帝釈峡の神龍湖にかかるブレーストリブアーチ。県道25号から見えるのだが、うっかり写真を撮っていない。タイドアーチは比較的よく見るが、この桜橋はアーチだけだ。
橋長70m。そしてやはり幅が細いので、太い二重・二条のアーチの存在感が強い。上の写真は西側(右岸)。右のアーチに塗装標記がある。 二重のアーチ、どちらも同じ作りに見える。 アーチからは床版を吊る垂直材が下がっている。これは、外側のアーチから内側のアーチを貫通していると思いきや、内側から下がっていた。 銘板。 大阪
松尾鉄骨橋梁
株式会社
昭和拾壱年七月竣工
外側アーチと内側アーチは並行しているのだが、端部は、内側アーチは床版の位置で角度がつき、外側アーチに収斂していく。この場所は、すでにアーチが床版よりも下になっているので、支承から垂直に部材を立て、横桁を架けて床版を乗せている。 いま遊歩道になっているこのルートは、かつての車道だ。いくつか隧道もあり、このように重量制限の標識がある。…なぜ隧道に重量制限?と思うが、この隧道は桜橋の西にあるものなので、おそらく隧道を抜けた向こうの桜橋用の標識だろう。 この遊歩道は車道を満喫できる道。ぜひ。 ●関連項目 神龍橋 PR
(続き:前編はこちら)
後編では、「旧」北上大橋について書く。「旧」北上大橋はスパン100m。「新」北上大橋の半分だ。以下、「新」「旧」にカギ括弧はつけないが、どちらも「北上大橋」であり「新」「旧」は橋の名称ではない。 前編で、道の駅かわさきに旧橋のモニュメントがあったと書いたが、そのモニュメントには、旧橋の写真がはめ込まれている。 そして、モニュメントはこれだ。 左右の「ブレーストリブ」部分をつなぐ部材、横構だろうか。旧北上大橋は幅員5mというけれど、これはそれ以下なので、それを切り詰めたものかもしれないが確信はない。 銘板がついている。 昭和4年
株式会社浅野造船所 材料 ICL 八幡製鉄所 鈑 浅野造船所 鋲 浅野小倉製鋼所 部材を間近で見られるのは貴重な経験である。 モニュメントに添えられた碑。下に書かれた文言をすべて書き写す。
地元の人々がいかに北上大橋に思い入れがあるかわかろうというものだ。 別のモニュメントが橋のすぐそばにもある。 もちろん、この幅も5mもないので、移設したものだ。 こちらにも、旧橋の写真がある。石に彫られているのだが、これはどう呼ぶのだろう。 写真では見えづらいが、右側の親柱の向こうには、田中賞受賞記念碑がある。 旧橋は、親柱が保存されているこの位置ではなく、橋を挟んだ向こう側にあった。もっとも川幅が狭まった位置であるが、それでも支間100mである。昭和52年撮影の国土画像情報に、現在のルートを黄色で加筆するとこうなる(トリミング済み)。 当時の集落や道路をまったく無視する形で、田んぼの中にバイパスができている。旧橋の左岸(画面でいえば川の「上」)たもとを、前編で掲載した現在の地図と見比べると、そこに橋があったことがよくわかるだろう。 このバイパスを「薄衣パイパス」といい、前述の石碑にも「薄衣村」とある。薄衣村は左岸にあった村で、昭和31年9月末日に門崎村(陸中門崎駅の由来だ)と合併して川崎村となった。一方、弥栄村とは昭和29年末まで存在した右岸の村で、昭和30年元日から一関市となった。両者を含めた7市町村が合併し、一関市(新設)となったのは平成17年9月20日である。石碑に書かれた村名は、50年以上前に消滅した自治体名である。それが書かれているところに、私は感動する。 交通至便となったのは当たり前のことで、現在でも、上流側は川沿いに約10km遡った柵ノ瀬橋、下流側は同じく7.2km下った北上橋まで、橋はない。 最後に資料を置いておく。 ・設計者・新日本技研による図面その他 ここに紹介するのは、「新」北上大橋である。歴史的鋼橋集覧には旧橋のことが載っているが、もはや解体されて現存しない。 この「新」北上大橋は、私にとってはいまさらなぜこの形式なのだろう、と思ってしまうブレーストリブ・バランスト・タイドアーチ。アキバのあのでっかい橋の両側を延長したものだと思えばいい。「旧」北上大橋がブレースドリブ・タイドアーチだったので、そのイメージを踏襲してこの形式を選択した。 中央支間208m、側径間136mという巨大な橋だ。さすが北上川。この形式の橋は、旭川の旭橋や、東京の明治通りの白髭橋、岐阜県の路面電車が走っていた忠節橋が有名だが、ということは、路面電車を敷設していたような時代にもあった形式である。そして、日本では4例しか現存しない。 日本橋梁建設協会の『虹橋』No70のP50に形式図がある。 午後に仙台で用を足し、夕方から一関の旧川崎町まで移動した。よって、写真はバルブから始まる。 国道284号であるこの北上大橋、つい意識することなく渡ってしまった。渡る前に威容に触れようかと思っていたのに。クルマなので、渡り始めてしまえば、渡りきるしかない。渡りきった後で、どこから撮影しようか考えた末、旧橋がかかっていたあたりの左岸(北側)からと決めた。 最初、広角を取り出したが収まらない。17mmめいっぱいでも収まらない。しょうがないので15mm魚眼で撮影した。この日は月が低く、画面左側の白い光源は月である。 この場所に旧橋がかかっていたときちんと知ったのは後日であるが、現地では非常に不思議なことになっていたので、ここに旧橋があったことは確信でした。地図があったほうがわかりやすいので、上の地図を拡大して再掲する。 謎の三角広場がある。この場所は、画面右から左に向かって登り坂となっていて、浪分神社に向かって道が曲がって行き止まっている。以前は、この三角広場から橋がかかっていたのだ。詳細は後述する。 左岸の南側へ移動し、またバルブ。すると、パトカーが近づいてきて職質された。なんでも、橋に落書きがあったらしい。 非常に寒かったのでこれくらいにして、道の駅かわさきで仮眠を取った。翌朝、道の駅かわさきに、旧橋のモニュメントがあるのをみつけた。ここを寝床にしてよかった。これも後述する。 翌朝、改めて撮影。 大きな画像はこちら。↓ あまりに大きいので、南に600mほど行ったところから70mmで撮影したものを合成した。35mmで撮影してもいいが、レンズが2世代も前のもので写りの悪さに辟易していたので、あえてこうした。 歩いて渡る。長いので、行ってくるだけでも大変だ。こんな長い橋を歩いて対岸に行く人など希だと思うが、途中にはベンチがある。 ここが中間部。まったくもって視界をはみ出す大きさだ。 戻って橋の下に潜る。 きれいすぎてなんの感慨も湧かない。 床版の裏側。 支承はゴム支承だ。こんなばかでかいものの膨張・収縮をゴムのたわみ(あるいは滑り。どちらの形式化は不明)で吸収する。というよりも免震構造として採用しているのだろう。 高張力ボルトに陽刻されている記号「10.9T」「SCM43」を検索していたら、おもしろい動画があった。油圧トルクレンチだ。こうやって締め上げていくのか。 銘板。 塗装標記。 西側から見た橋門構。 単に「行ってきました、見てきました」にしかならないが、長くなったので続く。 |
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