twitterで上記の情報をいただいたので、行った折に見てきた。 ![]() ![]() 国道からの位置関係は、こう。国道からは見えない、というか警戒標識206(昭和25年3月制定)しか見えない。 ![]() ![]() 二つの標識は支持柱が別になっている。 この「止まれ」は、昭和35年12月に制定された336で、3年後の昭和39年8月には現在も大多数が残る逆三角形の330の2になる。それ以前は昭和25年3月に制定された黄色い八角形だった。当時でも、海外では「止まれ」は赤い八角形が多かったはずだが、色を海外に合わせたのだろうか。 海外の「STOP」については、『まちモジ』(小林章著)に詳しい。 ●参考:dark的道部屋:標識部屋 PR ![]() 明知鉄道岩村駅近くに「踏切防護協力員 名古屋鉄道管理局」の看板があると大町パルクさんのツイートで知り、見に行った。民家の軒先にある。日陰で屋根の下だからか、かなりきれいに残っている。錆びてもいない。 描かれた三角形は、こういう形をした柵があったようだ。こちらのサイト「駅の風景」に写真がある。 ![]() 踏切との距離感。踏切手前の側溝については後述。 ![]() 逆向き。このお宅は1階の道路側の外壁が改装されているので、かつては商店だったと思われる。おそらく4枚(以上)の引き戸だったのではないか。「国道情報連絡所」もそうだが、こういうのは一般家庭よりも商店に託している印象。 ![]() 2枚上の「踏切手前の側溝」は、レールを同じ長さで切断し、両端に板を溶接し、ハシゴ状(踏み段がレールに相当)にしたものだった。レール底面が上面になっている。 * * *
踏切防護協力員については、いろいろな方が書いていた。 ●こちらも岐阜県内、中央線沿線にあったとのこと。関係ないけれど、国労の黄色いバッジの写真も貴重。 国鉄の遺品、そして分割民営化に揺れたころ ●こちらには、ご自身の家がそうだったという記録。
●こちらにも。 福来口御番所屋敷と踏切防護協力員 ●「専用線の機関車」で我々に強烈な情報を与えてくれた岩堀春男氏のブログ http://nainen66.livedoor.blog/archives/8223624.html ![]() 軒の補修に人名の看板の隣の小屋。真正面から見るとのっぺらぼう。その前に小さな畑。農作業で使うものが置いてあるのだろう。 ![]() 実にいいサビ具合。戸は、屋内用の建具の流用だろうか。 ![]() 反対側はプラの波板で塞がれていた。きっとこちらも戸があったに違いない。 ![]() 大きな大きな倉庫。大きな民家を3軒分、くらいの大きさがある。2階はないのだろうが、高さは2階分に近い。 ![]() これだけの大きな建物だ。少し歪んできている。板張外壁が少し斜めになっている。戸は普通の下レールの引き戸で、トタンが貼られている。建物右は白い波板。近寄らなかったのでわからないが、塩ビぽい。左上が切り欠いてあり、着られたペラがその左に貼られている。 屋根が傷んだところから、どうも茅が覗いている気がする。これも、近寄っていないので記憶にない。よく見ておけばよかった。 せっかくの美しい建物だが、与野党の政治ポスターがたくさん貼ってある。ここは県道がカーブする突き当たり、よく目立つのだろう。 ![]() 右は戸板で土壁を補修してある。上部に覗いている部分を見ると、ここだけけっこう剥げ落ちている。この戸板は、正面で使っていたものだろうか。 ![]() 裏手。正面からは1階建てに見えるが、実は地下がある。そして、そこは建物とはそぐわない、比較的新しいシャッターが据えてある。ただ、こちら側は傷みが大きい。左に見えるのは落ちた屋根だろうか。 右のピットが謎。この建物の存在理由だったのだろう。 |
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