田端大橋 山手線/地形散歩(番外編)のつづき。
今回は田端の西側を見た後、線路の西側を南に向かって歩く。 【写真1】名称不明 あろうことか橋梁名をメモしていないのだが、田端大橋から続く都道458号が台地を切り通している部分にかかるふたつの橋のうち、遠いほう。アーチ橋。 組立にはリベットが用いられているが、床版の裏側は鋼矢板風の波板。まったくの想像だが、床版だけ改築されているような気がする。 【写真2】東台橋 写真1の橋の上から望む白いアーチ橋が、東台橋。橋は新しそう。ここでは、切通の断面、石垣に注目。石を使った谷積み。これだけの高さであるし、そこそこ古くそこそこ新しそうだ。 高橋俊一氏のサイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」の「田端」に掲載されている旧版地形図を見れば、1921年(大正10年)修正版にはこの道路そのものが見られず、1930年(昭和5年)修正版では細い道が見られる。しかし、これだけの幅には見えない。国土変遷アーカイブで1947年(昭和22年)の航空写真を見ると、現在と同じ形になっている。ちょっと間隔は空くが、1921年以降1947年までの間に、この道路が開鑿されたということになろう。 東台橋の上に立つと、田端の地形が「三段」になっているのがよくわかる。この写真を撮った橋の上(標高23m)、下に見える田端駅前交差点付近(標高13m)、その向こうに見える新田端大橋の下、電車が走る部分(標高5m)。 【写真3】 三段を便宜上、3階・2階・1階、と表現することにしよう。 3階の高さのまま、線路際を歩き、駒込方面を見る。隙間に見えるのが新田端大橋。駅は随分急な崖の下にあるものだ。ここらへんの考察も、「山手線が渡る橋・くぐる橋」にある。 上野方向を見る。 新幹線の高架橋が、どんどん高さを上げてくるのがわかる。画面右に行くに従い高度を下げ、日暮里駅で地下にもぐるのだ。新幹線の高架の手前、逆に効果の高さまで登っているルートがあるが、これは新幹線の回送線。田端の1階に新幹線が留置されているのをご存知の方は多かろうが、そこへの出入り口のひとつ(高架の向こう側にもある)。画像中央に見える橋上駅舎のようなものが、田端駅南口。 【写真4】田端駅南口 南口は、2階より少し高い位置にある。この高さからホームに降りていく人の位置エネルギーの減少を利用して、なにかできないものだろうか。発電とか。 【写真5】西日暮里へ(画面奥が西日暮里駅方向) 3階を西日暮里方向へ歩く。この道は、とても山手線に並行する道とは思えない雰囲気で、ガードレールが草に没していたりする。車幅1車線、クルマはけっこう入ってくる。抜け道的に使われている雰囲気。画面奥に向かって高度を下げる。 【写真6】西日暮里駅が見えてきた どんどん高度を下げる。西日暮里駅の真下が道路になっている。しかし… 線路を見ると、なんと線路は高度を上げていた! つまりここでは、線路の高さの「下」に道を通すために、線路を嵩上げし、道路を掘り下げているのだ。 【写真7】間之坂架道橋(西から) 比較的新しい桁。 桁の裏側を見ると、新しいということがわかるだろう。ボルト留め。合理的で細い縦の補強材。山手線と京浜東北線の桁がこれである。 次いで、新幹線の桁。見事に味も素っ気もない。 その向こうは東北本線の列車線(尾久経由)の桁だ。 裏。 東側。向かって左に銘板がある。左は 日本国有鉄道
1969 KS-18 WT6827-1 (以下不明) 右は ●●
主ゲタ:SM58 ●●●:SMA41 とある。コンクリート橋台には「1982-3」というプレートがある。 今日はここまで…… PR
山手線/地形散歩(3)駒込-田端の続き。
田端トンネルを見た後、線路を見下ろすことはできなくなる。そのままおとなしく田端駅へ向かう。 大きな地図で見る 田端駅北口には、2本の橋が並行して架かっている。駅寄りの「田端大橋」(二代目と、車道の「新田端大橋」(三代目)である。田端大橋のほうがもちろん古く、震災復興橋ではないにしろ、震災後の東京都市計画道路のひとつとしてここに橋が架けられた。設計者は稲葉権兵衛。当時の橋梁界を率いていた田中豊門下生である。稲葉は、有名な昭和通り架道橋や総武本線隅田川橋梁にも関わっている。この田端大橋は非常にスレンダーな形をしているのだが、それは後述する。 さて、これが現在の田端駅北口から東を見た光景。この歩道橋が田端大橋だ。1935(昭和10)年に架設されたものを改修したものには見えないだろう。化粧タイルに植栽、ありがちな欄干。しかし、中身は75年前の桁であり、歴史的鋼橋集覧にも収録されている。 上の写真でひときわ目を引くのが、画面上部の白いPC桁の下路橋だ。これは新幹線。この日は曇り空だったので、悪目立ちしないように白く塗られているのかもしれないと思った。もし、田端大橋をスレンダーに仕上げた稲葉権兵衛なら、あるいはその指導をした田中豊なら、どんな橋を架けていただろうか。目立たないよう、重量感を感じさせぬよう、桁の天地寸を細くして6主桁とかにして上路橋にするなどの方策をとったのではないか。 さてこの田端大橋。残念なことばかりだ。まず名称。 西側(駅舎側)の左右に立つ親柱に、そう書いてある。しかし、そのすぐ右、欄干端部には 田端大橋
と記されている。どっちが正式名称なんだ? なお、東側には「田端ふれあい橋」としか書いていない。 次に残念なのがこれ。 ありがちな、 鐘。 得てして「○○すると幸せになれる」「恋が成就する」等の、作られた「いわく」が主張するような鐘になりがち。そして、かなり浮ついた名前がつく。 この鐘も例に漏れず 希望の鐘
だそうだ。 鐘って必要なの? この橋の欄干では、おそらく鉄道を見るために設けたのだろう、透明な窓がある。しかし、その位置が恐ろしく間抜けだ。 見下ろすと、真下には保線用のモーターカーが止まり、その先には機関庫がある。普通は山手線や京浜東北線の電車、あるいは貨物列車を見るんじゃないのか? もうひとつ。 貨物列車が見えるように撮っているが、この窓の真下は駐車場だ。 私が見て「ここが透明の窓だったらいいのに」と思う場所はすべて植栽になっている。本当に残念。 橋の上に、旧橋の親柱が保存されている。横には田端大橋がいかに素晴らしいものであるかを喧伝する文章がある。どうせなら、親柱は元の位置に置いておいてくれよ! この田端大橋は、東京都市計画道路の一部として計画された、ゲルバー・プレートガーダーである。設計者は鉄道大臣官房研究所第四科橋梁の設計、稲葉権兵衛であるのは先述したとおり。道路の高さを下げ、なおかつ線路からのクリアランスを確保するため、薄い鈑桁で構成している。そして、これが田端大橋の最大の特徴なのだが、全溶接なのである。 昭和一桁というのは溶接がまだ試行錯誤だった時代。溶接艦船が真っ二つに折れたのはどの年だったか。田端大橋を設計した稲葉自身、『土木学会誌』第二十五巻第十二号(昭和14年12月)において と書いているくらい、「鉄道」の「橋」を溶接で作るのは困難だった。そんななか、いわば実験的に、この田端大橋を溶接で作り上げた。また、横桁も左右の主桁を結ぶだけではなく、さらに外側に張り出す形で歩道の空間を作り出している。つまり断面は「十十」となっていて、中央部(H型の横棒部分)が車道、左右に張り出した部分が歩道。「十」の、横棒より上が桁、下が橋脚である。中井祐は『近代日本の橋梁デザイン』の中で、このデザインの目的を「鉄道から見ると、桁が奥に引っ込んでいるので見かけ上、スリムに見える」(要約)という説を唱えている。なるほど。 ところが、現在の田端大橋では、路面側に主桁が見あたらない。主桁を撤去できるわけもないので、上げ底になっているのではないかと思って検索したら、ありましたよ、改修工事の内容が。 『歴史的鋼橋の保存技術に関する研究』(永田礼子)の3ページ目。主桁の上に、橋幅いっぱいの床版を新たに設置している。完全な上げ底橋。なんてバカな補修をするのだ。「歴史的に親しまれてきた橋」として保存するのだから、主桁を隠しちゃだめだろ! タイル張りでレトロ感出すよりも、55年前に作られた鋼鉄製の主桁を見せた方がいいだろ、本物なんだから! なお、この卒論は、私がちょっとアレだと思っている佐々木葉の研究室のものらしい。佐々木氏についてはこちらを参照。しかし、卒論執筆者および内容と、佐々木氏のアレ具合はまったく無関係である。 『土木学会誌』第二十一巻第五号(昭和10年5月)に、稲葉自身が書いたこの橋の解説がある。その当時は「田端大橋」ではなく「江戸坂跨線道路橋」という名称となっている。「江戸坂」というのは、田端駅西にある田端アスカタワーの北を取り囲んでいる坂のことである。 参考:「山手線が渡る橋・くぐる橋」(高橋俊一) 『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐)
山手線/地形散歩(2)巣鴨-駒込を過ぎたところの続き。下記地図でいうと【写真6】から。
駒込から築堤沿いに歩いて行くと、中里第一隧道から100mちょっとで山手線、山手貨物線ともに地平に降りてくる。山手線はその高さを維持したまま進み、山手貨物線は堀割となってさらに標高を下げる。行き着く先は中里橋と、山手線唯一の踏切、第二中里踏切だ。 【写真6】中里橋と第二中里踏切 手前が中里橋、奥が第二中里踏切。中里橋は真っ白いのでコンクリート桁のように見えるかもしれないが、鋼橋である。叩くと分厚い金属の質感がある。 訪れたのが昼間だったので、「開かずの踏切」というわけではない。むしろあいている時間のほうが長い。 再塗装されたばかり。銘板もある。
日本国有鉄道
活荷重第一種図(?).とく(?)-178 株式会社東京鉄骨橋梁製作所製作 (昭和29年8月) -・- L=● 富士製鉄株式会社 ●● 日本鋼管株式会社 ●●● ●=●● CT-5(?) 塗膜が厚すぎるので読めない部分があるが、「とく-178」というのが正確かどうかはわからない。「とく」は特殊桁を表すのだが、素人目には普通の下路橋に見える。 【写真7】中里橋から田端方向(左の築堤上=山手線、右=山手貨物線) 古い写真を見ると、山手線の築堤の法面は土。 【写真8】富士見橋から駒込方向(左=山手貨物線、右=山手線) 地形を利用して、道路と、山手線と、山手貨物線が交差している素晴らしい場所。写真右のとおり、地形は少し標高を上げている。これはさらに右(田端方向)に向かうと武蔵野台地の先端の崖となってすとんと落ちるのだが、ここを利用して、路盤を二段に掘り下げ、一段掘り下げたところに山手線、二段掘り下げたところに山手貨物線を配している。 山手線は右カーブして、崖の上に躍り出ると高架で田端駅に向かう。その際、その高架の下、地平部分を京浜東北線が通っているのもすごい。京浜東北線はそのまま高さを稼ぎ、そのまま地平の高さに出てきた山手貨物線をオーバークロスする。ダイナミック。 大きな地図で見る 山手貨物線がくぐるトンネルの上はJR東日本の社宅。カーブを描いているのが興味深い。 山手線が山手貨物線をクロスオーバーする部分には2連の鈑桁が架かっている。道灌山跨線線路橋。なかなかすごい角度の斜橋で、45度未満。カーブ地点に架かっていて、桁をずらすことでカーブに対応している。銘板が見えるが、持ち合わせたレンズでは撮れなかった。橋脚は煉瓦色に見えるが、コンクリート製。 富士見橋を超えると、山手線しか見えない。そこで振り返ったとき、「田端の中里橋付近:謎の坑門?」に書いたものに気がついた。回答を高橋俊一氏のサイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」で得たので追記しておいた。 【写真9】田端跨線線路橋 武蔵野台地はこれだけの高低差がある。住宅地の路地を歩くと、崖際に出られる場所がある。見下ろすと、田端跨線線路橋がある。これもすごい角度の斜橋。もはや、この方向に桁をかけていいのかどうか迷うのではないか。そんなことはないか。 【写真10】 京浜東北線北行の、田端トンネル。坑門はコンクリート製だが、煉瓦時代の名残か、デザインとしてプラスターや笠石、帯石がある。これらに実用性はないだろう。 つづく。
今日が11月14日だと知ったのは夕方だ。しかも父の誕生日だったりする。
(新潟駅にて。ミノルタハイマチックSにトライXを詰めた。子どもながら「白黒は長持ちする」ということだけを知っていたから、そんなフィルムを買った) 昭和57年11月14日、子どもの頃から見慣れた、でも乗ったことがなかった「特急とき」がこの日限りで廃止になった。親しい友人と、ときどき新潟駅に行っては入場券で5時間も6時間も列車を眺めていた小学生にとって、「とき」はいつもホームにいる列車だった。それも、本屋にいちばん近い1番線に停まっていた。 「とき」は14往復運転され、大部分の11往復は183系1000番台、残る3往復が181系だった。1両だけ、151系の生き残りであるモハ181 29があったが、それを見ることができたのは2~3回だけだ。なかなか出会わなかった。私にとって、「とき」、特に181系は新潟を象徴する列車・車両のような気がしていた。その、181系で運転される最後の下り列車、「とき23号」に乗るという願いが叶った。もちろん親に連れて行ってもらったのだ。同行してくれたのは母だ。 きっぷは、発売1ヶ月前に、白新線新崎駅に買いに行った。ここなら硬券だと思ったからだ。ここで、11月12日(金)発の夜行「佐渡8号」、11月14日(日)発の「とき23号」の指定券等を買った。「とき23号」は、最終181系列車にもかかわらず、車両中央部の席がとれた。いまだったら、午前10時に瞬殺だろう。残念ながら、きっぷは準常備券だったが、手書きとスタンプで作られたきっぷを毎日眺めて過ごした。 週休二日でなかった当時、土曜日をどうしたかというと、学校を休んだ。親が恐る恐る担任に説明しに行くと、ぜひ行って来いと言ってくださった。好きなことがあるならどんどんさせろ、と。今は「旅行のために学校を休む」という行為はわりと実践されているものの、その頃、しかも田舎である、異例のことだったろう。まだ新任3年目の、25歳(か26歳)の女性教諭だったが、その先生にいろいろとよくしていただき、その後の私が形成された、とてもいい先生だった。金曜夜、その車両には母と私しかいないガラガラの佐渡8号(それも15日の改正で廃止)で上京し、土曜は一日「国電フリーきっぷ」で各駅下車+入場券購入、日曜は青梅鉄道公園へ行ったあと「とき23号」に乗った。 検査期限の関係ですでに2両減車していた「とき23号」。シートが左右つながっていることに驚いた。でも急行形車両しか乗ったことがなかったので、とても嬉しかった。発車時刻は夕方だったと思う、車窓はほぼ真っ暗、いまにして思えば「最後の181系に乗る!」ことしか考えておらず、事実上初めての東京旅行だったのに、往復とも車窓を楽しむ要素は皆無だ。子どもだったこともあり、乗り心地とか車窓には一切感慨も記憶もない。 (新潟駅にて。到着は2番線) 新潟駅に着いた。固定焦点距離のカメラで夜のホーム撮り、しかも子ども。カットを工夫しようもない。36枚撮り2本で、同じようなカットを撮り続けた。子どもだから。 見ると、大阪行き「きたぐに」の車両を撮影していた。11月15日の改正で14系客車に置き換えられたのだが、改正前日は旧編成で運用されていたのか、といま改めて知った。 いまの時代のように300km離れた距離が身近だったわけじゃなし、こんな、子どものわがままによくぞお金を出してくれたものだと思う。親に感謝するばかりである。「とき23号」に乗った当時は、その日が父の誕生日であることなど知らなかった親不孝者である。 現在なら、こうした新線開業は土曜日に設定されるだろう。しかし、この、通称「57-11改正」は違った。月曜日が改正日だった。だから、小学生の私が「最終181系とき」に乗ることができたのだ。ダイヤ改正は、極力影響が少ない日を選んで行われていたので、当時はそれがいいと判断されたのだろう。「とき23号」が到着した新潟駅も、いたって静かなものだった。車両が回送される前に、出札した。 新幹線は「大宮暫定開業」でしかなかったが、この「57-11改正」は国鉄の大きな転換点の一つとなった。国鉄民営化に向けて、新幹線上野開業の60年3月、そして民営化準備の61-11と大改正が続くが、その第一弾として実施されたというインパクトがあった。これ以前は、敷いて言えば53年10月、規模でいえば43年10月「よん・さん・とお」以来の規模だと言ってもいいのではないか。 なにしろ東日本の交通体系が抜本的に変わったのだ。道路交通に例えてみれば、それまで対日本海側は「下道」しかなく、対東北もその5ヶ月前に片側1車線の東北道が開通したばかりだった東日本地域に、突如として関越自動車道が開通し、東北自動車道が片側2車線で開通したようなものだ。鉄道誌が1年近く、改正前、改正後、さまざまな特集を展開し続けた。 子供心に、ひとつの時代が終わったという印象を持った改正であった。その中で「とき23号」とともに181系が消えていった。
山手線/地形散歩(1)池袋-巣鴨の続き。
(杉本智彦氏制作のカシミール3Dと解説本付属地図と基盤地図5mメッシュで作成) 巣鴨から駒込の間は堀割、駒込から築堤、堀割となって田端に降りていく。巣鴨の堀割の中は標高20mほど、駒込は地平~築堤だけれど標高13mほど、田端は標高4mほど。縦断面図は持っているのだが、手元にないのでとりあえずは5m標高メッシュからの読み取り値。 【写真1】染井橋から巣鴨方向(左=山手貨物線、右=山手線) 山手貨物線の擁壁は石垣、山手線の擁壁はコンクリート。あれ? ここらへんって、現・山手貨物線側が先に開通して、現・山手線側が増設部分だっけ? 要確認、自分用メモ。 【写真2】駒込駅を通り過ぎ、南側から振り返る 跨線橋にひかれませんか。徐々に右上に登っていく、傾いた跨線橋。骨組みはプラットトラス。この部分、Googleのストリートビューで見ると、化粧直しする以前のものが写っている。 大きな地図で見る これを見ると、跨線橋の骨組みはそのままに外板等を張り替えただけのようだ。いいね、不用意に全面改築せず、使えるものはそのまま使うという姿勢。 なお、駒込駅は2006年に改装され、駅入り口などが大きく変更された。Googleの衛星写真では、改装前の状態を見ることができる。ストビューは改装後、現地はまだ囲いが残って工事中なので、これらの情報は鵜呑みにしないほうがいい。 【写真3】駒込駅東口の南側と中里道架道橋 石貼り(いま「いしばり」と打ったら「砭」と出てきて、こんな単語初めて知った)が悪目立ちしていて目がいくが、石垣が隠されている。こんな化粧石張りはイラネだ。 ここは自由通路。写真で言うと奥左に改札口がある。どう見ても人道なのに「制限高2.3m」とある。白い天井は鈑桁であり、その橋梁は「中里道架道橋」という名称だ。支間、わずか5.5m。 後日、ホームから撮影した。 線路に対して道は斜行しているので、少しずつずれて設置されている。この鈑桁は古い。 桁に陽刻がある。赤い文字で書いておいたので、拡大してご覧いただきたい。 LANARKSHIRE STELL Co (LT?←確認できず)D SCOTLAND
SIEMENS MARTIN ACID PROGRESS acid progress。なんだろう。なにを酸で処理するのだろう。 銘板もあるが、塗装でつぶれて読めない。橋梁のメーカーと考えていいのかどうか、銘板が読めないのでわからない。この区間の開業は1903年、基本的に橋梁はまだ輸入に頼っていた時代。水道橋や御茶ノ水のハーコート製の桁は1904年製だ。 LANARKSHIRE STELLについてはこちらに英文の解説がある。興味深い部分だけざっくり訳すと、 #そのホームページのトップサイトはこちら。読んでおいたほうが良さそうだが、まずは足下を固めないと…。とりあえずブックマーク。 また、小倉沙耶さんのサイトによれば、日本の鉄道車両の台枠も製造していたようだし(私はそこらへんの総合的な知識は持ち合わせていない)、検索するとよくヒットするサイト「我が人生の垢」によれば跨線橋の部材としても使われている。 この桁は支間5.5mと短いながら、4主桁である。内側1組はちょうどレールの真下になる。架道橋であるため、桁下空間を確保する必要があり、極力鋼材の垂直方向の寸法を詰めた結果ではないかと考える。 【写真4】中里用水架道橋を北側から ここにも桁下高の小さな架道橋。橋台は煉瓦とコンクリート。その理由を、 サイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」では線増にまつわるのではないかと推測している。こちらのサイトには桁転用の面白い仮説が記載されていて、大変におもしろい。 支間は6m、桁は4主桁。 この「中里用水架道橋」は、その名からして、水路を渡る橋だったに違いない(そこらへんの知識も持っていないため、まったく検証できていない)。 この部分を走行中の電車内から撮ってみた。 【写真5】中里第一隧道を北側から golgodenkaさんより「径間1m以上が橋梁」とのご指摘をいただきました。『鉄道構造物探見』(小野田滋著)に記載されていたということですが、もちろん私も参照している…はずなのですが…(恥 田端まで書くつもりだったが、長くなったのでここで切って、続く。 参考:山手線が渡る橋・くぐる橋 |
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