やむを得ず、すぐ近くから撮る。画像に黒い点が見えるが、レンズについた汚れらしい。 御幸橋は、その名の通り天皇に関係する命名であり、明治天皇ご巡幸にあわせて架設された橋をルーツとする。土木学会のアーカイブスに、当時の橋の写真(木製、ハウトラス!)や開通式当日の事故の記事がある。 東側から。もろ逆光なので、トラスの色を出すのがかなり厳しい。 踏切から見るとこんな感じ。トラス桁の外側に、横桁にくっつける形で「ゝ」型の部材がついているのだが、これがなんなのかわからない。 【2013.3.10追記】WEBサイト『水辺の土木遺産』に「J型スティフナー」といい、ポニートラスが外側に倒れることを防ぐもの…という記述があることを@Einshaltさんからご教示いただいた。感謝。 さて、気になる横桁である。いや、ここでは縦桁をご覧いただきたい。 通常の英国系ポニーワーレントラスは、トラスの下弦を結ぶ形で、下弦に横桁が載っかり、その上に縦桁が載っている。そのために横桁がは凹型をしており、レール面があまり上にならないように配慮されている。 しかし、この愛知川橋梁は、横桁の位置こそ同じものの、形状は直線。そして、縦桁が横桁と同じ高さにある。ここが最大の特徴であろう。 愛知川橋梁は、『明治 時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第2報) 英国系トラスその2』(西野保行、小西純一、渕上龍雄、1986年6月)によれば、いままで見てきたポニーワーレントラスとは別に「その他の英国系トラス桁」として、左写真の関西本線の木津川橋梁(ランガー桁に改造されたもの。いずれ)と同系に分類されている。両者ともに架設時から現在まで、転用されることなく現地にありつづけている。設計は、ともに白石直治、那波光雄の両名による。 「その他」となっているのは、いままで紹介してきた100フィートポニーワーレントラスは9パネルかつ横桁の上を縦桁が通る構造になっているのに対し、本橋梁は8パネルかつ横桁と縦桁の位置関係が少し異なるためである。木津川橋梁は、各パネル間に凹型と直線型の横桁を交互に配置し、直線型横桁と縦桁を突き合わせ、凹型に載せるような感じになっている。愛知川橋梁は凹型横桁を省略し(あるいは後天的改造で撤去し)、直線型の横桁と縦桁しかない。よって、本来は「その他1」「その他2」とすべきものではないだろうか。 なお、愛知川橋梁はハンディサイド製、木津川橋梁はパテントシャフト&アクスルトゥリー製である。上記論文には、愛知川橋梁にはハンディサイドの銘板があるとされ、写真も紹介されていたが、私が見る限り、存在しないようであった。 橋台部分。通常、両端のパネルにも2本の横桁を配置するが、ここでは1本もない。縦桁が橋梁内で完結せず、橋台に載っかっているのが興味深い。 横桁の端部は、一枚の鉄板があてがわれ、内側からアングルとともにリベット留めされている。 上下のピン部分。 ディテールの紹介は以上である。データ的なものは歴史的鋼橋集覧へ。 なお、この橋の下はひざくらいまでの藪である。この日、裏側を撮った直後、落とし穴的に存在していた「藪に隠れた溝」に足を落としてしまい、スネを思い切りすりむいた。あいにく溝にはドブ状の水が多少あったようで、汚そうな土が傷付近に付着していた。 あわてて唾をふきかけつつ、幸いにも近くにあった水飲み場で洗浄し、すぐ薬局で消毒薬を入手して塗布した。よって、裏側をじっくりと観察する余裕がなかった。もしかしたら、もっと見ていればもっとなにかが見えてきたかもしれない。少し残念。 (2010.5.26 23:40一物行きもとい一部追記) |
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