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http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/75/ccb-75-11/c29/ccb-75-11_c29_4.jpg

上記画像は、鯨波~柏崎間である。
画面左手が鯨波方面、右手が柏崎方面である。

場所はここである。

大きな地図で見る
中心の右側にトンネルがある。
これが大久保隧道である。
その右側にアンダーパスがある。
親戚の子供たちで集まったとき、ここをクルマでくぐるたびに
「アー」と叫んでいた。そのため「アートンネル」と呼んでいた。
記憶では、北側の坑口(?)が方形、南側のが円形であった。

柏崎側坑口のそばに、線路の監視小屋があった。
電話ボックスほどの大きさの掘っ立て小屋で、
中におばちゃんが座っていて、汽車の通る時刻を教えてくれた。
しかし、あるときからいなくなった。
掘っ立て小屋は無残な姿となり、やがてなくなった。
あんなところで線路を監視して、なんだったのだろうか。
当時、非常に大きな勢力をもっていた国鉄の労働組合の活動の一環だろうか。



2005年7月の地震の直前に、ここを二十数年ぶりにたずねた。
トンネルはいまだにその形のままだった。
懐かしかった。

周囲を歩いてみたら、なんと茅葺の家があった。
田があった。
沼があった。
驚きであった。

こうして航空写真や地図を見ると、当時、つまり小学生程度の
自分の行動範囲がいかに狭いものであるか、
周囲への関心がいかに低いものであるか、嘆きたくなる。


この近くに母方の実家があった。
ここには、建て直す前の実家が写っている。
のちに「米山台」となる宅地は、まだ造成されていない。

港もまだ奥行きがない。
やがて、埋め立てが進み、デンカのプラントができ、
テトラポッド製造が始まる。
丸胴の4本足のやつである。
「人」の形をした型を4つ組み合わせるとテトラポッドになる、
という知識を得たのは、それを見た小学生のときだ。
いまプールがある場所には、できたてのテトラポッドが並んでいた。
型の隙間に流れ込んでできたバリを折りとったりした。

また訪ねてみようと思う。
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忘れてしまわないうちに書いておく。
自分自身の、おそらく最古の記憶である。
それは、親も覚えているできごとである。

おそらく2歳かそこらであろう。
足でこぐクルマに乗って家を出てしまい、帰ってこれなくなった記憶である。
その足こぎクルマとは、おそらく内側にクランクのあるタイプ。
これで、自宅からわずか100mあたりまでひとりで出てしまった。
記憶にあるのは、見知らぬ(?)町をひとりでガラガラとこぐ景色である。

泣きわめいていたのであろう。
近所の人が連れてかえってくれたらしい。
このあたりの記憶はない。


いまでも、実家周辺は数百メートル先の家々まで知り合いであり、
もしいま、実家に住む私の姪や甥が同じことをしても、
同じ人が連れて帰ってくれるかもしれない。
そういう土地で育った。

この歳になって実家に帰省すると、そうした近所の機微を強く感じる。
そして、それがいま住む東京周辺の常識とかけ離れていることを感じる。

おかずをたくさん作ってしまったら、いちいち持っていく。
そんなコミュニティは、姪、甥の世代まで続くのだろうか?



剱岳の正字の篇、すなわち「検」の旁である。
なんだか歩き出しそうである。
しかも、左の「人」は左へ、右の「人」は右へ。
インベーダーの一番上のキャラにも見える。



文字のゲシュタルト崩壊とは異なるが、単語もそれと同じような作用を起こすことがある。
この「つるぎ」である。

かつて、大阪と郷里・新潟とを結んでいた夜行列車の名称であった。
時刻表に慣れ親しんでいた身として、「つるぎ」は常に意識していた。
小学生のとき、初めて東京の交通博物館に行った際、
かつて存在していた「つるぎ」のヘッドマークのピンバッジを買ったほどである。
そのデザインは秀逸であった。

しかし、「つるぎ」?
ふといまになって疑問に思う。
新潟県人に馴染みのある山名ではない。
剱岳の位置を言える新潟県人など、どれほどの数がいるものか。
その名称を当然のものとして受け入れていた小学生の自分に、
強烈な違和感を感じる。
私の中では、ゲシュタルト崩壊と同カテゴリの精神作用である。

なお、列車名が「つるぎ」となったのは、元々は富山までの列車であったのが、
新潟まで延長された際に、そのまま踏襲されたものである。
最初から新潟行の列車に「つるぎ」と名付けたわけではない。
『廃道本』におけるnagajis氏の記事によれば、18世紀初頭の自然崇拝思想の中で、
エドマンド・パークなる思想家は「美」と「崇高さ」を切り分けたという。
「美」の上位に「崇高さ」があり、「崇高さ」とは恐怖を伴う美であるという。
新田次郎の『劒岳 <点の記>』を読んでいて、これを想起した。

主人公が、劒岳初登頂を試みる日本山岳会の考えについて触れる場面である。

時間と金を使い、危険な目に会っても尚未知の自然に近づこうという彼等の意気込みは、
学者や芸術家が身を挺して真理や美を追求してやまないのと似たところがあります。

この時点では、まだ「美」であり、「崇高さ」には気が付いていないようだ。
これが、どう描かれていくのかは、また後日。
健康に関する疑似科学と、占いやおまじないは同根である。
それらと宗教的信仰もまた同根である。

世の中に数多ある「○○健康法」の類、「○○でガンが治った」の類。
怪しいものは数多い。
次から次へと、よくもまあ創出するものだと思う。
利用者は、これらが科学的に正しいと考えている。
信じて実行している人のなかに、まれに同じ効果が出たりする。
創始者や関係者(メディアなど)は、信じている場合もあるし、
金儲けの手段として利用している場合もある。

占いやおまじないは、朝のテレビ番組からネットのポータルサイトまでが扱う。
でも、利用者はこれらに科学的根拠があるとは考えていない。
その通りになれば嬉しく、そうならなかったら「どうせあてにしていなかったし」と思う。
そんな存在。
こちらも、創始者や関係者(メディアなど)は、信じている場合もあるし、
金儲けの手段として利用している場合もある。

宗教的信仰とてその類である。
健康を願い、長寿を願い、死後の世界の安泰を願う人々につけこみ、
宗教は信者を増やし、財を蓄積していく。
もちろんこれも、創始者や関係者(メディアなど)は、信じている場合もあるし、
金儲けの手段として利用している場合もある。


以前、本気で疑似健康モノを創出しようとしていた人がいた。
それで商売を始めてしまった。
当然のごとく、行き詰った。
驚いたのは、破綻したことではなく、大企業までもが彼の言葉を信じ、
取引をしていたことだ。もちろんその企業は損をした。


時折、健康保険組合から通信販売のチラシをもらう。
そこに記載されている、疑似健康グッズの数々。
こんなものを、健保が売っていいのか? と思う語句が躍る。

不思議でしょうがない。




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