Einshaltさんとgolgodenkaさんのやりとりの中で、記憶しておかねばならないことがあったのでメモ。
ことの起こりはgolgodenkaさんの下記記事。11月12日。 旧士幌線(幌加~十勝三股)のトラス橋 ?!ハウトラスかと思ったけれど、垂直材が見えない。そんなのあるのかな、と思いながら手元の乏しい文献には掲載なし。そのままにしていたところ、11月20日になって、Einshaltさんが素晴らしい写真を発見。こちら。 「Copy & paste this HTML into your webpage」に出てくるタグに、すでに文字化けした文字が含まれているために画像を引用できないのだが、見れば見るほど奇っ怪な形をしている。「ポストトラス」みたいに、特殊な例としてwikipediaにあったような気がしたので、見てみると、なるほどあるじゃないの。アラントラス。って、この項目を抜本的に修正したのは自分なのだが、書いた本人が憶えていないというオチ。まあ、実例を知らない形式だしな。外国の小説に出てくるちょい役のキャラの名前を覚えてないのといっしょだ。 冒頭の橋の写真は、昭和10年には完成している(注)。写真から見るに、橋脚はPC、欄干は木製に見える。トラスそのものは、木製のようでもあり、鉄製のようでもある。ただ、鉄橋ぽさがないのだ。シルエットだけ見ると、いま現在のトラス橋ならありうるかもしれないのだが、端柱と上弦の結合部、つまり台形の上底の両端が、端柱に対して出っ張っている。また、各部材が、角材のように見える。 (注)
十勝支庁のサイト内にある「上士幌町史 観光・交通」では、この橋について「'23年(大正12年)土木現業所によって、ポニートラスト式の新橋45メートルが完成した。当時としては最高の技術を投入したもので、安全橋と呼ばれ、また川上橋と改称、つぎにコンクリート橋脚になり泉翠橋と命名された。」と書いている。橋脚をコンクリート製に交換することができたのかどうか不明。 また、開発局による糠平国道紹介資料によると、この場所に架かる橋は下記のようになる。 1918年(大正7年)安全橋 1923年(大正12年)川上橋 1928年(昭和3年)泉翠橋(初代)ポーニトラス(筆者注:ポニートラスの誤記) これらのことから、十勝支庁の記事は複数の情報が混同されている可能性がある。おそらく1918年の安全橋、1923年の川上橋とも木橋で、1928年に初めてコンクリート橋脚を備えた木橋になったのではないかと考えている。これらの情報はすべてEinshaltさんに依った。 Einshaltさんが発見した写真では、細い垂直材が見えるので、それは鉄製(鋼製?)だろう。 とにかく、私としては「木造じゃないの?」と思っている。ハウトラスを元にしているように見えるし(ハウトラスとは木橋に適した構造。木材は引張よりも圧縮に強いので、長さが大きくなる斜材に圧縮力がかかるようになっている)。上士幌町という土地柄から、もともと音更川上流は木材資源開発のために切り拓かれた土地でもあるし、ここに木橋がかかっていても、なんの不自然さもない。そういうことで、「木造じゃないの?」と思っている。 以下、関連備忘録。 パーシー・アランpercy allanのこと(1) http://en.wikipedia.org/wiki/Percy_Allan パーシー・アランpercy allanのこと(2) http://adbonline.anu.edu.au/biogs/A070039b.htm ごく簡単に書くと、1861-1930、豪州人、土木技術者。祖父は総督代理(? deputy commissary general)だというので当時の超エリートだ。旋回橋もやってたとある。 パーシー・アランpercy allanのこと(3) http://en.structurae.de/persons/data/index.cfm?id=d002304 資料(3)には図面もあり、そこに「典型的なアラントラス。豪州に適した、豪州産木材を斜材に使用し、垂直材(ロッド)は鉄(のちに鋼鉄)とした形式」というようなコメントが付されている。 == 以下余興。 アラン・トラスの例 ・Hampden Bridge(1895) http://en.wikipedia.org/wiki/Hampden_Bridge_%28Wagga_Wagga%29 ・Tharwa_Bridge(1895) http://en.wikipedia.org/wiki/Tharwa_Bridge ・Victoria Bridge(1897) http://www.flickr.com/photos/29029178@N03/3406011139 パーシー・アランの業績。 ・Pyrmont_Bridge(1902)。トラス橋の旋回橋 http://en.wikipedia.org/wiki/Pyrmont_Bridge ・Glebe_island_bridge(1903)。同。この状態で固定らしい。 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Glebe_island_bridge.JPG PR 上の写真は左岸(南側)から。向かって左が上り線、右が下り線。簡単に書くとこうだ。 1903年(明治36年)、単線で開通。現在の上り線。ピン結合のプラットトラス。 1922年(大正12年)、複線化。現在の下り線を架設。ガセット結合のワーレントラス。 目的は上り線のピントラス見学だったのだが、上り線は見えづらく、さらにピン結合部分は川の上。近づいて見ることができないので、永居のしようがなかった。間近で見てハァハァしたいのに。 パッと見、相当長い橋に見える。河口の幅が広いため、なんと22連。対岸側(右岸側、天王寺側)が第1連で、第1~16連と20~22連は径間(歴史的鋼橋集覧による)22.15mの鈑桁、第17~19連が支間(図面による)62.382m(203フィート9インチ)のプラットトラスとなっている。歴史的鋼橋集覧には、トラスについて「1899年A&Pロバーツ設計、1902年アメリカン・ブリッジ製造となっている。一見、トラスは設計と製造の会社が異なっているように見える。しかし、再三書いてきたように、A&Pロバーツは1900年にアメリカン・ブリッジが併合したので、実質は同じ会社である。鈑桁については、現地の桁に銘板はないし、歴史的鋼橋集覧にも記載がない。どこが製造したのだろう? この10パネルの203フィートトラスは、アメリカン・ブリッジが大量に製造した単線型200フィートトラス、いわゆるクーパートラスとは異なるシルエットをしている。クーパートラスとは、セオドア・クーパーが設計した日本国鉄向けの標準設計トラスである。200フィート単線下路トラス橋の場合、9パネルで、中央3パネルの上弦が水平となる。対してこの紀ノ川橋梁の設計はA&Pロバーツ。10パネルで、上弦は曲線(格点で折れる)を描いている。また、ピン結合ゆえの下弦のアイバーは、クーパートラスでは下弦すべてがアイバーだが、このトラスは中央6パネル分しかない。 なぜ、クーパートラスではなく、わざわざA&Pロバーツ設計のものを採用したのかはまったくわからない。クーパーが日本国鉄の求めに応じて200フィート単線下路トラスを設計したのは1898年10月。この紀ノ川橋梁のトラスの設計は1899年。同じ「200フィートクラスの単線下路トラス」(支間で1フィートしか違わない)なのだから、すでにある設計をそのまま流用すればいいではないか。いや、正確には既にある「紀和鉄道紀ノ川橋梁(現・JR和歌山線、1930年撤去)」の図面を流用したのだが、そちらがなぜクーパートラスを使用しなかったのか。A&Pロバーツも、アメリカン・ブリッジも、通常のクーパートラスを多数製造している。だからこそ不可解だ。 次に下り線を見る。こちらも踏切より。下り線は8パネルのワーレントラス。ガセット結合だ。 まずは橋門構。 この下り線は、歴史的鋼橋集覧によるとやはり22連で、第1~16連と20~22連が73フィート(22.25m)鈑桁、17~19連が62.382m(204フィート8インチ)のトラス桁となっている。どちらも、先に架けられていた上り線のものと微妙に寸法が異なっている。もしかすると、径間と支間が入り交じっているのかもしれない。こちらは、プレートガーダーもインチ表記で残っているのが興味深い。 この紀ノ川橋梁と同じ形の10パネルのピントラスは、ここに書いた例が史上のすべてである。和歌山線に1連、南海に3連。それしかない。和歌山線の1連は、のちに米原駅の跨線道路橋に転用され、1980年まで使われていた。 1975年の航空写真で見てみると、米原駅北東にある、これだろうか。 話を戻して、南海本線紀ノ川橋梁の、ピントラスである上り線は、製造から100年を超えた。老朽化を理由に架け替えの話もあったが、結局は補修でいくことになった。そのあたりの経緯はこちら。 なお、今回のポストにはwikipedia引き写しに見える部分が多々あるように感じる方もおられるだろうが、ご安心あれ、経緯を引っ張ってきたり元の文章を書いたのは私である。 参考文献 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第4報)米国系トラスその1(小西純一・西野保行・淵上龍雄) 明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)米国系トラス桁・その2(小西純一・西野保行・淵上龍雄)
いささか、いやかなりアウェイ感のある話題。相手は京急だ。京急にはマニアがたくさんいるけれど、僕は京急について、体系的な知識がほとんどない。だけど書く。
大きな地図で見る 4月に、YSP横浜南さんにスーパーテネレをオーバーホールに出した。その行き帰りに見つけたのがこの第13号道路架道橋だ。鋼製橋脚であることに驚いた。こんな鋳鉄製(たぶん)装飾橋脚というものは、都心部にしかないと思っていたのに、まさか私鉄線の、それも横浜以遠(という東京中心主義的な言い方を許して)の地にあるとは。 この橋は、京急本線の南太田駅のすぐ東にある。「平戸桜木道路」を跨ぐ。平戸桜木道路は、桜木町駅の下をくぐる大通りで、それを西にたどるとこの架道橋に当たる。上の写真は、その西側(久里浜側)から東(桜木町側)を向いて撮っている。上の地図でわかるとおり、かなりの角度で道路に進入している斜橋だ。40度より小さそう。 桁の左端に銘板がある。 湘南電気鉄道株式会社
● ● ● ●●●●株式会社(←製作社名) ●●●●(←製作年) そうか、この区間は湘南電鉄だったのか。僕は大手私鉄の歴史にまったく疎いので、俯瞰してみようとあれこれしているのだが、相手が巨大すぎて…。閑話休題(←使ってみたかった)。wikipediaで見ると、この区間は1930年(昭和5年)に開業しているので、上記銘板における製作年は昭和4年か昭和5年ではないかと思う。その時期ならば、鋳鉄(?)製橋脚もむべなるかな、である。万世橋架道橋の開通は1928年(昭和3年)だ。 西北側の橋脚と桁の裏側。 向こう側に、角度をつけて経っている三人四脚の橋脚。両端の脚の付け根は鉢巻き状に補強されている。また両端の脚だけ、ゼブラ塗装さsれている。 目を引くのは、横構に大きく開けられた肉抜きの楕円の穴と、その中にあるトラスだ。特にトラスがなければ、相当に軽快感を持つ橋脚となるだろう。 これが何を意味するのか、関心だけは持っているのだが意味がわからない。 神田周辺の橋脚をいくつか見たら、いくつか同様の装飾があるものがあった。平永橋架道橋のものをあげておく。 鉄製橋脚はどれも個性的で、「この橋とこの橋のが同じ!」とはなかなかならないような気がする。そんな状態なので、もっともっと数を見れば何か見えてくるのではないかと期待している。 橋台側の桁は短いので全高も低い。 右奥が南太田駅だ。 この時代の鉄製橋脚の装飾について、nagajisさんがなにかの文献で読んだと言っておられたが、それがわからずに困っている。もしご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご教示いただきたい。
田端大橋 山手線/地形散歩(番外編)のつづき。
今回は田端の西側を見た後、線路の西側を南に向かって歩く。 【写真1】名称不明 【写真2】東台橋 高橋俊一氏のサイト「山手線が渡る橋・くぐる橋」の「田端」に掲載されている旧版地形図を見れば、1921年(大正10年)修正版にはこの道路そのものが見られず、1930年(昭和5年)修正版では細い道が見られる。しかし、これだけの幅には見えない。国土変遷アーカイブで1947年(昭和22年)の航空写真を見ると、現在と同じ形になっている。ちょっと間隔は空くが、1921年以降1947年までの間に、この道路が開鑿されたということになろう。 【写真3】 3階の高さのまま、線路際を歩き、駒込方面を見る。隙間に見えるのが新田端大橋。駅は随分急な崖の下にあるものだ。ここらへんの考察も、「山手線が渡る橋・くぐる橋」にある。 上野方向を見る。 【写真4】田端駅南口 【写真5 3階を西日暮里方向へ歩く。この道は、とても山手線に並行する道とは思えない雰囲気で、ガードレールが草に没していたりする。車幅1車線、クルマはけっこう入ってくる。抜け道的に使われている雰囲気。画面奥に向かって高度を下げる。 【写真6】西日暮里駅が見えてきた 【写真7】間之坂架道橋(西から) 日本国有鉄道
1969 KS-18 WT6827-1 (以下不明) 右は ●●
主ゲタ:SM58 ●●●:SMA41 とある。コンクリート橋台には「1982-3」というプレートがある。 今日はここまで……
山手線/地形散歩(3)駒込-田端の続き。
田端トンネルを見た後、線路を見下ろすことはできなくなる。そのままおとなしく田端駅へ向かう。 大きな地図で見る 田端駅北口には、2本の橋が並行して架かっている。駅寄りの「田端大橋」(二代目と、車道の「新田端大橋」(三代目)である。田端大橋のほうがもちろん古く、震災復興橋ではないにしろ、震災後の東京都市計画道路のひとつとしてここに橋が架けられた。設計者は稲葉権兵衛。当時の橋梁界を率いていた田中豊門下生である。稲葉は、有名な昭和通り架道橋や総武本線隅田川橋梁にも関わっている。この田端大橋は非常にスレンダーな形をしているのだが、それは後述する。 上の写真でひときわ目を引くのが、画面上部の白いPC桁の下路橋だ。これは新幹線。この日は曇り空だったので、悪目立ちしないように白く塗られているのかもしれないと思った。もし、田端大橋をスレンダーに仕上げた稲葉権兵衛なら、あるいはその指導をした田中豊なら、どんな橋を架けていただろうか。目立たないよう、重量感を感じさせぬよう、桁の天地寸を細くして6主桁とかにして上路橋にするなどの方策をとったのではないか。 さてこの田端大橋。残念なことばかりだ。まず名称。 西側(駅舎側)の左右に立つ親柱に、そう書いてある。しかし、そのすぐ右、欄干端部には 田端大橋
と記されている。どっちが正式名称なんだ? なお、東側には「田端ふれあい橋」としか書いていない。 次に残念なのがこれ。 鐘。 得てして「○○すると幸せになれる」「恋が成就する」等の、作られた「いわく」が主張するような鐘になりがち。そして、かなり浮ついた名前がつく。 この鐘も例に漏れず 希望の鐘
だそうだ。 鐘って必要なの? この橋の欄干では、おそらく鉄道を見るために設けたのだろう、透明な窓がある。しかし、その位置が恐ろしく間抜けだ。 もうひとつ。 私が見て「ここが透明の窓だったらいいのに」と思う場所はすべて植栽になっている。本当に残念。 この田端大橋は、東京都市計画道路の一部として計画された、ゲルバー・プレートガーダーである。設計者は鉄道大臣官房研究所第四科橋梁の設計、稲葉権兵衛であるのは先述したとおり。道路の高さを下げ、なおかつ線路からのクリアランスを確保するため、薄い鈑桁で構成している。そして、これが田端大橋の最大の特徴なのだが、全溶接なのである。 昭和一桁というのは溶接がまだ試行錯誤だった時代。溶接艦船が真っ二つに折れたのはどの年だったか。田端大橋を設計した稲葉自身、『土木学会誌』第二十五巻第十二号(昭和14年12月)において と書いているくらい、「鉄道」の「橋」を溶接で作るのは困難だった。そんななか、いわば実験的に、この田端大橋を溶接で作り上げた。また、横桁も左右の主桁を結ぶだけではなく、さらに外側に張り出す形で歩道の空間を作り出している。つまり断面は「十十」となっていて、中央部(H型の横棒部分)が車道、左右に張り出した部分が歩道。「十」の、横棒より上が桁、下が橋脚である。中井祐は『近代日本の橋梁デザイン』の中で、このデザインの目的を「鉄道から見ると、桁が奥に引っ込んでいるので見かけ上、スリムに見える」(要約)という説を唱えている。なるほど。 ところが、現在の田端大橋では、路面側に主桁が見あたらない。主桁を撤去できるわけもないので、上げ底になっているのではないかと思って検索したら、ありましたよ、改修工事の内容が。 『歴史的鋼橋の保存技術に関する研究』(永田礼子)の3ページ目。主桁の上に、橋幅いっぱいの床版を新たに設置している。完全な上げ底橋。なんてバカな補修をするのだ。「歴史的に親しまれてきた橋」として保存するのだから、主桁を隠しちゃだめだろ! タイル張りでレトロ感出すよりも、55年前に作られた鋼鉄製の主桁を見せた方がいいだろ、本物なんだから! なお、この卒論は、私がちょっとアレだと思っている佐々木葉の研究室のものらしい。佐々木氏についてはこちらを参照。しかし、卒論執筆者および内容と、佐々木氏のアレ具合はまったく無関係である。 『土木学会誌』第二十一巻第五号(昭和10年5月)に、稲葉自身が書いたこの橋の解説がある。その当時は「田端大橋」ではなく「江戸坂跨線道路橋」という名称となっている。「江戸坂」というのは、田端駅西にある田端アスカタワーの北を取り囲んでいる坂のことである。 参考:「山手線が渡る橋・くぐる橋」(高橋俊一) 『近代日本の橋梁デザイン』(中井祐) |
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