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角館から横手に向かうバリエーションルートと思って、東側の道を走っていたら、すてきな出光があった。しかし、軽量器には「閉店」という札が下げられていた。防火壁も低い、青空給油所。買い取って、自分のバイクとクルマの車庫兼整備場兼倉庫にしたい。

サービスルーム建屋の前面は直線で揃っているのに、ピット部分はその前面だけお義理で直線に付き合い、その奥は屋根がアーチ状になっている。これもまた好もしい。

このルートは走るクルマも少ないので、おかしな落書きなどされる可能性も少ないだろう。さて、いつまでこの姿でいてくれるだろうか。




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実家は1981年に建て替えた。元の家は昭和一桁の築で、私の家族、大叔母とその息子、別の大叔母(独身)の3世帯同居、家の中に階段が三つ、台所が三つ、トイレが二つ、風呂がひとつあった。当たり前だが、全部和室だった。

廊下との仕切りは全てガラスの入った障子戸か襖だった。そのガラスは、戸によって違っていた。割れたら取り替えるからである。

ガラスは近所の人…たぶんガラス屋さんというわけではない、建具屋さん? 内装屋さん? とにかくその人に来てもらって、あり合わせのガラスを入れてもらった。戸のガラス押さえは木枠であり、金色の鍋頭の細くて小さいメクギを抜いてガラスを入れ替えていた。

…いまのいままで「メクギ」は「女釘」だと思っていたが、変換したら「目釘」と出た。それでは刀の用語になってしまう。果たして?


さて、ガラスが戸によって違っていたという話である。いま地方で空き家を見かけると、ガラスを見る。懐かしい、見覚えのあるガラスがはまっていることがあるのだ。新潟市内で採集したいくつかのガラスを紹介する。

多数の立方体に見えるこれは、こちらのサイトでは「キララ」となっている。

これは「銀河」というようだ。八方位みたいな模様の間を細かな砂利模様がびっしりと埋め尽くしている。

これはなんだろう? 子供の頃は「鵜の足」という貝を連想させるものだと思っていた。


いまの家はすべてアルミサッシであり、ガラスも破損時に飛散しないように線入りになってしまった。そしてとても頑丈になった。古いガラスは少しぶつかるだけでよく割れたものだ。





ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
の続き。

1992年10月13日、私のメモでは「新富士-三島間 ゲリラによるケーブル切断、5~6時間遅れ」とある。ちょっと検索してもこのことは出てこないのだが、これが事実として書く。

4年間のバイト中、なんどか大幅遅延を経験したが、この日乗務していた209A―242Aの体験はなかなか得がたいものだった。女性の同僚と二人で乗務していた。

下り209Aは70分遅れた。新大阪まで行くと242Aに間に合わないために京都駅で下車、そこで昼食をとったかどうか忘れたが、こういうときは確か550円まで領収証を切っていいことになっていたので、立ち食い蕎麦かなにかを食べてから242Aに乗った。クルーも同じ209A―242Aの乗務行路、メモにはないが、同じく京都で下車して折り返したはずだ。下り209Aでの食材その他はどうしたのか、それはもはやわからないが、カフェテリアの荷物置き場に置いて、あとは新大阪の基地の人に委ねたに違いない。そして242Aも、食材や飲料の積み込みだけしてもらって、京都から乗り込んで準備開始…となったはずだ。

この日、おそらく朝からの混乱の影響で、ベテランクルーが2組、乗務していた。ふだんは二人しかいないところ、ベテランが四人いる。そして「こだま」430Aに乗務予定だった男性の食堂長が、折り返しの列車がないということで同乗してきた。昼を挟む、混雑した242Aにとっては最高の布陣となった。

かなり混んでいる中、私はA車ワゴンを担当した。すごい勢いでものが売れる。名古屋までに弁当類がなくなると名古屋駅の業者に注文して弁当を入れてもらうのだが、それもすぐなくなった。列車は停止と発進を繰り返す。遅れは1時間、2時間、3時間…と拡大していく。カフェテリアには長蛇の列、こんなときにベテランクルーが倍、しかも食堂長まで乗っているのはバイトとしてもとても心強い。

やがて、カフェテリアの食材は、お新香や抹茶ババロアすらなくなってしまった。バックヤードの冷蔵庫にはビールが十数ケースあるのだが、それもすべてなくなった。ジュース、ウーロン茶、ワンカップ、あらゆるものがなくなった。もはや売るものはコーヒーしかない。

結局5時間35分遅れ、つまり乗務時間としては8時間20分近くなった。売り物がなくなったのはどのあたりまで来たときかうろ覚えだが、まだ到着まで2時間以上はあったと思う。売店にはクルーの中で一番若い人がコーヒー要員として立ち、ほかの4人とぼくらバイト二人は休憩室に入った。

この日のA車売上げは15万円を超えた。カフェテリアの売上金額は覚えていないが、見たこともない金額になっていたと思う。別の列車に乗っていたある女性のベテランバイトは売上げが20万円を超えたとメモにある。車販バイトの20万円というのは、私の知る限り、空前絶後である。
* * *

遅れた列車がすべてこのように売り上げることができるわけではない。私の乗った242Aは、混雑度、売り手側、食材や飲料、それらすべてがうまくまわった結果だ。こういう日は列車の混み具合もまったく予想がつかず、ガラガラに近い列車もあれば、通路までギッシリ立つ列車もある。どちらにしろ、売上げは少なくなる。

この日の乗務は大変だったが、本当に楽しかった。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)


『鉄道を科学する 日々の運行を静かに支える技術』
『鉄道をつくる人たち』の川辺さんが道路の取材をされていることはうかがっていたが、ようやく刊行された。それが本書だ。

ブルーバックスらしく、そしてイラストレーターでもある川辺さんらしく図版が多用された本書は、首都高のルートが地中にもぐり、駆け上がり、天空を走り、上下に分かれ、別のルートと複雑に接続し…という線形の妙や高架橋の立体的な構造がとてもわかりやすく描かれている。


私などは、ついこういうのは鳥瞰図で考えてしまうのだが、これはイラストならではの見やすさだ。

本書の目次はブルーバックスのサイトにあるが、

第1章 首都高速の原点=都心環状線
第2章 首都高速ネットワーク
第3章 建設技術の発展=羽田・横羽線と湾岸線
第4章 交通管制システム
第5章 新しい首都高速=中央環状線
第6章 山手トンネルの技術
第7章 ジャンクションと立体構造
第8章 首都高速の維持管理と未来

という仕立てで、首都高速道路の建設史の間に首都高にまつわる関連事項が挿入されている。建設史は、そのルートの建設に当たって編み出された考え方、工法などが丁寧に図版とともに解説されている。相当な取材量だったようで、さらりと、でもしっかりと書いてある。

個人的には、いま東京メトロ…というか営団地下鉄の建設史を追っかけているので、それと同じようなことが書かれていることに興味を覚えた。例えば151ページ、中央環状線が都営三田線の上を通っているところはラケット型橋脚の上と中を首都高が走っているが、その足下は地中で二手に分かれ、真下にある三田線の構造物に負荷をかけないようになっているということや、並行する2本のシールドトンネルをくっつけてしまう開削切開き工法のことなどだ。このあたり、営団の各路線の建設概要と比べてみると、時代性がわかって面白いかもしれない。


新書なので紙数に限りがあるし脱線しすぎてもいけないのは重々承知だが、「アーチ橋」「シールド工法」「ディビダーク工法」などの言葉が、他の形式・工法と比べてどうなのか、それぞれの長短はどれなのか、ということがわかればなおよかったと思う。「なぜ首都高でそれが採用されたのか」(は書いてある)だけでなく、土木全般の基本がわかるからだ。いや、これは求めすぎか。

首都高や高速道路に関する本はいくつか出ているが、ムックよりも、むしろ本書のほうがわかりやすいかもしれない。一般道路にも応用できる知識も多数散りばめてあるので、道路ファンはぜひ読んで欲しい。



ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)の続き。


当時のこだまは0系のY編成が主体だった。5号車にビュフェが入る編成だ。A車は1~5号車、B車が6~16号車を担当する。食堂長(男性)1名、キャッシャー(女性)1名、それにTCCのバイトが2名というのが所定だった。

こだまは、食堂車の班が二手に分かれて二列車に乗務する。本来は各人それぞれに職名があり、1班につき食堂長は1名しかいない。それぞれの職名を忘れたが、要するに本来の職名は別にして、チーフとレジ役となって乗務する。

バイトとしては、「ひかり」が実働6時間なのに対して「こだま」は実働8時間以上、一度に得られる額が多いためにこちらを好む人もいたが、総じて人気はなかった。こだまはそれほど混むわけでもないからか、東京営業所からはあまりうるさく「バイトを乗せろ!」とは言われなかった。バイトは一人しか乗務しないことも多かったし、バイトの人数が足りないときは、乗務させないこともあった。
* * *

さて、こだま。ビュフェがすべての基地となる。乗務すると、まずコーヒーを作るとともに、飲料を冷やすストッカー(水槽形の冷蔵庫)の電源を入れ、水と氷を入れ、飲料を冷やす。ビュフェのカウンターに販売物を並べ、ワゴンを仕立てて車内販売に行く。

ビュフェとはいうものの、私が乗り始めた1992年頃にはすでに、その場で調理して皿に盛って出すような料理はなかった気がする。カレーがあったかどうか。つまり「その場で弁当を食べたりコーヒーを立ち飲みしてもいい売店」でしかなかった気がする。とはいえ調理そのものができなかったわけではなく、食堂長(役)は包丁セットを持参していた。1992年頃は、まだサンドイッチとうなぎ弁当は車内調製をしていた。実際の調理はサンドイッチのキュウリを切る、挟んだパンを切る、くらいのものだったが、前掛けをキュッとしばって包丁を使う食堂長たちは、みな楽しそうに作業していた印象がある。機会があれば料理を作りたい、という雰囲気を皆が持っていた。

サンドイッチの具は、ハム、業務用玉子サラダ、レタス、トマト、キュウリなどである。これらを挟んで切ってパックして、調整日のスタンプを押してできあがり。地上で作っているサンドイッチよりも具のボリュームがあった。1993年ころからか、ハムが、一枚物のロースハムから、極薄切りを重ねたものになった。見るからにコストダウンだった。700円もするサンドイッチなのに。

うなぎごはんは、米はレンジでチン、うなぎはレトルトなので湯煎する。時間がない場合はうなぎもレンジで温めた。普通は片道で売れ残ったら廃棄するのだが、東京折り返し列車などではレンジでごはんごと温め直して再利用する人もいた。そうやって使い回された挙げ句に売れ残ったうなぎ弁当を賄いとしてもらって食べたことがあるが、二度もレンジで温めているためかうなぎは固くなり、食感が悪かった印象がある。

* * *

「こだま」はほぼ全駅で「ひかり」「のぞみ」を1~2本待避するので、各駅に3~6分ほども停まる。混んでるわけでもないので、暇な日など、よくホームに出てベンチに座って休憩した。いまのご時世では考えられないが、喫煙場所で一服してる仲間もいた。たまに駅のキヨスクでジュースや菓子を買ったりした。当時、各駅ごとにあった名物駅弁「新幹線グルメ」を買う人もいた。

1号車端または16号車端にワゴンを停めてホームに出ていると、通過列車を間近で見ることができる。はるか彼方にハイビームが見えると、一瞬で近づいてくる。まだ0系のひかりも多かった頃なので、4基のパンタが激しくスパークを飛ばしながらかっ飛んでくるさまはかっこよかった。

こうした、のんびりとした印象は、0系ならではだと思う。100系G編成では味わえない気がする。ましてや300系においてをや。

<関連事項>
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)


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