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『ある鉄道事故の構図』(坂上茂樹・原田鋼著/日本経済評論社)

鉄道の本

書名はこうだが、内容は「キハ04・キハ07は、いかにひどい設計だったか。それを引きずった国鉄ディーゼル一家的中華思想が刻み続けた罪」といったものだ。

国鉄のディーゼル機関の劣等ぶりはディーゼル機関車・気動車を機械的な方面から好きな人たちには知られてはいる。しかし、いまでも、主としてイメージでしかものごとをとらえない人々がDMH17を「名エンジン」と書き連ね、鉄道趣味誌はそれを搭載した車両を「名車両」として持ち上げる。車両に対するノスタルジックな感情と、その性能の評価は分けて考えねばならない。人の性格のよさと仕事のできる/できないを分けて考えなければいけないように。



内容は極めてシンプル。鉄道車両としての鉄道省ガソリン動車、とりわけキハ41000、キハ42000がいかにダメなものだったかを、その機械、機構、運転面から検証していく。そして、死者192名を出した1940年1月29日の西成線(現・桜島線)安治川口駅での脱線転覆炎上事故に至るまでを説いていく。

この西成線の事故は、戦後の三大事故(桜木町・三河島・鶴見)に比べて語られることが少ない。単にキハ07が転轍機操作のミスで転倒して炎上した、くらいの知識しかない人が大半であろう。しかし、転覆した時点では、停止寸前だった…と聞いたら「低速度でゴロリと横転したとしたら、それくらいで炎上するのか?」とも思うだろう。本書は、それを丁寧に検証する。

要は、暴れた推進軸が、その横にあった燃料タンクを直撃して厚さ3mmの鋼鈑に穴を開け、そこからガソリンが流出した…というものである。それは当時の調査でも明らかになっているのだが、なぜか「定員の3倍」すなわち15~20トンほどの荷重増の状態だったにもかかわらず、枕バネが無荷重の状態で検証されてたりということも明らかになる。

これを、燃料タンクの位置がそこにあるから悪い……すなわちフェールセーフになっていない、という指摘をする。それでも車両としてシリーズで100両以上にもなってしまったことに、国鉄の硬直した組織、思考が現れていると見る。事故は、そうしたことの積み重ねで起きるべくして起きた…と見る。



なにしろキハ07は試運転の段階で自在継ぎ手切断による推進軸破損(車内への飛び込み)ということを起こしているのである。『キハ07ものがたり(上)』(岡田誠一著/RMライブラリー)によれば、それに対して、島秀雄は「設計に間違いはない、精度が悪いからだ」といって北畠顕正(国鉄ディーゼル車史をいまあるようにしてしまった一人)の望んだ設計変更を認めず、やむなく自在継ぎ手が破損しても推進軸が地面に垂れ下がらないような枠をこっそり「振れ止め」なる名称で取り付けたほどである。「振れ止め」は後述の動画の左端の枠がそれだと思う。

こうした国鉄の硬直した思考を、最終章では陸軍統制発動機の設計・運用思想等との比較を元に、徹底的に批判する。なにしろ見出しが「歴史の歪曲を許してはならない」である。『鉄道技術発達史IV』における機械式気動車の重連運転についての記述「非常に好評を博した」という記述を唾棄すべきものと断罪している。「尊大かつ醜悪な国鉄ディーゼル一家的中華思想には…吐き気を催す」とまで書いている。そして、私はそれに首肯する。JR九州元社長・石井幸孝氏も、当初はこのあたりはおそらく自身も思うところがあったのかお茶を濁していたのだが、最近は国鉄マンセーになってしまった。残念である。

国鉄型の気動車が持つノスタルジックな魅力はわかる。しかし、その床下には、こうした黒歴史が塗り込められていることを、鉄道ファンは知っておくべきだと思う。



最後に。
片上鉄道保存会による貴重なキハ41000の同型車、キハ312の推進軸。製造時はGMF13+機械式だったが、現在はDMF13+液体式である。画面左の四角い枠がおそらく「振れ止め」。右が動台車。クラッチを切ってあると思うのだが、推進軸はごくわずかに回転している。




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木谷原橋 ハーコート製ボーストリングトラス

木谷原橋 ハーコート製ボーストリングトラス

橋梁(ハーコート)

なんとも遠くに見える、小さな橋。あそこまで沢を降りてからでないと対岸に渡れないのか。

いや、それはいま、平瀬ダムのために国道434号がかなり高い位置に付け替えられ、そこから降りてこなくてはならないことからの印象だ。本来は、いま写真を撮っているほぼこの高さを国道434号が走っていたのだ。この橋は、錦川右岸(南側)の国道と、左岸(北側)の県道361号錦鹿野線を結ぶルートにあった。

写真は東側から。コンクリート桁橋2連の向こうに、ポニーボーストリングトラス。

こうしてみると、ボーストリングトラスは圧迫感がない、すぐれた形状に思えてくる。

トラス部の手すりは、うまく部材をかいくぐるかのように、幅員を狭めない位置に取り付けてある。

このように避けている。

このボーストリングトラスはピントラスだ。だから、下弦材はアイバー。しかし、場所の都合で、アイバーの側面は近寄って写真を撮れない。

垂直材を持つタイプのワーレントラスだが、「\|/」という形状になる垂直材と上弦の接合部はピンではない。突き当ててのボルトの結合だ。非常に頼りない結合に見えるが、そもそも上弦からの圧縮力を鉛直方向に伝えるためのものなので、剛結していなくてもいいくらいなのかもしれない。

対岸、西側。こう見ると、やはり形状からくる視距の長さが目立つ。

一部の部材は腐蝕で穴が開いている。これはまずかろう。

一部の部材には、鋼材の製造所と思われる「(F.)A.H.A.V.(F)」とある。A.H.A.V.とはAachener Hütten-Aktien-Vereinの略だが、詳細はよく解読できない。下記にドイツ語版wikipediaの記事へのリンクを貼る。

http://de.wikipedia.org/wiki/Rothe_Erde


歴史的鋼橋集覧によると、この橋は、平瀬ダムの湖底に沈むという。すでに、かつての国道434号鳥越隧道は通行止めとされている。急げ。

現地の東にある「ダム軸」。先に示した平瀬ダムの完成予想図を見ても、ここに堤体が築かれるのだろう。



出合橋

出合橋

プラットトラス


国道2号は岩国市から錦川沿いに遡る。それまでの幹線道路の雰囲気から大きく変わり、センター黄色ラインの、川端を淡々と走る2車線の道となる。これが国道2号かと思うほど、行き交うクルマもほとんどない。まもなく川沿いの道は国道187号として分かれ、そのまま川・鉄道とともに遡る。これだけ豊かな水量の川だが、沿道にはまとまった集落は見えない。

かつての行政区域でいう錦町の中心部に至ると、新出合橋という橋で国道434号が西から合流し、重複区間となる。そのすぐ上流に、この古いプラットトラスが架かっている。


直線的な、意匠のカケラもないプラットトラス。

銘板があるが、この錆びよう。

大正十四年
株式会社横河橋梁製作所
大阪工場製作


親柱。東側左は「出合橋」、右は「錦川」。ガードレールの黄色は山口県の証拠。

6パネル、より大きな引張力のかかる端部の斜材は、その隣りよりも太い。

中央2パネルは斜材がクロスしているが、逆ハの字の部材が貫通していて、ハの字の部材は交差部で切り欠いている。すべてプラットトラスのセオリー通り。

西側。なんと、国道187号の標識がある。ここは国道187号からははみ出す部分であり、どういうことなのだろう? 歴史的鋼橋集覧では「県道鹿野本郷線の出合橋として架橋、新出合橋の完成後も町道の橋として残る」とあるのだが、「県道鹿野本郷線」がいまのどの県道に当たるのかちょっとたどれず、わからない。

(2013年6月18日追記)
「鹿野本郷線は、鹿野ー長野山ー広瀬ー出合ー府谷ー本郷か。今の錦ー鹿野線と本郷ー吾味線。県道131号と361号」(要約)と@trz_xxさんからご教示いただきました。(追記ここまで)

こちらにも銘板がある。内容は同じ。

西側の親柱の銘板、左側は「昭和二十九年一月」、右側は「であいはし」。

トラス桁の完成が大正14年だが、この橋の開通は昭和29年? トラス桁は転用かとも考えられるが、先の歴史的鋼橋集覧にも開通年は「1925(1954)」となっている。調査が及んでいないのだろう。錦川町史でも見れば書いてありそうなものだが。

周囲は多少のレジャーポイント的な印象があった。橋の東詰にはこのような店があったし、周辺の雰囲気が、そんな気がした。

錦町の市街はここから西へ1kmほどだ。




根笠橋 トラスをトラスで補強した橋

根笠橋 トラスをトラスで補強した橋

ワーレントラス

根笠川にかかるポニーワーレンの上流に架かる橋だ。その形を見れば、だれもが珍妙と思うだろう。

トラス橋の上に、もうひとつトラスが載っている。見れば2径間で、側径間はガーダーである。

ガーダー橋の部分、向かって左は床版を広げられている。当初からこうだったのか、後年の改良かはわからない。親柱は右側だけにあり、「根笠橋」と書いてある。

ポニーワーレントラスを補強してワーレントラスに改造したもの、という捉え方でいいだろうか。補強してランガーにした例は、関西本線木津川橋梁などがあるが、こういう形のものは初めて見る。

重さ制限2t。極めて小さい。4ナンバーでも無理なものがある。

補強部分のデティールを見る。元のポニーワーレントラスの部材と、上のトラスの部材は明らかに異なる。前者はリベット留め、後者は溶接+ボルト留めだ。また、後者は格点にガセットを溶接し、補強している。

元のポニーワーレントラスよりも、補強のトラスのほうが頑丈そうだ。

ワーレントラスを横から見て「ハ」の字に相当する部分の斜材は圧縮力がかかるので、通常は「逆ハ」の字に相当する部分よりも見るからに頑丈になるのだが、根笠橋ではこのようにC型チャンネルを隙間を空けて背面同士で向かい合わせ、その側面を帯材でつないでいる。一方、「逆ハ」の字の斜材は同じ(に見える)チャンネルを背面同士で溶接している。見た目の印象では後者の方が強そうだ。もしそうなら本来の力の掛かり方と逆なのだが、まさかそんなこともなかろう。

対岸。親柱は、やはり右側だけ。


なんと読むのだろう? 「笠屋○はし」?

近くには「岩日線 みんなで乗って存続を」という立て看板がある。かれこれ放置して20年以上か。

上流側。

床版。こちらはオーソドックスな作り。

しかし、橋台側は驚いた。沓はなく、直接コンクリートから生えている。



この橋の奇妙さは、ぜひ実見していただきたい。



根笠川にかかるポニーワーレン

根笠川にかかるポニーワーレン

ポニーワーレントラス


根笠橋を見に行こうとしたら、それがある集落への入口にこのポニーワーレンがあった。錦川鉄道の根笠駅から600mくらいのところだ。橋梁名はわからない。

ガードレールが黄色いのは山口県の証。「5k」とあるのは…時速5km制限、だろうか?

左には、町道の標識がある。「町道長走線 最少幅員2.5M 美川町」。合併によりいまは岩国市になった。

H型鋼を使用しており、上弦材の裏面は楕円で肉抜きしてある。リベット結合ではあるが、橋はそれほど古いものでもなさそうだ。

横桁は太い。また、垂直材の下端はアーチ状に切り欠いてある。

反対側。好もしいたたずまい。


根笠川はこのすぐ先で錦川に合流する。錦川の対岸(左岸)には、いま国道187号が通っているが、かつては右岸のこの橋が、そのルートだったのだろうか。

錦川鉄道沿線は、風景もほんとうにいいのだが、降りて、線路に沿って歩くとさらにいい気持ちになれるだろう。鉄道旅行ではなくなってしまうが。



コインパーキング隣接建屋の「屋根」に三本の線

コインパーキング隣接建屋の「屋根」に三本の線

ENEOS/日本石油

住吉橋を見るためにコインパーキングに車を入れたら、そこが給油所跡だった。

これを撮った位置で左を向くと、住吉橋がある。

L字型の敷地で、区画の角に面した位置にキャノピー、その奥に一段引っ込んでサービスルームがある。残念ながらかつてをしのぶよすがはほとんどない。ブランドロゴも注油口もない。

現役の「店舗」であるためか清潔であり、ピットにもそこを駐車スペースとしてクルマが入っている。

裏には月極駐車場。見事にいろいろ一体となっている。そしてサービスルームの「後ろ頭」が見える。

おや? 屋根の三本線は日石カルテックスだったということ?

十数年前の道路地図でもこの位置には給油所のマークはないので、それより以前に閉店したのだろう。

もうこれ以上ホコリがつかないほどに汚れた空気圧計。4kg/cm2の方角だけきれいなのは最初からだ。本当は全部ホコリを払って写真を撮りたかったのだが、それはためらわれた。





住吉橋(広島市)

住吉橋(広島市)

ランガー橋

住吉橋は、広島市内の本川(太田川が最下流でいくつも枝分かれしたうちのひとつ)に架かる、カンチレバーローゼ桁橋だ。ローゼ桁部分が橋脚の左右に張り出し、そこにプレートガーダーが載っている。すぐ北を国道2号の「新住吉橋」が架かっている。写真は北側・西詰から。

ローゼ桁部分をアップするとこう。橋脚から少し張り出した部分があるのがわかろう。

西詰の親柱。左は「すみよしはし」、右は「住吉橋」。どちらも橋梁名だ。親柱は石積で、なかなかの風格がある。床版の南側を歩道としている。

ランガー桁には銘板がある。

昭和28年(1953)
広島県建造
内示(昭和14年)一等橋
製作 株式会社横河橋梁製作所

歩道から、カンチレバー橋ゆえの継ぎ目を見ようとするが、無理。写真上がランガー部分で、部材(アーチ部)の幅が広い。写真下がプレートガーダー。

北側の東詰から、全体と、プレートガーダー部。

東詰は、向かって左にしか親柱がない。道路の線形改良のために撤去されたのだろうか。左はやはり「すみよしはし」。

こちら東詰の北側に、橋の名の元になった住吉神社がある。


そして、「住吉橋記念燈」という燈籠がある。初代の木造橋を記念した燈籠で、そのいわれは写真をお読みいただきたい。

東詰の南側には「碑」と題された碑がある。

住吉橋架橋対策
委員長
故折重将一氏の遺品
は橋台の中央地下
四米のところに
とこしえに眠って
此の橋を護る

住吉橋は、おそらく原爆で木橋が焼け落ち、その後、1951年に鉄筋コンクリート桁橋として架けられたがまもなく流失、そして1954年に現在の形で開通した。日本で初めて竣工した鋼製ランガー桁、とのことだ。

非常に平衡感覚が試される撮り方(左に傾いてしまっている)。

美しい橋だ。

歴史的鋼橋集覧はこちら。
土木学会誌昭和29年12月号の該当記事はこちら(PDF)


安浦の軍艦防波堤 コンクリート船

安浦の軍艦防波堤 コンクリート船

船・舟

第一武智丸、第二武智丸という。よく見ると、船の形をしている。

wikipediaの項目および検索すれば詳細を記したサイトがたくさんあるので、詳細はそちらに譲る。

船体は防波堤なのだが、(おそらく)釣り人用に通路が造られ、安全に歩ける。

2隻はこれくらいの位置にある。見ればわかるとおり、鋼材を骨に、船体をコンクリートで造っている。

船首は鋼鈑で固めてある。律儀に、それに続く堤防はそこを切り欠いてある。


船首を内部から見ると、鋼鈑の裏をコンクリートで打ってある。二つの穴は、錨のためのもの。甲板から管でつながれていたようだが、意図的に削られたか、欠けてしまっている。

甲板、船首から船尾を見る。

船体内部はコンクリートの骨組みがあるのだが…

一部の梁は木材だったようだ。これと並行する部分も同じだろう。


船上に立つと、このコンクリートの塊が本当に浮いていたのか…と不思議な感覚と、これが戦争の落とし子なのか…という思いにとらわれる。もしこれが鋼製だったり、あるいは戦争と関係なければ、感慨もまた違うはずだ。また行きたい。


タツノ式ガソリン計量機

タツノ式ガソリン計量機

大協石油・丸善石油・キグナス・ガソリンスタンド全般

移動式のガソリン計量器。鉄道模型の情景パーツとしても、昔からある。

モデルワム
モデルスIMON(乗工社の引き継ぎ?)
いさみや
津川洋行

これが、広島県の県道沿いに置いてあった。バックはあまりにも建物や駐車場のクルマが写り込んだので、他人の家を盗撮しているような印象になるので大雑把に消した。



これは、きちんとここに保管してあるものだろう。石油会社名は読めなかった。


タツノ式ガソリン計量機の製造銘板。型式は書いていない。「タツノ式ガソリン地下安全貯蔵装置」とあり、「貯蔵容量600/計量20」とあるのは、タンク容量が600Lということか。「計量20」とはなんだろう?製造年月は昭和38年9月。銘板は錆のせいか、手前側に膨れている。

この部分が「計量」なのだろうか。いったん20リットルまで組み上げて、そこから給油する…ということだろうか。このホヤおよび中がきれいだったので、これは保存されているのだなと感じた。

ホースとの接続部。チリ漉しだろうか。ホースは残念ながら途中で断裂している。うっかりノズルの写真を撮らなかったのだが、重力を利用して、この高さからクルマやバイクに給油していたのだろうか。

この大きなハンドルで、タンクから上にガソリンを上げたのだろう。

その根元。FOR FILLING 吸入←→FOR LIFTING 揚油

これはタンクへの給油口と思う。根元にはこう書いてある。

HOSE CONNECTING OPERATING FOR FILLING GASOLINE INTO THE YANK
接続口 吸入ホース

脚。方々は固定、片側はフリー。

いまも現役のものは…ないかな、さすがに。



垪和簡易郵便局(はが)

垪和簡易郵便局(はが)

郵便局舎

@0916taiさんが昔の写真、としてアップしておられたのが、この垪和郵便局だった。とても美しい建物、現存するかわからないけれど、とにかく行ってみたら、あった。美しいままに。いまも使われているのがわかる。


「垪和(はが)」という地域についてはwikipediaに詳細がある。




郵政書体を真似て、手づくりで木で文字を作ったのだろうか。経年で脱落している部分もあるが、そこもあわせて紺色になっている。その手作業感がとてもいい。また、この角度では、玄関天井の通風用の開口部も、いかにも公共建築らしい。

両袖の部屋は使っていないようだが、かつてはここを住居とした人がいたのだろうか。とても美しいままに、そこにあった。朝日が差し込んでいた。

正面に向かって左手は「火気厳禁」とあるので燃料でも置いてあったのだろうか。いまなら差し詰めゴミ置き場のように見えてしまうが…。

左右からのシチサン的に。

集落に一つ、郵便局があった時代。それはもうノスタルジーの世界だ。




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