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長年、通勤はトートかショルダーだったのだけれど、帰り道に歩くこともあるのでリュック型にしたくて。とはいえ、登山タイプは頑丈だけれどもストラップが多くゴツいのがイヤで、かつ小さいの…10L程度のがよくて。
 
カンケンのキッズとかちょうどいい大きさだけれど、あまりにみんなが持っている(いた)のと、品質と価格の差がある感じがして。とりあえずしばらくは娘が中学生のころ使ってた、袋にショルダーストラップがついただけ、みたいなのを使っていた。柄はヒッコリー。
 
11月半ばにmozのハンズオリジナルというのを見かけて、これはいいと購入。ところが、20回も使っていないのに、ショルダーストラップの縫製がほつれた。無理な使い方はしていないので、単純に品質の問題。ちょっと残念な気持ち。もう2カ月も前出しレシートもないけれども、ダメ元でハンズに相談したら、「展示品限りしか在庫がないのですが…」とのことだけれども交換してくれた。よかった。



 
かといって、「やはり登山用に限るな!」とはならない。例えば、カリマーのデイパック。

これは重いものを入れたりパンパンにしたりと過酷な使い方もしたけれども、ここがほつれる? 実用的には、ここがもっとほつれても背負えなくなることはあるまいが、非常によろしくない。



これもカリマー、ZOOMというリュックにもなるウエストバッグ。数年でウエストバッグ下部が避けた。カリマーですよ。そりゃ、あれだけ高かった80年代のカリマーと、お手頃価格になったいまのカリマーは違うのだと思うけれど、登山用品メーカーと思ってもこんなものか。(このZOOMはたぶん2000年代前半くらいに買って、破れてからはずっと保管してあったのだけれど、さっき出して見たら内側が加水分解でベタベタになっていたので処分するしかないな)
 
こうなると、あれだけ雑に扱ってもびくともしなかった、高校時代の通学に使っていたタウチェのシンプルさが懐かしい。90年代後半はツーリング時の工具入れにしていて、たしかトランポ内で泥々にしてしまって処分した気がする。いま復刻版が倍くらいの価格で売っていますが。
 


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一昨年に父が亡くなるのに前後して、実家では思わぬものが出土したりしていた。そのなかに、ぼくの旧実家の、昭和5年に建てたときの間取り図があった。

その旧実家はおもしろい造りをしており、3世帯が住んでいた。ぼくの家族(祖母は二女・5人)、大叔母(五女)とその息子(2人)、大叔母(七女・独身、1人)である。風呂は一つ、トイレは二つ、階段は三つあった。加えて、実家は文房具や駄菓子、雑貨を扱う店をしていた。その建物は昭和56年に解体され、いまの家が建った。

とはいえ、ぼくが暮らした旧実家は、実は昭和42年頃に父母の結婚に合わせて内部を改造した後の姿。ここでご覧に入れるのは、昭和5年に新築した当時の間取りである。戦後に1階の表の部屋を店舗に改造している。

 
上の図でいうと、Aが磯部家、B・Cは親戚等に貸していた。いくつか入れ替わりがあったようで、最終的には上述の通り、B(2階のみ)に大叔母(七女)、Cに大叔母(五女)とその息子が住んでいた。

さて、単純に間取り図を見ると、14部屋ある。カッコ内は改造後の姿だ。6畳と4畳半が目立つ。押入は少ない。ぼくの家である「A」の廊下が広く、1間ある。たしかにそれくらいあった。余分なスペースは物置になっていたと思う。残念ながら、家の中の写真は残っていない

3月26日付の、新潟県による建築認可証の印が残っている、



ぼくは10歳まで旧実家に住んでいた。ふと気づいたのだが、新築後の家は浪人生のときまでなので、旧実家で暮らした時間のほうがわずかに長い。
右膝日記のとおり、入院していた。病棟での食事はパナソニック電工の「デリカート」という電動補助カートで配られていた。なかなかおもしろいものだったので記録しておく。


病院食は、このようにトレーが二つに分かれ、片方(写真では右)に温かいもの、他方(左)には冷たいものがセットされる。何百食も、それも患者個人個人の状況に応じて作るために、セットするだけでも相当な時間がかかるだろう。セットできたものから、それぞれ保温・保冷する必要がある。

そこで、保温・保冷ができる、デリバリーカートの登場だ。


シチサン写真。「前」。全面上部についているのはカメラ。側面上部には放熱用の穴。


カメラ。

 
反対側。側面上部にはパネル。後述。

 押す側。上部に前面カメラからの映像を映すモニタ、中部にハンドル。おそらく「押し下げて移動・バネで水平に戻すとブレーキ」などとなっているのだろう。

 
 
メインスイッチはキー。また、表示から、バッテリーを積んでいることがわかる。

 
側面。左右で見ると、トレーは3列収納できる。

 
側面。NFブレーカー、AC200Vの入力、庫内温度の設定。トレーを収納する扉には「保温」「保冷」と書いてある。この写真は「1」と「2」の間だが、「左:保温、右:保冷」の観音扉を開けると、トレーを取り出せるようになっている。

コンセントは、上の「押す側」の写真で壁から出ているコードが見える。


適温配膳車 デリカート
品番 CD1048FP

食事のトレーは、保温・保冷部分それぞれトレーごと温かく・冷たくなっているので、トレーの棚自体が保温・保冷になっているのだろう。



ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
ジェイ・ダイナーの思い出(乗務行路1)
の続き。

こちらは1994年3月改正の行路である。「のぞみ」は毎時1本の博多行きである。このときから「こだま」のビュフェ・車販営業は東京~名古屋間となり、名古屋泊の行路ができた。それまでも、名古屋営業所持ちの「こだま」はあったが、バイトは乗務していなかった。

 
28・29行路は朝イチの列車のために、前日の行路から「着前泊」、つまり東京の寮に泊まっての1泊2日2往復の行路だったが、現実としてそんな行路に入るバイトはほとんどおらず、それぞれ単独の行路として乗務した。401Aなどどうやって乗務していたのか記憶がないが、東京クルーセンターの事務所を当直が開けるのが6時だった気がする。走っていったのかもしれない。ただ、事務所に泊まって翌朝乗務するバイトもいた。



大阪での折り返しは、時間がないときは「基地」で弁当をもらう。あるときは、社員といっしょにマイクロバスで西中島南方にある大阪営業所に行き、そこの4階の食堂で賄いを食べる。たまに弁当が足りないときがあり、そういうときは550円までだっけな、領収証を切ってよかった。

上の写真が「基地」の様子。正確に言えば「基地内の休憩室」。「基地」はワゴンに積む商品とワゴンが並んだ場所だ。上の写真は、リネンが足りなくなって、古い制服を着ている(黄色いエプロンとチェックの帽子だけが当時の制服)。右端に弁当が見える。


基地の弁当を食べているバイトたち。女性の制服は当時のもの。

名古屋での折り返しはどうだったか。この行路表によれば弁当が出ているが、ちょっと記憶がない。
 

ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)
ジェイ・ダイナーの思い出(コーヒー編)
ジェイ・ダイナーの思い出(大阪まで1日2往復する話)
ジェイ・ダイナーの思い出(0系Y編成・こだま編)
ジェイ・ダイナーの思い出(遅延の話)
ジェイ・ダイナーの思い出(100系11号車多目的室)
の続き。

もう公開しても差し支えないだろうと思うので公開する。

もっとたくさん持っていたと思うのだけれど、アルバイト(「東京クルーセンター」に所属する「メイツ」といった)行路表が2枚、出てきた。クリックで元画像に飛ぶので、拡大してじっくりご覧いただきたい。

まず、平成5年3月改正対応版(4月16日修正)。それまで朝晩、東京~新大阪の2往復だった「のぞみ」が、毎時1本、東京~博多間を運転するダイヤとなったときだ。バイトが乗るのはほぼ「ひかり」「こだま」で、一部「のぞみ」がある。「のぞみ」は女性しか乗務できなかったが、稀にどうしても人手が不足したときは男性を乗せた。

種別は列車番号でわかる。この頃は、
1~ 「のぞみ」博多
301~ 「のぞみ」新大阪
31~ 「ひかり」博多
81~ 「ひかり」広島
101~ 「ひかり」0系新大阪
201~ 「ひかり」100系新大阪
401~ 「こだま」
となっていた。
 
「編成」のGは100系カフェテリア、Xは100系X食堂車あり、(ここにはないが)Vは100系グランドひかり、N・Hは食堂車のある0系、Yはこだま用0系(ビュフェが5号車にある)、F・Jは300系「のぞみ」。イレギュラーな行路として、92Aは、本来は0系食堂車のみに乗務する広島営業所がG編成を担当している。そういうときは、カフェテリアに0系の商品が並ぶ。例えば、カフェテリアのジュースは「キリンHYPER70」だが、それは売らずに「POMつぶオレンジ」「POMつぶグレープ」を売る、という具合に。

「担当」は営業所(バイトとは無関係)。「釣り銭」「ワゴン」「(コーヒー用)ポット」とは、G編成において、ワゴン・釣り銭・ポットごと乗り降りするもの。東京と大阪にそれぞれ「基地」があり、1日にやりとりする本数が決まっていた。もちろん、出る数と受ける数は同じになる。それ以外の行路は、社内のワゴン使い、社員が持ち込んだポットでワゴンを仕立て、社員から釣り銭を預かり、販売後に釣り銭と売り上げをすべて社員に渡す。

時刻のところに▲印があるのは、泊まりの行路。泊まりの様子についてはジェイ・ダイナーの思い出(100系カフェテリア編 その2)を参照。

列車番号が6000番台の列車、つまり季節運転の列車もいくつかある。運転しない日は、別の列車に乗っていく。その場合、所定2名を4名にしたりする。逆に、人手が足りない場合は、所定4名のところを3名、2名にしたりする。0系「ひかり」と「こだま」は割を食うことが多かった。なぜなら、0系「ひかり」は食堂車があり、乗務する社員の人数も多いため、なんとかなるのだ。100系G編成は社員は2名しか乗らないため、カフェテリアの売店しか稼働できなくなる。もっとも、どうしてもという場合は、売店を1人にしてA車だけ販売に行ったり、グリーン車のスタッフ(社員)がカゴで弁当類のみ売りにいくこともあった。

 
上記行路に対応する、「のぞみ」社員乗務員の行路表(1993年5月)。23班で回している。200番台は「ひかり」G編成乗務。「分割」は列車がないので他の列車に回る。ほとんどは日帰りか1泊だが、中には2泊3日の行程も見える。「のぞみ」社員乗務員は「東京クルーセンター」に所属していた。

 
こちらは「G編成」社員乗務員の行路表(1993年5月)。こちらは17班で回している。バイトはこうした表を社員から入手し、「誰の列車に乗るか」を決めることもあった。単に「あの人は優しいから」ということもあれば、「お目当ての人」を追いかける人もいた。逆に「あの人はうるさい」と避けることもあった。こちらの社員は「東京営業所」所属だった。

続く。





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