いまのところ、問題は始動性の悪さだけ。
考えられるのは、 (1)キャブの始動に関する部分の不調 (2)イグニッションの劣化で火花が弱くなっている のどちらか。 (1)の対策として、スターターエアジェットの清掃などをしたが、 一向に改善しないため、(2)を疑い出す。 どちらも一気にやってしまおうと思い、 キャブとイグニッションを交換することにした。 まず、部品取り車からキャブをはぎ取り、移植。 左が約8万kmの従来品、右が約4万kmの部品取り車のもの。 ヤレ方は同じくらいである。 部品取り車は7~8年は不動状態であるため、 一応チェックしてみた。 キレイである。 余計なことはせずに、そのまま組み付けた。 なお、ニードルのクリップは、以前と同じく2段目に変更した。 PR
『劒岳<点の記>』における新田次郎の視点は一貫している。
唯物的な視点である。 立山信仰の中で「登るべきではない山」とされていた劒岳に、 これでもかこれでもかとそういう視点を投げかけ、 立山信仰を削り取っていく。 「美」ということは一切語られなくなっていく。 玉殿の行者も、列車の中で出会ったその仲間の行者も、 「登るべきではない山」という視点そのものを拒絶する。 あまりに宗教的な存在であるはずの行者というものが そうであるという時点で、これは強烈な印象となる。 長次郎や鶴次郎は、ただただ現代風である。 柴崎は、義務感と現代風とを併せ持つ。 ついに劒岳に登頂する。 しかし、三等三角点は造れず、よって「点の記」は存在しない。 このことが、どれだけ柴崎らをくじいたことか。 劒岳山頂には、はるか昔に捧げられた錫杖と鉄剣があった。 これらは、ビヨンド・ザ・「美」の「崇高さ」とは別な意味での崇高なものではあるが、 柴崎らはそれを崇高な存在から引きずり下ろそうとする。 上司たる陸軍陸地測量部はその最たるもので、 「先人があったのなら、劒岳登頂なぞ偉業ではない」という立場をとる。 では、同書において、美の上に崇高さはあったのか? 私は「あった」と考える。 劒岳登頂を不可能たらしめる岩の存在は、完璧な「美」であろう。 そして、山頂に三等三角点を設置できず、 陸地測量部に劒岳登頂のことを理解してもらえず、 後日も劒岳に関することはほとんど語らず、 ただひたすらに胸のうちにしまっていた柴崎。 その「胸のうちにしまっていた」ことそのものが、 「美」を完全に超越したもとして描かれている。 すなわち「崇高さ」である。 これを胸のうちに秘めたまま、柴崎は老いてゆく。
先日、伊豆へ持って行ったスタータ。
現地でつないでも、ブースト機能が作動しなかった。 それはバッテリーが完全に死んだからだと思っていたが、 今日、同じことをしようとして気がついた。 フューズがとんでいた。 伊豆では雨天の中ということもあり、気がつかなかった。 ランツァで近所のオートバックスに5Aのフューズを買い出しに行ったら、 ETC設置工事待ちか、入場待ちのクルマが6台ほどあった。
3日目。
土合駅を始発(?)で出発し、自転車を置いた駅へ戻る。 あとは実家へ向かうのみ、気負いもなく走り出す。 小千谷のあたりで登り返しがあるが、あとはたいしたことはなく 淡々と17号を走り、長岡から8号を走り、 燕三条駅でちょっと長い休憩。 昼食をとった気もする。 バーハンドルに対した腕が痛かった。 8号をさらに東上し、いつしか知っている道に出た。 いわゆる普段着だったし、自転車に荷物を積んでるわけでもないので 新潟市内に入り込めば、「家から買い物に出てきた」程度の格好に見えただろう。 午後もそれなりに過ぎたころ、実家でペダルを止めた。 その後、東京に乗って帰る元気はなかった。 なによりも尻が痛かった。 トランクスのセンターの縫い目が、尻の割れ目の両側にこすれ、 あやうく尻の谷を挟んだ尻肉から血が出そうなくらいであった。 横浜から1泊2日で帰省していた友人Aは、 1週間ほどかけて横浜から京都経由で帰省していた。 腕がサンバーン状態で、蝋のようになっていた。 すごいとは思ったが、次回は自分も、とは思わなかった。 そう思うには、この3日間はちょっと辛すぎた。 結局、電車で帰京した。 それから1年、東京では自転車なしで過ごした。
翌日は晴れた。
前日の体たらくから、その日のうちに新潟に着くことは不可能と考え、 目標を「三国峠を越え、行けるところまで」とする。 高崎を出てすぐ、コンビニで朝食と飲料を買う。 ウェルチの高級ブドウジュースを買ったことだけを、なぜか覚えている。 渋川、沼田と順調に通過。 月夜野あたりからいきなり上りが急になる。 前述したとおり、水筒を持っていない。 350mlの缶飲料を買っては飲んだ。 飲みすぎると下痢するとはわかっていながら、飲んだ。 最初はスポーツドリンクやウーロン茶、 次に柑橘系、たまにコーラ類。 時には500mlを飲み干した。 群馬県は三国コカコーラなので、「アクアマリン」の飲料が目につく。 「アクアマリン カボス」があったのに感動した。 懐かしい銘柄であった。 テレビCMの歌を思い出しながら飲んだ。 缶飲料を信じられないほど飲んだ。 20本は超したはずだ。 しかし、汗の量も信じられないほどなので、 ほとんど小用を足さずに下痢もしなかった。 ということは、7リットルもの汗が出たということだろうか? まだ500mlのペットボトルが世の中に出回るかどうかの頃のことである。 水筒といえばエバニューのポリタンクが当然であり、 自分にとっての水筒とは720mlのグランテトラであった。 それさえ持ってきていれば…… 猿ヶ京のあたりから、いよいよ峠らしくなる。 押したくなるような急坂をあえぎながら上った。 時折、自分を追い越すクルマこそあれ、自転車はなかった。 対向してくる自転車もなかった。 「ドライブイン国境」を通過し、三国トンネルに達した。 ここが標高1000mを超え、トンネルも長さが1km以上あるということは知っていた。 自転車にライトはついていたが、それが真っ暗闇で役に立たないのは 中学1年生のときに新潟県柏崎市の信越本線旧線のトンネル内探索で 経験済みであった。三国トンネル内は暗そうである。 歩道もない・・・・・・。 突入。 路肩は泥が堆積していた。 だから、少し車道にはみ出しながら走った。 全長1218mだから、時速20kmで走っても3.654分かかる。 クルマに追い越されるときが非常に恐怖であるのだが、 それが約4分続くいた。 突破。 「突破」というほどのことではないのであるが、 自分にとっては紛れもなく「突破」であった。 新潟県に入った。 なんという下り坂であろうか。 怖いくらいのスピードで下ってゆく。 左手に苗場プリンスホテルが見えた。 こんなバカでかい建物が、こんな山奥にあるなんて。 まだスキーの人気が非常に高かった頃である。 苗場プリンスホテルを過ぎると、すぐに右カーブで上り坂が始まった。 なんでまた上るのだ??? 必死の思いで三国峠を越え、一気に下ってきた身にとっては 理解しがたい状況であった。 いまは、ここが清津川支流の浅貝川の水系であり、 それがいったん別の支流である二居川沿いに移り、 また清津川に戻り、今度は本格的に芝原峠を越えて 湯沢の街中、即ち魚野川水系に移る、ということを知っているが、 当時はまったく知らなかった。 上り坂に一人憤慨しながら火打峠を越え、二居川沿いに出て 下り坂で一息つき、二居トンネルを潜ると、今度はもっと本格的な上りである。 おいおいおい・・・ さらに憤慨するも、このあとの芝原峠ではもう諦観した。 もうどうでもいいや。 まさか、ここ二居にこんな道や橋があったなど、思いもよらなかった。 それから、石打まで走って、やめることにした。 ライトがあるわけでなし、まだ明るいうちに行動をやめたほうがいい。 と書いて、石打のわけがない。 たしか、平屋の無人駅だったはずだ。 でも大沢でもない。 となると塩沢か? とにかく誤って記憶されていたようで、正確なことは思い出せない。 寝床をその駅にしようかと思ったが、落ち着かなかったのか、 土合駅で寝ようと思った。 土合駅は、高校2年のときに白髪門~朝日~清水峠~十五里尾根と歩いた際、 寝床になっていることを知っていたためである。 上越線の電車で土合駅に向かう。 おそらく着いたのは午後8時すぎ、すでに駅寝している山屋がたくさんいたが、 末席に転がった。 銀マットだけ持っていたような気がするが、これは定かではない。 新聞紙でもしいたかもしれない。 シュラフは持っていなかった。 |
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