岩手県北上市のカンチレバートラス橋、珊瑚橋。トラスの背が低い一方、定着桁の支点、三角形部分の背が高いので、とても好ましい形をしている。これを分析すると、トラス部分は三角帽子の半分くらいの高さがいい、ということになる(あくまで自分の好みの話)。 この「好ましい」という印象は、おそらくポニートラスであることから来る。ポニータイプのカンチレバートラス。他の例を調べていないが、多くはないと思う。もともと、径間を大きくするためにカンチレバーにするわけで、一方ポニートラスは径間が短いところで使用することを目的としているからだ。。 上の写真は上流側(東側)から。対岸に桜が咲いている。そこは「北上川展勝地」と呼ばれ、撮影した日はまさに桜が満開、花見客が多かった。といってものんびりしたもので、橋を行き交う人も多くは感じたが時に途切れる程度だった。 下流右岸から見る。 隣接して歩道橋が架けられている。支点の三角部分に一致させているので一瞬よくわからないが、斜張橋である。 主塔に寄ってみよう。 このとおり、鈑桁の補剛桁が、3径間連続している。これをふたつの主塔から吊っている。 歩道橋の製造銘板。 歴史的鋼橋集覧によれば、歩道橋を架設したのは1971年である。
吊桁との支承部分。きっちりと「乗っかっているだけ」。 歩道橋を歩けば上からのぞける。 車道越しに見ると、載せかけてあるのがよくわかる。載せかけてある吊桁は、ポニーワーレントラスである。また、歩道の斜張橋のワイヤーも写っている。 真正面から見るとこう。 親柱は健在。そして、左右のトラスを結ぶアーチが美しい。アーチの上にまたアーチ。 アーチの上のアーチは装飾目的だろう。ここには上からの力はかからない。 桁の裏側。吊り掛け部分は残念ながら川の上なのでのぞけない。 また、これを見ると、橋脚が更新されているのがわかる。歩道橋架設と同時期だろうか。 この珊瑚橋は、風景印にもなっている。ほどよく古びた形、好ましい小ささが、桜を愛でる北上展勝地と馴染んでいるのだろう。サイト『風景院gallery』に掲載がある。 また、この珊瑚橋は、初期の道路橋のサンプルのひとつとして、『本邦道路橋集覧』第三輯に概要と図面が掲載されている。『歴史的鋼橋集覧』の図面もこれを転載したものだ。 PR
この美しいカンチレバートラス。まだ塗り替えたばかりでピカピカだ。カンチレバートラスはワーレントラスが多いような印象があるが、これはプラットトラスである。
この橋は京都府南丹市(旧八木町)にある大堰橋(おおいばし)。八木大橋、と書かれる場合もあるが、ここでは親柱に従い大堰橋とする。歴史的鋼橋集覧のページはこちら。ただし、「カンチレバートラス+RC単純桁」とあるが、図面はそれとは異なり10径間になっている。その図面は本邦道路橋集覧内の第4輯・突桁式鋼構橋と同じものだ。「突桁式」がカンチレバー式(ゲルバー式)、「構橋」がトラス橋を表す。現在の図面は南丹市の「広報なんたん」に通行規制のお知らせが出たときに掲載されたものがある。この図面では鈑桁は単純桁が3連、連続しているように見える。鈑桁が架け替えられたのは1996年だ。(「JR八木駅かいわい」asahi.com) この大堰橋がかかるのは桂川。この下流は保津峡を刻み、京都の西側を南下し、大山崎付近で宇治川、木津川と合流し、淀川となって大阪湾に流れ出る。 上流(北)から見る。3径間のカンチレバートラスと3径間鈑桁の組み合わせである。 下流(南)から見る。 手前に車道橋から独立した歩道橋がある。また、側面に電飾が取り付けられている。 西側(八木駅側、トラス側)の橋門はこう。 親柱が向かって左にしかない。向かって右には歩道の桁が増設されたため、撤去されたようだ。往時のスタイルは古い絵葉書が残っており、サイト「まちかどの西洋館別館・古写真・古絵葉書展示室」さんの「古絵葉書・新設八木町大堰橋」というページに紹介されている。これを見ると、きちんと両側に親柱がある。 歩道を増設したときに、橋脚は更新されているようだ。 残された親柱にはこうある。 「おほゐばし」。旧仮名遣いで「堰」を「ゐ」と表記するのは初めて知った。 銘板。塗装で塗りつぶされて読めないが、反対側の銘板から推測して だろう。カゲロウがくっついている。 そのまま少し進む。 なにか、いまいち重厚な気がしない。リベット留めなのに、最近作られた橋であるかのような、のっぺりした印象がある。 そのまま東側のトラスの終端部。 歩道が手前に向かって拡幅されている。また、親柱は見あたらない。まあ、この後も鈑桁が続くので、ここにはないのかもしれない。 銘板。 西側よりははっきりと読める。左上に見えているものは電飾。 ちょっと視点を変えて。 そのまま東側へ。 鈑桁は3車線分あり、端部はこのようになっている。そして、親柱がある。 西側の親柱と同じ型式のものだ。当初よりあったもの(または架け替え時に存在していたもの)を、橋梁の拡幅とともに移設したのだろう。 「大堰橋」と書いてあるが、どうも新造したように見える。西側が青銅製(?)なのに対し、こちらは砲金(?)。材質には明るくないのでわからないが、明らかに材質は異なる。 鈑桁を見る。 図面を見ると3連の桁に見えるが、写真を拡大してみれば連続桁である。 そして、橋脚に注目。冒頭の、左右全体写真と合わせてごらんいただきたいが、開通時の昭和10年のものではない。 カンチレバートラス部分は歩道が付加された分、橋脚が幅広くなっている。鈑桁部分は桁が広くなったのだから、もちろんその幅の分、橋脚が幅広くなっている。鈑桁が架け替えられた1996年に、同時に更新されたのだろうか。 この大堰橋の、カンチレバートラス部分は桂川の本流をまたぎ、鈑桁の一部も本流をまたいでいる。しかし、鈑桁部分は本来、かつて10径間だったこと=橋脚が多数あったことからわかるとおり、横溢部だった。 1974年度の航空写真(ckk-74-14_c9a_6)を見る。 (国土画像情報ckk-74-14_c9a_6をトリミングのうえ転載) 現在はこんなだ。比較してみてほしい。 先に「のっぺりした印象」と書いたが、その理由は、部材が修復されているためだ。たとえばこうなっている。 道路越しの向こう側のトラスの、右端の斜材が修復されたものだ。 手前に見えているのが、修復されたもの。リベット留めではなくボルト留めの補強板がある。 原型はこう。 山形鋼(L字型)をリベット留めし、その間にレーシングブレースが挟まれている。 それに対して、修復済みはこう。 山形構の下にもう1枚挟まっているように見える。また、側面も滑らかだ。 格点部分にも、修復した部分とそうでない部分の差は明らかだ。 . カンチレバートラス橋としての、吊桁と定着桁との結合部分はどうなっているだろうか。実は、よくわからない。冒頭の写真でいえば、三角形の頂点から数えて2格間左側の上弦と下弦にピンがあるが、この場所にピンがあるのにどうやって吊桁と接合しているのかが見えてこない。吊桁は定着桁と剛結合しているようにも見える。 上のピン。 右が吊り桁。 下のピン。 右が吊り桁。見えている斜材は吊り桁の端柱。まったくわからない。この結合をどなたかご教示ください…… 関西本線木津駅のすぐ北、木津川を国道24号が渡る泉大橋は、カンチレバートラスである。1950年(昭和25年)製の桁がかかるが、なぜか歴史的鋼橋集覧にはない。 カンチレバートラスらしいリズミカルな9連の橋だが、右岸(北側)上流側(東側)から撮影している写真では、奥の画面左の南側2連が樹木に隠れて見えない。 この泉大橋はかっこいい。力強く見える。その理由は、夥しいリベットと、カンチレバーらしい吊り掛け部の構造にあるだろう。こうだ。 実にメカメカしい色というか、カンチレバートラスはこうしたアルミ色じゃなきゃだめだと思わせる色。それを引き立てる部材。レーシングの存在感とリベットの存在感。これらが組み合わさって無類の力強さを発揮する。この橋に1時間以上もいてしまった。 カンチレバーたる所以の吊り桁は、下記の黄色く記した部分である。なにもしていない部分は固定桁である。赤くした部分は、固定桁から吊り桁を摑んでいる部材であり、固定桁側に固定されている(後述)。 両端部を含めた、第1、3、5、7、9連の部分。 まずは吊り掛け部を見る。 よく見て欲しい。吊り掛け部に、ちゃんとピン支承がある。河川敷から見上げるとこうだ。 ついでに床版の裏側も見て欲しい。当たり前だが、ちゃんとここで分離している。そして、落橋防止の部材が取り付けられている。この工事の入札公告はこれだ。 この泉大橋は、下流側(西側)に歩道橋が付加されているので、実は間近で見ることができる。こんな感じに。 どうだろう、この重量感。左側が吊り桁、右側が固定桁である。 歩道橋からはこのようにも見える。 歩道橋にいても、大型車が走ると、ものすごく揺れる。わさわさと。そして、どこからかカラカラという金属音がする。どこからかというと、上部の吊り掛け部分からだった。 1枚目と2枚目は道路側から、3枚目の写真は外側から。冒頭から3枚目の写真の赤い部分のように、固定桁から吊り桁に向かって腕が延びている。吊り桁側は、このようにピン4本でその腕と接続されている。ピンなので、道路側には抜けてしまわないようにコッタを通しているだけ。固定していないので、桁が揺れるときにはピンが振動で回転し、あわせてコッタがカラカラと音を立てる。この様子では、摩耗も相当早く進むのではないかと思うが、金属の部材のしなやかさを考えると、吊り桁下部はピン支承で固定して、上部はズレないように押さえているだけ、に見えなくもない。 ちなみに、固定桁がどのように橋脚に載っかっているかというと、こうだ。固定桁の上流側(東側)のピン支承は橋脚に固定され、下流側(西側)の支承はピン支承の下にローラー支承があように見える(まさか平板ではあるまい)。 橋台側はこう。 右岸(北側)の橋門はこうだ。 ここは大幹線・国道24号だけあって、なかなかクルマが途切れない。けっこう待った。なにしろ、1日2万4000台が通行する渋滞ポイントで、上流側にバイパスを作り、橋を架ける計画がある。(参考:京都府公共事業事前評価調書) 橋門左側に銘板がある。 昭和25年(1950)
建設省建造 内示(昭和25年)一等橋 製作 日本橋梁株式会社 ××××株式会社 その下には塗装標記。 親柱は、なぜか寝ている。 「木津川」 「泉大橋」 橋台に接する吊り桁の端梁にあった塗装標記。 この泉大橋について、土 木学会関西支部に解説がある。それを見ると、この泉大橋は全長383.6メートル、開設は昭和26年だ。 先に親柱が寝ていると書いたが、このサイトに興味深い記述がある。
木鉄混用? ポニーボーストリングトラス? どこかに古写真とか転がってない? 木鉄混用、というのがとても気にかかる。そして、親柱だ。 画面右下端を見て欲しい。なにか、門柱のように見えないだろうか。右端で画面から書けているのが、親柱が寝ている台座である。 グーグルのストリートビューを見てみよう。 大きな地図で見る この門柱の正体はなんなのだろう? どなたか引き継いで調べてくださらぬか。 大変に美しいカンチレバートラスである。片持ち梁部分の高さが低く、優しい感じであるのに、鈍いアルミ色みたいなその塗装がたくましさを感じさせてくれる。手前には三弦トラスの水道橋まである。 少し引いた、全体の姿はこれ。このあたりの最上川は川幅が狭い。この大橋も、全長は480フィート(146.3m)しかない。そして、この最上川は、1913年(大正2年)の洪水時には、水位が17尺(5.15m)も上昇したという。そのため、初代は木橋だったものを、桁の位置を上げ、この形式にして架け替えた。開通は1930年(昭和5年)12月7日である。この優美な姿をもって、80年前からここにあるとはちょっと思えない。せめて昭和30年代くらいなのではないか、と思うような洗練された姿である。 西側の橋門構。道路の幅員5.4m、センターラインが引けないほどの狭さというのがおわかりだろう。 これでも国道347号の旧道である。1989年(平成2年)に上流に「虹の大橋」(由来は斎藤茂吉の歌によるので安心してほしい)がバイパスとして架けられたが、この大橋はいまでも通行量が多い。 西側にある銘板。 京 東
社会式株 所造製械機田櫻 作製年五和昭 とある。 東側の橋門構。親柱が観光的なものに置き換えられている。 こちら側にも銘板がある。記載内容は同じ。 カンチレバーたる部分を見ていこう。 片持ち梁と中間桁との接合部(上部)。画面右側の太い斜材は中間桁の端柱。ここだけ非常に太くなっているが、他の部分の斜材は細い。 逆側を真横から見たもの。∠型部分が中間桁。/部分の太さと、それを受ける「部分の太さの違いを見て欲しい。 片持ち梁と中間桁の接合部、下部。リベットで剛結してある。 路面は、もちろん橋脚上ではなく、片持ち梁と中間桁の路面は連続している。これらの処置のためか、クルマが行き交ってもそれほど大きな揺れはない。 裏に回って支承。 桁裏側。 そして桁にあった塗装標記。どれがどの桁のものかメモしていないが、クルマや歩行者から見える部分が美しい銀色をしているのに、その下はこのように錆び放題だ。ここらもケアしてあげたほしい。 この大橋は活荷重6tの三等橋として設計された。しかし、現在の橋に重量制限の標識はない。前述のとおり、かつては国道であり、交通量も多かった橋である。もしかすると、桁を補強しているのかもしれない。 最後に、『道路の改良』に記述された、架設当時の記事のリンクを張っておく。ここには図面もある。→こちら |
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