上の写真は左岸(南側)から。向かって左が上り線、右が下り線。簡単に書くとこうだ。 1903年(明治36年)、単線で開通。現在の上り線。ピン結合のプラットトラス。 1922年(大正12年)、複線化。現在の下り線を架設。ガセット結合のワーレントラス。 目的は上り線のピントラス見学だったのだが、上り線は見えづらく、さらにピン結合部分は川の上。近づいて見ることができないので、永居のしようがなかった。間近で見てハァハァしたいのに。 パッと見、相当長い橋に見える。河口の幅が広いため、なんと22連。対岸側(右岸側、天王寺側)が第1連で、第1~16連と20~22連は径間(歴史的鋼橋集覧による)22.15mの鈑桁、第17~19連が支間(図面による)62.382m(203フィート9インチ)のプラットトラスとなっている。歴史的鋼橋集覧には、トラスについて「1899年A&Pロバーツ設計、1902年アメリカン・ブリッジ製造となっている。一見、トラスは設計と製造の会社が異なっているように見える。しかし、再三書いてきたように、A&Pロバーツは1900年にアメリカン・ブリッジが併合したので、実質は同じ会社である。鈑桁については、現地の桁に銘板はないし、歴史的鋼橋集覧にも記載がない。どこが製造したのだろう? この10パネルの203フィートトラスは、アメリカン・ブリッジが大量に製造した単線型200フィートトラス、いわゆるクーパートラスとは異なるシルエットをしている。クーパートラスとは、セオドア・クーパーが設計した日本国鉄向けの標準設計トラスである。200フィート単線下路トラス橋の場合、9パネルで、中央3パネルの上弦が水平となる。対してこの紀ノ川橋梁の設計はA&Pロバーツ。10パネルで、上弦は曲線(格点で折れる)を描いている。また、ピン結合ゆえの下弦のアイバーは、クーパートラスでは下弦すべてがアイバーだが、このトラスは中央6パネル分しかない。 なぜ、クーパートラスではなく、わざわざA&Pロバーツ設計のものを採用したのかはまったくわからない。クーパーが日本国鉄の求めに応じて200フィート単線下路トラスを設計したのは1898年10月。この紀ノ川橋梁のトラスの設計は1899年。同じ「200フィートクラスの単線下路トラス」(支間で1フィートしか違わない)なのだから、すでにある設計をそのまま流用すればいいではないか。いや、正確には既にある「紀和鉄道紀ノ川橋梁(現・JR和歌山線、1930年撤去)」の図面を流用したのだが、そちらがなぜクーパートラスを使用しなかったのか。A&Pロバーツも、アメリカン・ブリッジも、通常のクーパートラスを多数製造している。だからこそ不可解だ。 次に下り線を見る。こちらも踏切より。下り線は8パネルのワーレントラス。ガセット結合だ。 まずは橋門構。 この下り線は、歴史的鋼橋集覧によるとやはり22連で、第1~16連と20~22連が73フィート(22.25m)鈑桁、17~19連が62.382m(204フィート8インチ)のトラス桁となっている。どちらも、先に架けられていた上り線のものと微妙に寸法が異なっている。もしかすると、径間と支間が入り交じっているのかもしれない。こちらは、プレートガーダーもインチ表記で残っているのが興味深い。 この紀ノ川橋梁と同じ形の10パネルのピントラスは、ここに書いた例が史上のすべてである。和歌山線に1連、南海に3連。それしかない。和歌山線の1連は、のちに米原駅の跨線道路橋に転用され、1980年まで使われていた。 1975年の航空写真で見てみると、米原駅北東にある、これだろうか。 話を戻して、南海本線紀ノ川橋梁の、ピントラスである上り線は、製造から100年を超えた。老朽化を理由に架け替えの話もあったが、結局は補修でいくことになった。そのあたりの経緯はこちら。 なお、今回のポストにはwikipedia引き写しに見える部分が多々あるように感じる方もおられるだろうが、ご安心あれ、経緯を引っ張ってきたり元の文章を書いたのは私である。 参考文献 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1(小西純一・西野保行・淵上龍雄) 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2(小西純一・西野保行・淵上龍雄) PR |
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