赤谷線の廃線跡を原付で走っていたら、こんなすてきな水管橋に出会った。駅でいえば新山内と赤谷の間で、写真右が路盤跡、電柱より左の一段高いところが県道14号である。地名でいえば中々山。
このように県道をまたいでいる。おもしろいのは、鉄道を跨ぐ部分の橋脚が古レールなのに対し、道路をまたぐ部分は円柱のコンクリート橋脚である点だ。水管橋のような重いものを、こんな古レールで支えていることにいささか驚く。 古レール橋脚は、このように、脚1本につきレール4本×2+斜材という組み合わせ。レールは底面同士をリベットでつなぎ、それを2組並行にして(間にウマをかませて)ボルト留めしている。 左右の脚をつなぐ斜材を裏から見るとこのように。 反対側から見ると、片方が1本、他方はクロスする部分で分断されている。この部分だけ見ると、まるで1組の線路のようだ。…(A) 桁のすぐ下。レールを縦方向に曲げ、桁の下部の出っ張った部分に入れ込んでいるのだろう。内側のレールは、縦方向にも横方向にも曲げられていることになる。なんとも見とれてしまう。 古レールの陽刻もクッキリと見える。これは UNION 07 工 とある。「工」は官設鉄道が発注した印。ほかには CARNEGIE 1907 0 1 |||||||||||(0 1 は正確か不明) くらいか。上記の写真(A)はASCEの陽刻が見えている。 ちょっと引くと(赤谷側に移動し、新発田側を見ると)地面に台座がいくつか見える。 このように、レール4本の支柱なので、今回紹介した水管橋の脚の片方のようなものだ。しかし、1975年前後の航空写真を見ても、そんな橋梁等の構造物は見あたらないので、それ以前に撤去されてしまったものか。ここにはなにがあったのだろう? PR
JR京ヶ瀬駅前にある、こぢんまりとした給油所。屋上のENEOSの看板が、そのすぐ下、屋根の側面(何というのだろう?)ととてもよく調和している。こうした小規模な給油所は、キャノピーなどないようがスタイルがいい。働く方にとってはあったほうがいいだろうけれど。
サービスルームの正面は大きな1枚ガラスの窓が連続し、まるでクルマのディーラーのようだ。 少し引いて。画像左の防火壁には段がある。そして、その下にはドラム缶を縦に半分に切った、タイヤのパンク修理時につかう水槽。 このENEOSも、以前はJOMOだった店舗だ。それが、ENEOS化で塗装を一変され、美しくなった。 では、JOMO時代を。 (gogo.gsよりリンク) これもまた「近隣の方々、落ち着いた色になってよかったですね」と申し上げたい事例だ。 【関連リンク】 ENEOSへの華麗な変身
来る6月9日(土)にカルカルで開催される『眠る鉄道ナイト』に向けて、出演者の丸田祥三さん(写真家、@malta_shozo)、江上英樹さん(小学館、@TETSUHEN)と、静岡県に出かけた。その道中に目にした道路付け替え跡の廃橋。
画像左が現道で、曲線鈑桁でなめらかに川を横切っているが、かつては画像右の旧橋のように、右岸の道路から直角に曲がる形で榛原川橋(旧橋)を渡り、こちら側に来ていた。 新しい橋は、昭和61年9月竣功。 旧橋へのアプローチを、右岸側から、しかも振り返って。 旧橋を渡り、右岸側から。ほとんど現役のように見える。 左岸側親柱「榛原川橋」。 左岸側親柱「昭和33年8月竣功」。ということは、現道に写るまで、たった28年しか利用されなかった桁。 コンクリート製の橋脚に、コンクリート製の桁。まるで鉄建公団規格の鉄道用桁のようだった。
新潟に育ちながら、ついに現役時代を見ることがなかった越後交通長岡線。小学生だからというわけでもなく、最末期はすでに働いていたが、鉄道趣味から相当に遠ざかっていたので、関心すらないまま、いつのまにかなくなっていた。
大津農業倉庫(越後鉄道 槙原駅跡) 越後交通与板駅跡の日通倉庫 の記事でも書いたが、4月末に付近を原付で訪問した際の写真を一部、アップする。もっと多くの写真をFlickrにアップしているので、ぜひそちらもご覧いただきたい。すべて、意図的にコントラストを高め、色調を触っている。 レポートなど、既にすばらしいものが山とあるので、私などが出る幕はない。 |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|