新潟平野の信濃川より西の水田は、ものすごく大雑把に言えば信濃川の支流・西川から水を取っているところが多いのだけれど、その制御には相当の苦労を重ねてきた。新潟平野の西部を角田山~弥彦山の山塊が蓋をしているような形になっているため、信濃川から分かれた河川から取り入れた水を海に排水することができず、結局信濃川に戻すしかない。そこに困難があった。
この西川西部地区では、もともと、西川水を水田に取り入れ、矢川経由で西川に戻していたが、西川の水位が高いため、田に逆流したり、あるいは浸水被害が生じていた。解決策の一つとして、この樋曽山隧道が計画された。樋曽山に隧道を穿ち、平野の水を日本海に流してしまうのだ。場所はここだ。 上から、樋曽山隧道(水路隧道は描かれていない)・新々樋曽山隧道・新樋曽山隧道だ。樋曽山隧道・新樋曽山隧道は矢川の水を、新々樋曽山隧道は大通川放水路の水を海に落としている。 さて、その樋曽山隧道の飲み口はこんなだ。写真下(手前)が上流、上(奥)が下流。 見えている車道は廃道。撮影している私が建っているのが新道。橋梁名は銘板がなかったために不明。水門は今後、撤去されるという表示があった。
おそらくこの奥に坑門があるはずだが、見えない。 坑門が見えないか、旧道(写真右の橋)に行ってみたが、見えない。それよりも、一つ上の写真奥に見える赤いガーダーが気になった。水がザーザーと漏れている。 ザーザー… 左岸側。水路を流れてきた水がいったん枡の中に沈み込み、枡の横の穴から水路橋に出ているようだ。枡の右端に時々渦が生じる。 左岸の水路、もっと手前。あふれそうなくらいの水量。 水路橋に戻る。写真を整理していて気づいた。水路橋には橋脚があったのか! 右下に吹き出している水は、別の水路からの排水。 右岸側。ここで地中にもぐり、北上していくようだ。水路は地形図にはあったりなかったり、そして実際とは異なったりするので、どこまで続いているのかはわからない。 ●関連項目 新樋曽山隧道 新々樋曽山隧道 PR
新潟市の実家から、古い書類がいくつか出てきた。下記は、その一つ。昭和5年ころのものなので、「既存道路」となどとあっても現況とは異なる。方位も「上が北」ではない。家屋の並び方も、軒数も現在と異なる。
この図の上に「計画道路」とある。これを見て驚いた。新潟市の都市計画道路が、実家のすぐ裏に1本あるのは知っていたのだが、それが、昭和5年の図面にまで描かれているとは。 この道路は、いまも都市計画図に書かれている。このエリアは過疎化と高齢化が著しいので、おそらく事業化することは永遠にないだろう。 もう一つ、おもしろいものがあった。市道占用申請書。実家は市道を占用していたのか。 大正13年の日付の原本だと思われる。申請が通ったのかはわからない。曰く 「申請人宅ハ去ル明治十三年ノ大火ノ際烏有に帰シタルヲ以テ其後再建築ノ折ハ充分ノ注意ヲ構ヘ萬一市道等ニ相懸ル様ノコトアリテハ後日ニ至リ一大事ト篤ト測量ノ末漸ク現今ノ建物ヲ再建セシモノナル処其後今般市●●道路修繕旁々土樋布設ニ付キ種々測量ノ結果測ラズモ毛頭相懸リ居ラサル筈ノ申請人建物カ三間半ノ四寸丈ケ市道ニ相懸リ居ルコトヲ発覚致シタルニ付テハ今直(真?)ニ右部分ヲ取崩スカ乃至ハ今四寸丈ケ後方ニ建物ヲ引クカ孰レカノ手段ヲ構ズ可キ筈ナレドモ何分家政不如意ナル為メ到底●意ニ●セサルヲ以テ即チ已ムコトヲ得ス前記建物●築ノ為メ上記市道ヲ占用セントスルモノナリ」 要するに「新潟大火後、家を建てたら4寸だけ市道にはみ出してしまった。それがわかったが、お金がないので取り壊しも引き家もできない。ついては市道をそのまま占用させてください」というもの。申請人は曾祖父(明治16年生まれ)。司法書士犬井大剛に書いてもらっているので、正式な書式のものだろう。 約45年ほど、無断で占用してしまっていたのだが、その間、誰も気づかなかったようだ。そして、この申請の結果、どうなったのかはわからないが、いま、実家周辺の土地はすべて民地のはずだ。 自分の実家でこんなことがあった、ということを記録として残しておく。 * * *
あの場所に、少なくとも明治13年から家はあり、そこで生まれ、生きて、死んだ人として確定しているのが、祖母、父。そして多分兄。兄には子供がいるが、そのまま新潟にとどまるかどうかはわからない。甥が新潟を出たら、あの家の場所は、兄の代で終わるだろう。 猪苗代湖唯一の水の出口、日橋川(にっぱしがわ)。猪苗代湖は阿賀野川水系であり、日本海に注ぐ。かつて水力発電のための堰の役割を担っており、現在は猪苗代湖の水位調節の役割のみとなったすぐ下流にある十六橋水門の上が橋の機能を果たしていたが、1914年に分離され、さらに1928年に改築されていまの姿となった。 I桁を組み合わせた単純な鉄橋で(材質について言及がない)、橋脚も鉄管。「煉瓦積み橋脚」としている資料もあるが、十六橋水門が橋を兼ねていた時代の姿のことで、誤り。 左岸。重量制限2.5t。 親柱、右は「十六けう」、左は無地。親柱の下部が埋もれているのは、床版をRCとした(嵩上げした)ためと思われる。車止めには無数の衝突痕がある。 親柱個別の写真を撮り忘れた。右は「十六橋」、左は「大正貳年十一月竣成」。 えぬさんの手引きで、安積疏水の一連を見に行った。その下流部、三穂田地区に分流している水路が、一部、水路橋となっている。上の場所は、そのもっとも低い部分で、道路と交差するところ。サイフォン式に道路の下をくぐっている。右が上流、左が下流。 右が上流、左が下流。アマガエルがたくさんいた。 上流側。延々と続いているように見えるが、実際は500~600mほど。前後、持ち上がる部分を含めて、石碑よれば800mの改良とのこと。持ち上げている高さは160~170cmくらいか。私の身長(178cm)ではのぞき込めないが、カメラを頭上に持ち上げると溝の上にはいくくらい。こちらは、奥にいくほど高くなる…というようには遠すぎて見えない。 コンクリート製のU字溝を、コンクリート製の橋脚が支える。橋脚は前後左右ともに台形に広がっていて、どっしりとした印象。 水は流れていなかった。おそらくわずかなタイミングで、流れていたりいなかったりするのだろう。 下流側。向こうに行くに従って、田が上がっていっているのがわかる。 カシミール3D+スーパー地形セット+地理院地図で、標高270~274mを0.5m刻みで、275m、276m、278m、280mで色分けするとこうなる。左上、安積疏水の本流から分流した水は標高275mくらいでいったん地形図から消え、この水路橋の「上流」274.3m付近に出てくる。そこから東へ、低い部分を水路橋で高さを維持しながら273m付近で再び地上に降りる。 水は、いったん標高を落とすと、動力を使わない限りは標高を上げることができない。三穂田の地の、少し高くなっている部分をうまく利用して水路が構成されているというわけだ。 地形図に、碑の地図記号がある。表面は「豊穣之基」。抜粋する。 「(前略)昭和三十三年秋頃より(中略)発起人となり(中略)三穂田村土地改良区の設立は昭和三十四年十二月九日(中略)字山口作田地内より人形山地内に至る延々八百米のサイフォン式水路による用水導入の設計にて開田面積三十八町八反 農道延長一万四千六百四十米 幹線水路二千三百米(中略)同三十五年三月五日工事着手同年七月二十五日全工程竣功す(後略) 昭和三十七年十二月 福島県知事 佐藤善一郎篆額揮毫 土地改良区書記 安藤 新 撰文並書」 (分かちがちは磯部による) 碑は素晴らしい。だれでも、その場でフリーアクセスできる。「テキストまたは画像データとして自治体にあればいいではないか」と思う人も多いかもしれないが、それ「も」あればなおいい。 spl.thnx to えぬさん三土さんみわさんうさたまさん |
カレンダー
最新記事
(11/20)
(11/11)
(11/05)
(10/26)
(10/25)
(10/22)
(10/21)
(10/20)
(10/19)
(10/06)
カテゴリー
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
カウンター
since 2010.7.30
アクセス解析
フリーエリア
|