洋泉社から刊行された『凹凸を楽しむ東京「スリバチ」地形散歩』(皆川典久著)の刊行記念で、東京の「スリバチ」を見ながら皆川さん(上写真の後ろ姿の男性)とお話をしましょう…というイベントだ。私は皆川さんにお目にかかるのは初めてなので、ご挨拶申し上げた。 会場には『東京の微地形展』で展示されていた、5mメッシュ標高データを元にした東京の地形図(高さ8倍強に強調)、やはり5mメッシュを使用した関東の地形図を大きなボードにしたものなどが展示され、話の糸口がつかみやすいようになっていた。常に10人以上の人で満杯、なかなかお話ができなかったのは嬉しい誤算だろう。用意してあった100冊の本はすべて売れてしまったとのことだ。 地形図は、石川初さんが制作したもの。 ここでしか見られない特大の目次。5mメッシュに地形図を貼り込んである。 個人的にはここがツボ。 池袋方から走ってきた川越街道は、成増を過ぎると堀割になる。そして、左に急カーブして急勾配を登り、環八にぶつかる。その堀割は、「成増台」から白子川まで降りるものであり、急勾配は「朝霞台」に登るものである。現代なら、こんな堀割と急カーブ、急勾配を避けるために、白子川の谷は高架で突っ切るに違いない。R246がそうであるように。 この場所は私にはわりと身近なところだ。こうした本は、「自分に身近なところ」が出ているかどうかで、本へのシンパシーが大きく変わってくる。いや、それで価値が増減するものではないのだけれど、心情的にはそういうものだ。本書には、こうした「スリバチ」が15エリア、豊富な地図やイラストとともに解説されている。 会場では、バドンさんによる「スリバッジ」が配布され、また「スリバチてぬぐい」が販売されていた。茶色をひとつ所望。 さて、本題というか。 上に貼った、地形のみの地図。標高別に色分けすることを「段彩」というが、段彩次第で地図は表情を変える。私が今回思ったのが、「低地を基準に段彩を施すと、地図が違って見える」ということだ。別に目の錯覚でもなんでもなく、「何を見せようとしているか」で見え方が変わってくるだけの話だが、私はこれを面白いと思う。上記の地図や本書に使われているものに近い、石川さんが設定した「5mメッシュスペシャル」と、私が設定した「緑グラデーション」で比較してみよう。(すべてカシミール3Dと、解説本付属の20万地図+50mメッシュ標高データを使用) 20万地図を貼り込んだものだとこうなる。 残念ながら、このスリバチカフェは2日間限りのイベントだったが、どうやら「無地」の微地形模型に、いろいろな要素を投影する企画が進んでいるようだ。またお邪魔する機会があると思う。楽しみだ。 PR
旅に出ることが少なかった頃は、ある程度の「もの」はとっておいた。しかし、毎週末出かけるようになると、「もの」への執着はなくなり、基本的にはなにも残さなくなった。たまに鉄道旅行をすると、その切符だけは保管しておくことにしているけれど。
『ガソリンスタンド・ノート』の松村さんが、思い出の紙片について書いておられたので、私も引っ張り出してみた。1995年2月の九州のものである。 ふと、TT250Rを買って1年3ヶ月なのにまだロングツーリングには行っていないな、と思った。本当は夏に北海道に行くつもりだったけれど、就職試験の関係で行けなかったのだ(当時の出版社は、大手がは5~6月頃、中堅が7~8月頃だった)。林道を走りたくもあり、山にも登りたくもあった。そこで、九州に行くことにした。九州の山は、比較的上のほうまでバイクないしクルマで上がれ、往復4時間もあれば十分な山ばかりだったのだ。登った山は、祖母、傾、大崩、韓国岳だ。 祖母山に登るために、日之影に入った。当時、テントは山の中でやむを得ず使用するものであり、ちゃんと町に降りられるならちゃんと泊まろうと決めていたので、宿を紹介してもらおうと役場に向かった。すると、「ぜひ町長室へ」と言われる。こんな時期の旅人が珍しかったのだろうか。 町長は、梅戸勝恵(ばいど しょうえ)さんといった。聞けば、BMW R100GS-PDに乗っておられるとのこと。執務室には阿蘇をツーリングする梅戸さんの写真が飾ってあった。そんなことで、バイクで訪れた私を招き入れてくれたようだ。なお、そのBMWはこんなバイクである。 梅戸さんは2006年に81歳でお亡くなりになっているが、とすると、1995年には72歳。その年で、PDに乗っているとは! ということは、かなりお若い時分からバイクがお好きだったのだろう。今にして思えば、もっともっとお話を聞いておくべきだった。 その晩は、梅戸さんの紹介で、リフレッシュハウス出羽という多目的施設に泊めていただいた。たしか2000円ちょっとだった気がする。冬の平日ゆえ宿泊は私ひとり。夕食は、近所のおばちゃんが「田舎汁です」といって「だご汁」を持ってきてくれた。大広間に布団を1組だけ敷いて寝た。あまりに広いので、少し心細くなり、電気をつけたまま寝た。とても贅沢な時間と空間だった。 前置きが長くなった。そのときのレシートが上の写真である。まだ定型のレシートにドットインパクトプリンタで印字したもの。三菱石油が多く残っていたのは、個人的に三菱に寄るようにしていたのか、それとも偶然なのかはわからない。IDEXは「新出光」、九州オンリーのブランドだ。左下の、普通のレジのレシートのようなものもスタンドのレシートだ。 どれもリッター120円台。今より少し安いくらいだが、当時はとても値上がりしていたころだった。その前までは、ハイオクでも90円台だったのだ。レシート数枚で、いろいろなことを思い出す。これからは、紙片くらいはとっておこうかと思う。
オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。
年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(3)明治後期(1898年~1912年) の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。 大正期は、技術の大発展期である。鋼鉄がようやく日本の技術となり、煉瓦がコンクリートに取って代わられつつあった。土木工事の一部には機械力が使われ始めた。 【1913年(明治45年)~1917年(大正6年)】 大径間の橋梁技術が日本のものになるのがこの時期である。この時期に建設された各路線で架けられた200フィート(約63m)トラス橋は、この時点ではアメリカン・ブリッジ製のものがほとんどだ。しかし、1910年代を最後に、国産の桁となっていく。ただし、アメリカン・ブリッジのようなピン結合のプラットトラスではなく、剛結のプラットトラスである。この時期、徐々にピン結合からガセット結合に移行しつつあった。どちらもプラットトラスである。しかし、プラットトラスとピントラスは相性がいいものの、ガセット結合だとそうでもない。むしろ、さらに部材が少ないワーレントラスへの移行が始まる。 少し時代が下った時の話になるが、アメリカ製ピン結合トラスを見てきた樺島正義が、このガセット結合時代になってもプラットトラスを作り続けたのは興味深い。たしか、すでにその弟子・太田圓三、そして来るべき次代を担う田中豊はその樺島の考えとは一線を画していた。 ●北海道 根室本線が釧路に達し、かつ滝川から富良野に向けてのルートも一部が開通している。石北本線は、北見から留辺蘂経由で常紋を越えて遠軽、そしてその先湧別に出るルートが開通。 ●東北 東北本線・奥羽本線を縦軸とすると、横軸たるルートがいくつか開通している。陸羽東線が羽前向町(現・最上)まで開通している。これは1922年版を見るときに話がつながるのでご記憶いただきたい。 南端の磐越西線・磐越東線も開通。これで、関東~新潟のルートが信越線にプラスしてもう1系統できた。新潟とを結ぶルートが、他の北陸の都市より優先されているように見えるのはその通りで、地理的に日本海に抜けるには新潟が一番ということと、港湾整備と同時に物流ルートも確保するということである。道路も、東京と新潟を結ぶ「清水国道」は、明治初期(1878年=明治11年)の伊藤博文による七大プロジェクトに端を発するものである。 ●中国 芸備線(当時は芸備鉄道)が東進している。当時の三次の位置づけがわかろう。山陰側はいまだに完全ではない。 ●九州 大分・宮崎エリアへ、北と南から延び進んでいる。 【1918年(大正7年)~1922年(大正11年)】 ●北海道 前述のように稚内と根室に達したが、稚内へのルートは、のちの天北線である。また、名寄本線が湧別から北上する形で全通している。 ●東北 北上線、田沢湖線が、奥羽山脈を挟んだところまで工事が進んでいる。 ●中国 山口線、美祢線が南から延びている。山口には、防府からの防石鉄道が1920年に開通し、山口の南側、堀に達している。 ●四国 遅々として… 【1918年(大正7年)~1922年(大正11年)】 ●北海道 宗谷本線と地と戦線が開通。士幌線も北上している。 ●東北・関東 上越線の建設が本格化する。この時期にはすでに清水トンネルに着工している。それまでの最長トンネルだった中央本線笹子トンネル(4670m、1903年開通)を、一気にダブルスコアで抜き去る延長(9702m)となるのだが、その間、約25年。 ●中国 山口線の全通で、京都から山陰回りで山口県に至るルートが形成された。中国地方内陸部と沿岸部を結ぶルートも徐々に延びてきている。 (続く) こうした内容は、書籍の単行本では難しく、写真だけでも文章だけでもだめなので、「雑誌の特集」、それも鉄道誌ではなくて一般誌の特集が、いちばんふさわしいステージだと思っていた。『東京人』がそのステージとなったのは、大変嬉しいことだ。 渾身の大特集であり、100点近くの写真~~そのほとんどは丸田祥三さん撮り下ろしである~~がこれでもか、というくらいの勢いで展開され、その合間に、川本三郎さん・原武史さん・丸田祥三さん・内田宗治さんの座談会が挿入されている。私が考えるに、このテーマではもっとも適切なステージにおいて適切な展開になったと思う。うちうちに、当初はグラビア/座談会/解説とをそれぞれ分けることを想定していたと聞いたが、そうなっていれば、きっとさらに完成度は高くなったかもしれない。 冒頭に書いたように、「鉄道遺産」という定義はない。そのため、座談会を構成する4人が選び、さらに、4人がそれぞれベスト10を挙げるという体裁をとっている。これが、この特集のミソだ(ミソ、っていう言い方は古すぎる?)。そうすることで「なぜ○○がないの?」というような、ありがちなツッコミを回避し、なおかつ選者の個性と存在感を強めることに成功している。 座談会を読むと、4者の個性が出ていて大変に面白い。 ●川本三郎さん「都内で駅の立ち食いそばが登場したのは、いつぐらいからですかね?」 こんなこと、考えたこともなかった。立ち食いそばというのは、私が子どもの頃から全国の主要駅にあったし、ずっと昔からあるものだと思っていた。ところが、川本さんは続けて「わりと新しいですよね。私の学生時代(筆者注:川本さんは1944年生まれ)にはなかった。」と言う。それを受けて原さんは「品川の常磐軒がわりと早くて、昭和三十九(一九六四)年だったと思います」と答える。そうだったのか! ●原武史さん「天皇研究者として、賢所乗御車はどうしても見たい」 宮中行事に関するご神体を運ぶ車両のことである。この賢所車の設計につ いてのエピソードを『鉄道ファン』かどこかで読んだ記憶があるが、そもそもご神体を奉安してある御座所は、天皇ですらその前では立って歩くことが許されな いようなものらしい。それほどの存在を常日頃から意識すればこそ出る観点。ほかにも「聖蹟桜ヶ丘」に見る駅名の考察など、原さんの専門である皇室関係の話がポンポンと飛び出している。 原さんの著書は何冊か読んでいるが、「鉄道マニアのマニア嫌い」のような記述がそこかしこにあるのでちょっと好きではない部分があったのだが、こういう鉄道への絡み方なら大歓迎だ。 ●丸田祥三さん 高尾駅構内の31番支柱に残る機銃掃射の弾痕、それと同時に襲撃された「湯の花トンネル列車銃撃事件」の牽引機関車・ED16 7を見つめる目。実際に7号機を幾度となく目にしていた丸田さんは、きっと子どもの頃から、7号機を見るたびにこの銃撃を思い出していたのだろう。また、地下鉄東西線の門前仲町駅工事の際に、埋まっていた防空壕から抱き合った母子の遺体が見つかり、最終的には6~7体の遺体が見つかったというエピソード。これなど「ネットで調べてもほとんど誰も言及していなくて、これは誰かが語らなければ歴史の闇に消えてしまうな、と感じています」。それがここで紹介されることで、多くの人の目に触れることになった。まことに意義深い特集であると言わねばなるまい。(筆者中:こちらのサイトに大人4人、子ども2人との記述あり) ●内田宗治さん 国分寺崖線、玉川上水、廃川跡、新永間市街線高架橋等、とっても内田さんらしいことが自然に展開されていて、そうか、内田さんのこうした観点を結びつけるものは「鉄道遺産」だったんだ、と思った次第。なお、内田さんは、私のかつての上司。大ヒットしたガイドブックシリーズをいくつもてがけている、尊敬すべき編集者だ(現・ライター)。 ガチでコアな鉄道ファンも、この特集は肩に力を入れずに読めるはず。そして、この4者が、スタイルは違えど鉄道を好きであることも十分によく伝わってくると思う。最後に、この「鉄道遺産」の位置づけが曖昧なのに、この特集を成功させた肝を、座談会・後編のタイトルから引用する。 記憶によって個人差がある鉄道遺産。 「記憶によって個人差がある鉄道遺産」を語り合うことで、東京の鉄道の歴史と多様性が浮き上がってくる。もそういうことを意図しての企画だったのかどうかはわからないが、私はそのように読んだ。なお、前編のタイトルは「散歩の途中で、東京の近代化や歴史を発見する喜び。」。これは『東京人』のコンセプトに添った建前的なものかもしれない。 素晴らしい特集を組んでくれた『東京人』と、座談会の皆様に心から拍手を。
オレ鉄ナイト2でご好評いただいた「5年ごとに見る鉄道路線延伸図(国鉄に準ずる路線のみ)」をある程度詳細に見ていく。
年代別 鉄道路線延伸の過程(1)最初の10年(1872年~1882年) 年代別 鉄道路線延伸の過程(2)東海道全通時点(1883年~1897年) の続き。下記の路線名称は、わかりやすさを優先するために現在のものを適宜使用する。 【1898年(明治31年)~1902年(明治35年)】 函館本線は旭川に、そこから宗谷本線と現・富良野線と根室本線(当時は十勝線という名称で建設開始)に伸び始めている。二十代前半のうちに琵琶湖疎水を設計した田辺朔郎が狩勝越えルートを探索していたのはこのころか。 県庁所在地以外では、津山線、和歌山線あたりに注目したい。ただし、和歌山には1898年に和歌山北口という駅まで南海が通じている。 【1903年(明治36年)~1907年(明治40年)】 軍事輸送を私鉄に負担させることはできないわけではないが、その情報が漏れることが問題だった。いくら私鉄は国の保護を受けているとはいえ、株式会社である。株主はあらゆることを知る可能性がある。その恐れをなくすために、国有化が急がれた。進めたのは西園寺公望内閣である。このあたり、政治家・政党/財界と鉄道の関係の整理は、今後の私のテーマのひとつ。 1907年までに17鉄道を買収し、上記の路線図も青線部分が一気に赤線になった。被買収鉄道は以下のとおり。 ・北海道鉄道…函館本線(函館~小樽) ・北海道炭礦鉄道…函館本線(手宮~空知太)、幌内線、夕張線、室蘭本線(室蘭以北)、歌志内線 ・総武鉄道…総武本線 ・房総鉄道…外房線 ・甲武鉄道…中央本線 ・日本鉄道…東北本線、常磐線、高崎線、上毛線、水戸線、日光線、八戸線の一部 ・岩越鉄道…磐越西線の一部 ・北越鉄道…信越本線(直江津以北) ・七尾鉄道…七尾線 ・関西鉄道…関西本線、草津線 ・参宮鉄道…参宮線 ・京都鉄道…山陰本線(京都~園部) ・阪鶴鉄道…福知山線 ・西成鉄道…大阪~天保山 ・山陽鉄道…山陽本線、播但線、予讃線・土讃線(高松~琴平)、呉れ線の一部、美祢線の一部他 ・徳島鉄道…徳島本線 ・九州鉄道…九州全般 この動きとは別に、鉄道網の延伸は泊まらない。北海道も函館本線(北海道鉄道。開通後すぐに国有化)、根室本線が延伸。奥羽本線や中央東線が全通。山陰の鉄道も少しずつ延びている。 【1908年(明治41年)~1912年(明治45年)】 羽越、岐阜県、紀伊半島、山陰西部、四国、大分~宮崎県あたりは寂しい状況。 (続く) |
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