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ネオ書房での『丸田祥三の日本風景論・令和編〜東京物語〜』

記憶




2021年2月27日(土)、切通理作さん主宰の阿佐ヶ谷・ネオ書房で開催された『丸田祥三の日本風景論・令和編〜東京物語〜』。刊行準備中の『日本風景論・令和編』のベースとなるもので、既に数回開催されている。今回は「東京論」的な部分となった。

話は多岐にわたるが、特に私が聞き入ったのは、「人の故郷感」を、東京の生まれ育ちの丸田さん、そして参加者の方々からうかがえたことだ。丸田さんは町田での暮らしが長いが、丸田さんにとっては12歳まで過ごした新宿の大京町が故郷、「帰ってきた」感じがするとのこと。とても便利な場所で、まだ都電もそこここが徒歩圏内で、東京の距離感も起伏もそこで培われた。

ここで、二つのポイントがある。「故郷感」と「東京観」だ。(
「故郷感」「東京観」という言葉は便宜的に私が作ったものです



まず「東京観」から。まだ都電がいまの外苑東通りや新宿通りを走っていたころで、電車といえばそれ。長じて東京郊外や地方出身者の持つ東京都心の距離感…地下鉄などの駅で把握していることを知ったときに、その差に驚いたそうだ。「駅で把握している」というのは、例えば「西銀座から東京駅まで歩けるという感覚を持っておらず、電車に乗る」というようなことだ。切通理作さんは阿佐ヶ谷の方でなので、電車といえば中央線。後者だ。

参加者の方々の東京観は、とても個人的なものが多く、これまたおもしろいのだけれど、幼少のころの印象が強く尾を引いている方が多かったようだ。



そして「故郷感」。丸田さんは、国立競技場周辺がまったく違った姿になっていても、故郷感があるという。そういうものだと思う。もし仮にそこが飛行場になってしまったくらいにまったく変わってしまったら違うのかもしれないが、建物の更新くらいでは故郷感はなくならない。この故郷感は、私の関心のあるところだ。

森鷗外は、津和野を出てから一度も戻っていないのに「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言したことはよく知られている。人によって、出生地と育ちの地が異なるのに出生地を意識して記載する人もいる。この意識の根底を、いろいろな人に聞いてみたい。

「故郷感」といえば、東京の人は帰る故郷がない、地方出身者がうらやましい…というような、ステレオタイプの観念がある。これは地方出身者による対東京人マウンティングでしかない。東京を「故郷たる価値がない」というのはとてもひどい見方だ。しかし、こういう観念は無批判に受け入れられている気がして、そして、それがマジョリティだとも思っている。文脈として理解しやすいし、物語も描きやすいのだ。もちろん東京の人にとっては東京が故郷だ。

ふと思ったのだけれど、近年の漫画作品で郊外…埼玉県の武蔵野線沿線が舞台になることが多いのは、そういう郊外生まれ育ちの人の「故郷感」が反映しているのかもしれない。そこには「新興住宅地だって故郷たりうる」という念が埋め込まれている気がする。




「故郷感」「東京観」を合わせて考えると、「東京」というのはあまりに広い。浅草生まれ育ちと渋谷生まれ育ちが同じく「東京生まれ育ち」というのはちょっと無理があると思う。一方で、東京では都内で転居するのは当然のことで、生まれ育った家で死ぬまで暮らす人はほぼいないのではないか。
また、親の職業の都合で、短期間で全国を転居している人も少なくない。そういう人の「故郷感」もまたたくさん聞いてみたい。

「故郷感」「東京観」も、おそらくほとんどの人にとっては一つではないだろう。私にとっての「故郷感」は一つだが、「東京観」は、子どものころの印象、上京したころの印象、そしてさまざまな知見を得た現在の印象でどれも異なる。こういうことを考え始めてだいぶ経つので、ナチュラルに東京をどう感じていたかを思い出すことができなくなってしまったが、一つではない「東京観」のうち、印象の強いものを整理していきたいと思っている。きっとこれから得る知識でそれはどんどん変わるとしても。



丸田さんと切通さんによる
『日本風景論・令和編』は、毎回、我々が「当たり前」のこととしていることについて、「ちょっと立ち止まって、それがなんなのか考えてみる」というきっかけをたくさん提供してくれる。私はそういうふうに考えることが好きなので、きっとそうしたものになる書籍も楽しみにしている。

次回の
『丸田祥三の日本風景論・令和編』の日程はオープンになっていなけいけれど、3月末かな? 楽しみにしています。丸田さんと作っている『廃線だけ』は着々と進行中です。



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1980年から数年の新潟の鉄道模型販売店事情

記憶


うかいさんの一連のツイート、ツリーまでご覧いただきたい。これに関してtwitterでは長くなるので記憶を記録する意味でここに書く。



ぼくが初めて鉄道模型を買ってもらったのは、1980年5月、新潟の大和百貨店だった。当時の新潟では、デパートといえば古町の大和。金沢資本のデパートで、新潟市の「渋谷のスクランブル交差点」に相当する古町十字路にあった(いま、ここは完全に過疎化していて、なんとこれからマンションが建つ)。当時はデパート的な店舗は小林から転換した三越と、少し離れて本町に丸大、信濃川を渡って万代にダイエー。この4店舗が主だった。緑屋とイチムラの存在感は小さかった。

その大和に鉄道模型コーナーがあった。そのシマには専門の店員がいた。父がそこに連れて行ってくれて、店員の薦めるままに揃えたのが以下だ。

・関水 固定式線路 レイアウトプラン5(ブリックパック)
・宮沢のパワーパック
・関水EF65(貨物色;カタログにない;上写真の台車とモーターが残っている)
・トミックス ワム23000、ワキ5000(上写真の箱)、レ2900、ワフ28000
・900×600のパネル
・Nゲージレイアウトプラン集

合計19200円くらいだったと思う。見たことがあるのはワキ5000だけ。なぜ「EF65-1000と24系25形が欲しい」と言わなかったのか不思議でならないが、たぶん「買ってもらえるだけ」で嬉しかったのだろう。のちに、貨物色なんて不良在庫を押しつけられたのではないか、と思ったが。



店員曰く「動力車は関水にしたほうがいい。トミックスはダメ。レールもトミックスのものはすぐジョイントがダメになる。固定式がいい」。ぼくはそれが刷り込まれた。のちに、地元でさんざん見ていたEF81がトミックスで模型化されても、全然欲しくならなかった。

たしか大和には、中村精密のN蒸機や16番も置いてあった。レイアウトもあった。おそらく、うかいさんいうところの専門業者が入っていたのだろう。しかし、1~2年すると、専門の店員はいなくなり、無人となってしまった。そこからは売り場の縮小は早かった。そのころから、ぼくはダイエーに行くようになった。

* * *

ダイエーは、当時の関水のカタログによれば「鈴五新潟営業所」が担当していた。たしかNしか扱っていなかったと思う。レイアウトはなかったが、やはり専門のシマがあり、専門知識のある店員が中にいた。その店員さんの名前は知らないけれど、月に2回ほど通ううちに、ぼくの名前を覚えてもらった。ぼくは名札をつけていたし。そこでは線路とパワーパックをユニトラックに買い直し、お年玉をもらうとそこに買いに行った。

中学に入るころにはラジコン売り場も兼ねていて、というか鉄道模型は縮小されていた。同級生たちはそこにラジコンのパーツを買いに行っていた。ぼくもつきあった。ぼくはもう鉄道趣味の熱は冷めていたが、模型を見るのは楽しかった。

肝が冷えた記憶がある。小4のころ、あるところに「自分の写真を売ります」と気楽に投稿した。当時はそういうのがよくあったのだ。年齢などは書かれないので、マトモな写真だろうと思った方々が「リストをください、売ってください」という手紙がてっこう来てしまった。ぼくは強く後悔した。小学生が目測カメラで撮ったひどい写真だ。本当に困って泣きそうになりながらも、出した責任上、リストを送り、驚くべきことにある方は2回注文してくれた。それはそれとして、そのダイエーの鉄道模型売り場に、ぼくが撮ったDD51の写真が貼ってあったのだ。

その写真を送った相手は目黒区在住の大学生、Yさんといったのは覚えていた。あるとき、中学の友人と話していると「ダイエーのYさんがさ…」というではないか。おそるおそるフルネームを友人に聞いたら、まさにその人だった。おおお、では、店員さんは「おれが写真を買った相手は小学生だったのか…だからこんな下手くそな写真を…」と思ったに違いない。

閑話休題。「鈴五」は問屋だろうか。それとも(鉄道模型に限らない)模型店だったのだろうか。ダイエーの売り場は銀河のパーツなども扱っていた。使う当てもなく砲弾型ヘッドライトを買ったりして、それはいまも手元にある。

* * *

小6くらいかはら、ヤママル、今となっては何店か覚えていないのだけれど、そこに行くようになった。在庫がけっこうちゃんとしているのだ。でも、ほどなく鉄道模型を買わなくなった。たまに引っ張り出して走らせることはしても。

ほかのデパートやスーパーがどうだったかは、あまり記憶がない。置いてあった店もあったと思うが、専門の店員がおらず、単に「置いてあるだけ」だったと思う。

こうしたデパート内店舗とは異なるが、実家のすぐ近くにあった模型店「むげん社」には、トミヤマのTEEや16番のペーパーモデルが多数あった。兄はそこで固定式線路からEF65+20系までを揃えた。「むげん社」の話はこちらに。

新潟本町遊郭跡 1958~1967(?)の住宅地図と1980年代の違い(2)

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14部屋あった旧実家の新築時の間取り図

記憶

一昨年に父が亡くなるのに前後して、実家では思わぬものが出土したりしていた。そのなかに、ぼくの旧実家の、昭和5年に建てたときの間取り図があった。

その旧実家はおもしろい造りをしており、3世帯が住んでいた。ぼくの家族(祖母は二女・5人)、大叔母(五女)とその息子(2人)、大叔母(七女・独身、1人)である。風呂は一つ、トイレは二つ、階段は三つあった。加えて、実家は文房具や駄菓子、雑貨を扱う店をしていた。その建物は昭和56年に解体され、いまの家が建った。

とはいえ、ぼくが暮らした旧実家は、実は昭和42年頃に父母の結婚に合わせて内部を改造した後の姿。ここでご覧に入れるのは、昭和5年に新築した当時の間取りである。戦後に1階の表の部屋を店舗に改造している。

 
上の図でいうと、Aが磯部家、B・Cは親戚等に貸していた。いくつか入れ替わりがあったようで、最終的には上述の通り、B(2階のみ)に大叔母(七女)、Cに大叔母(五女)とその息子が住んでいた。

さて、単純に間取り図を見ると、14部屋ある。カッコ内は改造後の姿だ。6畳と4畳半が目立つ。押入は少ない。ぼくの家である「A」の廊下が広く、1間ある。たしかにそれくらいあった。余分なスペースは物置になっていたと思う。残念ながら、家の中の写真は残っていない

3月26日付の、新潟県による建築認可証の印が残っている、



ぼくは10歳まで旧実家に住んでいた。ふと気づいたのだが、新築後の家は浪人生のときまでなので、旧実家で暮らした時間のほうがわずかに長い。

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新潟の日和山浜にあがっていた漁船

記憶

 
(国土地理院の空中写真CB811-C7-2をトリミング・加筆)

新潟の日和山浜海水浴場の砂浜には、なぜか、場違いに大きなヤドカリが砂浜で干からびていた。オカヤドカリではない、海性のヤドカリだ。突堤から見ると、砂の海底を這っているヤドカリもいた。しかし、このへんは砂浜で、そんな巻き貝はまったくいない。だから、そんなヤドカリがたくさんいるわけがない。

突堤にはガザミもいた。そんなものがいる海域ではない。突堤には、せいぜい、甲羅の左右が数cm程度の蟹がいる程度だ。巻き貝だった1cmくらいのものだ。

あるとき、その謎が解けた。漁船だ。時々、砂浜の掘立小屋に(たぶん)網ごと揚げ、はずした魚をその場で売っていた。そのとき、ひっかかったヤドカリを捨てるのだ。ヤドカリは運がよければ海に戻る。運が悪いやつは、砂浜で干からびる。

その小屋は、たぶん上の空中写真で、砂浜の矢印部分にあった。漁船は、沖合のテトラ(いまはほぼ撤去され、砂浜が拡大したせいで、砂浜から10mくらいのところの海底にある)の切れ目から矢印のように入ってきて停泊し、網を掘立小屋まで持ってきていたのだろう。

一度、覗いたことがあるが、エイとかカレイなんかが、わりとざっくりと売られていた気がする。市場に出すのではなく、近所の人にうりさばくスタイルだったのだろうか。

「栄小学校」の裏の松林に、漁具を入れておく小屋があった。海風で錆だらけの2ストのジムニーも駐まっていた。いまは小屋はなくなってしまった。なんらかの既得権益ゆえの存在だったのかもしれない。

* * *

海岸線と並行にある、細長い建物は浜茶屋。東京の言葉でいうと「海の家」だ。「三八亭(さんぱちてい)」ほかいくつかが並んでいた。ぼくは自宅から水着で直接海にいく環境だったので、まったく利用したことがない。

いま、その位置には道路が走っている。砂浜は拡大され、突堤ももっと長いものがいくつか建設されている。

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携帯電話の記録

記憶



松村大輔さんの『電話マーク展』と、それに伴う藤本健太郎さんとのトーク第一部『電話マーク拾番勝負』、hacoさん×猿田妃奈子さん×松村さん×藤本さんのトーク第二部『テレフォン☆メモリー』を堪能してきた。



第二部で、みんなの携帯電話履歴とその思い出話が展開されたので、もう何の機種を使っていたかも覚えていないのだけれど、覚えている部分のみ、書いてみるす。すべてNTTドコモ。画像は公式サイトよりリンク。●=本流=いまに続く電話番号、○=並行所有。

●デジタル・mova N103 HYPER
 

1996年初夏、友人たちとキャンプツーリングに行ったとき、道中でエンジントラブルに見舞われた有人がいた。20台ほどだったけれど、携帯電話を持っていたのは二人。それで便利さを痛感し、購入。当時はストレートが一般的で、折りたたみは(たしか)NECのみ。ちょっと前まで10万円でしたが、かったときは8万円強。しかし、秋口に、バイクのタンクの上に載せて(←バカか…)環七を走っていたとき、ちょっとしたサスの上下動で路上に落ち、真っ二つに。数ヶ月の命だった。

● デジタル・mova N202 HYPER

1996年夏、仕方なく、再度購入。もう5万強まで下がっていた。

○デジタル・mova P202 HYPER(?)

1996年秋、そのN202が壊れた。なぜか電源が入らない、とかだったと思う、当時有楽町にあったドコモのサービスセンターに行き、メーカー預かりになった気がする。結果的に新品と交換となったのだけれど、預けている既刊にも携帯は必要だったので(代替機の貸与などなし)、当時、つきあいのあった携帯電話加入窓口業者に頼み、融通してもらったのがこれ。もちろん新しい電話番号。

まだ携帯を持っていなかった友人と『白山』で新潟に行くことになっていた。ぼくが切符を持っていた。上野駅の特急ホームの改札で待ち合わせとして、何かあったら新しい電話番号にかけてくれと伝えていたのに、相手が現れなかった。ぼくはといえば、まだ携帯を持っていなかった友人の留守電に何度も吹き込んだ。当時は、留守電を出先から聞く、というのが当たり前だった。

ところが現れないので、やむなく一人で『白山』に乗車して、長野経由で新潟に向かった。ぼくは改札が二つあることを知らず、相手は新しい電話番号のことを忘れていた。相手はいったん帰宅後、新幹線で新潟に来た。

この端末は、N202の修理があがってきたら即解約した。本来なら違約金が発生するはずだが、出入り業者がかぶったのか、ぼくのところには請求はこなかった。

●デジタル・mova N206 HYPER(?)デジタル・mova N207 HYPER(?)

1998年。次はN206かN207。N202が壊れたのかどうか覚えていないが、買い換える必要があったのだろう。この頃には1万円台になっていたと思う。N206かN207かわからない。


●デジタル・mova N503i HYPER(?) 

2001年頃から使っていた気がする。N501やN504という型番も記憶にあるが、時期的にあわないので、家族の誰かがそれを使っていたのかもしれない。

●mova N211iS(?)


211という数字は覚えているので、おそらくこれを使っていたと思う。2005年1月、只見線沿線で除雪車の撮影をしている時に、アウターのポケットから落としたらしく、撮影場所からクルマで移動後、気がついて戻ったら、道路をロータリー車が除雪した後だった。つまり、端末は木っ端微塵となって雪とともに遠くに投げられてしまった。

●mova D253i(青)



2005年1月頃、代替として購入。もうNにこだわらなくなったのは、安さのほうをとったのだ。ところが、軽量で、スライドの感触もよく、すごく好きになった。この頃から「D=フリップ式」ではなく「D=スライド式」となる。

 
『やれたかも委員会』で登場した。2017年のマンガである。びっくりした。文末の写真のとおり、この端末はいまも家にある。

●FOMA D903iTV

2007年頃。おそらく通信速度の都合かなにかで、movaからFOMAに切り替えた。たぶん安かった。この頃はワンセグが流行っていて、この機種はテレビがウリだった。ぼくは全然テレビは見ないのだが、2011年の東日本大震災の時もこれを使っていて、町田市内で仕事をしていて地震にあったぼくはこれでテレビを見て情報を把握するようにした。

 
1280×960のカメラの画質はこんな。晴れの屋外で、である。

ガラケーはこれが最後。2012年に次項のSH-03Aを会社に返却したため、ようやくスマホに切り替えた。

○docomo PRIME series SH-03A(たぶん)

2008年、仕事用として勤務先で購入。ぼくが管理していた。2012年まで、iモードサイトの動作チェック等に使用していたが、パケホーダイだったので、私的にも便利に使わせてもらった。twitterは「Yubitter」を愛用していた。

●Xperia acro HD SO-03D

2012年、仕事の都合で「パケホーダイ」だったSHがなくなったので、ようやくスマホに。9万円くらいしたはず。2013年末、出張先の小倉で「バチッ」という音とともに起動しなくなった。

●Xperia Z1 SO-01F

2013年末、代替品として購入。8~9万円したはず。カメラのレンズが徐々に傷ついたのでバックパネルを交換。また、電池を異様に消耗するようになったので電池も交換(いずれも自分で)。2017年秋まで。以降、HUAWEI端末に。

* * *


いま手元にあるガラケー2台。これ以外は、機種変更等の時に下取り的に渡している。右のD253iの内容はすべて飛んでいた。もともと取り出す方法もなかったので、写真が失われた。左のD903iTVは写真などが残っていた。



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11月13日によせて。入場券を求めた日

記憶

11月15日は、私にとっては特別な日付。昭和57年の「佐渡8号」の記事を書こうと思ったら、それは11月12日のことだったので、翌13日のことを書く。合わせて下記もご覧いただきたい。

11月14日によせて ~昭和57年11月14日から28年~
11月14日によせて。昭和57年から30年。



昭和57年11月12日(金)の夜に新潟を出た私と母は、「佐渡8号」で早朝の上野駅に着いた。そして、この「国電フリー乗車券」を買い、私の目論見では全駅に下車し、全駅で硬券入場券を買うつもりだった。

どういう順番で回ったかは覚えていないが、手元には、券面のうち、一部を除く全駅の入場券がある。そんな好意に付き合わされた母は、総武線のどこだかの駅で「一人で行ってこい」と行って休んでいた記憶がある。また、最後は私も疲れたのと、「快速」「緩行」がわからなかったので、回りきれなかった駅がある。

上の「国電フリー乗車券」、唯一の途中下車印は東京駅。東京駅は、ラッチ内の新幹線改札口で、新幹線ホームへの入場券としてのみ、赤いインクの硬券があった。それを買った印として押されたものだ。鋏痕を入れる場所がなくなり、券を折って内側に入れられはじめたので、途中から見せるだけでパスしていた。ふたつのそれは、当該の位置にある駅のような気がして鋏痕データベースを見てみたけれど、該当する駅は違った。

当時、私は手書きの看板である鳥居形の駅名標と、硬券入場券が大好きだった。この、東京の入場券は、新潟で買えるのとは仕様が異なる。ちょっと忘れてしまったが、当時九つだかの印刷所があり、微妙に仕様が異なるのだ。この関東の仕様は「旅客車内に立ち入ることはできません。」が、長体がかった書体で1行で納められている(活字なので「長体」ではないが)。

このとき買った入場券は、このような形でいまも取ってある。いま見返すと、下記のとおり。

●硬券
東京駅(赤。新幹線改札口)、有楽町、新橋、浜松町、品川、大崎、恵比寿、渋谷、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、巣鴨(料金変更)、駒込、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野/板橋、十条/上中里、王子、東十条、赤羽/御茶ノ水、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四ッ谷、信濃町、千駄ヶ谷、(中)大久保、東中野、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪、西荻窪/松戸/市川/大森

●窓口のマルス券しかない(という応対)
田町、五反田

●券売機しかない(という応対)
目黒、御徒町、秋葉原、神田

それぞれ、駅の窓口で「硬券入場券ください」と告げて買っていたのだが、マルス券か券売機しかない駅に、実際になかったのかどうかはわからない。予備で持っていたとしても、それを使わずにマルス券を販売されたり、券売機を推奨することは、業務としては当然ではあるからだ。

ここにない駅は、行かなかったか、窓口で自動券売機券しかないと言われて買わなかったかのどちらかだ。

いまから33年前の今日、私はこんなことをしていた。

懐かしいガラス

懐かしいガラス

記憶

実家は1981年に建て替えた。元の家は昭和一桁の築で、私の家族、大叔母とその息子、別の大叔母(独身)の3世帯同居、家の中に階段が三つ、台所が三つ、トイレが二つ、風呂がひとつあった。当たり前だが、全部和室だった。

廊下との仕切りは全てガラスの入った障子戸か襖だった。そのガラスは、戸によって違っていた。割れたら取り替えるからである。

ガラスは近所の人…たぶんガラス屋さんというわけではない、建具屋さん? 内装屋さん? とにかくその人に来てもらって、あり合わせのガラスを入れてもらった。戸のガラス押さえは木枠であり、金色の鍋頭の細くて小さいメクギを抜いてガラスを入れ替えていた。

…いまのいままで「メクギ」は「女釘」だと思っていたが、変換したら「目釘」と出た。それでは刀の用語になってしまう。果たして?


さて、ガラスが戸によって違っていたという話である。いま地方で空き家を見かけると、ガラスを見る。懐かしい、見覚えのあるガラスがはまっていることがあるのだ。新潟市内で採集したいくつかのガラスを紹介する。

多数の立方体に見えるこれは、こちらのサイトでは「キララ」となっている。

これは「銀河」というようだ。八方位みたいな模様の間を細かな砂利模様がびっしりと埋め尽くしている。

これはなんだろう? 子供の頃は「鵜の足」という貝を連想させるものだと思っていた。


いまの家はすべてアルミサッシであり、ガラスも破損時に飛散しないように線入りになってしまった。そしてとても頑丈になった。古いガラスは少しぶつかるだけでよく割れたものだ。






2013年GW旅の記録

2013年GW旅の記録

記憶



タイミングよくゴールデンウイークに10連休をとることができた上に、ひとりででかけてもいい状況にもなったので中国地方に行ってきた。ログは上記の通り(dakota20で取得、kashmir3Dで日付ごとに編集、KMLに書き出してGoogleEarthで表示)。

走行距離3190km、累積標高4万4957m、移動時間110時間48分19秒。まあ、こんなものだろう。1日にもっと長く走る人もいると思うが、距離を競っているわけではないし、沿道で出会うものが多いほど、距離は減っていく。道中すべて車中泊。

連日好天に恵まれたため、およそ2000カットも撮影してしまった。撮影した橋や建物等については省略する。

●4/27(土)自宅→嬉野
移動。

●4/28(日)嬉野PA→大塔
『廃線跡の記録4』でLEVEL_7Gさんがレポートしている国見山鉱山の廃線跡へ。上部軌道にはおかしな橋がたくさんあった。偶然にも、土中に半分埋もれていたというD-507の解体作業を目にする。

●4/29(月)大塔→御坊→吉備
紀州鉄道に乗る。

●4/30(火)吉備→津和野
広島の橋等をめぐりながら。

●5/1(水)津和野→三次
観光地としての津和野ではなく、地形や集落について体感しに。

●5/2(木)三次→高梁川沿い→岡山

●5/3(金)岡山→倉敷→加茂川
岡山で開催されている『ピクトさん展』を見に。ここで内海さん、ポールさん、のむたいさん、小鳥遊さんとお会いする。岡山電気軌道、水島臨海鉄道も乗る。

●5/4(土)加茂川→津山→柵原→若桜
津山の機関庫と片上鉄道保存会の動態保存を見る。

●5/5(日)若桜→浜坂→余部→京都南→赤塚
若桜のC12運転→山陰のラティストラスへ。

●5/6(月)赤塚→東名→自宅
渋滞がこわいので午前10時前には帰宅。



撮ってきた写真を全部書くまで2ヶ月分以上の素材がある。お楽しみに。

昭和41年3月20日 柏崎駅

昭和41年3月20日 柏崎駅

記憶

20121125_000.JPGここに、1枚の国鉄柏崎駅の入場券がある。私が生まれる6年前の3月。今は亡き母方の祖母から預かったものだ。祖母は柏崎に住んでいた。

「汽車が好きらろ? これ、持ってけっや。おれが持ってても、死んだらどうなっかわかんねっけの」

祖母はそんなことを言いながら、きっぷを集めていた小学生、たぶん6年生くらいだったと思う、その私にこの入場券を寄越した。祖母の家に遊びに行くのが最大の行楽だった、昭和50年代後半の話である。

祖母がこの古い入場券を持っていたのは、偶然ではない。ちゃんと、取ってあったのだ。十数年、仏壇の下の引き出しに入れて。

20121125_001.JPG裏を返すと、ボールペンでこう書いてある。

41年3(月)20日
君代の見送り


「君代」とは、私の叔母の名である。当時18歳の叔母が、就職のために柏崎駅を後にするときの、その母による見送りの印であった。小学生とはいえ、私がそんなものを受け取っていいのかというためらいはあったが、「持ってれ(持ってろ)」と言われるがままに、大切にしまった。新潟の家に帰り、母にその話をした。

私はきっぷを手製のクリアファイルに貼って保存していたが、この入場券はそうする気持ちにならなかった。この裏面が見えるようにしたかった。といって、バラで持っていたらなくしてしまいそうだ。そこで、プラ板で挟んで、ファイルに綴じておいた。写真の下側、磨りガラスのように見えるのは、プラモデル用接着剤の刷毛の跡である。



いま思えば、なぜ祖母は私にこれを託したのだろうか。孫は私を含めて10人いた。昭和41年に見送られた叔母も既に柏崎市内に戻って住んでおり、私と同世代の子どももいた。また、直系の孫も同居していた。なのに、なぜ私に?

理由などない、のが正解である気もするが、そうでもないかな、という自惚れた思いもある。

家族で祖母宅に遊びに行ったとき、いつも子どもたち同士で最大6人くらいで同じ部屋に寝ていた。親戚宅というのはそういうものだろう。しかし、ときどき、私だけが祖母の部屋で寝泊まりした。また、祖母宅に行けば、私が幼少の頃に亡くなった祖父のために、私が一番に仏壇に線香をあげていた。別に祖父に特別な思いがあったわけではない、実は名前すら知らない。ただ「そうするのが普通だ」と思っていただけだ。それを、祖母はとても喜んでいた。一度だけ、インスタントコーヒーを飲む祖母を見て、あまりに祖母と似つかわしくなくて、「コーヒーなんか飲むんだね!」と言ったら、「ちょっとつらいことがあったときに飲むんだわ」と言っていた。祖母は、私を少しだけ、ほかの孫たちよりも大事に思っていてくれたのかもしれない。そして、「汽車が好き」ということで、このきっぷを託していいと思ったのかもしれない。

それから何年か経ち、昭和63年に祖母は亡くなった。もし、この時点で私に託していなかったら、遺品としておそらく叔母の手元に渡っただろう。叔母ももういい年だ。昭和41年から47年も経っているのだ。いままで漫然とこの入場券を手元に置いておいたけれど、いつか、「預かっていたよ」と、渡さなければいけない気がするのだが、その時のことを考えると、なぜか涙がにじむくらいなので、笑って渡せる自信はない。




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西ゆうじさんのこと

記憶

西ゆうじさんが亡くなった。
昨日、告別式が執り行われたので、お別れに行ってきた。

近年では主として漫画原作者として活躍していた方で、連載中のものではテレビドラマになった『あんどーなつ』(ビッグコミックオリジナル)と『蔵の宿』(週刊漫画TIMES)、『華中華』 (ビッグコミック)がある。私は『週刊漫画サンデー』の編集者の頃に、前担当の先輩から引き継ぎ、『これで家族』などを担当し、異動に伴い同僚に引き継いだ。

* * *

2011年10月20日、入院先に伺った。大事には至らないだろう、ということで、お元気にお仕事されていた。病院の喫茶室で話し込み、屋外で(西さんが)煙草を吸い、…という、いつもどおりの西さんだった。ライカのM9を触らせてくれ、コレクションのクラシックカメラも700台を超えてしまった、というような話をした。そういうお元気な印象だったので、以後、ご無沙汰してしまった。

会社の先輩から突然の話を聞いたのは、2013年2月5日(火曜)だった。漫画原作の連載も普通に掲載されていたし、今年も手書きの年賀状をいただいていた。もうとっくに元気になり、普通に過ごしておられるのだろうと呑気に考えていたので、非常に驚いた。

その夕方、先輩とともに病室にうかがった。酸素吸入のマスクをしていたためにお話はできなかったけれど、私たちの話すことはきちんと伝わり、ときには私たちを見て、最後は手を挙げて握ってくれた。かなり厳しいとは聞いていたけれど、まさか、その直後にお亡くなりになるとは思わなかった。

ご家族と大切な時間を過ごすべきところに、我々のような仕事関係の者がお邪魔してよかったのか、と感じる。でも、あとから聞けば、西さんは、作品作り=人生でもあった方なので、関わった方々とのお別れの場をご自身でご用意されたようだ。そのお心遣いに言葉もない。果たして自分がそういう場面になったとき、「お別れの場」などを設けることができるだろうか? 無理な気がする。

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1990年代後半、私は二十代半ば。まもなく終刊を迎える『週刊漫画サンデー』も当時はかなりの売れ行きで、会社の大黒柱だった。自分は、いま思えば愚かなことに、仕事面ではなにも考えずに毎日を送っていた。週末にバイクでどこに行こうかということばかり考えていた。西さんは、そんな私を、きっと「しょうがねえやつだなあ」と思いながらも、かわいがってくれた。毎週、「週末はどこ行ってたの?」と聞いてくれた。

漫画の原作というものは、要するに「原稿用紙」なので、当時は既にファックスでやりとりしている方も多かった。会社としてはまだメールの環境もなかった。しかし、西さんは、原作を、毎週、直接会って受け渡すことにしていた。待ち合わせの場所は、いまはなき池袋芳林堂の「栞」、芸術劇場の「こぶし」(いまは別の店になっている)、銀座「どんパ」などが多かった。

担当していた『これで家族』は、非常におもしろい原作だった。しかし、西さんのネームの多さもあり、作画担当の漫画家・杉江雅巳さんもそれを入れるのに苦労はしていた。勢い、顔が会話するようになってしまった。未熟すぎる私はそれをそのままにしてしまい、西さん、杉江さん双方の不満を聞くに終わってしまった。いま思えば、原因はページ数の少なさと、私が整理しなかったことにある。当時の漫サンは通常1本20ページのところ、『これで家族』は毎回16ページだったのだから、私はこれを増やすべきだった。また、いわゆる「説明ネーム」、状況を登場人物にしゃべらせるような部分を、どう圧縮するかは、私が整理し、西さんの承諾を得て、杉江さんにも意図を伝えなければならなかったのだ。私はそういうことをしなかった。

西さんは、原作者としては珍しく、だと思うが、漫画になった後まで気にかけている方だった。書きっぱなしではなかった。さまざまなことに精通し、それを誌面で展開しようとしている西さんには、漫画化されたときに「ありえない描写」が目についてしまうことがあり、それを漫画化の勉強不足、と指摘したことが、炎上気味になったこともあった。しかし、私が見て見れば、それはたしかに指摘の通りであり、あとは「言い方」の問題でしかなかった。

そんなことを思うようになったのも私が歳を重ねてからで、担当しているころには、そういうことがわからなかった。西さんのお話の半分も理解できてなかったのだろうし、原作を受け取るときも「打ち合わせ」にはなっていなかっただろう。申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それでも可愛がってくださったことに、強く感謝している。漫画編集者でなくなって14年たつが、いまでもおつきあいのある漫画関係者は西さんだけだった。

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告別式の後、渡された手紙には、「じゃ、また」と書かれていた。きっと、生前、ご自身でご用意されていたものと思う。その言葉に限らず、「ああ、西さんらしいな」と思うことが、たくさんあった。小学館の片寄常務の弔辞、「西ゆうじという作品を演じ続けた」というのは、本当にその通りだと思う。

59歳という早すぎる逝去。謹んでお悔やみ申し上げます。


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●西さんがシナリオを担当した、住友グループ広報委員会のサイトにある住友グループ誕生を描いた漫画が、オンラインで閲覧できます。作画は、西さんとはかなり古いおつきあいの長尾朋寿さん。台詞回し、説明などに、西さん節を感じます。製本した紙媒体版があるけれど、非売品かな?

http://www.sumitomo.gr.jp/story/index.html


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