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九四オレンジフェリー

学校の建物

 
 
延岡に泊まったので、九州から四国に渡るのに佐伯~宿毛航路があれば最適だったのだけれど、ないものはない。佐賀関10時発のフェリーを目指して一路北へ。ところが、現地に着いて港の駐車場に入ろうとしたら、駐車場の交通整理の人が「予約ある?」。聞けば、予約がなければ次は13時」とのこと。さすがにあまりに時間の無駄なので臼杵~八幡浜航路を調べ、電話をすると、11時35分発の予約がとれるという。一安心して来た道を戻る。今回、こんなのばっかり。そして着いた臼杵港が上の写真。

 
地獄に仏的な。1時間以上前に着く。まだ窓口開いてない。もちろんフェリーも着いていない。

 
隣には宇和島運輸フェリーの窓口。こちらはさらに1時間後の出港なので閉まっている。こちらの予約番号を持っている人が間違って九四の窓口に並んでいた。

 
待合室内に弁当屋がある。ちょうど昼にかかる時間帯でもあるし、ただでさえ10時には九州を出る予定が11時半になっているので下船後に食事をしていると時間が相当にキツイのと、おいしそうだったので注文。

 
おれんじ四国が到着。

 

ここにバイクを置いて待機していたのだけれど、ここでえらい目にあった。この可動橋の塗装を剥離する作業が、潜水服を着た人たちで行われていたのだけれど、サンダーで剥離した塗装の粉が風に乗ってバイクや荷物に付着していた。そのまま乗ったらこすれて傷だらけになってしまう。



このとおり。剥離作業をしていたのは専門業者なので、昼休みとして陸に上がってきた作業員に声を掛けた。「エアあったら吹き飛ばしてほしい」。幸い、業者はコンプレッサーを積んでいたので、それでしばらく吹いてもらう。ジャケットの内側に貼り付いたものもおおよそとれた。よかった。

 
 
乗船。さすがにきちんと固縛された。

 
排ガスの匂いが気持ちいい。ずっとここにいたかったけれど、風もあるので弁当を食べづらい。船内に戻って食事。

 
八幡浜港。このまま宿毛まで行く。




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平戸島の土は赤い

地理・地質

 
平戸島の土は、かなり赤みがかってきた。しかも、雨で流出しやすいようで、このように歩道や道路にざざっと流れていた。

 
こんなに砂が流れている。山間部のタイトな道のそこかしこに浮き砂があるのにはまいった。ゆっくりめに入っていっても一度ならずフロントが流れた。

 
この場所の「上」は畑だった。流れやすいサラサラなのかな。


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国道383号+長崎県道19号の境目と「本土から橋で行ける日本最西端の地」宮ノ浦漁港

道路全般

 
平戸島の南西端にある。起点はここ志々岐だから「県道から国道に切り替わる」のだけれど、旅行者はすべて北から入ってくるので、すべての旅行者の実感としては「ここで国道が終わり、県道に切り替わる」のだ。

 
起点ではあるけれど、対向車線にある「おにぎり」には「ここまで」とある。

 
そのまま県道を詰めると平戸島西端の宮ノ浦漁港に至る。先日、日本本土最西端・神崎鼻を書いたが、ここは「本土から橋で行ける日本最西端の地」だ。いろいろな「最西端」があるものだ。
 
ユーラシア最南端に行ったことがある。マレーシアの「タンジュン・ピアイ」だ。原付をレンタルして3人で行った。誰もカメラなど持っておらず、写真を1枚も撮っていない。なんということだ。1999年の話だ。


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日本本土最西端・神崎鼻

旅の思い出


自力で行ける日本の東西南北端…納沙布岬、宗谷岬、波照間島、与那国島西崎は1995年にすべてバイクで到達した。それ以外も、いろいろな「○○端」がある。本州最北・東・南端は行ったけれど、本州最西端・毘沙ノ鼻は、たぶん行ったことがない。何度かすぐ横を通過してはいる。


平戸島を後にして、東松浦半島を海沿いに走っていたら、「本土最西端」とあったので寄ってみた。とてもいい場所だった。


ここに着いたのは17時15分くらい。西日本、それも最西端の日の入りは遅い。夏の九州ツーリングは初めてだったのだけれど、驚いたのは、とにかく日の長さだった。いままで九州ツーリングはGWにしか来たことがなかった。

神崎鼻には誰もいない。盛夏の太陽が照りつけるけれど、海風も吹いている。波の音しか聞こえない。


ガーミンDakota20で緯度経度を見る。北緯33度13.052分、東経129度33.163分。


ここ、なにがいいかって、タイドプールなんだ。取り残された「池」の中には、魚も蟹も貝もいる。「池」の海水はゆだるような熱さで、大丈夫なのかと思うほど。ここでキャンプは禁止だろうけれど、ここで一晩過ごしたいと強く思った。でも今回はテントないしな。


いろんな生物が生き、死んでいる。


採って食おうとは思わないけれど、原始時代ならここは常に食糧が供給される場所なのかも。

すいぶんと長くいた気がしたけれど、20分くらいの滞在だった。翌日の行程を考えて、やむなくこのあとは高速で佐賀市街に移動した。旅先で高速に乗るのはなんだかもったいないけれど、でも、別の考え方をすれば、それでは永遠に旅先の高速の風情を味わうことはできない。ありがたく時間の恩恵を受けた。それでも、ここから2時間半ほどはかかってしまい、佐賀市街についたときにはとっぷり日が沈んでいた。



 
冒頭に述べた与那国島の西崎(いりざき)。日本の最西端。正確には北西沖数百メートルの岩礁が最西端とされているが、岩礁だし。自由に行き来できるのは東西南北端のうち、ここだけ。1995年12月。いまは那覇~石垣の航路がないのでバイクとともに渡ることはできない。











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50高中

道路全般

 
広島県の山間部の県道を走っていたら、路面に「50」の文字と、その下に消された「高」、さらに薄くなった「中」。頭合わせで対向車線にもある。

 
それなりに見かける「40高中」に比べてなかなか見かけない「50高中」。中速車の最高速度は50km/hだから「50高」でいいのでは…。





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フェリーなんきゅう/山川~根占フェリー

船・舟

 
もう3カ月も前になってしまったが、夏休みツーリングの目的は、この山川~根占航路に乗ることだった。なんとなく、むつ湾フェリー フェリーかもしかと対になる気がする。こういう航路は、ここまで来ていてもタイミングが合わないと乗ることはない。そのタイミングが偶然合うのは難しい。なので、これを目的とした。

といっても泊まったのは出水。ここから海岸沿いに薩摩半島を反時計回りに回って山川港に昼前に至るのは、けっこうたいへん。あまり寄り道もできない。しかし、これが目的で、ここまで2000km以上走ってきたのだ。

 
それでも、山川港ではちょっと時間があったので買い食いやら買い物やらできた。

 
 
フェリーとは浮桟橋を介して岸壁と連絡するが、浮桟橋と岸壁とを結ぶ橋(なんというのだろう)の構えは手前からの片持ち式。

 
フェリーなんきゅうは鹿児島湾を横断し、50分で根占港に着く。バイクは先頭に収まった。ちゃんと固縛してくれている。

 
フェリーなんきゅう。総トン数145T。

 
 
根占港。桟橋は山川港と同じ形態。

 
 
事務所は山川港と似ているが、2階部分が奥まっている(小さい)。


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三和フェリー 第二天長丸/烏帽子坑

船・舟


予定していた便に乗れなかったため、島鉄フェリー フェリーあまくさⅡで天草下島の鬼池港に着いたのは、ちょっと遅かった。せっかくの天草だが、急いで抜けないと島に取り残されてしまう。今回のツーリングはテントを持って来ていない。島内で飛び込みで泊まれるところをさがすのも大変だ。というわけで、ダッシュで下島を南に縦断し、牛深港をパスして下須島(げすじま)の西海岸へ。目的は、烏帽子坑だ。

相当に細い道をせかせかと走る。対向車皆無なのがありがたい。バイクだからまだいいけれど、クルマだったら倍くらいの時間がかかるかもしれない。ここでゆっくりドローンで撮るつもりが、バイクを駐めてちょっと眺めてすぐ引き返して牛深港へ。下島と下須島の間は100mも離れていないが、牛深の港をパスするハイヤ大橋とその途中で分岐するルートなどがあり、ツーリングマップルだけではとてもわかりにくい。何度もスマホをポケットから取りだして確認しながら戻った。

 
牛深港に着くと、もう19時30分近かった。腹減った。でも何かを買いに行っている時間もない。すぐに三和フェリーの第二天長丸が現れた。

 
 
すぐに乗船。

 
 
TENERE700はこんな感じでチョークのみ。ロープで固定しないんだな。鹿児島県長島(長島も天草諸島の一つだ)との間の長島海峡が、いかに凪いでいるかの証拠でもある。

 
天草下島、通過しただけだったなー…。きちんと再訪しなくては。

 
ハイヤ大橋を右手に見ながら出港。

 
牛深漁港のすてきな製氷貯氷所。

 
 
第二天長丸の製造は、大三島の藤原造船所だった。


海上で県境を越え、鹿児島県となる長島の蔵之元港へ。


蔵之元港。最終便を待っていたクルマはいなかった。

 
夕闇迫る港。

 
ハイシーズンになるとこのレーンが埋まるのだろうか。

長島を出て九州本土に上陸する頃には完全に暗くなっていた。





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日本海ビーチエンデューロ(1999年)

バイク雑記

 
1999年、ガルル編集部に入ってすぐ、鶴岡で開催される日本海ビーチエンデューロの取材に行かせてもらった。走ってレポートすることと、出場ライダーにいろいろ話を聞く取材。先輩のヤマザキさんとカンノさんと3人で、ハイエースで新潟回りで入った。写真担当は伊勢ひかるさん、ここの写真は全部伊勢さん撮影のものです。

 
マシンは編集部の93年型CRM。ところが現地でバイクを下ろすと、チェーンが切れていて、ハンドル回りもバラされている! どうやら、スプロケの撮影でいろいろやった人がそのままにしておいたらしい。出発前にチェックしろよという話ですが。

伊勢さんに相談すると、伊勢さんが会場に来ていた有名ライダーさんたちに予備部品をかけあってくださった。なんと、チェーンまで手に入った。予備チェーンを持って来ている方がいるなんて…。もちろん、後日、新品でお返しした。いろいろな方々に頭を下げて部品を譲って戴いている写真も撮ってもらった。

ぼくはその様子を誌面にしたかったのだけれど、NGになった。考えてみれば、「参加者が準備不足で他の参加者に迷惑をかけ、しかも頭を下げている。そして現地で応急修理をしている」なんていう写真が並ぶのは、レースに出るという心構えがなさすぎだ。浅はかすぎた。

 
それはそれとして、砂浜でのレースはとてもおもしろかった。サンド路面、慣れてくるとおもしろい。あまりフロントに荷重をかけず、高めのギヤでなるべくアクセルをあけずに、レールに逆らわずに走る。雪の上を走る操作感に似ている。タイトコーナーは力業、2ストが頼もしい。

 
波打ち際は締まっているのでスピードが出せた。乗っているぼくはフォームからして下手くそだけれど。

いろいろなバイクが走っていた。KX500を見たのはその時が最初で最後かも。ATVが波打ち際で片輪走行で魅せていた。このとき、トップにいたのが内山裕太郎選手で、まだ10代、すごく目立っていた。後日、誌面でも大変お世話になった。

この時ご協力いただいた皆さん、そして伊勢さん、ありがとうございました。
 


神栖でビーチレースやってたんだな、今年も。出てみたいな。
http://winsasano.c.ooco.jp/beachrace.html

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島鉄フェリー フェリーあまくさⅡ

船・舟


諫早湾の潮受け堤防を撮ったあと、急いで南下するはずが、方向音痴なので「右」を「左」に行ってしまったので、フェリーに乗り遅れた。おかげで天草をただ走り抜けるだけになってしまった。

それはともかく、口之津港。とてもきれいな建物。まだ移転したばかり。フェリーあまくさⅡは、着岸して搭載車両を下ろすと、いったんランプウェイが閉鎖された。

 
左に視線をやると、旧口之津港に、フェリーくちのつが係留されていた。

 
乗船。バイクの固定はこれだけ。早崎瀬戸がいかに凪いでいるかの証拠。

 
左舷にしかないファンネル。

 
船内の案内。

 
鬼池港に近付く。

 
鬼池港下船後。

 
鬼池港のフェリーターミナル。
* * *


GoogleMapsで口之津港を見ると、海上に妙な道路が見えている。というか新ターミナルがない。


衛星画像を見るとターミナルは埋め立て後に建設中。つまり、地図のほうは「地面」が反映されていないのだ。







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1935年、高知ではどんな機関車が走っていたのか

鉄道の歴史・人物史


(PD)
仕事で、1935年(昭和10年)の土讃線全通記念・南国土佐大博覧会のことを調べていて、パンフに描かれた蒸気機関車が気になった。明らかにアメリカ式のものだ。それはさておき、では当時、高知にはどんな機関車がいたのか。これが難しい。
 
twitterにてそんな疑問を書いたところ、彩葉さんから下記のレスをいただいた。

高知は、46都道府県の中でも中央(ここでは高松方面)と鉄道が直結したのがもっとも遅い県庁所在地。土讃線で高松方面と繋がったのが1935年であり、それを記念したのが冒頭の博覧会である。

20120210_14.gif(この2図は、1872年から5年ごとにまとめているので、2枚目は高知開業時の1935年ではなく1937年時点の地図となっている)

高知周辺だけ孤立して営業していた頃から全通後にかけてはB6と2800がいたとのこと。
RM付録の『機関車表』を見ても、たしかに1933年現在、4両のB6と6両の2800がいる。抜き出すとこうだ。

2240 1933高知
2281 1933高知→1954軽井沢
2287 1933高知→1955廃車酒田
2288 1933高知→1950廃車秋田

2801 1933高知→1948廃車
2802 1933高知→廃車
2803 1933高知→廃車
2804 1933高知→1946加古川
2805 1933高知→1937播但鉄道
2806 1933高知→1946加古川

「1933」は「1933年現在」のことであり、1933年に配置になったという意味ではない。1927年に須崎~日下がまず開業し、同年のうちに高知まで東進している。徐々に建設が進められ、それまで高知側で独立していたものが高松側まで一続きになったのが1935年だ。


(のちの2802:PD)

その全通後はどうなんだろう。折しも国鉄の近代制式機が続々と誕生していた時代だ。四国といえばC11と8620。C11は後年、高知に配置されている。また、1955年時点では8620も多数配置されている。

C1185 1936製配置不明 ?高知→1949浜川崎
C11105 1937製広島局→?高知→1949浜川崎
C11106 1937製広島局→?高知→1949浜川崎
C11273 1944製配置不明→?高知→1949浜川崎
C11339 1946製門司局→?高知→1949浜川崎
C11381 1947製美濃太田→?高知→1949浜川崎

では「後年」ではなく「全通時」はどうなのか。そこが一番知りたいのだけれど、確証がない。ただ、8620形の最若番・8620をはじめ、多くの機が1933年時点で高松にいて、1955年時点で他区にいる。四国の機関区は、高松・松山・高知くらいなので、ということは、高松の8620が高知まで来ていたということか。

まったく土地勘というか「運用感」がないので、ひどい憶測になっているかもしれない。1935年時点で高知を走っていた機関車をご存じの方はご教示いただきたい。


※機関車の同行はすべて『機関車表』(沖田祐作著;レイルマガジン2008年9月号付録)からの抜粋

【追記】公開後、きーぼーさんとしばしげをさんより下記の情報をいただきました。ありがとうございます。

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