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キ604の操作室など

鉄道


 
名寄にキマロキが保存されている。キ604の部分写真をアップする。

ここではマックレーと連結されている。キ604の前部に連結器はないため、左右に渡した梁をひっぱる形になるが、実際の作業でこのように連結したままの写真は見たことがない。キマとロキに別れて「2列車」で運転する。

正面を向いている羽子板のような5枚の羽根は可動できる構造となっているが、よくわからない。DD14等と異なり掻き寄せ翼はごく小さなものしかない。

操作室は十分に広い。こちらはあくまでも除雪装置の操作用で、動力源たる蒸気機関の投炭関係の部屋は後部にある。写真左が前、右が後ろ。右に見える箱は、日立のベビコン。

目立つのは、中央部にある扇形の大歯車とその操作に使う右上の大小歯車。何を操作するのかわからないが、大きな力が必要なもののようだ。位置からして、投雪口の左右切り替え・角度調整か。

手前に三方コックが五つ並ぶ。どれがなにかはわからない。左右の床下から生えているレバーは、外部のリンクから考えるに、小さな掻き寄せ翼を操作するもののようだ。

操作室背面には、ボイラの圧力計と右に加減弁、右下に逆転機。ここで運転士はボイラの出力を調整していたはずだ。

左右に隙間が見えるが、ここからボイラが見え、また、ランボードの上を歩いて後部の投炭室に行ける。

操作室を振り返り、右からボイラを覗いたところ(車体左側)。左の扉のガラスの左に写っているのが煙突。ほぼ真ん中のが蒸気ドームで、そこに加減弁からのリンクがつながっている。その下のパイプが動力源で、ボイラ右の箱の中がシリンダーだと思うのだが、この中を通る蒸気がどうピストンにつながっているのかはわからない。

後ろを向いて操作するとしたら、右側運転台のようなイメージだろうか。


左から覗いたところ(車体右側)。右手前が煙突、中央が蒸気ドーム。ボイラ横に這うパイプが蒸気を左の箱の中のシリンダに供給するものと思う。

投炭室。蒸気機関車と異なり、運転関係の装置がないので広々とした印象。


投炭室から車体の左を見る。ボイラ上の円筒は給水温め機だろうか。


投炭室から車体の右を見る。砂箱や蒸気の配管がないため、スッキリしている。

 
最後、もう一度外に出て、3軸台車。バネなしとのことだが、軸箱の上に板バネが見える気がする。こういうものを見ると、なぜ台車内側の写真を撮って来なかったのか等の後悔の念に駆られる。

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弥彦線越後大崎駅の駅名標だったもの

鉄道


5月に、上のようなツイートが流れてきた。手元にある「弥彦線 東三条・越後長沢間 さようなら入場券」を見ると…

古レールで組まれた「鳥居型」の駅名標の横木にある、本来は電灯がある場所がのっぺらぼうになっているので、これと同じ駅名標なのは間違いないだろう。これがどこにあるのか、探しに行った。探し回らなくてはならないかな…と思いつつ国道289号と県道の交差点にさしかかると…

すぐわかった。写真の道路は県道。写真奥を左右に横切るのが国道289号。左端はコンビニ。

いや、なんとも見過ごしそうなたたずまいである。表面は駅名を塗りつぶしたのではなく、板を当て、ボルト留めしている。

裏から見ると、こう。ナットが見えている部分が鉄板で、表面の板を剥がせば「えちごおおさき」という文字が残っているに違いない。

駅が廃止になると、駅名標は真っ先に取り外される。場合によっては保存される。だから、このように「野良」で残っていることは、なかなかない。新津鉄道資料館にでも連絡してみようか。



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キ100(キ116)の操作系

鉄道

キ100(キ165)に搭載された「配電盤」の謎関連にして
キ100(キ116)に搭載されたエンジン発電機の続き。

キ116は、モワ51との総括制御ができるように改造されている。そして、屋上のエアタンクは2基撤去され、4基になっている。通常、キ100のこの場は「運転台」ではなく保線員による操作台というべきものだが、本車は総括制御用の運転台でもあり、内部はその影響が大きい。

車体後部から前部に向けて撮ったもの。床にシリンダーが2基。その前部にダルマストーブと長いす。その前部、一段高くなった場所に運転台がある。

運転大部分は全貌を撮れないので分割で。
左が運転席、右が操作席。その中央にスイッチ類が並ぶ。左から「持ち込み灯」スイッチ、そして家庭用100V用のスイッチが流用されたと思いきや「300V 10A」の表示がある、単純なオン・オフ式の「左旋回窓」「右旋回窓」「表示灯」「計器灯」、「250V 15A」の表示があり「入」「減光」選択式の「作業灯」(前面窓上部左右のシールドビーム)、「前照灯」(前面窓上部中央)。


左側が運転席。左は東芝製のマスコン。その右は、ハンドルはないが、ブレーキ弁だろう。マスコン左の押しボタンについては後述。

中央から右にかけての操作部。左のハンドルは縦軸で左翼の「開←→閉」、中央も縦軸で右翼の「閉←→開」、右は横軸でフランジャー「昇↑↓降」。

場所をうっかり記憶していないのだが(おそらく前面窓内側上部)、圧力計。「33.7TZ」とあるので土崎工場で点検したのが最後か。

マスコン左の、かつての新潟交通バスで使われていたものと同じ、バス用押しボタンが逆さまに取り付けられたもの。「笛」「ホエス(ル)」とある。これは制御回路用の100Vではないだろうな。バス流用なら直流24Vがせいぜいか。エアで鳴らすのではなく、クルマのクラクションのような「笛」がついていたのか、とも思ったが、VICOMの映像を見る限り、エアのようだ。



右側にも「笛」があるが、押しボタンとしては取り付け方が正しい。

振り向けば…

中央に「カノピースイッチ」。1500V5Aが来ている。制御機器の「入←→又入(リセット)」。その左にはパンタ上下のスイッチ。右の穴はストーブか。その上はブザーか。

そういえば、運転席左窓上に「ブゥザー」というスイッチがあったような気がするが、スマホでだけ撮っていて、周囲の様子がわからないのでこの情報は保留としておく。

いろいろと、再度見なければならない部分がたくさんある。また行かなければならぬ。



special thanks : 丸田祥三さん




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キ100(キ116)に搭載されたエンジン発電機

鉄道

キ100(キ165)に搭載された「配電盤」の謎に関連して。

新潟交通電車線の月潟駅跡には、キ100形キ116、モワ51、モハ11が保存されている。これは、丸田祥三さんの取材にお供をした際に撮影したものだ。「かぼちゃ電車保存会」が活動している時には車両内部が開放されており、キ116の中にも立ち入ることができる。

車両内部、後部左側に、このようなエンジン発電機が備え付けてあった。全貌がわからないので、何のエンジンを流用したのかはわからない。太い黒いホースが吸気ホース、その上部にあるものがエアクリーナー。その奥の赤いのがガソリン(たぶん)タンク。下部に上面を見せているのがエンジン本体だ。ガソリンタンクには「路上走行をする場合は必ずモミウケ棒を折りたたんで下さい」という注意書きがある。モミ…というからには脱穀機か?

吸気ホース左には「発電キ使用時コーク全開 使用後、コック閉切」という表示の下に、手作業で移設されたキーシリンダー、パイロットランプ、(たぶん)チョークノブ、押しボタンスイッチ等がある。

上面の放熱器、左の錆びたカバーの下にプラグが見えるので、これはシリンダーヘッドだろう。ということは空冷エンジンか。そして、このシンプルなフィンは、混合給油の2ストロークだろうか。

吸気があれば、気になるのは排気だ。吸気ホース右に「排気コック」と書いてあるが、こんな細くて曲がっている管は排気ガスの排出用ではなかろう。では…と思い、車外を見てみると…。

(写真はかなりの露出オーバーにしてある。車体・台車とも黒色)

左側面、後部台車の前側車輪外側にマフラーが見えていた。

車体内側左最後部に「転換器」箱があった。「定位 発電機←→非常バッテリー」。その下の「操作盤」には
「電圧は24V以上にすること
 を絶対にさけて下さい」
と、誤読しそうな書き方で「24V以上にするな」と書いてあった。発電機は制御電圧と(おそらく)同じAC100V、バッテリーはDC24V、ということだろうか。ちょっとよくわからない。


このキ116はいろいろと興味深いので、続く。



special thanks : 丸田祥三さん





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キ100(キ165)に搭載された「配電盤」の謎

鉄道

加悦SL広場に、国鉄から貸与されたキ100形(キ165)がある。内部に入れる貴重な車両だ。

    こういう鋳物の観察もとてもおもしろいのだが、車体後部にこういうものがあった。

  配電盤には「キより給電時及びEGのウテ時」(注:キ=機関車と推測、ウテ=運転)という文字が見える。「総括スイッチ」は、いくつかのスイッチをまとめて入切するスイッチという程度の意味だろう。その上の「B」は、おそらくバッテリーで、この配電盤は、キ165の前照灯・尾灯や室内灯への給電を、機関車からとるか、車載バッテリーからとるかを切り替えるものだと思うが、ではこの「EG」および「エンジン起動用操作□」とはなんだろう。車体後部に発電エンジンでも積んでいたのだろうか。しかし、そんなスペースも様子も見当たらない。キ165の後部も写真を撮っておけばよかった。

他の路線・鉄道では、汎用のポータブル発電機を使うこともあったようなので、そういうものを積んでいたのか。その場合、排気をどうしていたのか。

ご存じの方はご教示いただきたい。


  福知山線の除雪列車のダイヤ。


【2018.2.4追記】
とある筋から、小坂鉄道保存会にて保存されているキ115の社内に発電機が搭載されているという情報をいただいた。搭載位置は不明だが、箱に入っている。その箱の中には、久保田鉄工製「クボタオートディーゼル」KND3型機関が搭載されている。定格出力3馬力/2000rpm、最大出力4馬力というもの。機関番号(製造番号?)7524。エンジンの「向こう」に大きな歯車が見える。

その歯車にチェーン等がかかっていたと仮定して、そのチェーンライン上に、三鷹車輌電機製作所製の「ディーゼル機関発電装置」がセットされている。形式MDG800、出力600VA、電圧・電流AC24V27A DC24V5.2A、回転数機関2000発電機2400rpm、周波数160(サイクル?)、重要143kg、製造番号3071、製造年月38.7、という銘板が付いている。クボタのエンジンとどうつながっているのかはわからない。

クボタのサイトを見ると、汎用エンジンの製造開始は1961年。三鷹車輌電機とは、蒸気機関車のタービン発電機などを製造していた会社だ。いつか小坂で実物を観察したい。




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「しらゆき」運転開始によせて

鉄道

(イメージ。写真はおそらく「赤倉」)

私にとって「しらゆき」といえば、新潟を14時28分に出る金沢行きのディーゼル急行だった。小学校の一学期の終業式がある7月24日の午後から、毎年、母方の実家がある柏崎に行っていた。そのときに乗る列車だった。もちろん、いつも自由席。非冷房だった。当時「冷房車」なるものがあることすら知らなかった。私の生活圏には冷房などというものは存在しなかったので、意識に昇らなかった。

たしか、新潟駅の1番線ホームに20分くらい並んでから乗った気がする。ホームの上にぶら下がった号車案内の札(後述)に20人かそれ以上ずつ並んでいた。「しらゆき」の乗客は新潟で相当数が入れ替わるため、座れなかったことはないが、当時の常識として車内の座席下にはゴミや新聞紙が大量に置き去りにされており、雑然とした雰囲気があった。

14時27分には青森行きも出て行くために、新潟駅には2編成が同時に在線しているはずだが、乗るのに忙しいからか、まったく記憶がない。

非冷房ゆえキハ58の窓を全開にして、1時間半の道のりを楽しんだ。峠を下るときなど、ノッチオフして惰行していく間のエンジンのアイドリング音が大好きだった。

「しらゆき」は、1982年の上越新幹線開業時に「白鳥」に格上げされ、消滅した。それが33年経ち、いやその間、1997年から2002年までは秋田-青森間の快速の名称ではあったが、優等列車としては33年ぶりに新潟県内の列車名として復活する。個人的にはまことに美しい列車名だと想う。



さて、いつもは新潟から柏崎に向けて乗る「しらゆき」だったが、一度だけ、逆方向に乗ったことがある。昭和57年8月28日、長岡から新津だ。これは、魚沼線と赤谷線に乗りに行ったときに、効率よく回るために、これに乗るしかなかったのだ。

 

8月28日は土曜日。土曜日のみ運転の魚沼線の列車をつかまえるのだ。<魚沼線6128D>1300来迎寺1307<1335M>1323長岡1332<しらゆき>1412新津1432<629D>1511新発田1539<赤谷線129D>。

金沢車掌区の車掌は白いサマースーツだったか。車内補充券には、誇らしげな「501D(上りは502D)」の列車番号。日本海縦貫線で「501/502」という列車番号は、1950年(昭和25年)に以来のもので、その列車番号は長らく「きたぐに」が使っており、電車化された後は501M/502Mであった。

なお、1980年10月改正の時刻表から日本海縦貫線の500番台の列車名を拾い出すと、下記のようになる。

501/502 きたぐに(大阪ー青森間夜行急行)米原経由
501D/502D しらゆき(金沢-青森間急行)
501M/502M 立山1号/2号(大阪-糸魚川間急行)湖西線経由(富山-糸魚川間普通列車)
503M/506M 立山3号/6号(大阪-富山間急行)湖西線経由
505M/504M 立山5号/4号(大阪-糸魚川間急行)湖西線経由(富山-糸魚川間普通列車)
505D/506D ひめかわ(青海-新潟間急行)越後線経由
8507/8508 えちご(大阪-新潟間臨時夜行急行)
8513 加賀1号(大阪-金沢間臨時急行)湖西線経由
8516 加賀4号(大阪-金沢間臨時急行)湖西線経由
9517/9518 アルペン(大阪-富山間臨時夜行急行)米原経由

509/510、511/512はちょっとわからなかった。どの臨時列車に充てられていたのだろうか。『鉄道ファン』1982年11月号掲載の上野-新潟間のダイヤを見ると、ほかにも下記の列車番号が見えた。

8501/8502(京ヶ瀬方面-柏崎方面)
9504(京ヶ瀬方面-柏崎方面)
8506(新潟-柏崎方面)
8507/8508(新潟-柏崎方面)



上越新幹線が開業した翌1983年、「新潟博」が開催された。鉄道のパビリオン「高速鉄道館」で鉄道部品の即売会があった。そこで、私は「しらゆき」の乗車口表示板(正式な名称を知らない)を見つけて買った。400円だった。

 

たくさんあったので、きれいそうなものを適当に選ぶと、係の人が「いいか、自由席の札はたくさんあるんだ。少ないのは指定席、いやグリーン車だ」。なるほど、と思ってさがしたら、あった。いっしょに「よねやま」も買った。グリーン車どころか指定席さえ座ったことがないのに。

いま、これの「自由席」の札が、新津鉄道資料館に展示されている。

 

新「しらゆき」は、乗ってみなければと思う。

* * *

追記。

金沢在住の友人から、高校生当時、「しらゆき」の車内販売のアルバイトをしていたとお聞かせいただいた。乗務区間は金沢-新津の往復で、下りは新津で車販ワゴンごと降ろし、荷物運搬用のエレベーターで対向ホームに移動し、上りに乗務するとのこと。「糸魚川駅で20分停車、 お客さまの一部は、下車して、立ち食いそば、その間に、急行白馬号とドッキングして、糸魚川から金沢の間は、販売車両が増加(中略)沢山の登山客が帰路に使ってました」とのことです。貴重な記録です。

とはいえ「新津駅のエレベーター」はちょっと詳細不明。こちらのサイトには新津駅のテルファーが写り込んでいる写真がありますが、屋根がないので違うとのこと。「
新津でのホーム移動は、日本食堂から委託受けた?作業員さんがやってくれたので、車内販売員は、旅客用跨線橋で移動してたのかもしれません」とのことでした。
http://niigata1116.com/train/jr_jnr/1974/niitsu_yoshida/1.html


Nさん、ありがとうございます。



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「はくたか」廃止によせて

鉄道

北陸新幹線開業と同時に、在来線から「はくたか」が消える。

 
 
今回の「はくたか」転身によせて、子供の頃に見た489系の「はくたか」の写真をアップする。どれも、小学校3年生、5年生などの、あまりにも拙い写真だが、この線路際は自分の原点でもある。

1980年の夏だろうか。場所は柏崎-鯨波間の大久保隧道の東側。このすぐ近くに母方の実家があったので、よくここで列車を見ていた。列車が近づくと大久保隧道から新潟地区特有のブザーが鳴り、列車の接近を知ることができた。連結器が剥き出しになっているので、下り列車だろう。

この頃は、親の持っていたミノルチナSを持ち出して撮ったはずだ。当時のこととて露出もピントもまったくわかっていないのだが、不思議とそこそこ写っているのはネガゆえか。そのミノルチナSが、確かフィルムが巻けなくなってしまい、「自分のカメラ」ミノルタハイマチックSを20800円だかで入手するのは小学校4年のときだったか。

リンク先のサイトを見ると1978年発売とある。発売から3年も経つカメラを買ったのか! と今の感覚では思うだろうが、当時はまったくそんなもんだろう。銀塩末期のコンパクトカメラや、いまの3カ月ごとのような更新頻度とは違うのだ。

こちらは後追い。連結器カバーがついているので、長岡方。こんなふうに盛大に構図を外すのは、写真の撮り方などは知らなければ教えてくれる人もいない小学生ゆえとご笑覧いただきたい。

プリントの枠には「FUJICOLOR 80」とある。「NF(新潟フジカラーのマーク)」のものとどう違うのかはわからない。

こちらは1982年。まったく進歩がない。別にたくさん撮っていたわけでもないし、向上心もない子供なので、それでいいのだ。クハ489は貫通型。プリント欄外のFUJICOLORの文字はイタリック。



時を経て、2005年正月。

 
八海山が美しい1月上旬、臨時はくたかが489系で走った。除雪車の写真を撮りにいったついでではあるが、カメラを構えた。

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「北越」廃止によせて

鉄道

「北越」といえば、新潟-金沢間1往復の電車特急、という印象がこびりついているのは、目覚めたときにそうだったから、としかいいようがない。それよりちょっと早ければ「北越」は大阪-新潟間だったし、遅ければ本数は増えている。

新潟駅の1番線。「雷鳥」として大阪から駆けてきた485系を折り返し「北越」に充てる作業と推測する。だとすると「雷鳥3号」、14:54新潟着だ。とはいえ上り「北越」の新潟発は16:30。いったん引き上げていただろう。1番線は「とき」が使うのだ。

隣の2番線には冷房付きのキハ58が2両、背中合わせにつながれている。


スカートの汚れなどから同じ日の写真ではないと思うが、これは向きからして新潟駅の4番線に11:47に到着した下り列車ではないかと思う。隣の3番線にはクモユ141と思しき車両がいる。新潟駅では下り方(新津・新発田方向)に郵便車を連結していた。



485系の北越。



北陸本線の特急に乗った経験はごく少ない。中1のときに新潟から福井往復、その帰りは金沢から北越2号だった。もう一回は高2のときの京都修学旅行の帰り。その、のべ3回だ。長岡から新潟までは、東京から新潟まで18きっぷで帰る時に、北越に乗れば1時間ほど早く帰れるダイヤだったときに、何度か乗ったことがある。

2015年3月、新潟から北陸に直通する特急電車がなくなってしまうので、久しぶりに485系の唸りが聞きたくもなって、これが最後の乗車と定め、堪能してきた。



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伊根の舟屋の船用台車と海から出てくるレール

鉄道

十数年ぶりに、京都北部丹後半島の伊根に行った。ちょうど夕日が落ちるときで、それはそれは美しかった。

漁港に船を引き上げるための台車とレールが2組あった。

湾内らしく波もなく、静かに洗われるレール。

  台車は、片方は1台だけ、もう片方は2台がつながっていた。どちらも構造は同じで、木製の架台と、ジャッキが2台1組、ジャッキの上にも架台というか木片というか。

柱のようなものはなんだろう、船を乗せたときに使う作業用のハシゴ替わりだろうか。その天端には太陽光発電のパネルがある。

うっかり観察するのを忘れたが、台車の移動は、台車内に装架されたモーターでチェーンを巻き取るのだと思う。チェーンの端部はレール上方のアンカーに結ばれている。

船体の塗装に使うのだろう。台車は塗料にまみれていた。パンタグラフジャッキは左右それぞれ独立している。上の木片は内側に向けて首を振るが、外側には倒れない。

ジャッキがある横梁と柱が立つ横梁は、水平になっている。写真にあるコードは柱についたスイッチと、台枠内に装架されたモーターをつなぐものと思う(よく確認しなかった)。

車輪は戸車のように両側にツバがあるもの。当然だが、軸バネなどはないようだ。





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ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)

鉄道

ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
の続き。

100系G編成の11号車に車販準備室があることは書いたが、通路を挟んだ向かい側は多目的室だった。車椅子の方が利用したり、授乳室として使われたりする。この部屋についての話だ。

どういう部屋かというと、こちらのサイトに写真があるのでご覧いただきたい。

車内販売員が休憩するとしたら、たいていは9号車にある業務用室だ。しかし、「B車」(別項参照)のときにはいちいち9号車に戻らず、適当に休憩を挟んでいた。もちろん、カフェテリアのクルーからの「おかしなサボりはしない」という信頼の元での動きだ。そういうときは、11号車の車販準備室の狭いスペースに「うんこずわり」のように腰を落とし、ドアに背を持たせて休んでいた。「着乗」などで疲労がたまっているときは、あとで捨てる飲料の段ボールを床に敷き、尻をついて体育座りをして休んだ。

しかし、よく考えれば、通路を挟んだところに広い個室がある。そこを休憩室にあてることを考える輩も当然、出てくる。誰も使っていなければ、迷惑はかからないのだ。鍵そのものは車販準備室と同じものなので、鍵を開けることはできた。乗客が使っているかどうかは、その目の前で車販の準備をしているのだから、わかる。また、車掌が使っていることもあるが、それはノックをすればわかるし、そういうときは「(サービスの)コーヒーいかがですか」とごまかすこともできる。そして、夜間であれば、内部の電気が消えていれば、確実に無人である。そうして見極めながら、うまく使うのである。

いちばんよく使ったのは、下りなら京都を過ぎ、上りなら新横浜を過ぎ、どちらも車販の片付けが終わった後。このタイミングでは車掌がここにいることもないので、安心して休憩に使うことができた。夜間の場合、電気がついていると車掌に気づかれてしまうので、電気は消しておく。むしろそのほうが外の景色がよく見えるから好都合。時にはベッドにして横になったりもしたが、さすがにそれは落ち着かなかった。もし車掌に見つかったときに、言い訳できるくらいの余地は必要だった。

* * *

この部屋は、力士が利用することもあった。大関時代だったかの貴乃花が乗ったときに乗務したことがある(直接見たわけではない)。力士は体の大きさから普通のグリーン車には座れない。だからこの部屋を利用する。その場合、鬢漬け油の臭いがデッキに充満する。

もし力士が普通のグリーン車に乗ったらどうなるだろう? 一度、東関親方が0系のグリーン車に乗っているのを見たことがある。悲しいことに、その車両は座席間の肘掛けを跳ね上げることができないタイプだった。もちろん親方のお尻は入らない。やむなく、すこしだけ尻をのせ、つまり座面の大半は空の状態で座っていた。親方は大変座りにくそうにしていた。そんなとき、車掌は気を利かせて多目的室を使わせてあげればいいのにと思った。

また、盆暮れ正月など、デッキだけでなく指定席社内にまで立ち客がいるような大変な混雑時には、ここを開放して乗客を入れていたのを見たことがある。座れた人はラッキーだったろう。

* * *

私は小心者ゆえにこのくらいの使い方しかしていなかったが、おそらく猛者はもっといろいろなことをしていただろう。ベッドにして居眠りをしたくらいはいるはずだ。だれか、そういう思い出を語ってくれないだろうか。






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