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YSP横浜南に、スーパーテネレを預けることにした。始動性の悪さを説明するために、乗っていくのではなく、クルマで運ぼうと思ったが、よく考えたらこの重いバイクをエンジン始動せずにハイエースに積むことなどできるわけがなく、結局はエンジンをかけてのせた。

ひさしぶりに積んだ。以前の100系ハイエースは、セカンドシートを前にずらしておいたために、セカンドシートを畳まずに詰めたが、この200系では無理だ。まあ、もう、バイク3台+5人乗車、みたいなことはしないで、これでいい。

それにしても、重かった。230kgくらい、つまり人が4人乗ったくらいなものなのに。首都高はかなり抑えめに走った。その首都高から、天王洲のふれあい橋が見えた。ここね。さすがに走行中に写真は撮れなかった。




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1920年代の日本の政治をおさらいしたい。単語と内容は覚えているが、流れが掴めなくなっている。把握し直さねば、鉄道史も金融史も村田鶴も見えてこない。自分の知識を振り返ると、政友会については誰と誰、みたいにある程度は言えるのに、立憲民政党(憲政会+政友本党)についてはスラスラと言えない。

民政党政治についてもう少し知れば、滋賀県の土木事業の停滞、血盟団事件、そうしたことが、なにかつながってきそうな気がする。血盟団事件で標的となった民政党の井上準之助は、2期に渡る日銀総裁を経て3内閣(第二次山本、浜口内閣、第2次若槻内閣)で蔵相を務め、基本的には超均衡予算、そして1930年の金解禁につながるような財政政策をとっていた。

ききかじりで書くが、ケインズ理論、ニューディール政策は、多大な公共投資で景気回復を目指すものだが、1927年の金融恐慌の時期(若槻内閣)に蔵相であり、1929年の世界鋼橋橋高恐慌の時期(浜口内閣)にも蔵相であった井上が主導し、それらとは逆の政策を行い、国内をかき回しながら1931年を待つことになる。ちなみにアメリカも、その少し前だが、ハーディング大統領(1921-1923在任)が、いろいろと無茶をやった。例えば、親英的な銀行家の「アメリカは金を出し、欧州は兵を出した。負担を平等にするために、欧州各国が戦費調達のために負った債務は放棄せよ」という意見を聞かずに、回収した。そのため、結果的に連合国は敗戦国であるドイツから取り立て、第二次世界大戦への導線を作っている。

もし、ここで井上が逆をやっていたらどうなるか。井上は団琢磨らとともにウォール街とも親交があった。ウォール街は「東洋の英国」日本に親近感を持ち、中国を信用していなかった。日本に対する借款など、いくらでも用意してくれたに違いない。JPモルガン商会の3代目(その名称になってからは2代目)のジャック・モルガンの右腕、トム・ラモントらとの深い親交もあった。ラモントはムッソリーニ政権に借款を用意している。

井上が逆をやっていたら、政友会と民政党の経済政策が似ているものであったら、堀田義次郎も更迭されなかったかもしれない。そしたら・・・。いや、滋賀県の政治史などまったく知らないので、ここでやめよう。


『小説吉田学校』の戦前版(戦前に刊行されたという意味ではない)ってないんだろうか。
国鉄時代の簡易線と呼ばれる路線は、軸重12tである。軸重を12tに抑えたディーゼル機関車ができず、そうした路線の無煙化はかなり遅れた。もっとも、そうした路線はいわゆるローカル線であり、積極的に無煙化しようとしたのかどうかは怪しい。簡易線とは、下記のような路線である。

・標津線
・飯山線
・大糸線
・小海線
・日南線
・大隅線

これらの路線には蒸機機関車ならC12かC56、ディーゼル機関車ならDD16のみが入線した。原則として。というのも、路盤の規格は、通常では枕木の本数や道床の厚さであるから、徐行ならok、みたいな特例がある。それ以外で、簡易線を規定するのは、橋梁の設計活荷重である。基本的に、地面の上に線路がある部分に特例はあっても、橋梁に特例はなかったようだ。


後年になって、地面の上の線路は路盤に手が入り、橋梁には改修が加えられたものがある。また、橋梁は、架け替えの際に、---これはわざわざ規格の低いものを改めて設計せずに、既存のものを流用したからかもしれないが---より大きな設計活荷重の桁の置き換えられたものも多い。

1995年に大糸線は豪雨によりいくつも橋梁が流出するなど甚大な被害を被るが、復旧時に架けられた桁は、なんと設計荷重EA17である。電気機関車の軸距基準で軸重17tの桁。大糸線には大型の機関車が定期的に入線するわけではないのに、この規格である。それでも、DD16が使用されていたのは、そこにあったものをそのまま使い続けたためであろう。冬期は軸重が15.5tになるDD15が入線することはあった、というか多分今もある。



そうした簡易線群のなかで、大糸線の桁を見ると、時代を経るに従い設計活荷重が増大しているのがわかる。すなわち、下記のような変遷だ。

●戦前は、設計活荷重10t(KS10)~12t(KS12)
・松川橋梁(白馬~信濃森上)1932年。KS12
・第一下姫川橋梁(小滝-根知)1934年架設、1935開通。KS10
・土谷川橋梁(南小谷-中土)1934年。KS10とKS12
第二姫川橋梁(白馬大池-千国)1935開通。素性不明のKS15桁が1桁混ざる
親ノ沢橋梁(白馬大池-千国)1935開通。山陽形のKS15桁が1桁混ざる

●戦後は、設計活荷重12t(KS12)
穂高川橋梁(穂高-有明)1948年架け替え・開通。ハンディサイドのプラットトラスがKS12、前後の鈑桁はKS15
第一姫川橋梁(信濃森上-白馬大池)1954年架け替え。アメリカン・ブリッジのプラットトラスがKS15。鈑桁もKS15
・親の沢陸橋(白馬大池-千国)1955年。KS15。
高瀬川橋梁(信濃常盤-南大町)1958年架け替え。パテントシャフトの100ftトラスはKS14(に改造?見なし?)、RC桁はKS16。

●徐々に増大
・第3平川橋梁(飯森-白馬)1962年。RC桁。KS14
・第3姫川橋梁(千国-南小谷)1974年。トラス桁。KS16
・平川橋梁(飯森-白馬)1984年。RC桁。KS14

●平成の世
・災害復旧後の桁(JR西日本エリア)は、EA17
・架け替え後の桁(JR東日本エリア)は、EA17


これらのことからわかるのは、戦前はKS10、戦後にKS12、後年KS14以上の桁になっているということ。戦前にKS12を用いたり、終戦後にKS15を用いたのは、どこかからの転用桁だったか、共通設計だから過剰品質(?)のものをそのまま利用したのか。そんなところだろう。KS12の桁にKS15がつながっていれば、KS12が優先される。平成の世になってEA17であるのは、やはり設計流用であろう。


ここまで軸重軸重と言ってきたが、入線できる機関車への制限は、軸重によるものだけではない。たしか、全体の重量も問題になるはずである。設計活荷重は、KS15なら1D形蒸機機関車+炭水車(2軸台車書ける2)の重連で、かつ蒸機機関車の動輪の最大活荷重が15tであるものに耐える設計、ということであるが、現実にはそういう形に機関車ばかりではない。そこで、橋梁ごとに、基準を設け、この橋梁ではこの機関車はok、この機関車はダメ、みたいなことの取り決めがあったようである。

軸重なんてのは机上の空論の部分があり、 D51形蒸機機関車のの従台車を2軸化し、「軽軸重化」したのがD61だと大多数の人は解釈している。これで最大軸重が14.3t→13.8tへと軽くはなった。しかし、従台車がでかくなった分、機関車重量は2t増。 ということは、支間が全長を超す橋の上に乗ったとき、桁の両端に架かる荷重は D51よりD61のほうが大きくなっている。こうした矛盾に対応すべく、取り決めがあったようである。「はずである」「ようである」というのは、どこかで読んだのだが、そのソースを忘れたからである。請御容赦。


大糸線に限らず、簡易線の橋は、一度すべてを見てみたいと思っている。そして、小海線にはいまだにDD16しか入らない理由を確かめてみたい。



大糸線の橋梁の活荷重は、上記リンク以外に下記サイトの写真を参考にした。
参考サイト:大糸線Oito Line
http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/no3-6.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/hasi2.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~pb3i-itkr/hasi3.htm

今日、中国の地図を逆さまに見る機会があった。当然、そこには漢字が逆さまに見えている。その中で、「昆」が見えてきて、突如上下に分離した。よく見ると「日比谷」の「日比」である。どこかの地名ではあるのだが、思い出せないので「昆虫」とする。

20100310-2.PNG










これでは、あまり、同意を得られないかもしれないが、こうしたらどうだろう。
20100310-3.png

















そら、とたんに「日」と「比」が分離しはじめる。遠近感は偉大だ。


改めて「昆」と対峙してみる。
20100310-4.PNG

















右向きの寸詰まりのロボットみたいに見えてこないだろうか。「比」が、ファイティングポーズをとった腕と、おもちゃのロボットの脚、みたいな。手塚治虫のロビタとか、R2-D2(よくしらない)とか。それらが押し問答しているようなイメージが思い浮かんだ。時折、後方で飛び上がったりするような。そんなイメージ。

どうだ。(なぜか静止画になってしまう。ぜひクリックしてご覧いただきたい)
20100310kon2.gif




















このイメージの原点がなんなのかは掴めていない。





DVC00040_R.JPG
身近すぎていつも素通りしている新永間高架橋が架道橋となる部分の鋼製橋脚。借り物の携帯のカメラで撮ってみた。現地では+2補正で撮っていたので、色が飛びすぎている。実際にはそんなことする必要はなかった。


DVC00045_R.JPGこのように意匠を施された鋼製橋脚は都心部各地で目にするが、果たしてそれらは全部同じなのか違うのか。それを、これからしばらく自分なりにおっかけてみようかと思う。同じだね、で終わるかもしれないし、なにか発見があるかもしれない。

























DVC00042_R.JPGそれはそれとして、ここにかかっている鈑桁を適当に撮ってあげるだけあげようとしたが、やめた。ちゃんとしないと怒られる(誰に?)。

下から見上げても、どの桁がどの線に相当するのかがわかりにくい。新幹線用は箱形桁(ボックスガーダー)なので割愛するとして、東(列車線側)から、3主構・2主構・2主構・2主構・2主構なのだ。その上に、3組の複線と2組のホームが乗る。

いつか、ちゃんと撮影して、観察していこうと思う。



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