ゴミ捨て場で拾ったoptio M60を解体してみた。興味があったのは「見えない部分がどれだけチープか」ということと、「本体の1/3を電池とSDカードスロットが占める内部で、カメラたる部分はどれだけあるのか」ということである。
表面に見えているビスは、底面にひとつだけ。ストラップ取り付け部にも2本あるが、これは本体とは関係ない。 本体背面四隅にメクラ蓋があり、これをめくるとビスが4本現れる。 それら5本のビスをはずすと、このように背面と前面に別れる。その間にはOリングが挟まっていて、防水機能を果たしている。しかし、両者を3本の多芯コードが結んでいる。コネクターではなさそうだが、ばらせないわけがないと思い、軽くひっぱたらすべてはずれた。極小のコネクターで連結されていたのである。 分離するとこんな感じ。さらに基盤を前面ボディからはずす。2本のビスをゆるめる。 こんな感じに「プツッ」といった感触で外れる。 見えている2本のビスをゆるめても基盤は外れない。絶縁シートをはぐってみたら、そこにもう1本発見。 基盤がとれた。こっち側の面だけが、おそらくカメラの制御部のすべて。ここでモードにしたがって現像しているわけだ。 逆側はこんな。電池ボックスがいかに大きいか、わかろう。 次に、レンズ・シャッターユニットを取り外す。四角い塊の中に可動のレンズが3組とシャッターがある。シャッターは、、1枚のレンズと2枚のレンズの間に置いてあり、不動。 ユニット。銀色に見えるのはレンズを駆動するモーターだ。合計3つついている。 これが、私にとっての驚愕写真。なんと、レンズ・シャッターユニットは、内部で90度屈曲していたのだ! 赤枠部分が動く。黄色部分はシャッター。 力業で外したシャッターとレンズ。そして撮像素子(CCD)。 この電池はストロボ用。 本体前面のアルミパネル(?)は、接着剤で本体に留めてあった。 ほぼ全バラの状態です。 ああああ、眠いので文章が書けない。これにて終了。 PR
横浜のみなとみらい21に保存されている「港一号橋梁」「港二号橋梁」「港三号橋梁」のうち、「港三号橋梁」が英国系ポニーワーレントラスである。これらの橋がかかるルートは、下記の地図から分かるとおり、実際に貨物線が通っていたルートである。かつて、そのまま赤煉瓦倉庫の前に通じていたこのルートは、いま、「汽車道」という名称の遊歩道というか公園というか、開放的な空間になっている。線路も改めて(だったと思う)埋め込まれている。
しかし、実際にこの場所で鉄道橋として使われていたのは「港一号橋梁」「港二号橋梁」だけで、「港三号橋梁」は別の地から移設されたもの。そのため、埋め込まれている線路のルートに並行して架けられているのが、上記航空写真を拡大すればおわかりだろう。 港三号橋梁は、ここに据えられるまでに2ヶ所で使用された。 まず、北海道の夕張線夕張川橋梁(紅葉山=現・新夕張-楓間。なお、どちらも後年、移設されている)として1906年に架設され、それが1928年に横浜港の生糸検査所専用線の大岡川橋梁(現在、当時の航空写真が閲覧できないため、場所を示せず)に転用され、1970年にお役ご免になっていた。これを短縮の上、1997年に転用したものが、港三号橋梁である。実際には、この地に来てから、この橋梁を列車が渡ったことはない。 現在は7スパン63フィートだが、大岡川橋梁時代は100フィートであった。そして、大岡川橋梁は、この桁のほか、総武鉄道江戸川橋梁(1907年架設)の2連とあわせた3連であった。先から引用し続けている『明治時代に製作された鉄道用トラス橋の歴史と現状 第2報』(淵上龍雄、小西純一、西野保行)によれば、「1907年製作、製造はブライスウエイト・アンド・カークBraithwaite&Kirk)となっているが、これは総武鉄道の2連(1894年開通、1926年撤去)を指すので、歴史的鋼橋集覧の製造年と異なったり、製作者が書いてなかったりしても矛盾しない。 現在地に移設する際の図面はここにある。 さて、本題の横桁である。こうだ。 直線である。そして、端部にカバープレートがない。下弦材の各パネル間に2本載るというスタイルは変わりがない。 トラス桁の高さは、図面では上下現在中心間で2800mm。ということはもう少し大きいが、9フィート+4~5インチといったところか。また新たなパターンの登場である。歴史的鋼橋集覧には、設計は1874年頃イングランドによる、となっている。 ここは、ピンがよく見える。そして、奇麗に整備されている。 ついでに、レーシング部分を。ボルト止めではあるが、ネジ側はリベットのような丸鍋である。もちろん、プラスマイナスなぞ切っていない。こういうものは、どうやってねじ込むのだろうか。 さて、謎をまたひとつ増やしてしまった。本当にパターン化できない。
なぜか画像サイズと1行あたりの本文文字数がおかしくなったのでスタイルを変更中・・・。
と思って調べたら、クーパー荷重の画像がおかしくなっていた。一度に表示するエントリの数を減らしてクーパー荷重の件を表示しないようにすることで後ろ向きに解決。
YSP横浜南さんに預けていた、走行5万マイル(8万km)のスーパーテネレがあがってきた。お願いしたのは、始動不良というより異常の解決。自分でできること、すなわち吸気と電装までは既報のとおり見ていたが、これでダメならもうエンジン部分しかない。バルブタイミングの異常か、そうなったらもう自分の手には負えない。そう思って、思い切って預けた。ここから先はプロの領域だ。
結論から言うと、エンジンの圧縮がわずか3kg/cm^2しかなくなっていたことが始動不良を引き起こしていた。通常の数値はサービスマニュアルを見ても載っていなかったと思うが、12~13kgのはず。スタッフの方は、測り間違いじゃないかと思って再度やってみたそうだ。 圧縮が抜けていた原因は、バルブへのカーボンの堆積。また、バルブのリフト量が狂っているというか、常に少し空いている状態になったいたようだ。バルブタイミングに異常はなく、カーボンを除去したバルブは特に摩耗しているわけでもないので摺り合わせの上、再使用したとのこと。 カーボンは、バルブだけでなく、ピストン上面にも体積。目測で0.3mmとか0.5mmとかの量。触るとボロボロと崩れる。下の写真はカーボンが堆積した部分をこすってみたものだ。 ヘッドを開けたのだから、ピストンを交換していただいた。部品代6万610円中、ピストンだけで約2万円だ。 ・ピストン 6000円 ・ピストンリングセット 3070円 ・ピストンピン 1050円 これらが2組。 屋内保管なのだが、屋内に入れるとガソリンの匂いが充満してしまっていた(コックをオフにするとしばらくして消える)が、その原因は右側コックにあった。で、交換していただいたのだが、コックアセンブリ5370円はこの内側のパーツだけなのね。 奇麗にした外装とは裏腹に、エキパイだけは錆び錆びのまま。ここにCO濃度を測るためのドレンがあるが、なぜかこれがなめていたという。開けたことなどないが、タップ切り直し。 ゴムやプラの劣化が激しい場所は、部品を交換。明細には、OリングOリングOリングOリングOリングOリングOリングガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットガスケットといった案配で並んでいる。 今回の処理一連で、工賃込み約14万5000円。20万越えを覚悟したが、思ったより安くあげていただいたという印象だ。それもこれも、YSP横浜南さんにガルルがお世話になっているからかもしれない(アレ? お世話になってるのにさらに安くしていただくなんて逆じゃないか? お世話になっているんだから高くなってもおかしくないのに??) 前みたいに年間2万kmも3万kmも乗ることがない今、「次」のこういう機会があるのかどうか見当もつかないが、大切に乗って行こうと思う。
丸田祥三氏が小林伸一郎氏を訴えた『風景剽窃裁判』(リンク先は、丸田氏の主張ブログ。公平に小林氏の主張を読んでみたいが、小林氏が主張するサイト等はない)は、かねてより話題となっていた。2009年初頭のことだったと記憶する。それが、さる2010年4月22日、東京地裁での尋問に、初めて小林氏が登場するということをツイッター上で知り、あわせて氏のブログも知った。
氏の『棄景』(1993年)には、大変なショックを受けた。その題材に、その表現に。私の廃もののルーツは過去に書いたことがあるが、そのころの心持ちで言えば、1991年に北海道に鉄道旅行に行った際、函館駅で購入した堀淳一氏の『北海道廃線跡を紀行する』(北海道新聞社)の内容に想像をたくましくしていた頃だ。そのころはインターネットも携帯電話もなく、すべての情報は紙媒体から得ていた。なにかの雑誌に、『棄景』の書評があった。講談社『VIEWS』あたりだったかもしれない。 欲しい、と思った。しかし、2800円もする。いまでも高価だと感じる価格である。毎日、大学のそばの弁当屋で300円台の弁当を食べていたような生活において、2800円は高い。しかし、この本は2800円出しても欲しいとおもった。そして、確か新宿の紀伊国屋だったと思うが、そこで購入した。いまでも大切にとってある。現在の宝島社が、まだJICC出版局と称していた頃の刊行である。 話が逸れてしまったが、丸田氏のブログの中の「混同されてしまうという切実な問題」におおいに共感するところがあり、ここに一文を記しておく。 2007年4月、私が作った『鉄道の旅手帖』が発売された。配本前から評判は高く、注文を非常にたくさんいただき、配本前にすでに重版を決定。5月、6月、7月と版を重ね、10月に7刷、翌2008円に8刷となった。2008年から2009年にかけて、類似の手帳タイプの商品が3誌刊行された。 類似商品の刊行は、とくに目くじらを立てるものでもない。むしろ名誉なことである。私が過去に手がけてきた仕事だって、他社で売れた本の「改良版」みたいなものもあった。しかし、それぞれに「前作を凌駕するもの」であれば、それはそれで刊行の意義もあるというものだ。そんな類書の中で、学研の『ぬりつぶし式鉄道地図手帳』は、許せない商品だった。 『鉄道の旅手帖』2007年4月刊。 函館市電の書き方にも注目してほしい。本書は1980年以降に廃止となった路線にはグレーの網掛けをしてある。 函館市電の停留所名や廃止区間の営業キロは、私が函館市交通局に問い合わせたところ、函館市交通局の方が手書きで解説したものをお送りくださったものを反映している。 市電の停留所間の距離など、市販の時刻表などには書いておらず、また函館市電に限っては参考となる資料も刊行されていなかったと記憶している。 『鉄道地図手帳』2009年3月刊。 こちらは1987年以降に廃止になった路線に網掛けをしてある。 函館市電の各路線の並び順も同じ。営業キロも書いてある。 3段組で駅のリストをレイアウトし、各段がチェック欄・駅名・営業キロ・メモ欄という体裁、空き部分がメモ欄になるという体裁まで同じ。「○年○月○日限り廃止」という文言も同じ。この文言は、校正をお願いしていたワイ・ワン・ワイの澤井弘之氏の助言により、このように表記することにしたことまで覚えている。 廃止日というのは、営業を終了した翌日である。だから、普通「3月末廃止」というのは「4月1日廃止」が正しい。wikipediaの記事もすべてそうなっている。しかし、これでは誤解を生じかねないため、「○月○日限り廃止」という言い回しにした。 そして、これである。 『鉄道の旅手帖』(2007年)。 学研『鉄道地図手帳』(2009年)。 注目していただきたいのは、 「廃止線を含む総距離」 「現存線の距離」という言い回し。 これは、私が考えたものである。こんな回りくどい言い回しは、「鉄道ファンお馴染みの言い回し」でもなければ「専門用語」でもない。誤解の生じないよう、回りくどくてもこの言い回しにしたのである。学研版だけに「乗車距離」があるように見えるが、『鉄道の旅手帖』では画面外に「私が乗車した距離」という欄がちゃんとある。 先のレイアウトや廃止路線の表現も含めて、偶然の一致だろうか? 自分なら、真似するにしてももっとうまくやるぞ。 そして冒頭に戻る。「混同されてしまうという切実な問題」だ。わからない人には、学研が正で、『鉄道の旅手帖』が真似した、と思われてしまうかもしれない。たまったものではない。しかし、学研版を先に手に取った人は混同し、そう思っても不思議ではない。 もちろん、版元として抗議するか迷ったが、これだけでは販売差し止めとまではいかないだろうことは容易に察しはつく。しかも、いろいろな手間を考えると、さんざん面倒な思いをした挙げ句、その間に学研版もそこそこ売れていき、利益を確保してしまうだろう……。放置するしかなかった。 幸か不幸か、ある取次の方から聞いた話では学研版は……な結果らしい。『鉄道の旅手帖』は、8刷である。書店からは「最新版を出せ」とのオファーが随分とある。 以下は自画自賛である。 『鉄道の旅手帖』以降、「乗りつぶしチェック」のための本は、手帳タイプの類書3種、B5判2種が刊行された。しかし、どれも現実的ではないか、情報量に難があるか、あるいは稚拙な作りになっている。 ほんのわずか数年前に廃止された路線さえも掲載されていないような本が、「乗りつぶし」のためになるのか? 鉄道旅行は「これから」だけではない、「過去」にもあった。国鉄時代からの鉄道ファンならば、国鉄時代に廃止になった路線に乗ったこともあるだろう。それを蔑ろにするな。民鉄や第三セクターも蔑ろにするな。 情報量としてもっとも多いのは、新潮社『乗りつぶしノート』である。これは『日本鉄道旅行地図帳』の派生商品なので、「全廃線・全駅(実際には漏れが多数ある。それは、森林鉄道の事情を考えれば無理もないことだと思っている)」が掲載されている。次いで『鉄道の旅手帖』。1980年以降、つまり国鉄合理化での廃止が加速して以降の国鉄・私鉄の廃止路線を掲載している。他の本は、すべて廃止路線・駅は無視している。 また、エリア分け。『鉄道の旅手帖』は、鉄道ファンの行動範囲や、乗り継ぎ駅等を基準に綿密な地図割りを考えた。それだけで1週間かかった。しかし、他の本は、適当。本当に適当。県別のものもあるが、鉄道は県別に乗り分けることなどないので、これはユーザー視点ではない。 刊行から3年たっても、コストの面から妥協せざるを得ない部分がたくさんあった『鉄道の旅手帖』がもっとも使いやすいものであるのが不思議でならない。妥協せざるを得なかった部分というのは、京阪神付近の地図、大手私鉄と地下鉄の駅リスト等である。これらは紙数の関係から割愛してしまった。それでも、後発の類書と比較して、もっとも情報量が多いのが本書である。 長くなった。書店さんからは、いまだに『鉄道の旅手帖』へのラブコールがある。書泉グランデでは、刊行から3年経ってもレジそばに平積みである。このラブコールには、1ヶ月以内に応える予定だ。 |
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