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書名ではなかった。
財団法人研友社刊の『鉄道技術研究資料』1957年Vol.14、No.12に掲載された論文であった。

国会図書館にあるじゃないか!!!

以前訪ねたときは記事名をタイトルとして検索したことになる。
それでは見つかるまい。
おっと、1957年官公庁(に準ずる)刊だから、1957年掲載分なら著作権は切れているな。


著者の西村俊夫氏は、2009年10月27日に逝去された。89歳であった。
共同通信の配信が残っている。
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(上図は第3相沢川橋梁の位置)

酒匂川を遡ると、丹沢湖に発する河内川との合流点より上流を鮎沢川と名前を変える。そのまま御殿場市内を経て富士の裾野に至る。鮎沢川は相沢川ともいい、御殿場線の橋梁名は「相沢川」をとっている。もちろん、昔は「相澤川」という表記であった。

御殿場線は鮎沢川を合計8回渡るため、おそらく橋梁も第8まであると思うが、参考資料たりうる『勾配・曲線の旅』を別の場所においているためにいまは確認できない。そのため、今回は土木学会の資料や『鉄道ピクトリアル』に記載のある第5までを対象とする。第6~8は論文にないので鈑桁あるいは開渠ではないかと推測する。第1と第2は、戦前に単線化された際に撤去された「旧上り線」の橋梁なので、現存しない。第1~第4は谷峨~駿河小山間、第5は駿河小山~足柄間にある。

1901年、複線化と同時に荷重増加対応として橋梁も架け替えられた。マレー式機関車導入のためである。といっても、最初に導入されたタンク式の4500形の軸重は12t未満。国鉄時代でいう簡易線規格である。しかし、その後に導入されたテンダー式の9020形の軸重は15tを越えている。

第1相川橋梁(現存せず)

●最初に敷設された線。のちの上り線。現存しない。
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)では200フィートトラスは「天龍川ニ架セルモノと同型ナリトス」としており、また鋼鉄製としているが、『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第1報)200フィートダブルワーレントラスを中心として』(小西純一・西野保行・淵上龍雄)によれば、天龍川橋梁は錬鋼混合桁とある。上下の弦材や端柱に鋼鉄を使用し、腹材などは錬鉄を使用したものである。これと同じであれば、この初代第1相沢川橋梁も混合桁である。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスE
1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線
橋梁は存在しない。

第2相川橋梁(現存せず)
20091229-3aizawa2.jpg写真は残されている橋台。

●最初に敷設された線。のちの上り線。現存しない。
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
第1相沢川橋梁に同じ。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスF
第1相沢川橋梁に同じ。1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線
橋梁は存在しない。

第3相川橋梁
20091229-1aizawa3.jpg現在線。かつて複線化の際に増設された「下り線」。


20091229-2aizawa3.jpg上写真の反対側。手前に撤去された旧上り線の橋台が見える。

●最初に敷設された線。のちの上り線
・初代 1889年、200フィートダブルワーレン 鋼鉄?(←錬鋼混合桁と推測)
第1相沢川橋梁に同じ。
・二代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスG
第1相沢川橋梁に同じ。1943年、単線化の際には上り線が撤去されたが、トラスは存置。1953年、樽見線に転用された。

●下り線(現在線)
・初代 1901年、200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスH
・二代 1978年(?) 200フィートワーレン。現在線。

第4相川橋梁

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
上路プラットトラスは、端部の斜材がハの字形になるが、トレリストラスはすべての斜材が逆ハの字形になる。『本邦鉄道橋ノ沿革ニ就テ』(久保田敬一)に掲載されている「図十四」がその図面である。設計は原口要。日本人設計による鉄道用トラス橋としては二番目のものであり、第5相沢川橋梁とあわせて3連が作られた。。一番目のものは幌内鉄道の入船町陸橋がその嚆矢とされ、設計は平井晴二郎。掛け替えの際に撤去されたこの橋梁の材料を利用して創られたのが、現在の磐越西線長谷川橋梁である。
42b7155c.jpg長谷川橋梁。このトラス部分に第4相沢川橋梁のトレリストラス桁の部材が転用されたとのことだが、まったく原型をとどめていないらしい。

・二代 不明 現在はプレートガーダー。

●上下不明
・初代 不明

上下どちらが残されたのかは不明だが、 現在は上路プレートガーダー。


第5相沢川橋梁
02_04_0253.jpg
(土木図書館蔵。関東大地震震害調査報告掲載写真)

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
第4相沢川橋梁と同じ。1914年に水害で撤去。
・二代 不明 

●上下不明
・初代 1889年、105フィート上路トレリストラス 錬鉄製
第4相沢川橋梁と同じ。1914年に水害で撤去。
・二代 不明 

上下どちらが残されたのかは不明だが、 現在は上路プレートガーダーである。
(写真の参考:『自転車放浪記』の記事


第4、第5の経路や変遷については、後日調べるつもりではある。


(上記地図は酒匂川第3橋梁)


御殿場線には、開通当時としては長大であった橋梁が多数架けられた。酒匂川に三つ、鮎沢川(相沢川)に五つ。

これらの橋梁は、まだ東海道本線ルートが御殿場経由だった頃に複線化され、丹那トンネル開通後に単線化され、1970年代に水害に見舞われ、などするうちにそれぞれが複雑な経緯をたどっている。各種文献には、「その橋」についてのみ書かれているので、なかなか全貌を把握できない。

今回は、山北-谷峨間の酒匂川の3橋梁について書く。
この区間の開通は1889年(明治22年)、複線化は12年後の1901年(明治34年)である。
以下は、混乱を避けるために橋桁製造年ではなく、開通年である。

現在の状態をアニメ化したサイトがあった。すごい。

第1酒匂川橋梁
20091227-s1.jpg(左が国府津方)
●のちの下り線
・初代 1889年 200フィートダブルワーレン
・二代 1901年 200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスA
・三代 1984年 200フィート平行弦ワーレン
(小西純一・西野保行・淵上龍雄氏による『明治時代に製作された鉄道トラス橋の歴史と現状(第5報)』では二代を1983年撤去としているので要調査)

●上り線。のち撤去、転用
・初代 1901年 200フィート曲弦プラット(シュウェドラー) A&Pロバーツ製…トラスB
1944年廃止。そのまま放置。のち樽見線揖斐川橋梁に転用し、1953年開通。こちらを参照。

第2酒匂川橋梁
20091227-s2.jpg(右が国府津方)
●下り線。のち撤去。
・初代 1901年 100フィートポニーワーレンの3連。鋼鉄
・二代 1915年 1944年廃止。
1875年ハミルトン製の二代六郷川橋梁の複線桁を単線化して3連を転用。『関東大震災と鉄道』(内田宗治著)によれば、戦時中に下り線を単線化した際、うち2連をクワイ川橋梁に転用したとある。


●のちの上り線
・初代 1889年 100フィートポニーワーレンの3連。錬鉄
・二代 1915年?
1875年ハミルトン製の二代六郷川橋梁(100フィート6連)の複線桁を単線化して1連をここに転用。また、この二代目の撤去後の桁のうち1連がJR東海三島研修センターに、1連が明治村に保存されている。

・三代 1965年 100フィート3連上路プレートガーダー。

橋脚は複線用である。


第3酒匂川橋梁
20091227-2.jpg(手前が国府津方)
有為転変の第3である。
●下り線。のち移設。便宜的に、沼津方を(1)、国府津方を(2)とする。
・初代 1889年 ←沼津100フィートポニーワーレン(1)+200フィートダブルワーレン(2)国府津→
・二代(2) 1901年、200フィートダブルワーレンを200フィート曲弦プラット(A&Pロバーツ)に架け替え…トラスC
・二代(1) 1916年、100フィートポニーワーレンを98フィート平行弦プラット(川崎造船)に架け替え
・三代(1)(2) 1967年 旧上り線の線形を利用して、腹付で架け替え。98フィート平行弦プラットは流用。200フィートは平行弦ワーレンに架け替え。旧200フィート曲弦プラットは存置。両者を並べた写真が鉄道ピクトリアル1971年5月号にある。二代、三代の桁ともに1972年7月12日に水害で流失。
・四代(2) 流失した三代の(2)を引き上げ、補修して使用。
・四代(1)天竜川橋梁で廃橋となっていた1914年横河橋梁製205フィート10インチ曲弦プラットを剛結合に改造して流用。

●上り線。のち撤去
・初代 1901年、100フィート(川崎造船)+200フィート曲弦プラット(A&Pロバーツ)…トラスD
1944年廃止。1953年に2連とも樽見線に転用。
20091226.jpg『モーニング』に不定期連載中の『カレチ』が単行本化されたので買ってきた。読みながら、参考文献として壇上完爾氏や坂本衛氏の著書があげられており、内容もそうしたものなので、まあそうだろうな、と思っていた。

ところが、本書の巻頭に、参考文献として『出発進行!』萩原良彦著、とある。

やられた、と思った。
そして、著者の池田邦彦氏は「知っている人」である、と強く感じた。

読んだことのなかった(たぶん掲載時は読み飛ばした)ちばてつや賞受賞作『RAIL GIRL』では、よりによって藤井松太郎の名まで出てくる。こちらの作品は、ここで終わりか、と思わせておいて実はまだ物語り半ば、そこからまた盛り上がりにつながるという非常に凝った、素晴らしい作品である。


かつて漫画編集の末席の末席を汚していた私は、もしまた漫画編集になったなら、萩原氏の著書を、某漫画家に漫画化してもらいたいと思っていた。国鉄の現業が書いた作品は数多あり、現在でも交通新聞紙上で作品が掲載されたりしているが、内容、文章ともに壇上氏と萩原氏がダントツだと思っている。萩原良彦氏についていえば、著書の中でも『臨時停車』と『発車5分前』が抜きんでていると思う。後年、ドキュメントの分野も手がけ、『上越新幹線』なども手がけたが、残念ながら吉村昭にはなれていない。


『カレチ』に戻る。
これになんとなくのシンパシーを感じるのは、舞台として北陸本線が多く出てくるからだろう。第1話からして、大阪(以遠)から「白鳥」に乗った乗客が東三条で弥彦線に乗り換えるのである。一人の乗客のために、列車を30分遅らせる話である。いまであれば「タクシーで行っても数千円だろ」ということにもなろうし、そもそも大阪から新潟へは飛行機だろ、ということにもなろう。でも、当時はそうでなかった。大仰な言い方になるが、これは、同時代に生き、中長距離に鉄道を使っていた者でなければ理解できない感覚であると思う。

『カレチ』は、今風の浮ついた鉄道漫画ではない。いい意味での昔気質の漫画作品である。通常、漫画で鉄道車両やバイク、クルマなどを描くときは写真をトレースする人が多いものだが、本作品では完全に心象から絵を起こしている。作品中に出てくる構図は、カメラでは撮影できないパース、アングルだったりする。鉄道車両のスタイルを完璧に頭の中で組み立て、それを絵にしている。そこが素晴らしい。もちろん、物語もテンポも素晴らしい。

絵は、定規を使わずに直線を描いている。スミはほとんどなく、各種斜線の濃淡で陰影を表現し、トーンは最小限しか使っていない。それゆえに絵が優しい。

表紙はED74である。

20091022.jpg再掲となるが、総武本線の神田川橋梁である。

場所はここである。


なんだかバグって表示されているように見えるが、あえて通報はしない。



20091225-1.jpgこの橋脚が、本橋梁の特異な点である。すなわち鋼ラーメン構造。

見よ、このリベットの数を。2本の桁が結合されている。桁それぞれは、外見から推察する限り、鈑桁と同じ作りか。上面と下面にあたる部分に腹材をあて、その結合にL字型のチャンネルを用いて鋲接している。スティッフナーに類するものはなさそうだが、それに相当する位置にリベットの列は見える。


20091225.jpgそして、かわいいよヒンジ。


まもなく、製造から80年になる。私が死ぬころまでには、これらの橋も架け替えられるのだろうか。それともいっそ、ルート変更されたりするのだろうか。見果てて死にたいと思う。


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