2013年12月10日(火)、釜石17時42分発の列車で新花巻に行き、東北新幹線に乗るつもりだった。ところが強風のため運休、バス代行になるという。新花巻での乗り換え時間は15分。それに乗り遅れたとして東京行きの最終新幹線までは1時間5分。 バス代行となる場合、各駅に立ち寄りながら進むため、列車よりはるかに時間がかかる。特に陸中大橋、上有住、足ヶ瀬などに寄ると、仙人峠の旧道を走ることになり、非常に時間がかかる。いや、上有住はルートが異なるのでパスするか、順序を入れ替えるかもしれない。遠野も市街地のど真ん中なので、これもつらい。列車なら新花巻まで約2時間だが、代行バスなら4時間は覚悟しなければならないだろう。しかもバスはまだ手配中であり、18時10分頃、駅にやってくるという。となれば今日中に東京に着くのは無理だろう。花巻で宿泊かな。 …などと思っていたら、18時頃、新花巻まで行く乗客の一人が「新花巻まで直行するバスを出して欲しい」と要望した。すると、18時5分頃、2台のバスが釜石駅に到着した。1台は新花巻と花巻に直行、1台は各駅停車だという。たった5分で手配できるわけがないので、駅側でも考慮していたのだろう。これには賞賛を贈りたいところだが、ならば最初からそのように案内してほしい。気を揉むではないか。 バスは城山バスという観光バス。運転手の話からすると、どうやら他の用件での運行を終えた直後、急遽回したようだ。だから、列車の本来の発時刻より30分も遅れたのかな? さて、その代行バスは18時10分頃に発車した。釜石市街から洞泉あたりまでは通勤のクルマの渋滞に巻き込まれたが、その後は順調に走る。GPSを見ていると、さすがだ、バスは、法定速度を守って走る。洞泉からは仙人峠道路に入った。 国道283号を走る。鉄道の車窓からは決してわからない、遠野市街の繁栄を見つつ、19時40分に新花巻に着いた。列車とほぼ同じだ。GPSログを見てもスピード違反はしていない。お疲れのところに片道2時間休憩なしの残業+帰り2時間。雨と風の中、安心して居眠りできる素晴らしい運転に、「ありがとうございました」と礼を述べて下車した。 釜石から新花巻までこのバス乗り、新幹線に乗り換えた乗客は、私を入れて11人。盛岡方面に行く人もいた。この数字が多いのか少ないのかはわからないが、これだけの流動が平日にあることを記録として挙げておく。 繰り返すが、このバス手配には賞賛を贈りたい。バス代行の費用が何万円かかるのかはわからないが、もしそれをケチって各駅停車のバスのみしか走らせなかったら、11人の客は新花巻で宿泊しなければならないのだ。その経済的ロスと実害とかそんなことよりも、数万円で、乗客11人に心情的な大きな反感をもたれずに済んだ、という効能は非常に大きいだろう。GJ、JR東日本+釜石線関係者。 PR
スチーブンソン式弁装置が動く!(東武博物館)
スチーブンソン式弁装置が動く!動画編(東武博物館)の続き。 梅小路蒸気機関車館に、元日鉄鉱業の1080が保存されている。これの下回りをノーファインダーで撮った。 後部、動輪側。動輪の車軸に、赤い円盤が四つついている。上向きの棒が全身用の偏心輪+偏心棒、下向き(水平に見える)の棒が後進用だ。 前方。巨大なクリップみたいな部品が加減リンク。そこから前方(写真で言うと左下側)に向かって偏心棒が突き出している。 別角度。 弁心棒。これがピストン弁(蒸気をシリンダーに入れる向きと量を調節する弁)をスライドさせる。 スチーブンソン式弁装置は、国鉄制式機のようなワルシャート式と違い、なじみがない方も多かろう。こちらのサイトにリンクを介したものだがGIFアニメがある。また、英語版wikipediaにはそれを改変して90度回転させたGIFアニメがある。これを見ると、前進時にも後進用の一式を動かしているのはいかにもムダで、徐々に廃れていったのもなるほどと感じる。
スチーブンソン式弁装置が動く!(東武博物館)ではなぜ動画を撮らなかったのかと後悔したので、撮ってきた。
車輪の下にローラーがあり、それが回転することによって車輪を動かしている。動輪に連動してロッド、ピストンと動き、さらには弁装置まで動いている。ピストンが動いているのは、シュコンシュコンという空気が圧縮された後に抜ける、というような音でわかる。 こちらがスチーブンソン式弁装置のキモたる部分。加減リンクから左、ピストン弁を駆動する棒(バルブスピンドル)があるのだが、その位置を見ると中立になっていた。考えて見れば当たり前のことだった。
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2) ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編) ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話) ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編) ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室) の続き。 1992年10月13日、私のメモでは「新富士-三島間 ゲリラによるケーブル切断、5~6時間遅れ」とある。ちょっと検索してもこのことは出てこないのだが、これが事実として書く。 4年間のバイト中、なんどか大幅遅延を経験したが、この日乗務していた209A―242Aの体験はなかなか得がたいものだった。女性の同僚と二人で乗務していた。 下り209Aは70分遅れた。新大阪まで行くと242Aに間に合わないために京都駅で下車、そこで昼食をとったかどうか忘れたが、こういうときは確か550円まで領収証を切っていいことになっていたので、立ち食い蕎麦かなにかを食べてから242Aに乗った。クルーも同じ209A―242Aの乗務行路、メモにはないが、同じく京都で下車して折り返したはずだ。下り209Aでの食材その他はどうしたのか、それはもはやわからないが、カフェテリアの荷物置き場に置いて、あとは新大阪の基地の人に委ねたに違いない。そして242Aも、食材や飲料の積み込みだけしてもらって、京都から乗り込んで準備開始…となったはずだ。 この日、おそらく朝からの混乱の影響で、ベテランクルーが2組、乗務していた。ふだんは二人しかいないところ、ベテランが四人いる。そして「こだま」430Aに乗務予定だった男性の食堂長が、折り返しの列車がないということで同乗してきた。昼を挟む、混雑した242Aにとっては最高の布陣となった。 かなり混んでいる中、私はA車ワゴンを担当した。すごい勢いでものが売れる。名古屋までに弁当類がなくなると名古屋駅の業者に注文して弁当を入れてもらうのだが、それもすぐなくなった。列車は停止と発進を繰り返す。遅れは1時間、2時間、3時間…と拡大していく。カフェテリアには長蛇の列、こんなときにベテランクルーが倍、しかも食堂長まで乗っているのはバイトとしてもとても心強い。 やがて、カフェテリアの食材は、お新香や抹茶ババロアすらなくなってしまった。バックヤードの冷蔵庫にはビールが十数ケースあるのだが、それもすべてなくなった。ジュース、ウーロン茶、ワンカップ、あらゆるものがなくなった。もはや売るものはコーヒーしかない。 結局5時間35分遅れ、つまり乗務時間としては8時間20分近くなった。売り物がなくなったのはどのあたりまで来たときかうろ覚えだが、まだ到着まで2時間以上はあったと思う。売店にはクルーの中で一番若い人がコーヒー要員として立ち、ほかの4人とぼくらバイト二人は休憩室に入った。 この日のA車売上げは15万円を超えた。カフェテリアの売上金額は覚えていないが、見たこともない金額になっていたと思う。別の列車に乗っていたある女性のベテランバイトは売上げが20万円を超えたとメモにある。車販バイトの20万円というのは、私の知る限り、空前絶後である。 * * *
遅れた列車がすべてこのように売り上げることができるわけではない。私の乗った242Aは、混雑度、売り手側、食材や飲料、それらすべてがうまくまわった結果だ。こういう日は列車の混み具合もまったく予想がつかず、ガラガラに近い列車もあれば、通路までギッシリ立つ列車もある。どちらにしろ、売上げは少なくなる。 この日の乗務は大変だったが、本当に楽しかった。 <関連事項> ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2) ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編) ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)の続き。 当時のこだまは0系のY編成が主体だった。5号車にビュフェが入る編成だ。A車は1~5号車、B車が6~16号車を担当する。食堂長(男性)1名、キャッシャー(女性)1名、それにTCCのバイトが2名というのが所定だった。 こだまは、食堂車の班が二手に分かれて二列車に乗務する。本来は各人それぞれに職名があり、1班につき食堂長は1名しかいない。それぞれの職名を忘れたが、要するに本来の職名は別にして、チーフとレジ役となって乗務する。 バイトとしては、「ひかり」が実働6時間なのに対して「こだま」は実働8時間以上、一度に得られる額が多いためにこちらを好む人もいたが、総じて人気はなかった。こだまはそれほど混むわけでもないからか、東京営業所からはあまりうるさく「バイトを乗せろ!」とは言われなかった。バイトは一人しか乗務しないことも多かったし、バイトの人数が足りないときは、乗務させないこともあった。 * * *
さて、こだま。ビュフェがすべての基地となる。乗務すると、まずコーヒーを作るとともに、飲料を冷やすストッカー(水槽形の冷蔵庫)の電源を入れ、水と氷を入れ、飲料を冷やす。ビュフェのカウンターに販売物を並べ、ワゴンを仕立てて車内販売に行く。 ビュフェとはいうものの、私が乗り始めた1992年頃にはすでに、その場で調理して皿に盛って出すような料理はなかった気がする。カレーがあったかどうか。つまり「その場で弁当を食べたりコーヒーを立ち飲みしてもいい売店」でしかなかった気がする。とはいえ調理そのものができなかったわけではなく、食堂長(役)は包丁セットを持参していた。1992年頃は、まだサンドイッチとうなぎ弁当は車内調製をしていた。実際の調理はサンドイッチのキュウリを切る、挟んだパンを切る、くらいのものだったが、前掛けをキュッとしばって包丁を使う食堂長たちは、みな楽しそうに作業していた印象がある。機会があれば料理を作りたい、という雰囲気を皆が持っていた。 サンドイッチの具は、ハム、業務用玉子サラダ、レタス、トマト、キュウリなどである。これらを挟んで切ってパックして、調整日のスタンプを押してできあがり。地上で作っているサンドイッチよりも具のボリュームがあった。1993年ころからか、ハムが、一枚物のロースハムから、極薄切りを重ねたものになった。見るからにコストダウンだった。700円もするサンドイッチなのに。 うなぎごはんは、米はレンジでチン、うなぎはレトルトなので湯煎する。時間がない場合はうなぎもレンジで温めた。普通は片道で売れ残ったら廃棄するのだが、東京折り返し列車などではレンジでごはんごと温め直して再利用する人もいた。そうやって使い回された挙げ句に売れ残ったうなぎ弁当を賄いとしてもらって食べたことがあるが、二度もレンジで温めているためかうなぎは固くなり、食感が悪かった印象がある。 * * *
「こだま」はほぼ全駅で「ひかり」「のぞみ」を1~2本待避するので、各駅に3~6分ほども停まる。混んでるわけでもないので、暇な日など、よくホームに出てベンチに座って休憩した。いまのご時世では考えられないが、喫煙場所で一服してる仲間もいた。たまに駅のキヨスクでジュースや菓子を買ったりした。当時、各駅ごとにあった名物駅弁「新幹線グルメ」を買う人もいた。 1号車端または16号車端にワゴンを停めてホームに出ていると、通過列車を間近で見ることができる。はるか彼方にハイビームが見えると、一瞬で近づいてくる。まだ0系のひかりも多かった頃なので、4基のパンタが激しくスパークを飛ばしながらかっ飛んでくるさまはかっこよかった。 こうした、のんびりとした印象は、0系ならではだと思う。100系G編成では味わえない気がする。ましてや300系においてをや。 <関連事項> ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話) ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室) |
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